ごんごろ鐘
新美南吉



 三がつ八日ようか

 おとうさんが、夕方ゆうがた村会そんかいからかえってて、こうおっしゃった。

「ごんごろがね献納けんのうすることにきまったよ。」

 おかあさんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、ぼくはあまりおどろかなかった。ぼくたちの学校がっこうもん鉄柵てつさくも、もうとっくに献納けんのうしたのだから、尼寺あまでらのごんごろがねだって、おくにのために献納けんのうしたっていいのだとおもっていた。でもちいさかったときからあのかね朝晩あさばんしたしんでたことをおもえば、ちょっとさびしいもする。

 おかあさんが、

「まあ、よく庵主あんじゅさんがご承知しょうちなさったね。」

とおっしゃった。

「ん、はじめのうちは、むら御先祖ごせんぞたちの信仰しんこうのこもったものだからとか、ご本山ほんざんのおゆるしがなければとかいって、ぐずついていたけれど、けっきょくまえよく献納けんのうすることになったよ。庵主あんじゅだって日本人にほんじんわりはないわけさ。」

 ところで、このごんごろがね献納けんのうするとなると、ぼくはだいぶんきとめておかねばならないことがあるのだ。

 だい一、ごんごろがねという名前なまえ由来ゆらいだ。樽屋たるや木之助きのすけじいさんのはなしでは、このかねをつくった鐘師かねしがひどいぜんそくちで、しょっちゅうのどをごろごろいわせていたので、それがかねにもうつって、このかねたたくと、ごオんのあとに、ごろごろというおとがかすかにつづく、それでだれいうとなく、ごんごろがねぶようになったのだそうだ。しかしこのはなしはどうもあやしい、とぼくおもう。人間にんげんのぜんそくがかねにうつるというところがへんだ。それなら、人間にんげんちょうチブスがかねにうつるということもあるはずだし、人間にんげんのジフテリヤがかねにうつるということもあるはずである。それじゃかね病院びょういんたなければならないことになる。

 ぼく松男君まつおくんはいつだったか、ろんよりしょうこ、ごんごろがねがはたしてごんごろごろるかどうかためしにいったことがある。しずかなときをぼくたちはえらんでいった。鐘楼しゅろうしたにあじさいがきさかっている真昼まひるどきだった。松男君まつおくんうでによりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。そして二人ふたりみみをすましてきいていたが、余韻よいんがわあんわあんとなみのようにくりかえしながらえていったばかりで、ぜんそくちのたんのようなおとはぜんぜんしなかった。そこでぼくたちは、このかね健康状態けんこうじょうたいはすこぶるよろしい、と診断しんだんしたのだった。

 また紋次郎君もんじろうくんとこのおばあさんのはなしによると、このかねひとが、三河みかわくにごんごろうという鐘師かねしだったので、そうばれるようになったんだそうだ。かねのどこかに、その鐘師かねしりつけてあるそうな、とばあさんはいった。これは木之助きのすけじいさんのはなしよりよほどほんとうらしい。

 しかしぼくは、大学だいがくにいっているぼくにいさんのはなしが、いちばんしんじられるのだ。にいさんはこういった。「それはきっと、ごんごんるので、はじめにだれかがごんごんがねといったのさ。ごんごんがねごんごんがねといっているうちに、だれかがいちがえてごんごろがねといっちまったんだ。するとごんごろがねほうごんごんがねよりごろがいいので、とうとうごんごろがねになったのさ。」

 ぼくちいさかったときには、ごんごろがねをずいぶんおおきいものとおもっていた。しかし国民こくみんねんにもうじきなろうという現在げんざいでは、それほどおおきいとはおもわない。直径ちょっけいやく七十センチだから周囲しゅうい

70cm×3.14=219.8cm

というわけだ。おとうさんが奈良ならかねというのは、直径ちょっけいが二メートルぐらいあったそうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろがねかねあかぼうにすぎない。

 しかしぼくたちむらのものにとっては、いつまでもわすれられないかねだ。なぜなら、尼寺あまでらにわ鐘楼しゅろうしたは、むらのこどものたまりばだからだ。ぼくたちが学校がっこうにあがらないじぶんは、毎日まいにちそこであそんだのだ。学校がっこうにあがってからでも学校がっこうがひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。夕方ゆうがた庵主あんじゅさんが、もうかねをついてもいいとおっしゃるのをまっていて、ぼくらは撞木しゅもくうばいあってついたのだ。またごんごろがねは、ぼくたちのすぎでっぽうや、くさでっぽうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかなんだおと僕達ぼくたちみみをたのしませてくれたかれない。

 おもえば、ごんごろがねについてのおもいでは、かずかぎりがない。


 三がつ二十二にち

 春休はるやすだいにち今日きょう、ごんごろがねがいよいよ「出征しゅっせい」することになった。

 うさぎにたんぽぽをやっていると、用吉君ようきちくんが、いまおろすところだよ、といってたので、おくれちゃたいへんと、桑畑くわばたけなか近道ちかみちはしっていった。四郎五郎しろごろうさんのやぶよこまでかけてると、まだ三百メートルほどはしったばかりなのに、あつくなってたので、上衣うわぎをぬいでしまった。

 尼寺あまでらて、ぼくはびっくりした。まるでおまつりのときのような人出ひとでである。いや、おまつりのとき以上いじょうかもれない。おまつりにはわかもの子供こどもはたくさんるが、こんなに老人ろうじんまでがおおぜいはしないのだ。つえにすがったじいさん、あごがにつくくらいがまがって、ちょうど七面鳥しちめんちょうのようなかっこうのばあさん、自分じぶんではあるかれないので、息子むすこにおわれて老人ろうじんもあった。こういうひとたちも、みなごんごろがねと、えないいとむすばれているのだ。ぼくはいまさら、このおおきくもないかねが、じつにたくさんのひと生活せいかつにつながっていることにおどろかされた。

 老人ろうじんたちは、ごんごろがねわかれをしんでいた。「とうとう、ごんごろがねさまってしまうだかや。」といっているじいさんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながら、ごんごろがねおがんでいるばあさんもあった。

 かねをおろすまえに、青年団長せいねんだんちょう吉彦よしひこさんが、とてもよいことをおもいついてくれた。長年ながねんともだちであったかねともいよいよおわかれだから、子供こどもたちにおもうぞんぶんつかせよう、というのであった。これをきいてぼくたちむら子供こどもは、わっと歓呼かんここえをあげた。みなつきたいものばかりなので、吉彦よしひこさんはみんなを鐘楼しゅろうしたに一れつ励行れいこうさせた。そして一人ひとりずつ石段いしだんをあがってつくのだが、一人ひとりのつくかずは三つにきめられた。お菓子かし配給はいきゅうのときのことをおもいして、ぼくはおかしかった。だが、ごんごろがね最後さいごに三つずつらさせてもらうこの「配給はいきゅう」は、お菓子かし配給はいきゅう以上いじょうにみんなに満足まんぞくをあたえた。

 最後さいご吉彦よしひこさんがじぶんで、おおきくおおきく撞木しゅもくって、がオオんん、とついた。わんわんわん、となが余韻よいんがつづいた。すると吉彦よしひこさんが、

西にしたにひがしたにも、きたたにみなみたにるぞや。ほれ、あそこのむらも、あそこのむらも、るぞや。」

と、なぞのようなことをいった。

「ほんとだ、ほんとだ。」

と、樽屋たるや木之助きのすけじいさんと、ほか二、三にん老人ろうじんがあいづちをうった。

 ぼくはなんのことやらわけがからなかったので、あとでおとうさんにきいてたら、おとうさんはこう説明せつめいしてくれた。

「ごんごろがねができたのは、わたしのお祖父じいさんのわかかったじぶんで、わたしもまだまれていなかったむかしのことだが、そのころむら人達ひとたちはみなおかねというものをすこししかっていなかったので、村中むらじゅうがそのわずかずつのおかねしあっても、まだかねを一つつくるにはりなかった。そこで西にしひがしみなみきたたにんでいるひとたちやら、もっととおくのあっちこっちのむらまで合力ごうりょくしてもらいにいったんだそうだ。合力ごうりょくというのは、たすけてもらうことなのさ。そうしてようやくできあがったかねだから、四方しほうたにひとこうの村々むらむらひとこころもこもっているわけだ。だからごんごろがねをつくと、そのたにむらおともまじっているようにこえるのだよ。」

 ごんごろがねをおろすのは、庭師にわしやすさんが、おおきい庭石にわいしうごかすときに使つか丸太まるた滑車せみ使つかってやった。わか人達ひとたち手伝てつだった。れないことだからだいぶん時間じかんがかかった。

 ごんごろがねはひとまず鐘楼しゅろうした新筵にいむしろをしいて、そこにおろされた。いつもしたからばかりていたかねが、こうしてよこからられるようになると、なにべつのもののようなへんかんじがした。緑青ろくしょうがいっぱいついているうえに、いただきほうにはほこりがつもっているので、かなりきたなかった。庵主あんじゅさんと、よく尼寺あまでら世話せわをするおたけばあさんとが、なわをまるめてごしごしとあらった。

 するといままではっきりしなかったかねめいも、だいぶんはっきりしてた。吉彦よしひこさんがちょっとんでて、

「こりゃ、おきょうだな。」

といった。それからまた、

安永あんえいなんとかいてあるぜ。こりゃ安永年間あんえいねんかんにできたもんだ。」

といった。すると、どもりの勘太かんたじいさんが、

「そ、そうだ。う、う、おれの親父おやじが、う、う、まれたとしにできた、げな。お、お、親父おやじ安永あんえいの、う、う、うまれだ。」

と、かみつくようにいった。

 紋次郎君もんじろうくんとこのばあさんが、

三河みかわのごんごろという鐘師かねしがつくったといてねえかン。」

ときいた。

「そんなことはいてねえ、助九郎すけくろうといういてある。」

と、吉彦よしひこさんがこたえると、ばあさんはなにかぶつくさいってひっこんだ。

 和太郎わたろうさんが牛車ぎゅうしゃをひいてたとき、きゅうに庵主あんじゅさんが、鐘供養かねくようをしたいといいした。大人おとなたちは、あまり時間じかんがないし、もうみんなじゅうぶんわかれをしんだのだから、鐘供養かねくようはしなくてもいいだろう、といった。しかしわかあまさんは、眼鏡めがねをかけたかお真剣しんけん表情ひょうじょうをうかべて、「いいえ、自分じぶんからだかして、爆弾ばくだんとなってしまうかねですから、どうしても供養くようをしてやりとうござんす。」といった。

 大人おとなたちは、やれやれ、といったかおつきをした。みんな、庵主あんじゅさんがしようのない頑固者がんこものであることをっていたからだ。しかし庵主あんじゅさんのいうことも道理どうりであった。

 鐘供養かねくようというのは、どんなことをするのかとおもっていたら、ごんごろがねまえ線香せんこうてて庵主あんじゅさんがおきょうをあげることであった。庵主あんじゅさんは、よそゆきの茶色ちゃいろのけさをて、かねのまえにつと、にもっているちいさいかねをちーんとたたいて、おきょうみはじめた。はじめはみんなだまってきいていたが、すこしたいくつになったので、おきょうっている大人達おとなたちは、庵主あんじゅさんといっしょにとなした。なんだか空気くうきがしめっぽくなった。まるでおとむらいのようながした。年寄としよりたちはみなしわくちゃのわせた。

 鐘供養かねくようがすんで、庭師にわしやすさんたちが、またごんごろがねりあげると、そのした和太郎わたろうさんが牛車ぎゅうしゃをひきこんで、うまいぐあいに、牛車ぎゅうしゃうえにのせた。そのとき黄色きいろちょうが一つごんごろがねをめぐって、土塀どべいそとえていった。

 和太郎わたろうさんがうしくるまにつけているとき、みんなはまたいろいろなことをいった。

「このかねがなしになると、これから報恩講ほうおんこうのときなんかに、ひとあつめるのにこまるわなア。」

といったのは、いつも真面目まじめなことしかわないたねさんだ。

「なあに、学校生徒がっこうせいとんでて、ラッパをかせりゃええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報恩講ほうおんこうがはじまるとおもってかけりゃええ。」

こたえたのは、ひょっとこづらをしてせることの上手じょうずまつさん。

「ほんな馬鹿ばかな。ラッパでじいさんばあさんをあつめるなどと、ほんな馬鹿ばかな。」

と、たねさんはしかたがないようにわらった。

「これでごんごろがねもきっと爆弾ばくだんになるずらが、あんがい、四郎五郎しろごろうさんとこの正男まさおさんのからてき軍艦ぐんかんにぶちこまれることになるかもしれんな。」

吉彦よしひこさんがいった。四郎五郎しろごろうさんのいえ正男まさおさんは、うみ荒鷲あらわし一人ひとりで、いまみなみそら活躍かつやくしていらっしゃるのだ。

「うん、そうよなあ。だが、正男まさおやつも、ごんごろがねでできた爆弾ばくだんたあるめえ。爆弾ばくだんはものをいわねえでのオ。」

無口むくちでがんじょうな四郎五郎しろごろうさんは、煙草たばこをすいながらぽつりぽつりこたえた。

「だが、これだけのかねなら爆弾ばくだんが三つはできるだろうな。」

と、だれかがいった。

「そうよなあ、十はできるだら。」

だれかがこたえた。

「いや三つぐれえのもんだら。」

と、はじめのひとがいった。

「いいや、十はできるな。」

と、あとのひと主張しゅちょうした。ぼくはきいていておかしくなった。爆弾ばくだんにも五十キロのもあれば五百キロのもあるというように、いろいろあることを、このひとたちはらないらしい。しかしぼくにも五十キロの爆弾ばくだんならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、ということはわからなかった。

 いよいよごんごろがね出発しゅっぱつした。老人達ろうじんたちは、またほとけ御名みなとなえながら、かねにむかって合掌がっしょうした。

 かねには吉彦よしひこさんがひとりついて、まち国民学校こくみんがっこう校庭こうていまでゆくことになっていた。そこには、ちかくの村々むらむらからあつめられた屑鉄くずてつやまがあるということだった。

 ぼくたちむら子供こどもは、見送みおくるつもりでしばらくかねのうしろについていった。さんざかもすぎたが、誰一人だれひとりかえろうとしなかった。小松山こまつやまのそばまでたが、まだだれかえるようすをせなかった。かえるどころか、みんなのかおには、まちまでおくってゆこう、という決意けついがあらわれていた。 

 しかしぼくたちはちいさい子供こどもはつれてゆくわけにはいかなかった。そこで松男君まつおくん提案ていあんで、しんねん以下いかものしんたのむねからむらかえり、しんねん以上いじょうものが、まちまでついてゆくことにきまった。

 しんたのむねで、十五にんばかりのちいさいものがうしろにのこった。ところが、そこでちょっとしたあらそいがこった。しんねんだから、かえらねばならないはずの比良夫君ひらおくんが、かえろうとしなかったからだ。五ねん以上いじょうものが、かえかえれ、というと、比良夫君ひらおくんはいうのだった。

おれあ、いまねんだけれど、一ねんのときいっぺんすべっとる(落第らくだいしている)で、としは五ねんとおんなじだ。」

 なるほど、それも一つのりくつである。しかし五ねん以上いじょうものは、そんなりくつはとおさせなかった。とうとううでずくで解決かいけつをつけることになった。

 松男君まつおくん比良夫君ひらおくんんだ。そして足掛あしかけでたおそうとしたが、比良夫君ひらおくん相撲すもう選手せんしゅだから、ぎゃくこしをひねって松男君まつおくんしてしまった。

 こんどは用吉君ようきちくんが、得意とくい相手あいてくびをしめにかかったが、反対はんたい自分じぶんくびをしめつけられ、ゆでだこのようになってしまった。

 そんなことをしているあいだに、かねをのせた牛車ぎゅうしゃはもうしんたのむねをおりてしまっていた。五ねん以上いじょうものは、がせいてたまらなかった。ぐずぐずしていると、ついにかねにいってしまわれるおそれがあった。そこで、比良夫君ひらおくんのことなんかほっといて、みんなかねめがけてはしった。総勢そうぜい十五にんほどであった。かねいついてみると、ちゃんと比良夫君ひらおくんがうしろについてていた。みんなはすこしいまいましくおもったが、かんがえてみると、それだけ比良夫君ひらおくん熱心ねっしんがつよいことになるわけだから、みんなは比良夫君ひらおくんゆるしてやることにした。

 かわつつみたとき、紋次郎君もんじろうくん猫柳ねこやなぎえだってかねにささげた。ささげたといっても、かねのそばにおいただけである。すると、みんなは、われもわれもと、猫柳ねこやなぎをはじめ、ももや、まつや、たんぽぽや、れんげそうや、なかにはペンペンぐさまでとってかねにささげた。かねはそれらのはなでうずまってしまった。

 こうしてぼくたちはむらでただひとつのごんごろがねおくっていった。


 三がつ二十三にち

 ひるまえ、南道班みなみみちはん子供常会こどもじょうかいをするために尼寺あまでらへいった。

 いつも常会じょうかいをひらくまえに、境内けいだいをみんなで掃除そうじすることになっているのだが、きょうはぼくはひとつみんなののつかないところをしてやろうと、御堂みどううらへまわって、やぶ御堂みどうあいだのしめったをはいた。うらへまわっていいことをしたとおもった。それはぼくきな白椿しろつばきいているのをつけたからだ。

 なんというよいはなだろう。しろべんがふかぶかとかさなりあい、べんのかげがべつのべんにうつって、ちょっとクリームいろえる。かみさまも、このはなをつつむには、特別上等とくべつじょうとうんだやわらかな春光しゅんこうをつかっていらっしゃるとしかおもえない。そのうえ、またこのがすばらしい。一まいまい名工めいこうがのみでってつけたような、あつかたかんじで、くろえるほどの濃緑色のうりょくしょくは、エナメルをぬったようにつややかで、のあたるほういたいくらいひかり反射はんしゃするのだ。

 じつにすばらしいはな日本にっぽんにはあるものだ。いつかおとうさんが、日本にっぽんほど自然しぜんにめぐまれているくにはないとおっしゃったが、ほんとうにそうだとおもう。

 掃除そうじわって、いよいよだい二十かい常会じょうかいひらこうとしていると、きこりのようなおとこひとが、かおながい、みみおおきいじいさんを乳母車うばぐるまにのせて、尼寺あまでら境内けいだいにはいってた。

 きけばそのじいさんは深谷ふかだにひとで、ごんごろがねがこんど献納けんのうされるときいて、おわかれにたのだそうだ。乳母車うばぐるまをおしてたのはじいさんの息子むすこさんだった。

 深谷ふかだにというのはぼくたちのむらから、三キロほどみなみやまなかにあるちいさなたにで、ぼくたちはあききのこをとりにって、のどがかわくと、みずもらいにるから、よくっているが、いえが四けんあるきりだ。電燈でんとうがないので、いまでもよるはランプをともすのだ。その近所きんじょにはいまでもきつねたぬきがいるそうで、ふゆよるなど、ひと便所べんじょにゆくため戸外こがいるときには、をあけるまえに、まず丸太まるたをうちあわせたり、はしらたけでたたいたりして、戸口とぐちているきつねたぬきうのだそうだ。

 おじいさんは、ごんごろがね出征しゅっせいを、一にちまちがえてしまって、ついにごんごろがねにおわかれが出来できなかったことを、たいそう残念ざんねんがり、くちおおきくあけたまま、かねのなくなった鐘楼しゅろうほうていた。

「きのう、おわかれだといって、あげん子供こどもたちが、ごんごんらしたが、わからなかっただかね。」

庵主あんじゅさんもどくそうにいうと、

「ああ、このごろみみこえるこえぬがあってのオ。きんのあさからみみなかはえが一ぴきぶんぶんいってやがって、いっこうこえんだった。」

と、おじいさんはこたえるのだった。

 おじいさんは息子むすこさんに、まちまでつれていってかね一目ひとめあわせてくれ、とたのんだが、息子むすこさんは、仕事しごとをしなきゃならないからもうごめんだ、といって、おじいさんののった乳母車うばぐるまをおして、もんていった。

 ぼくたちは、しばらく、へいそとをきゅろきゅろとってゆく乳母車うばぐるまおとをきいていた。ぼくはおじいさんのこころおもいやって、ふか同情どうじょうせずにはいられなかった。

 それからぼくたちの常会じょうかいがはじまった。するとまっさきに松男君まつおくんが、

ぼくに一つあたらしい提案ていあんがある。」

といった。みんなはなんだろうかとおもった。

「それは、いまのおじいさんをまちまでつれていって、ごんごろがねにあわしてあげることだ。」

 みんなはだまってしまった。なるほどそれは、だれもがむねなかでおもっていたことだ。いいことにはちがいない。しかしみんなは、昨日きのうまちまでってたばかりであった。また今日きょうも、おなみちとおっておなじところにってるというのは面白おもしろいことではない。

 しかし、

賛成さんせい。」

と、紋次郎君もんじろうくんがしばらくしていった。

ぼく賛成さんせい。」

勇気ゆうきをふるってぼくがいった。すると、あとのものもみな賛成さんせいしてしまった。

本日ほんじつ常会じょうかい、これでわりッ。」

松男君まつおくんさけんで、たあッともんそとはしした。みんなそのあとにつづいた。

 亀池かめいけしたでおじいさんの乳母車うばぐるまいついた。ぼくたちはおじいさんの息子むすこさんにわけをはなして、おじいさんをこちらへけとった。おじいさんは子供こどものようによろこんで、ながかおをいっそうながくして、あは、あは、とわらった。ぼくたちもいっしょにわらしてしまった。

 なに心配しんぱいする必要ひつようはなかった。昨日きのうとおったばかりのみちでも、すこしも退屈たいくつではなかった。こころ誠意せいいをもっておこないをするときには、ぼくらはなんどおなじことをしても退屈たいくつするものではない、とわかった。それにおじいさんがいろいろ面白おもしろはなしをしてくれた。

 ただ一つこまったことは、乳母車うばぐるまのどこかがわるくなっていて、しているとみぎみぎへとまがっていってしまうことだった。だからものは、十メートルぐらいすすむたびに、乳母車うばぐるまのむきをかえねばならなかった。ぼくたちはこのやっかいな乳母車うばぐるまをかわりばんこにしていったのである。

 正午しょうごじぶんに、ぼくたちはまち国民学校こくみんがっこうについた。昨日きのうのところになつかしいごんごろがねはあった。

「やあ、あるなア、あるなア。」

と、おじいさんはかねえたときいった。そして、さわりたいからそばへ乳母車うばぐるまをよせてくれ、といった。ぼくたちは、おじいさんのいうとおりにした。

 おじいさんは乳母車うばぐるまからをさしのべて、なつかしそうにごんごろがねでていた。

 ぼくたちは弁当べんとうっていなかったのではらぺこになって、むらに二時頃じごろかえってた。それから深谷ふかだにまでおじいさんをとどけにいってくるのはらく仕事しごとではなかった。が、感心かんしんなことにだれもいやなかおをしなかった。ぼくらはびっこをひきひき深谷ふかだにまでゆき、おじいさんをかえしてた。

 夕御飯ゆうごはんのとき、きょうのことをはなしたら、おとうさんが、それはよいことをした、とおっしゃった。

「ん、そういえば、あのごんごろがね深谷ふかだにのあたりでつくられたのだ。いまでもあのあたりに鐘鋳谷かねいりだにというのこっているちいさいたにがあるが、そこで、たということだ。そのころわかいもんたちは、三日三晩みっかみばんたたらというおおきなふいごをあしんで、かねをとかすをおこしたもんだそうだ。」

 それでは、あのおじいさんもまたごんごろがねふかいつながりがあったわけだ。

 ぼくまたしてもおもいした、吉彦よしひこさんがかねをつくときった言葉ことばを──「西にしたにひがしたにも、きたたにみなみたにるぞ。ほれ、あそこのむらもここのむらるぞ。」

 ちょうどそのとき、ラジオのニュースで、きょうも荒鷲あらわしてきの○○飛行場ひこうじょう猛爆もうばくして多大ただい戦果せんかおさめたことをほうじた。

 ぼくには、爆撃機ばくげききはらから、ばらばらとちてゆくくろ爆弾ばくだんのすがたがうつった。

「ごんごろがねもあの爆弾ばくだんになるんだねえ。あのふるぼけたかねが、むくりむくりとした、ぴかぴかひかった、あたらしい爆弾ばくだんになるんだね。」

ぼくがいうと、休暇きゅうかかえってているにいさんが、

「うん、そうだ。なんでもそうだよ。ふるいものはむくりむくりとあたらしいものにまれかわって、はじめて活動かつどうするのだ。」

といった。にいさんはいつもむつかしいことをいうので、たいていぼくにはよくわからないのだが、この言葉ことば半分はんぶんぐらいはわかるようながした。ふるいものはあたらしいものにまれかわって、はじめて役立やくだつということにちがいない。

底本:「少年少女日本文学館第十五巻 ごんぎつね・夕鶴」講談社

   1986(昭和61)年418日第1刷発行

   1993(平成5)年225日第13刷発行

入力:田浦亜矢子

校正:もりみつじゅんじ

1999年1025日公開

2009年127日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。