碁石を呑んだ八っちゃん 有島武郎 Guide 扉 本文 目 次 碁石を呑んだ八っちゃん  八っちゃんが黒い石も白い石もみんなひとりで両手でとって、股の下に入れてしまおうとするから、僕は怒ってやったんだ。 「八っちゃんそれは僕んだよ」  といっても、八っちゃんは眼ばかりくりくりさせて、僕の石までひったくりつづけるから、僕は構わずに取りかえしてやった。そうしたら八っちゃんが生意気に僕の頬ぺたをひっかいた。お母さんがいくら八っちゃんは弟だから可愛がるんだと仰有ったって、八っちゃんが頬ぺたをひっかけば僕だって口惜しいから僕も力まかせに八っちゃんの小っぽけな鼻の所をひっかいてやった。指の先きが眼にさわった時には、ひっかきながらもちょっと心配だった。ひっかいたらすぐ泣くだろうと思った。そうしたらいい気持ちだろうと思ってひっかいてやった。八っちゃんは泣かないで僕にかかって来た。投げ出していた足を折りまげて尻を浮かして、両手をひっかく形にして、黙ったままでかかって来たから、僕はすきをねらってもう一度八っちゃんの団子鼻の所をひっかいてやった。そうしたら八っちゃんは暫く顔中を変ちくりんにしていたが、いきなり尻をどんとついて僕の胸の所がどきんとするような大きな声で泣き出した。  僕はいい気味で、もう一つ八っちゃんの頬ぺたをなぐりつけておいて、八っちゃんの足許にころげている碁石を大急ぎでひったくってやった。そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物を縫っていた婆やが、眼鏡をかけた顔をこちらに向けて、上眼で睨みつけながら、 「また泣かせて、兄さん悪いじゃありませんか年かさのくせに」  といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死にそうに泣くものだから、いきなり立って来て八っちゃんを抱き上げた。婆やは八っちゃんにお乳を飲ませているものだから、いつでも八っちゃんの加勢をするんだ。そして、 「おおおお可哀そうに何処を。本当に悪い兄さんですね。あらこんなに眼の下を蚯蚓ばれにして兄さん、御免なさいと仰有いまし。仰有らないとお母さんにいいつけますよ。さ」  誰が八っちゃんなんかに御免なさいするもんか。始めっていえば八っちゃんが悪いんだ。僕は黙ったままで婆やを睨みつけてやった。  婆やはわあわあ泣く八っちゃんの脊中を、抱いたまま平手でそっとたたきながら、八っちゃんをなだめたり、僕に何んだか小言をいい続けていたが僕がどうしても詫ってやらなかったら、とうとう 「それじゃよう御座んす。八っちゃんあとで婆やがお母さんに皆んないいつけてあげますからね、もう泣くんじゃありませんよ、いい子ね。八っちゃんは婆やの御秘蔵っ子。兄さんと遊ばずに婆やのそばにいらっしゃい。いやな兄さんだこと」  といって僕が大急ぎで一かたまりに集めた碁石の所に手を出して一掴み掴もうとした。僕は大急ぎで両手で蓋をしたけれども、婆やはかまわずに少しばかり石を拾って婆やの坐っている所に持っていってしまった。  普段なら僕は婆やを追いかけて行って、婆やが何んといっても、それを取りかえして来るんだけれども、八っちゃんの顔に蚯蚓ばれが出来ていると婆やのいったのが気がかりで、もしかするとお母さんにも叱られるだろうと思うと少し位碁石は取られても我慢する気になった。何しろ八っちゃんよりはずっと沢山こっちに碁石があるんだから、僕は威張っていいと思った。そして部屋の真中に陣どって、その石を黒と白とに分けて畳の上に綺麗にならべ始めた。  八っちゃんは婆やの膝に抱かれながら、まだ口惜しそうに泣きつづけていた。婆やが乳をあてがっても呑もうとしなかった。時々思い出しては大きな声を出した。しまいにはその泣声が少し気になり出して、僕は八っちゃんと喧嘩しなければよかったなあと思い始めた。さっき八っちゃんがにこにこ笑いながら小さな手に碁石を一杯握って、僕が入用ないといったのも僕は思い出した。その小さな握拳が僕の眼の前でひょこりひょこりと動いた。  その中に婆やが畳の上に握っていた碁石をばらりと撒くと、泣きじゃくりをしていた八っちゃんは急に泣きやんで、婆やの膝からすべり下りてそれをおもちゃにし始めた。婆やはそれを見ると、 「そうそうそうやっておとなにお遊びなさいよ。婆やは八っちゃんのおちゃんちゃんを急いで縫い上ますからね」  といいながら、せっせと縫物をはじめた。  僕はその時、白い石で兎を、黒い石で亀を作ろうとした。亀の方は出来たけれども、兎の方はあんまり大きく作ったので、片方の耳の先きが足りなかった。もう十ほどあればうまく出来上るんだけれども、八っちゃんが持っていってしまったんだから仕方がない。 「八っちゃん十だけ白い石くれない?」  といおうとしてふっと八っちゃんの方に顔を向けたが、縁側の方を向て碁石をおもちゃにしている八っちゃんを見たら、口をきくのが変になった。今喧嘩したばかりだから、僕から何かいい出してはいけなかった。だから仕方なしに僕は兎をくずしてしまって、もう少し小さく作りなおそうとした。でもそうすると亀の方が大きくなり過て、兎が居眠りしないでも亀の方が駈っこに勝そうだった。だから困っちゃった。  僕はどうしても八っちゃんに足らない碁石をくれろといいたくなった。八っちゃんはまだ三つですぐ忘れるから、そういったら先刻のように丸い握拳だけうんと手を延ばしてくれるかもしれないと思った。 「八っちゃん」  といおうとして僕はその方を見た。  そうしたら八っちゃんは婆やのお尻の所で遊んでいたが真赤な顔になって、眼に一杯涙をためて、口を大きく開いて、手と足とを一生懸命にばたばたと動かしていた。僕は始め清正公様にいるかったいの乞食がお金をねだる真似をしているのかと思った。それでもあのおしゃべりの八っちゃんが口をきかないのが変だった。おまけに見ていると、両手を口のところにもって行って、無理に口の中に入れようとしたりした。何んだかふざけているのではなく、本気の本気らしくなって来た。しまいには眼を白くしたり黒くしたりして、げえげえと吐きはじめた。  僕は気味が悪くなって来た。八っちゃんが急に怖わい病気になったんだと思い出した。僕は大きな声で、 「婆や……婆や……八っちゃんが病気になったよう」  と怒鳴ってしまった。そうしたら婆やはすぐ自分のお尻の方をふり向いたが、八っちゃんの肩に手をかけて自分の方に向けて、急に慌てて後から八っちゃんを抱いて、 「あら八っちゃんどうしたんです。口をあけて御覧なさい。口をですよ。こっちを、明い方を向いて……ああ碁石を呑んだじゃないの」  というと、握り拳をかためて、八っちゃんの脊中を続けさまにたたきつけた。 「さあ、かーっといってお吐きなさい……それもう一度……どうしようねえ……八っちゃん、吐くんですよう」  婆やは八っちゃんをかっきり膝の上に抱き上げてまた脊中をたたいた。僕はいつ来たとも知らぬ中に婆やの側に来て立ったままで八っちゃんの顔を見下していた。八っちゃんの顔は血が出るほど紅くなっていた。婆やはどもりながら、 「兄さんあなた、早くいって水を一杯……」  僕は皆まで聞かずに縁側に飛び出して台所の方に駈けて行った。水を飲ませさえすれば八っちゃんの病気はなおるにちがいないと思った。そうしたら婆やが後からまた呼びかけた。 「兄さん水は……早くお母さんの所にいって、早く来て下さいと……」  僕は台所の方に行くのをやめて、今度は一生懸命でお茶の間の方に走った。  お母さんも障子を明けはなして日なたぼっこをしながら静かに縫物をしていらしった。その側で鉄瓶のお湯がいい音をたてて煮えていた。  僕にはそこがそんなに静かなのが変に思えた。八っちゃんの病気はもうなおっているのかも知れないと思った。けれども心の中は駈けっこをしている時見たいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった。 「お母さん……お母さん……八っちゃんがね……こうやっているんですよ……婆やが早く来てって」  といって八っちゃんのしたとおりの真似を立ちながらして見せた。お母さんは少しだるそうな眼をして、にこにこしながら僕を見たが、僕を見ると急に二つに折っていた背中を真直になさった。 「八っちゃんがどうかしたの」  僕は一生懸命真面目になって、 「うん」  と思い切り頭を前の方にこくりとやった。 「うん……八っちゃんがこうやって……病気になったの」  僕はもう一度前と同じ真似をした。お母さんは僕を見ていて思わず笑おうとなさったが、すぐ心配そうな顔になって、大急ぎで頭にさしていた針を抜いて針さしにさして、慌てて立ち上って、前かけの糸くずを両手ではたきながら、僕のあとから婆やのいる方に駈けていらしった。 「婆や……どうしたの」  お母さんは僕を押しのけて、婆やの側に来てこう仰有った。 「八っちゃんがあなた……碁石でもお呑みになったんでしょうか……」 「お呑みになったんでしょうかもないもんじゃないか」  お母さんの声は怒った時の声だった。そしていきなり婆やからひったくるように八っちゃんを抱き取って、自分が苦しくってたまらないような顔をしながら、ばたばた手足を動かしている八っちゃんをよく見ていらしった。 「象牙のお箸を持って参りましょうか……それで喉を撫でますと……」婆やがそういうかいわぬに、 「刺がささったんじゃあるまいし……兄さんあなた早く行って水を持っていらっしゃい」  と僕の方を御覧になった。婆やはそれを聞くと立上ったが、僕は婆やが八っちゃんをそんなにしたように思ったし、用は僕がいいつかったのだから、婆やの走るのをつき抜て台所に駈けつけた。けれども茶碗を探してそれに水を入れるのは婆やの方が早かった。僕は口惜しくなって婆やにかぶりついた。 「水は僕が持ってくんだい。お母さんは僕に水を……」 「それどころじゃありませんよ」  と婆やは怒ったような声を出して、僕がかかって行くのを茶碗を持っていない方の手で振りはらって、八っちゃんの方にいってしまった。僕は婆やがあんなに力があるとは思わなかった。僕は、 「僕だい僕だい水は僕が持って行くんだい」  と泣きそうに怒って追っかけたけれども、婆やがそれをお母さんの手に渡すまで婆やに追いつくことが出来なかった。僕は婆やが水をこぼさないでそれほど早く駈けられるとは思わなかった。  お母さんは婆やから茶碗を受取ると八っちゃんの口の所にもって行った。半分ほど襟頸に水がこぼれたけれども、それでも八っちゃんは水が飲めた。八っちゃんはむせて、苦しがって、両手で胸の所を引っかくようにした。懐ろの所に僕がたたんでやった「だまかし船」が半分顔を出していた。僕は八っちゃんが本当に可愛そうでたまらなくなった。あんなに苦しめばきっと死ぬにちがいないと思った。死んじゃいけないけれどもきっと死ぬにちがいないと思った。  今まで口惜しがっていた僕は急に悲しくなった。お母さんの顔が真蒼で、手がぶるぶる震えて、八っちゃんの顔が真紅で、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人ぼっちになってしまったようで、我慢のしようもなく涙が出た。  お母さんは僕がべそをかき始めたのに気もつかないで、夢中になって八っちゃんの世話をしていなさった。婆やは膝をついたなりで覗きこむように、お母さんと八っちゃんの顔とのくっつき合っているのを見おろしていた。  その中に八っちゃんが胸にあてがっていた手を放して驚いたような顔をしたと思ったら、いきなりいつもの通りな大きな声を出してわーっと泣き出した。お母さんは夢中になって八っちゃんをだきすくめた。婆やはせきこんで、 「通りましたね、まあよかったこと」  といった。きっと碁石がお腹の中にはいってしまったのだろう。お母さんも少し安心なさったようだった。僕は泣きながらも、お母さんを見たら、その眼に涙が一杯たまっていた。  その時になってお母さんは急に思い出したように、婆やにお医者さんに駈けつけるようにと仰有った。婆やはぴょこぴょこと幾度も頭を下て、前垂で、顔をふきふき立って行った。  泣きわめいている八っちゃんをあやしながら、お母さんはきつい眼をして、僕に早く碁石をしまえと仰有った。僕は叱られたような、悪いことをしていたような気がして、大急ぎで、碁石を白も黒もかまわず入れ物にしまってしまった。  八っちゃんは寝床の上にねかされた。どこも痛くはないと見えて、泣くのをよそうとしては、また急に何か思い出したようにわーっと泣き出した。そして、 「さあもういいのよ八っちゃん。どこも痛くはありませんわ。弱いことそんなに泣いちゃあ。かあちゃんがおさすりしてあげますからね、泣くんじゃないの。……あの兄さん」  といって僕を見なすったが、僕がしくしくと泣いているのに気がつくと、 「まあ兄さんも弱虫ね」  といいながらお母さんも泣き出しなさった。それだのに泣くのを僕に隠して泣かないような風をなさるんだ。 「兄さん泣いてなんぞいないで、お坐蒲団をここに一つ持って来て頂戴」  と仰有った。僕はお母さんが泣くので、泣くのを隠すので、なお八っちゃんが死ぬんではないかと心配になってお母さんの仰有るとおりにしたら、ひょっとして八っちゃんが助かるんではないかと思って、すぐ坐蒲団を取りに行って来た。  お医者さんは、白い鬚の方のではない、金縁の眼がねをかけた方のだった。その若いお医者さんが八っちゃんのお腹をさすったり、手くびを握ったりしながら、心配そうな顔をしてお母さんと小さな声でお話をしていた。お医者の帰った時には、八っちゃんは泣きづかれにつかれてよく寝てしまった。  お母さんはそのそばにじっと坐っていた。八っちゃんは時々怖わい夢でも見ると見えて、急に泣き出したりした。  その晩は僕は婆やと寝た。そしてお母さんは八っちゃんのそばに寝なさった。婆やが時々起きて八っちゃんの方に行くので、折角眠りかけた僕は幾度も眼をさました。八っちゃんがどんなになったかと思うと、僕は本当に淋しく悲しかった。  時計が九つ打っても僕は寝られなかった。寝られないなあと思っている中に、ふっと気が附いたらもう朝になっていた。いつの間に寝てしまったんだろう。 「兄さん眼がさめて」  そういうやさしい声が僕の耳許でした。お母さんの声を聞くと僕の体はあたたかになる。僕は眼をぱっちり開いて嬉しくって、思わず臥がえりをうって声のする方に向いた。そこにお母さんがちゃんと着がえをして、頭を綺麗に結って、にこにことして僕を見詰めていらしった。 「およろこび、八っちゃんがね、すっかりよくなってよ。夜中にお通じがあったから碁石が出て来たのよ。……でも本当に怖いから、これから兄さんも碁石だけはおもちゃにしないで頂戴ね。兄さん……八っちゃんが悪かった時、兄さんは泣いていたのね。もう泣かないでもいいことになったのよ。今日こそあなたがたに一番すきなお菓子をあげましょうね。さ、お起き」  といって僕の両脇に手を入れて、抱き起そうとなさった。僕は擽ったくってたまらないから、大きな声を出してあははあははと笑った。 「八っちゃんが眼をさましますよ、そんな大きな声をすると」  といってお母さんはちょっと真面目な顔をなさったが、すぐそのあとからにこにこして僕の寝間着を着かえさせて下さった。 底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店    1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行 底本の親本:「一房の葡萄」叢文閣    1922(大正11)年6月 入力:鈴木厚司 校正:地田尚 2000年10月18日公開 2005年11月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。