暁と夕の詩
立原道造



  或る風に寄せて



おまへのことでいつぱいだつた 西風よ

たるんだ唄のうたひやまない 雨の昼に

とざした窗のうすあかりに

さびしい思ひを噛みながら


おぼえてゐた おののきも 顫へも

あれは見知らないものたちだ……

夕ぐれごとに かがやいた方から吹いて来て

あれはもう たたまれて 心にかかつてゐる


おまへのうたつた とほい調べだ──

誰がそれを引き出すのだらう 誰が

それを忘れるのだらう……さうして


夕ぐれが夜に変るたび 雲は死に

そそがれて来るうすやみのなかに

おまへは 西風よ みんななくしてしまつた と


  やがて秋……



やがて 秋が 来るだらう

夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに

あらはなかげをくらく夜の方に投げ


すべてが不確かにゆらいでゐる

かへつてしづかなあさい吐息にやうに……

(昨日でないばかりに それは明日)と

僕らのおもひは ささやきかはすであらう


──秋が かうして かへつて来た

さうして 秋がまた たたずむ と

ゆるしを乞ふ人のやうに……


やがて忘れなかつたことのかたみに

しかし かたみなく 過ぎて行くであらう

秋は……さうして……ふたたびある夕ぐれに──


  小譚詩



一人はあかりをつけることが出来た

そのそばで 本をよむのは別の人だつた

しづかな部屋だから 低い声が

それが隅の方にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)


一人はあかりを消すことが出来た

そのそばで 眠るのは別の人だつた

糸紡ぎの女が子守の唄をうたつてきかせた

それが窓の外にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)


幾夜も幾夜もおんなじやうに過ぎて行つた……

風が叫んで 塔の上で 雄鶏が知らせた

──兵士ジアツクは旗を持て 驢馬は鈴を掻き鳴らせ!


それから 朝が来た ほんとうの朝が来た

また夜が来た また あたらしい夜が来た

その部屋は からつぽに のこされたままだつた


  眠りの誘ひ



おやすみ やさしい顔した娘たち

おやすみ やはらかな黒い髪を編んで

おまへらの枕もとに胡桃色にともされた燭台のまはりには

快活な何かが宿つてゐる(世界中はさらさらと粉の雪)


私はいつまでもうたつてゐてあげよう

私はくらい窓の外に さうして窓のうちに

それから 眠りのうちに おまへらの夢のおくに

それから くりかへしくりかへして うたつてゐてあげよう


ともし火のやうに

風のやうに 星のやうに

私の声はひとふしにあちらこちらと……


するとおまへらは 林檎の白い花が咲き

ちひさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを

短い間に 眠りながら 見たりするであらう


  真冬の夜の雨に



あれらはどこに行つてしまつたか?

なんにも持つてゐなかつたのに

みんな とうになくなつてゐる

どこか とほく 知らない場所へ


真冬の雨の夜は うたつてゐる

待つてゐた時とかはらぬ調子で

しかし帰りはしないその調子で

とほく とほい 知らない場所で


なくなつたものの名前を 耐へがたい

つめたいひとつ繰りかへしで──

それさへ 僕は 耳をおほふ


時のあちらに あの青空の明るいこと!

その望みばかりのこされた とは なぜいはう

だれとも知らない その人の瞳の底に?


  失なはれた夜に



灼けた瞳が 灼けてゐた

青い眸でも 茶色の瞳でも

なかつた きらきらしては

僕の心を つきさした


泣かさうとでもいふやうに

しかし 泣かしはしなかつた

きらきら 僕を撫でてゐた

甘つたれた僕の心を嘗めてゐた


灼けた瞳は 動かなかつた

青い眸でも 茶色の瞳でも

あるかのやうに いつまでも


灼けた瞳は しづかであつた!

太陽や香のいい草のことなど忘れてしまひ

ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた


  溢れひたす闇に



美しいものになら ほほゑむがよい

涙よ いつまでも かはかずにあれ

陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき

あのものがなしい 月が燃え立つた


つめたい!光にかがやかされて

さまよひ歩くかよわい生き者たちよ

己は どこに住むのだらう──答へておくれ

夜に それとも昼に またうすらあかりに?


己は 嘗てだれであつたのだらう?

(誰でもなく 誰でもいい 誰か──)

己は 恋する人の影を失つたきりだ


ふみくだかれてもあれ 己のやさしかつた望み

己はただ眠るであらう 眠りのなかに

遺された一つの憧憬に溶けいるために


  眠りのほとりに



沈黙は 青い雲のやうに

やさしく 私を襲ひ……

私は 射とめられた小さい野獣のやうに

眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしに


ふたたび ささやく 失はれたしらべが

春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかへす

しかし それらはすでに私のものではない

あの日 手をたれて歩いたひとりぼつちの私の姿さへ


私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまへの

そのあかりのそばで それらを溶かすのみであらう

夢のうちに 夢よりもたよりなく──


影に住み そして時間が私になくなるとき

追憶はふたたび 嘆息のやうに 沈黙よりもかすかな

言葉たちをうたはせるであらう


  さまよひ



夜だ──すべての窓に 燈はうばはれ

道が そればかり ほのかに明く かぎりなく

つづいてゐる……それの上を行くのは

僕だ ただひとり ひとりきり 何ものをもとめるとなく


月は とうに沈みゆき あれらの

やさしい音楽のやうに 微風もなかつたのに

ゆらいでゐた景色らも 夢と一しよに消えた

僕は ただ 眠りのなかに より深い眠りを忘却を追ふ……


いままた すべての愛情が僕に注がれるとしたら

それを 僕の掌はささへるに あまりにうすく

それの重みに よろめきたふれるにはもう涸ききつた!


朝やけよ!早く来い──眠りよ!覚めよ……

つめたい灰の霧にとざされ 僕らを凍らす 粗い日が

訪れるとき さまよふ夜よ 夢よ ただ悔恨ばかりに!


  朝やけ



昨夜の眠りの よごれた死骸の上に

腰をかけてゐるのは だれ?

その深い くらい瞳から 今また

僕の汲んでゐるものは 何ですか?


こんなにも 牢屋ひとやめいた部屋うちを

あんなに 御堂のやうに きらめかせ はためかせ

あの音楽はどこへ行つたか

あの形象かたちはどこへ過ぎたか


ああ そこには だれがゐるの?

むなしく 空しく 移る わが若さ!

僕はあなたを 待つてはをりやしない


それなのにぢつと それのベツトのはしに腰かけ

そこに見つめてゐるのは だれですか?

昨夜の眠りの秘密を 知つて 奪つたかのやうに

底本:「立原道造全集 第1卷 詩集1」角川書店

   1971(昭和46)年620日初版発行

入力:八巻美恵

1997年911日公開

2005年1110日修正

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