妖術 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 妖術        一  むらむらと四辺を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶な姿で、電車の中から、颯と硝子戸を抜けて、運転手台に顕われた、若い女の扮装と持物で、大略その日の天気模様が察しられる。  日中は梅の香も女の袖も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経つと、花曇りという空合ながら、まだどうやら冬の余波がありそうで、ただこう薄暗い中はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累なると、ちらちら白いものでも交りそうな気勢がする。……両三日。  今朝は麗かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜も、うっかり咲きそうなという、午頃から、急に吹出して、随分風立ったのが未だに止まぬ。午後の四時頃。  今しがた一時、大路が霞に包まれたようになって、洋傘はびしょびしょする……番傘には雫もしないで、俥の母衣は照々と艶を持つほど、颯と一雨掛った後で。  大空のどこか、吻と呼吸を吐く状に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上りそうに見えるが、淡く濡れた日脚の根が定まらず、ふわふわ気紛れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。  すっかり雨支度でいるのもあるし、雪駄でばたばたと通るのもある。傘を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達に行届いた姿見よがしに、大薩摩で押して行くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。  電車のちょっと停まったのは、日本橋通三丁目の赤い柱で。  今言ったその運転手台へ、鮮麗に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重の褄捌き、柳の腰に靡く、と一段軽く踏んで下りようとした。  コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘の細々と艶のあるを軽く持つ。  ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎という私の知己──それから聞いたのをここに記す。  舟崎は名を一帆といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。  一旦家へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡を廻らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件の三丁目に彳みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過ごして、硝子戸越しに西洋小間ものを覗く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻りに謀叛気を起していた。  処へ……  一目その艶なのを見ると、なぜか、気疾に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。  そこにぼんやりと立った状を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺の人に見らるるのを憚ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠は云う。  乗合いは随分立籠んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿。        二  誰も知った通り、この三丁目、中橋などは、通の中でも相の宿で、電車の出入りが余り混雑せぬ。  停まった時、二人三人は他にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。  乗ったのは、どの口からも一帆一人。  入るともう、直ぐにぐいと出る。  ト前の硝子戸を外から開けて、その女が、何と!  姿見から影を抜出したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。  そして、ぱっちりした、霑のある、涼しい目を、心持俯目ながら、大きく睜いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟と見た。  見た、と思うと、今立った旧の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。  その女は、丈長掛けて、銀の平打の後ざし、それ者も生粋と見える服装には似ない、お邸好みの、鬢水もたらたらと漆のように艶やかな高島田で、強くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬も、なぜか紫の俤立つ。  空いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側で、一帆はちと慌しいまで、急いで腰を落したが。  胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先も見えなかったが、一目見られた瞳の力は、刻み込まれたか、と鮮麗に胸に描かれて、白木屋の店頭に、つつじが急流に燃ゆるような友染の長襦袢のかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆にまた硝子越しに、扱帯を解いた乱姿で、こちらを差覗いているかと疑う。  やがて、心着くと標示は萌黄で、この電車は浅草行。  一帆がその住居へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。  もっとも、わざととはなしに、一帳場ごとに気を注けたが、女の下りた様子はない。  で、そこまで行くと、途中は厩橋、蔵前でも、駒形でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行くように信じられた。  何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪はずれが堅気と見えぬ。──何だろう。  とそんな事。……中に人の数を夾んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓の薄暗くなって来たのさえ、確とは心着かぬ。  が、蔵前を通る、あの名代の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄じく暗くなった。  頸許がふと気になると、尾を曳いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透して、雫のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際上の空でいたのであった。  さあ、浅草へ行くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動。  どさどさ打まけるように雪崩れて総立ちに電車を出る、乗合のあわただしさより、仲見世は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女の姿。  風立つ中を群って、颯と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。  きちがい日和の俄雨に、風より群集が狂うのである。  その紛れに、女の姿は見えなくなった。  電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、束の間は塵も留めず、──外の人の混雑は、鯱に追われたような中に。──  一帆は誰よりも後れて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。        三  が、拍子抜けのした事は夥多しい。  ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引包むように細かく降懸る雨を、中折で弾く精もない。  鼠の鍔をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的に来たように、素直に広小路を切って、仁王門を真正面。  濡れても判明と白い、処々むらむらと斑が立って、雨の色が、花簪、箱狭子、輪珠数などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目も触らないで、御堂の方へ。  そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂が、雨を蒸して、暖かく顔を包む。  その時、広小路で、電車の口から颯と打った網の末が一度、混雑の波に消えて、やがて、向のかわった仲見世へ、手元を細くすらすらと手繰寄せられた体に、前刻の女が、肩を落して、雪かと思う襟脚細く、紺蛇目傘を、姿の柳に引掛けて、艶やかにさしながら、駒下駄を軽く、褄をはらはらとちと急いで来た。  と見ると、左側から猶予らわないで、真中へ衝と寄って、一帆に肩を並べたのである。  なよやかな白い手を、半ば露顕に、飜然と友染の袖を搦めて、紺蛇目傘をさしかけながら、 「貴下、濡れますわ。」  と言う。瞳が、動いて莞爾。留南奇の薫が陽炎のような糠雨にしっとり籠って、傘が透通るか、と近増りの美しさ。  一帆の濡れた額は快よい汗になって、 「いいえ、構わない、私は。」  と言った、がこれは心から素気のない意味ではなかった。 「だって、召物が。」 「何、外套を着ています。」  と別に何の知己でもない女に、言葉を交わすのを、不思議とも思わないで、こうして二言三言、云う中にも、つい、さしかけられたままで五足六足。花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じ傘の中を歩行いた。 「人が見ます。」  どうして見るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂の路へ上るのである。  また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見透一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴然ともう映ろう。 「御迷惑?」  と察したように低声で言ったのが、なお色めいたが、ちっと蛇目傘を傾けた。  目隠しなんど除れたかと、はっきりした心持で、 「迷惑どころじゃ……しかし穏ではありません。一人ものが随分通ります。」  とやっと苦笑した。 「では、別ッこに……」と云うなり、拗ねた風にするりと離れた。  と思うと、袖を斜めに、ちょっと隠れた状に、一帆の方へ蛇目傘ながら細りした背を見せて、そこの絵草紙屋の店を覗めた。けばけばしく彩った種々の千代紙が、染むがごとく雨に縺れて、中でも紅が来て、女の瞼をほんのりとさせたのである。  今度は、一帆の方がその傍へ寄るようにして、 「どっちへいらっしゃる。」 「私?……」  と傘の柄に、左手を添えた。それが重いもののように、姿が撓った。 「どこへでも。」  これを聞棄てに、今は、ゆっくりと歩行き出したが、雨がふわふわと思いのまま軽い風に浮立つ中に、どうやら足許もふらふらとなる。        四  門の下で、後を振返って見た時は、何店へか寄ったか、傍へ外れたか。仲見世の人通りは雨の朧に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。  それきり逢わぬ、とは心の裡に思わないながら、一帆は急に寂しくなった。  妙に心も更まって、しばらく何事も忘れて、御堂の階段を……あの大提灯の下を小さく上って、厳かな廂を……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠で留まって、何やら吻と一息ついて、零するまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布で、ぐい、と拭った。 「素面だからな。」  と歎息するように独言して、扱いて片頬を撫でた手をそのまま、欄干に肱をついて、遍く境内をずらりと視めた。  早いもので、もう番傘の懐手、高足駄で悠々と歩行くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々な処へ、これから奥は、御堂の背後、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯な、相合傘に後れは取らぬ、と肩の聳ゆるまで一人で気競うと、雨も霞んで、ヒヤヒヤと頬に触る。一雫も酔覚の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……  が、見透しのどこへも、女の姿は近づかぬ。 「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」  と打棄り放す。  大提灯にはたはたと翼の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠る廂から、鳩が二三羽、衝と出て飜々と、早や晴れかかる銀杏の梢を矢大臣門の屋根へ飛んだ。  胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆の前を、内端な足取り、裳を細く、蛇目傘をやや前下りに、すらすらと撫肩の細いは……確に。  スーと傘をすぼめて、手洗鉢へ寄った時は、衣服の色が、美しく湛えた水に映るか、とこの欄干から遥かな心に見て取られた。……折からその道筋には、件の女ただ一人で。  水色の手巾を、はらりと媚かしく口に啣えた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の方を見上げた。  のめのめとそこに待っていたのが、了簡の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後向きに横へ廻る。  パッパッと田舎の親仁が、掌へ吸殻を転がして、煙管にズーズーと脂の音。くく、とどこかで鳩の声。茜の姉も三四人、鬱金の婆様に、菜畠の阿媽も交って、どれも口を開けていた。  が、あ、と押魂消て、ばらりと退くと、そこの横手の開戸口から、艶麗なのが、すうと出た。  本堂へ詣ったのが、一廻りして、一帆の前に顕われたのである。  すぼめた蛇目傘に手を隠して、 「お待ちなすって?」  また、ほんのりと花の薫。 「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣をなされば可い。」 「貴下こそ、前へいらしってお待ち下されば可うござんすのに、出張りにいらしって、沫が冷いではありませんか。」  さっさと先へ行けではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が据って、 「だって雨を潜って、一人でびしょびしょ歩行けますか。」 「でも、その方がお好な癖に……」  と云って、肩でわざとらしくない嬌態をしながら、片手でちょいと帯を圧えた。ぱちん留が少し摺って、……薄いが膨りとある胸を、緋鹿子の下〆が、八ツ口から溢れたように打合わせの繻子を覗く。  その間に、きりりと挟んだ、煙管筒? ではない。象牙骨の女扇を挿している。  今圧えた手は、帯が弛んだのではなく、その扇子を、一息探く挿込んだらしかった。        五  紫の矢絣に箱迫の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅のちらちらする凄い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘も肖わない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古の帰途なら、相応したのがあろうものを、初手から素性のおかしいのが、これで愈々不思議になった。  が、それもその筈、あとで身上を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品、と云うのであった。  思い懸けず、余り変ってはいたけれども、当人の女の名告るものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言だ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方から推着けに、あれそれとも極められないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の頷いたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂の裏、田圃の大金の、とある数寄屋造りの四畳半に、膳を並べて差向った折からで。……  もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道行の途中がある。  一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙幣を一枚、紙入から抜取られていたのであった。  やっぱり練磨の手術であろう。  その時、扇子を手で圧えて、貴下は一人で歩行く方が、 「……お好な癖に……」  とそう云うから、一帆は肩を揺って、 「こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。」と威すように云って笑った。 「まあ、駄々ッ児のようだわね。」  と莞爾して、 「貴方、」と少し改まる。 「え。」 「あの、少々お持合わせがござんすか。」  と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。 「ああ。」  とわざと鷹揚に、 「幾干ばかり。」 「十枚。」  と胸を素直にした、が、またその姿も佳かった。 「ちょいと、買物がしたいんですから。」 「お持ちなさい。」  この時、一帆は背後に立った田舎ものの方を振向いた。皆、きょろりきょろりと視めた。  女は、帯にも突込まず、一枚掌に入れたまま、黙って、一帆に擦違って、角の擬宝珠を廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。  大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。  さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。  煙草ももう吸い飽きて、拱いてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰向いて、唇をペろぺろと舌で嘗める親仁も、蹲んだり立ったりして、色気のない大欠伸を、ああとする茜の新姐も、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺麗な姉様を待飽倦んだそうで、どやどやと横手の壇を下り懸けて、 「お待遠だんべいや。」  と、親仁がもっともらしい顔色して、ニヤリともしないで吐くと、女どもは哄と笑って、線香の煙の黒い、吹上げの沫の白い、誰彼れのような中へ、びしょびしょと入って行く。  吃驚して、這奴等、田舎ものの風をする掏賊か、ポン引か、と思った。軽くなった懐中につけても、当節は油断がならぬ。  その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。        六  早く下りよ、と段はそこに階を明けて斜めに待つ。自分に恥じて、もうその上は待っていられないまでになった。  端へ出るのさえ、後を慕って、紙幣に引摺られるような負惜みの外聞があるので、角の処へも出ないでいた。なぜか、がっかりして、気が抜けて、その横手から下りて、路を廻るのも億劫でならぬので、はじめて、ふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を廻って、欄干について、前刻来がけとは勢が、からりとかわって、中折の鍔も深く、面を伏せて、そこを伝う風も、我ながら辿々しかった。  トあの大提灯を、釣鐘が目前へぶら下ったように、ぎょっとして、はっと正面へ魅まれた顔を上げると、右の横手の、広前の、片隅に綺麗に取って、時ならぬ錦木が一本、そこへ植わった風情に、四辺に人もなく一人立って、傘を半開き、真白な横顔を見せて、生際を濃く、美しく目迎えて莞爾した。 「沢山、待たせてさ。」と馴々しく云うのが、遅くなった意味には取れず、逆に怨んで聞える。  言葉戦い合うまじ、と大手を拡げてむずと寄って、 「どこにしましょう。」 「どちらへでも、貴下のお宜しい処が可うござんす。」 「じゃ、行く処へいらっしゃい。」 「どうぞ。」  ともう、相合傘の支度らしい、片袖を胸に当てる、柄よりも姿が細りする。  丈がすらりと高島田で、並ぶと蛇目傘の下に対。  で、大金へ入った時は、舟崎は大胆に、自分が傘を持っていた。  けれども、後で気が着くと、真打の女太夫に、恭しくもさしかけた長柄の形で、舟崎の図は宜しくない。  通されたのが小座敷で、前刻言ったその四畳半。廊下を横へ通口がちょっと隠れて、気の着かぬ処に一室ある……  数寄に出来て、天井は低かった。畳の青さ。床柱にも名があろう……壁に掛けた籠に豌豆のふっくりと咲いた真白な花、蔓を短かく投込みに活けたのが、窓明りに明く灯を点したように見えて、桃の花より一層ほんのりと部屋も暖い。  用を聞いて、円髷に結った女中が、しとやかに扉を閉めて去ったあとで、舟崎は途中も汗ばんで来たのが、またこう籠ったので、火鉢を前に控えながら、羽織を脱いだ。  それを取って、すらりと扱いて、綺麗に畳む。 「これは憚り、いいえ、それには。」 「まあ、好きにおさせなさいまし。」  と壁の隅へ、自分の傍へ、小膝を浮かして、さらりと遣って、片手で手巾を捌きながら、 「ほんとうにちと暖か過ぎますわね。」 「私は、逆上るからなお堪りません。」 「陽気のせいですね。」 「いや、お前さんのためさ。」 「そんな事をおっしゃると、もっと傍へ。」  と火鉢をぐい、と圧して来て、 「そのかわり働いて、ちっと開けて差上げましょう。」  と弱々と斜にひねった、着流しの帯のお太鼓の結目より低い処に、ちょうど、背後の壁を仕切って、細い潜り窓の障子がある。  カタリ、と引くと、直ぐに囲いの庭で、敷松葉を払ったあとらしい、蕗の葉が芽んだように、飛石が五六枚。  柳の枝折戸、四ツ目垣。  トその垣根へ乗越して、今フト差覗いた女の鼻筋の通った横顔を斜違いに、月影に映す梅の楚のごとく、大なる船の舳がぬっと見える。 「まあ、可いこと!」  と嬉しそうに、なぜか仇気ない笑顔になった。        七 「池があるんだわね。」  と手を支いて、壁に着いたなりで細りした頤を横にするまで下から覗いた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽然として舳ばかり顕われたのが、いっそ風情であった。  カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様の後姿で、すらりとした芸者が通った。  向うの座敷に、わやわやと人声あり。  枝折戸の外を、柳の下を、がさがさと箒を当てる、印半纏の円い背が、蹲まって、はじめから見えていた。  それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、密と、直ぐに障子を閉めた。  向直った顔が、斜めに白い、その豌豆の花に面した時、眉を開いて、熟と視た。が、瞳を返して、右手に高い肱掛窓の、障子の閉ったままなのを屹と見遣った。  咄嗟の間の艶麗な顔の働きは、たとえば口紅を衝と白粉に流して稲妻を描いたごとく、媚かしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠に化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。  一帆は思わず坐り直した。  処へ、女中が膳を運んだ。 「お一ツ。」 「天気は?」  「可塩梅に霽りました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。」 「いいえ、結構。」 「もし、貴女。」  女が、もの馴れた状で猪口を受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、 「何うぞ、置いて去らしって可うござんす。」と女中を起たせたのは意外である。  一帆はしばらくして陶然とした。 「更めて、一杯、お知己に差上げましょう。」 「極が悪うござんすね。」 「何の。そうしたお前さんか。」  と膝をぐったり、と頭を振って、 「失礼ですが、お住所は?」 「は、提灯よ。」  と目許の微笑。丁と、手にした猪口を落すように置くと、手巾ではっと口を押えて、自分でも可笑かったか、くすくす笑う。 「町名、町名、結構。」  一帆は町名と聞違えた。 「いいえ、提灯なの。」 「へい、提灯町。」  と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。  また笑って、 「そうじゃありません。私の家は提灯なんです。」 「どこの? 提灯?」 「観音様の階段の上の、あの、大な提灯の中が私の家です。」 「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。 「お名は。」 「私? 名ですか。娘……」 「娘子さん。──成程違いない、で、お年紀は?」 「年は、婆さん。」 「年は婆さん、お名は娘、住所は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」  と訊いた。  後に舟崎が語って言うよう──  いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢の娘に向って、お商売? はちと思切った。  しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣がある。  その時、ちと更まるようにして答えたのが、 「私は、手品をいたします。」  近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席でも一向入りのない処から、座敷を勤めさして頂く。 「ちょいと嬰児さんにおなり遊ばせ。」  思懸けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。 「お笑い遊ばしちゃ、厭ですよ。」と云う。 「これは拝見!」と大袈裟に開き直って、その実は嘘だ、と思った。  すると、軽く膝を支いて、蒲団をずらして、すらりと向うへ、……扉の前。──此方に劣らず杯は重ねたのに、衣の薫も冷りとした。  扇子を抜いて、畳に支いて、頭を下げたが、がっくり、と低頭れたように悄れて見えた。 「世渡りのためとは申しながら……前へ御祝儀を頂いたり、」  と口籠って、 「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。  いや、そこどころか。  あの、籠の白い花を忘れまい。  すっと抜くと、掌に捧げて出て、そのまま、欞子窓の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃って浮く。  空は晴れて、霞が渡って、黄金のような半輪の月が、薄りと、淡い紫の羅の樹立の影を、星を鏤めた大松明のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波は敷妙の銀の波。  ト瞻めながら、 「は、」と声が懸る、袖を絞って、袂を肩へ、脇明白き花一片、手を辷ったか、と思うと、非ず、緑の蔓に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。  ただ一攫みなりけるが、船の中に落つると斉しく、礫打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽のごとく舳にまで咲きこぼれる。  その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透る水に映って、ちらちらと揺めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大さ、やがて扇ばかりな真白な一羽の胡蝶、ふわふわと船の上に顕われて、つかず、離れず、豌豆の花に舞う。  やがて蝶が番になった。  内は寂然とした。  芸者の姿は枝折戸を伸上った。池を取廻わした廊下には、欄干越に、燈籠の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。  蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴に乱れ、卍と飛交う。  時にそよがした扇子を留めて、池を背後に肱掛窓に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱をついて、呆気に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背いて、胸越しに半面を蔽うて差俯向く時、すらりと投げた裳を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄を寄せたのである。  フト現から覚めた時、女の姿は早やなかった。  女中に聞くと、 「お車で、たった今……」 明治四十四(一九一一)年二月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2005年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。