丘の上の家
田山花袋


 それは十一月の末であつた。東京の近郊によく見る小春日和で、菊などが田舎の垣に美しく咲いてゐた。太田玉茗君と一緒に湖処子君を道玄坂のばれん屋といふ旅舎に訪ねると、生憎不在で、帰りのほどもわからないといふ。『帰らうか』と言つたが、『構ふことはない。國木田君を訪ねて見ようぢやないか。何でもこの近所ださうだ。湖処子君から話してある筈だから、満更知らぬこともあるまい。』かう言つて私は先に立つた。玉茗君も賛成した。

 渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲つてゐて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れてゐるのが見え、その此方の下流には、水車がかゝつて頻りに動いてゐるのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持つた低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡つて、茶畑や大根畑に添つて歩いた。

『此処等に國木田つて言ふ家はありませんかね。』

 かう二三度私達は訊いた。

『何をしてゐる人です?』

『たしか一人で住んでゐるだらうと思ふんだが……。』

『書生さんですね。』

『え。』

『ぢや、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。』

 かう言つてある人は教へた。

 少し行くと、果して牛の五六頭ごろごろしてゐる牛乳屋があつた。『あゝ、あそこだ、あの家だ!』かう言つた私は、紅葉や栽込みの斜坂の上にチラチラしてゐる向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぽつねんと立つてゐるのを認めた。

 又少し行くと、路に面して小さな門があつて、斜坂の下に別に一軒また小さな家がある。『此処だらうと思ふがな。』かう言つて私達は入つて行つたが、先づその下の小さな家の前に行くと、其処に二十五六の髪を乱した上さんがゐて、『國木田さん、國木田さんはあそこだ!』かう言つて夕日の明るい丘の上の家を指した。

 路はだらだらと細くその丘の上へと登つて行つてゐた。斜草地、目もさめるやうな紅葉、畠の黒い土にくつきりと鮮かな菊の一叢二叢、青々とした菜畠──ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。

『國木田君は此方ですか。』

『僕が國木田。』

 此方の姓を言ふと、兼ねて聞いて知つてゐるので、『よく来て呉れた。珍客だ。』と喜んで迎へて呉れた。かれも秋の日を人懐しく思つてゐたのであつた。

『湖処子君ゐませんでしたか。何処へ行つたかな先生、今日はゐる筈だがな……。又、妹でも恋しくなつて帰つて行つたかも知れない。』若い私達には一種共通の処があつて、一面識でも十年も前から交際でもしてゐる人のやうに、心に奥底もなく、君、僕で自由に話した。

『好い処ですね、君。』

『好いでせう。丘の上の家──実際吾々詩を好む青年には持つてこいでせう。山路君がさがして呉れたんですが、かうして一人で住んでゐるのは、理想的ですよ。来る友達は皆な褒めますよ。』

『好い処だ……。』

『武蔵野つて言ふ気がするでせう。月の明るい夜など何とも言はれませんよ。』

 國木田君の清い、哀愁を湛へた眉と、流暢な純な言葉とは、私の心をすぐ捉へた。『あゝいふフレツシな文章が書けるのも尤だ。』かう少し話してゐる間に、私は思つた。

 弟の北斗君は、その時十八九で、紅顔の美少年で、私達の話すのを縁側に腰をかけたり、庭をぶらぶらしたり、ステツキを振り廻したりして黙つて聞いてゐた。縁側の前には、葡萄棚があつて、斜坂の紅葉や穉樹を透して、渋谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた。

 その家は六畳一間、そのつぎが二畳、その向うが勝手になつてゐて、何でも東京の商人が隠居所か何かに建てたものであるといふことであつた。室の隅に書棚、そこにはウオルヅウオルス、カアライル、エマソン、トルストイなどが一面に並んで、たしかゲエテの小さな石膏像が置いてあつた。一閑張の机の上には、『国民の友』『女学雑誌』などが載せてあつた。

 そこに──このさびしい丘の上の家に、かれは、お信さんにわかれた後の恋の傷痍を医してゐたのであつた。

 その時は何を話したか、今はすつかり忘れて了つたが、尠くとも若い心は、さはるものなくお互の会話の中に流れ合ひ混り合つて行つたに相違なかつた。ツルゲネフのことも話したらう。トルストイのことも話したらう。ハイネの詩やウオルズウオルスの詩のことも話頭に上つたらう。殊に玉茗君はその時分湖処子、嵯峨の屋などと共に、詩の方のチヤンピオンであつたので、詩についての話は、私より一層國木田君と共鳴したに相違なかつた。私達は日の暮れて行くのも忘れて話した。

 帰り支度をすると、

『もう少し遊んで行き給へ。好いぢやないか。』

 袖を取らぬばかりにして國木田君はとめた。

『今、ライスカレーをつくるから、一緒に食つて行き給へ。』かう言つて、國木田君は勝手の方へ立つて行つた。勝手の方では、下のその上さんがかれの朝夕の飯を炊いて呉れるのであつた。その上さんの名は忘れたが何でも磯といふ大工の嚊で、新宿で女郎をしてゐて、年が明けてそこに来て一緒になつたのであつた。『もう、飯は出来たから、わけはない。』かう言つて國木田君は戻つて来た。

 大きな皿に炊いた飯を明けて、その中に無造作にカレー粉を混ぜた奴を、匙で皆なして片端からすくつて食つたさまは、今でも私は忘るゝことが出来ない。

『旨いな、実際旨い。』かう言つて私達も食つた。

 帰りは月が明るかつた。私と玉茗君とは、渋谷の停車場の方へ急いで歩きながら、『面白い好い男だね。あんなさつぱりした人は見たことはない。』などと話した。

 それ以来、その丘の上の家は、私達のよく行くところとなつた。時の間に、私達の間には深い固い交際が結ばれた。國木田君も私の喜久井町の家をたづねて来れば、私も行つてはそこに泊つて来たりした。それに、その丘の上の家の眺めが私達を惹いた。

 柳田君をも私は其処に伴れて行つた。

 その丘の上の家の記憶は、私にはかなりに沢山にある。訪ねて行くと、國木田君は縁側に出て、『おーい。』と声をあげて、隣の牛乳屋を呼ぶ。そして絞り立ての牛乳を一二合取り寄せて、茶碗にあけて、それにコオヒイを入れて御馳走をした。

 何うかすると、何処かに行つてゐないこともあつた。さういふ時には、私はひとり上にあがつて、一二時間待つてゐたりなどした。ある時雨の降る日には、矢張留守ではあつたが、ふと見るとそこに読みたいと思つた二葉亭の『かた恋』が置いてある。で、私は一人そこにねそべつて、一日静かにそれを読んで、帰つて来た。『昨日は君は留守だつたが、「かた恋」があつたので、それを読んで、静かに君の家で日を暮した。いろいろなことを考へた。忘れられない一日だ、』こんな手紙をそのあくる日書いてやつた。

 丘の上の後の方には、今と違つて、武蔵野の面影を偲ぶに足るやうな林やら丘やら草藪やらが沢山にあつた。私は國木田君とよく出かけた。林の中に埋れたやうにしてある古池、丘から丘へとつづく路にきこえる荷車の響、夕日の空に美しくあらはれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原、野中に一本さびしさうに立つてゐる松、汽車の行く路の上にかゝつてゐる橋──さういふところを歩きながら、私達は何んなに人生を論じ、文芸を論じ、恋を論じ、自然を語つたであらうか。又いかに悲しいお信さんとの恋のいきさつを聞かされたであらうか。それを私は後に、『わかれてから』と言ふ小説の中に書いた。

 その丘の上の家には、湖処子の他に、山路愛山君が来た。愛山君は今でも渋谷にゐるが──その時と同じ家に住んでゐるが、そこからその丘の上の家はいくらもなかつた。愛山君はその総領の娘の何とかいふ七八歳になる児をよく伴れて来た。その時分も肥つて、がつしりしてゐた。『子供つて言ふものは、面白い観察をするものだ。今、こいつが風に向つて歩いて来ながら、「父さん、風が私の着物を捲つてしやうがない」と言つたが、ちよつと我々にはさういふ観察は出来ないね』などと言つて笑つた。(その山路君も死んだ!)

 玉茗君、柳田君、湖処子君などの感化があつたと見えて、その頃から、國木田君は例の『獨歩吟』の中にある詩をつくるやうになつた。『山林に自由存す』といふ詩も、『遠山雪』といふ詩も、『翁』も『去年の今日』も皆その丘の上の家で出来たのだ。

『春や来し、冬やのがれし』といふ詩の出来たばかりのを、私は其処で朗吟してきかせられたのを覚えてゐる。

 夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。思ふに、國木田君に取つても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るゝことが出来ないほど印象の深いものであつたらうと思ふ。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、さういふものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であつた。

底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社

   1991(平成3)年525日第1刷発行

底本の親本:「田山花袋全集 第一五巻」文泉堂書店

   1974(昭和49)年3

※「ウオルヅウオルス」と「ウオルズウオルス」、「皆」と「皆な」の混在は、底本通りです。

入力:大久保ゆう

校正:noriko saito

2018年727日作成

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