悲しめる顔
横光利一



 京の娘は美しいとしきりに従弟が賞めた。それに帰るとき、

「此の雨があがると祇園の桜も宜しおすえ。」

 そんなことを云つたので猶金六は京都へ行つてみたくなつた。

 縁側で彼の義兄が官服を着たまゝ魚釣り用の浮きを拵へてゐる。金六は義兄の傍に蹲んだ。

 義兄はあら削りの浮きを一寸掌の上に載せてみて、

「子モロコを食はしてやるぞ、五六十疋も釣つて来てなア。」と云つた。

「おいしいのですか。」

「うまいの何んのつて、東京にゐちや金さんらにや食へんわ。」

 それも一度食べたいと彼は思つた。ふと眼を庭のぎぼしの芽に移した。芽は刺さつたやうに筒形をして黒い土の上から二寸程延びてゐた。東京から此処へ来て初めて庭の隅でその生々とした芽を捜しあてたとき、毎日これを見ようと思つた。それに三日も忘れてゐる。彼は三日分のを取り戻さうと云ふ気になると立ち上つた。すると身体の奥底で何か融けてずる〳〵崩れ出すやうに感じた。毎年春さきになると彼はこんなのを感じる。それが近頃殊にひどかつた。危険になつてゐるなと彼は思つた。そのまゝ暫く両手を帯へ差して少し前へ傾くやうな姿勢をとつて立つてゐると、足を踏み変へなければ身体が前へ自然にのめつて倒れさうに思はれた。

「これやをかしい。どうしても妻が欲しいんだ。」

 そんなことを思ふと、彼は妻でなくとも好いせめて恋人なり一人欲しいと思つた。彼はまだ恋を知らない。しかし、こんなものだらう位は知つてゐた。

「ほんまによう降るな、モロコは沖へいつとるであかんぞ、これや。」と義兄は云つた。

「雨があがるといゝんですか。」

「さうやな、磯へ餌さが集るで来よるわけやな。」

 何ぜ雨が降りやめば餌が磯へ集るのか彼は考へてみた。分らなかつた。

 奥の間で娘の三重子の眠つてゐる暇を盗んで縫物をしてゐる金六の姉が、

義兄にいさんたら、金さんが来たら酢モロコを食べさすのやつて、こなひだからやい〳〵言うてやはるのえ。そんな物食べたうないわなア金さん?」

 と声をひそめるやうにして言つた。

「何アに、うまいのなんのつて。」

 と義兄が云ふと、

「アレ、自分が好きやつたら他人ひとまで好きやと思うて。」と姉は笑つた。

「きまつてら、どうれ。」

 義兄は立ち上ると膝に溜つた削り屑をぽん〳〵と音高く叩いた。姉は顔を顰めた。

「そんな大きな音さして、三重子が起きますやないの。」

「お前はなんぢや。大つきな声出して。」

 金六の義兄は内庭へ廻つて行つた。姉も立つてその方へ廻つた。

 金六は蹲み込むと庭の芽を見乍ら、矢張り自分を一番幸福にするのは恋だと思つた。しかし、何故に公平な分け前物である筈のその幸福が、自分を許り避けるのか。これは機会がなかつたからだ。世の中の総ての幸福者は適宜に此の機会を捕へて放さなかつた。いや何よりも自分は臆病なんだ、これが一番いけない。さう思ふと、これまで数多くの機会が間断なく自分に向つて進んで来てゐたやうに思はれた。が、次には是非鏡を覗いて見たくなつた。鏡台は縁側の隅にあつたので、彼は立ちさへすれば好かつた。そこへ姉が戻つて来て又縫物をし始めた。

「金さん、今夜活動へ行かう。今やつてるのは片思ひつて言ふのえ。知つてる?」

 知つてゐると答へて彼は立つた。傾斜した鏡の面には彼の帯と胸とが映つてゐるだけだつた。

「酢モロコつてどんな物?」

 彼は思ひついたまゝのことを訊いておいて鏡の傍へ行くと顔がうまく鏡に映るやうに鏡の頭の処を少し突いた。姉は酢とかお味噌とか云ふ言葉を使つて何か云つてゐる。彼は元の位置へ戻つて鏡を見ると棚の上の番傘が三本映つてゐた。矢張り顔は見えなかつた。

「酢モロコつてそんな物か。」

 さう云ひながら又彼は鏡の下を突きに行かねばならなかつた。

「さうおいしうないけれど、珍らしいものえ。金さんら好きかもしれんわ。あ、そやそや金さん酢の物は好きやつたな。」

「酢モロコよりは恋だ。」と彼は思つて又鏡を見ると、今度は鏡の傾斜の度合がうまく合つて顔が映つた。少し色が黒いと思つた。眼と眼の間が離れ過ぎてゐる。それに空を見てゐる鼻の頭が何か食べたさうで賤しかつた。彼は暫く姉に用心しながらも写真を撮る時のやうな気になつて顔を引き絞めて見てゐると、ふと自分の顔から丸木舟が聯想された。此の顔で水を汲めば五勺は汲める。そんなことを考へると何んとなく世の中が頼りなくもなつて来た。

「鏡ばつかり見て。」と姉は言つた。

 金六は少し羞しい気がしたが頬を撫でながら姉の傍へ行くと、

「痩せたね、近頃俺は。」とごまかした。

「運動すると好えのや。」

「うむ。一つ酢モロコでもうんと食べてみようかな。」

「酢の物食べるとよけい痩せるわ。」

「さうかなア、女の人つて痩せた人は嫌ひなものかしら。」

 姉は箆をひきながら、

「そんなこと好きずきやわ。」と答へた。

「姉さんは?」

「さうやな、うち、金さんみたいな人嫌ひや。」

「嫌ひか。」

 彼が笑ふと姉も笑つた。が、姉の言葉は彼の心をかなり叩いた。

「本当にまだ俺を好きだと云つた人を聞かないんだが、困つたものだね。」

かれん方がえ。好かれる人いやゝ。」

「いやアもう、好かれるのも良いぞ。」

「そんなら好かれるやうにするとええやないの。」

「ところが成る可くさうしてるんだがなア。」

 彼は姉との対話が生温く感じると真面目な気持ちで、

「俺の顔はどうかな、姉さん。」と訊き出した。

 姉は一寸彼の顔を見ると俯向いて、

「あかんわ。」と答へた。

 彼は幾分腹が立つた。が、針で針刺しの布を激しく突きながら黙つてゐると、

「杓子顔や。」と又姉が云つた。

「本当か、女の人は好かないか?」

 姉は首を縮めて「クツ」と云つた。

 金六は急に羞しさが増して来た。

「針差しがこはれるやないの。」と姉は叱つた。

 彼は仰向けに寝た。とても駄目だ、さう思ふと全く力が脱けた。姉はよそよそしさうな顔をして、

「アラ、雨があがつたわ。」と言つた。

 彼は片方の手をぱたんと畳の上へ延ばした。

「コレツ!」

 姉は彼を睨んだ眼で眠つてゐる三重子の顔を窺つた。

「杓子顔か。」と彼は吐いた。

 暫くしてから姉は、

「それでも金さんに手紙が来たことがあるやないの。」と言つた。

 金六には姉の言葉がまるきり通じなかつた。

「来るものか。」

「それでもうち見たことあるえ。」

「来ないもの見る理窟がない。」

「嘘、私いつやらな、金さんの所へ女手をんなでの手紙が来てゐたで見たら、やつぱりさうやつたわ。」

「本当か?」

本当ほんと。」

「どうした?」

「こんなの金さんに見せたら、タメに良うないと思うたで破いといてやつた。」

「締めたツ!」と彼は思つた。胸が鳴つた。姉は薄笑ひをもらしてゐる。

「何日だね。」

 しかし落ちつかなければいけないと彼は思つた。

「あれはツ──と?」

 姉は物尺の端を脣にあてて上眼をした。

うちが女学校の三年の時やつたで、金さんが六年の時やつたかしら、アそやそや、六年の時や、何んべんも来たのやろ?」

 ひと昔のことか、さう思ふと金六は急に張りがなくなつた。が、まだ自分にも恋の可能性があるのだと思ふとまた幾らかの張りが出て来た。

「誰からだね?」

「お前知らんの?」

 姉は不思議さうな顔をしてゐた。

「知らないとも、誰だね?」

「お絹さんやつた。」

 金六はそんな名前を一つも知らなかつた。

「ほれ、みつちやんの妹さんや。」

 姉の言葉は醜い杓れた女の子の顔を彼の頭に浮かばせた。

「アツ、あれか。あれも杓子顔だぞ。」

 姉は大きな声で笑ひかけたが、急に声を潜めると赤い顔をしてまた三重子の寝顔を窺つた。

「破いといて呉れてかつたよ。」

「何やら何やらで、どうぞ姉さんに見せんといて呉れつて書いてあつたわ。それにその当人の姉さんが見てるのや。」

 さう言つて又姉は笑つた。

 しかし姉も不埒だと金六は思つた。もし差し出し人がお絹さんでなかつたなら、自分は此の場限り姉を永久に敵としたかも分らない。が、たゞ数秒の間自分の胸を慄はせて済んだと云ふのも、お絹さんの顔の杓子顔か否かにあつたのだ。これがある運命の別れ目だつたのだ。してみると、自分の杓子顔も以後これと似寄つた運命を、この様な形式でこの様な鮮かさで截断するかも分らない。さう思ふと今二人がゝりで侮辱してゐたお絹さんが自分のやうにも思はれた。彼はお絹さんに対して気の毒に思ふよりも自分が不快になつた。いかにもつまらない男だと思はれた。

「悲しき悲しき杓子顔か、」と彼は呟きながら立ち上つた。

 暫くして金六は湯へ行かうと思つた。石鹸を貸して呉れと姉に云つたら、姉はいつも行く湯は今日は休日だから小さい方の湯へ行けと教へた。その湯へ行つた。

 番台には十七八の色の蒼白い内気な娘が坐つてゐた。金六は直ぐその娘が好きになつた。

 彼は着物を脱ぐときメリヤスがひどく汚くなつてゐるのが気になつた。一番早くそれを脱ぐ方法はどうしたものかと暫く帯を解いたまゝ立つて考へてゐたが、矢張り一度は娘にメリヤスを見られなければならないと思ふと元気を出して裸体になつた。彼はわざと落ちつくやうに心掛けて浴室へ這入つた。

 金六は顔を一番初めに洗つた。多く洗へば洗ふ程白くなるだらう。白くなればなる程杓子顔に見えなくなるだらう。さう思ふと彼は湯舟から出る度に石鹸を目に見える程減らして顔を洗つた。湯舟の隅に軽石が一つ浮いてゐた。それで額と顎とを擦れば少しは杓子に見えなくなるかもしれない、そんなことまで考へた。番台の娘の顔が浮んで来た。その娘を妻にしてゐる自分を考へてみて、何んでも云ふことをきいてやるぞと思つた。

 彼は浴室を出ても一度も娘の方を見なかつたが、絶えず娘に自分の杓子顔を見せないやうにも気をつけた。メリヤスを着なければならぬ。これが又彼には困り物だつた。彼はメリヤスを着ずに着物を着た。そして湯屋を出るとき初めて番台の方を眺めてみたが、何時のまに変つたのかそこには年寄の女が湯札を忙しさうに数へてゐた。

 彼はメリヤスをたまにして抛り上げた。彼は身体を激しく振つて笑つた。悲しくもなつた。

 夕暮前に金六の義兄は釣つて来たモロコの腸を抜きにかゝつた。姉は活動へ行くのだからそんなことは明日にすればよいと云つた。

「いいや一晩置きやさつぱり食へん。お前ら勝手に好きな所へ行きやえゝ。」

「たつた十疋そこ〳〵の物、そないに大騒ぎして。」と姉は笑つた。

「阿呆なこと云へ、これでも金さん一人にや良い御馳走になるわい。」

「それなら、あんたはんはふつといてうちら行つて来ますえ。」

「おう〳〵、行つてこい行つてこい。金さん、帰りを楽しんでるとえゝ、うまい物を拵へといてやるぞ。」

 夕餉の時義兄は御飯を食べながらも、傍の七輪にかけた串刺しのモロコを裏返してゐた。

 金六と三重子を背負つた姉とが活動へ行かうとすると、義兄は奥から自分のトンビを持つて出て来た。寒くなるから着て行けと云ふ。彼はまだ一度もトンビを着てみたことがなかつた。着てみて自分の両肩を見るといかにも一人前の男らしく見えた。彼は義兄を見上げて、「どうです。」と訊くと、

「えゝとも、立派なものや、」と云つて笑つた。

 三重子は姉の肩の上から義兄を見て、

「アツ、アツ、」と声をかけてお辞儀をした。

 義兄も、「アツ、アツ、」と答へた。そして、

「行つといで、行つといで。」

 さう云ひ乍ら娘のまる〳〵した顎に手をかけて顔を擦り寄せると、三重子は母親の背中の上で身体を揺つて笑つた。

「これ〳〵。」と姉は言つて外へ出た。

 外は風が少し強かつた。

 活動はもう始つてゐた。金六と姉とは出口に近い婦人席の隅の方に坐つた。土間には蓙が敷いてある。金六は花道に肱がつけた。姉は彼の横に坐つて膝の上に三重子を載せた。

 幕の上を自働車が走つて通つた。すると、三重子は急に立ち上つて大きな声で、「ポーツ、ポーツ。」と言つた。

 それが静になつてゐる小屋の中に大きく響いた。金六は気が気でなかつた。姉は割りに平気らしかつた。が、三重子は自働車の出て来る度に声を立てるので、金六はもう参つて了つた。早く旧劇物になればよいと思つてゐると次には滑稽物があつた。自働車が出て呉れねばよいがと思つたがこれは又しつきりなしに出始める。三重子は初めの間は姉の膝の上で声を立てゝゐたが、姉が写真の面白さに手を弛めてゐると膝から降りて、前の女の人の肩を攫まへて又、「ポーツ、ポーツ。」と言つた。

 写真を見て笑つてゐたその女の人は振り返ると顔を顰めて身体を前に延ばした。

「姉さん。」

 金六はもう本気で怒り出した。

 姉は三重子を抱き寄せようとすると、三重子は姉の胸を押しながら背を曲げて、「ヤーツ、ヤーツ」と声を立てた。

 金六は逃げて帰らうかと思つた。そして、

「もう厭だ。」と云ふと姉は苦笑ひして、

「いつでもかうえ、仕方あらへん。」と云つた。

 するとその中に彼の横の方でも三重子程の男の子が声を立て始めた。彼は気を落ちつけてその子の声がどんな程度で自分の耳にこたへるかと吟味してみた。別に大して気にもならなかつた。少し安心が出来ると、姉と自分とが赤の他人であると仮定して、偶然隣り合せに坐つてゐる場合を想像してみた。そして、さう考へれば少しは楽になるだらうと思つたので、彼は心の中でそんな態度を姉にとりかけた。

 すると、また三重子は前の女の人の肩を攫んで意味の通じないことを大声に喋舌つた。女の人は三重子を見ると苦い顔をして鬢を直した。

「これどうや、どもならん。」

 さう言つて姉は三重子を引つ張つたが三重子はきかなかつた。

 金六はもうはら〳〵し出した。恐い顔をしてあたりを見廻した。すると、それらの顔の中に二間程斜めに距てた処から、彼を見詰めてゐる眼の大きな美しい町娘の顔に行きあつた。彼は視線を幕の上へはね返した。動悸が激しく打つた。あの娘は何ぜ俺を見るのだらう、恋ではないのかしら、いやあれから恋が湧いて来るのだ。今恋が俺を見てゐるのだ、そんなことを考へると彼は今の機会を逃がしてはならないと思つた。が、さてどうすればいゝのか、これはむづかしかつた。けれども、とにかく三重子の声で娘の耳を邪魔させてはいけないと思つた。何と云ふ綺麗な顔だらう! 澄んでゐる。もしあの娘が妻になつて呉れたなら。さう思ひながらその娘が他人の妻になつてゐる処を想像すると苦しくなつた。どうかして妻にしたい。出来ないだらうか、一体妻にするのはむづかしいことなのだらうか。そんなことを考へてゐるとき、ふと彼は姉が自分の傍にゐると云ふことは此の機会をみす〳〵取り失ふ大きな原因になると思つた。それに、彼は義兄のトンビを借りて着てゐた。これはいけない。俺と姉とは夫婦に見えるにちがひない。さう思ふと彼はもう姉に一切口をきかないことに決心した。

 滑稽物が終つて小屋の中が明るくなつた。いよ〳〵だと彼は思つた。そして娘に眼でしらせて、便所へ連れて来てそこで名刺を渡さうと考へた。──

「私はあなたを愛してゐますとさう云はう。いやそれよりも、私はあなたをお慕ひ申してゐます、とさう云はう。響きが良い。いや待て、それよりも、私がもしあなたをお好き申してゐますと云つたならあなたはどうなさいますかとさう云ふんだ。それがいゝ。一番上品ではないか。」

 金六は胸を鳴らせながらじり〳〵と成るたけ眼許り廻るやうに気をつけて娘の方へ頭を向けていつた。娘は首筋へ両手をあてがつて少し顔を俯向き加減にして金六を眺めてゐた。

 彼は直ぐ又眼を外らしたが急に自信が盛り上つて来た。「見ろ!」と誰も彼もに云ひたかつた。

「金さん、三重子を眠かさう、なア?」と姉は言つた。

 金六は腹が立つた。遠い舞台の上を見たまゝ口を結んで、「うむ、」と低く答へた。

 姉は三重子を横抱きにして乳を飲ませようとした。三重子は乳房を一寸舐めさがすと直ぐ又立ち上つて前の人々の肩を割つて出て行かうとした。

「あれ見な。」

 姉は金六を見てただもう笑つて了つた。彼は恐い顔をして故意に不快さをあらはしながら娘の方を窺ふと、娘は綺麗な顔を二階の方に向けて何かを捜してゐた。

(俺は捨てられた! 俺は捨てられた!)金六は姉が敵のやうに呪はしくなつた。義兄の親切のトンビが夏の蒲団のやうに腹立たしくなつて来た。

 再び暗くなつて小屋は静まつた。

「あつちへ出て見てゐようかしら。」と姉は小さい声で訊いた。

「出ろ〳〵。」

 さう金六は追ひ立てる気持ばかりで云つた。

「出てるわ。」と姉は云ふと、花道の尽きた明るい処まで出て下駄場の方へ拡つた板間へ三重子を下ろして遊ばせた。

 幕の上には新派の悲劇物が映つてゐた。それは家を出る時から金六の姉が見たがつてゐたものである。

 金六が姉の方を見ると、姉は蹲んだまゝ背を柱に凭らせて幕の方を向いてゐたが、三重子は傍にゐなかつた。「ほつておいて危いぞ。」と彼は思つた。

 そのときふと彼は姉の方を向いてゐる時自分の顔は娘の方から見れば、一番杓子に似て見えることに気がついた。彼は直ぐ正面に向き直つた。

「悲しき悲しき杓子顔」さう云ふ彼自身の造り文句がひつきりなしに浮んで来た。

 写真はだん〳〵面白くなつて来た。が、彼は矢張り三重子が気になつた。姉は写真に見とれてゐるにちがひない。さう思ふとまた頭が自然と姉の方へ向かうとした。しかし、完全な杓子を娘に見られたくない懸念のために、顔を幕から外らせてはゐるものゝ姉の方へも向けきらず小屋の一方の隅へそは〳〵しながら向けてゐた。

 金六の傍で鼻を鳴らして泣き出した者がゐた。その横でも鼻が鳴つた。やがて小屋のあちらこちらで白い手巾が上下に動き出した。

 その時戸を距てた後の方で金物の転がる音がした。金六の姉は、「アツ!」と叫んだ。

 金六が後を振り向いたとき姉は柱の処にゐなかつた。彼は膝を立てて入口の方を見てゐると三重子の泣き声が激しく聞えた。

「やかましツ、やかましツ。」小屋の方々から怒声がおこつた。

 金六は素早く姉のゐる柱の処まで出て来た。蒼い顔をした姉は三重子を片手で抱いて片手で三重子の顔に載せた手巾を抑へながら小走りに階段の横から現れた。そしてまだ金六の来てゐることを知らない筈の彼女は三重子を見続けたまゝ、

義兄にいさんに直ぐ来て貰うて、山寺さんや。」と早口に彼に云つた。

「どうした?」

「ミイの眼が潰れた、ガラスで。」

 さう云ふと姉は木戸口から跣足で表の方へ駈け出した。金六も駈け出した。そして後から、

「ほんたうか、ほんたうか。」

 と訊いたが姉は黙つてとつとと家と反対の方へ走つた。金六もいて歩いてゐた。

義兄にいさんを呼んで来て、早う!」と姉は一口強く云つた。

 金六は家の方へ二三歩引き返した。が、立ち停るとまた、

「ほんたうか、」と訊いた。

 三重子の泣き声だけが聞えてゐた。

「嘘だ!」

 さう呟き乍ら金六は又家の方へ駈け出した。

 彼は嘘だと思ふ気持ちを強めるためにわざと足を弛めてみた。が、直ぐ又走つてゐた。盲目の三重子が浮んで来た。一生彼女につきまとふ不幸が思はれた。姉の泣き顔が浮んだ。義兄の悲しみが眼に見えた。皆自分からだ。──金六は何処かへ突きあたりさうに思はれた。涙が出て来た。

「妻にしよう。」

 さう云ふ考へが不意に金六の頭に浮んだ。彼は自分の年齢と三重子の年齢とを比べてみた。二十年違つてゐる。「二十年待たう。しかし俺はほんたうに待てるか。」金六は自分の興奮がいつもあてにならないのを思ひ出した。すると出て来る涙も風にあたつてゐるからだと強ひて思つた。

(いや二十年待てる。断じて待たう。どうぞ俺の心の変らないやう。)彼は本気になつて何かに願つた。そのまゝ暫く走り続けた。するとまた、妻にして何の償ひになるものか! と思つた。もう彼は思ふこともすることもなくなつた。

 何時の間にか金六は姉の家の前に立つてゐた。義兄は謡を唄つてゐた。

 金六が中へ這入ると義兄は、

「えらう早かつたな、三重子は?」と訊き乍ら立ち上つた。

 金六は黙つてゐた。なぜだかそのまゝ便所の方へ足が動いて行かうとした。

 義兄は戸棚から魚を盛つた小皿を出して来ると、

「今夜の酢モロコは一寸食へるぜ。」

 と云つて自分で一疋つまんで食べ乍ら皿を火鉢の縁へ載せた。

 金六は流しもとまで来ると白く光つた物が眼にはいつた。

「庖丁だな。」と思つた。

「此の顔からだ!」と次に思つた。

 彼は自分の醜い杓子顔をその庖丁で一層醜く傷つけたくなつた。彼は庖丁を手にとつてみた。

「三重子は俺の妻になつたら俺の顔の綺麗なのを好くかもしれない。」

 ふと金六はそんなことを考へた。するとこんな場合さう云ふことを考へたと云ふことが、まだ自分が自分の顔を美しく保たせようと思つてゐるからだと思つた。それはいかにも汚い心に思はれた。と、又その後から、ひよつとしたなら三重子の眼はまだ潰れてゐないかもしれないと思つた。潰れてゐなければ顔を無理に傷つけることが彼には恐くなつた。と、もう彼は自分の心に全く愛想がつきた。憎くなつた。

 金六は身慄ひすると歯を食ひしばつて息を一つ吸ひ込んだ。

「やれツ!」

 庖丁がサツと動いた。が、それはただ真似だけだつた。金六は声を上げて「ワツ」と泣き出した。

底本:「定本 横光利一全集 第一卷」河出書房新社

   1981(昭和56)年630日初版発行

底本の親本:「幸福の散布」新進作家叢書、新潮社

   1924(大正13)年813

初出:「街 第一號」

   1921(大正10)年61日発行

※初出時の表題は「顏を斬る男」です。

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。

入力:野崎芹香

校正:岡村和彦

2020年221日作成

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