再びこの人を見よ
──故梶井基次郎氏
菱山修三



 梶井基次郎氏が死んだ。──氏の生の論理もたうとう往きつく処まで往きついた。それはもはや何ものも語らない。在るものは寂寞ばかりだ。まことに死は現実の極点であらう。氏は最後のその死を死んだ。そこからはもはや何にも始まらない。唯現在、何かが始まるとすれば、──それはまさしく私の入り込んでゐる薄暗い、冷やかな、しづかな世界以外の処ではないであらう。

 ……始めにはよく歩いてゐた、驀地に歩いてゐるなと思つてゐると、屡々立ち停つたり振り顧つたりして、それでもよく歩いてゐた。その内に坐らなければならなくなり、それから全く寝ついて了つた。それにも拘はらず、氏の「眼」はその生涯をとほして変りなく輝いてゐた。即ち氏はその克己の、その超己の生涯をとほして立派に歩き続けたのである、第一流の作家が恒にさうであるやうに。しかも、死と病苦とを鷲掴みにしながら、敢てこれに戯れながら。氏の作家的業苦は恰も大樹のやうに氏を成長せしめる以外のものではなかつた。けれどもこの大樹は次第に枝先から、やがてその全体が一遍に枯れて了つた。氏の死面の上には、おそらく原始人のそれのやうに深い苦悩と共に、それにもまして大きな安堵が休んでゐたことであらう。

 ある夜、氏はやみのなかを歩いてゐた。氏のずつと前方には氏と同じいやうに灯なしで歩いてゆく一人の人がゐた。暗に満たされた路上の遥か向ふには一軒だけ人家があつて、楓に似た木が幻燈のやうに灯を浴びてゐる、その家の前の明るみのなかへ氏の前をゆく人が不意に姿を現した。すると、やがてその人はその明るみを背にしてだんだん暗のなかに沈んで行つて了つた。「自分も暫くすればあの男のやうに闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立つて見てゐればやはりあんな風に消えてゆくのであらう。」このとき氏は懾然としてこのやうな感慨を抱きはした。まさしく氏はその肩の上に担つてゐるシメエルの顰め面を眺め返へしたことであらう。しかしそれを顧りみたときでさへも、氏の眼の写したものは、氏自らの宿命を踏み越えた、悲哀の心情を絶した、美のきつい一つの表情であつた。人々は氏の精密な構造を備へた眼に常に愕くであらう。しかしなほ、愕くべきことはその先にあるのだ。そのいづれの精神的遺産に於いても、氏の眼がこのやうに必ず美の形態を捉へずに措かなかつたことを人々は愕くべきだ。氏は断じて感傷家ではなかつた。もとより氏も一日に何遍か倒れたに違ひない。屡々「諦め」に近い観想が氏の重い病苦の胸のなかを去来したに違ひない。けれどもその結果は必ず、もともと氏の肉体に深く根ざしてゐる強い意欲となつて還つて来た。氏にあつて、その夢がその行動を離れてはなかつたやうに、またその意欲は氏の審美的志向を離れてはその充分な意味を担はなかつた。氏は純粋に感性的作家であつた。と共に、怖るべき意欲的作家であつた。まことに氏の如くに病苦と闘ひながら、いはゞその生の論理が一律の確信を以て貫かれてゐるのは稀有の場合であらう。氏の作家としての無類の完璧はひとへにここに由来してゐる。氏は、元始的な、自然的な、──その完璧性の故に古典的な作家であつた。この限りに於いて、現在この邦に於いて氏の上に立つ写実的作家はないであらう。

 私は既に饒舌に過ぎたやうに思はれる、私はいまこれ以上を氏に就いて語るべきではないであらう。唯しまひに、梶井氏が没せられた三月廿四日よりほゞ三週間前に発梓された一雑誌の上で**、実は私が氏に就いて稍々饒舌を逞しうしてゐることを白状しなければならない。偶然若し故人がこの文章に目をとほしてゐたとするならば、──自らの孱弱な夢を語るのあまりにこれは多少慎しみを欠いてゐなかつたとはいへないであらう。この点、故人の母堂及び友人諸賢にお詫びをしなければならない。

 不仕合せで、しかし仕合せであつた梶井基次郎氏は死んだ。しかし、氏の光輝ある精神的遺産を前にして氏の業に対する私の感歎は新しい。氏は没した。氏はこの地上を去つた。しかし現に、氏の質実な世界への、私の架橋はなほ断たれてはゐない。このとき、私にあつて悲哀とは何であるかを誰が知るであらうか?

*「闇の繪巻」著作集「檸檬」(武蔵野書院刊行)参照

** 拙稿「この人を見よ──堀辰雄と梶井基次郎」雑誌「蒼い馬」五号

底本:「梶井基次郎全集 別卷」筑摩書房

   2000(平成12)年925日初版第1刷発行

底本の親本:「作品 第二十五號」作品社

   1932(昭和7)年51日発行

初出:「作品 第二十五號」作品社

   1932(昭和7)年51日発行

入力:大久保ゆう

校正:富田晶子

2018年11日作成

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