文房具漫談
谷崎潤一郎



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私は久しい以前から万年筆を使つたことがなく、日本紙と西洋紙と、二た通り原稿用紙を作つておいて、日本紙の時は毛筆、西洋紙の時は鉛筆を使ふやうにしてゐる。これは趣味と云ふこともあるのだが、私の場合は、寧ろ実際の上の必要が然らしめたのである。元来万年筆は墨を磨つたり含ませたりする手間がないだけ、毛筆よりはずつと速く書ける訳だが、不幸にして私には、此の万年筆の持つ長所が全く何の役にも立たない。なぜかと云ふと、私は非常に遅筆であつて、一行書いては前の方を読み返したり、立ち上つて室内を歩き廻つたり、茶を飲んだり一服吸つたりして、徐ろに考へながら後をつゞける。だから墨を磨るとか含ませるとか云ふ手数は、全然問題でない。却て何かさう云ふ仕事があつた方が、空想の時間を遣るのに都合がよい。つまり、手が間に合はぬ程文章が早く書ける人は、万年筆の長所を利用することが出来るが、私のやうな者には全体を書き上げる時間の上から云つて、万年筆も毛筆も選ぶ所はないのである。


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のみならず、私には又万年筆の短所が非常な害をする。と云ふのは、万年筆はなるべく軽く持つやうにして、すら〳〵と細く書くのに適するやうだが、私は一字一字力を入れて太く大きく、原稿用紙のコマの中へ字が一杯に収まるくらゐに書くのである。佐藤春夫なども太い字を書く方で、昔はよくGペンの腐り加減になつた、へたばつた奴を使つてゐたが、直きに折れてしまつたり、股が開き過ぎてインキを吸はぬやうになつたりして、ちやうど使ひ頃の間と云ふものは、ほんの僅かである。万年筆にも太く書けるのがないことはないが、しかし毛筆やGペンの柔かいもの程自在でない。それに、今も云ふやうに力を入れて書く段になると、万年筆では、どうしても抵抗が強く、知らず識らず手を疲らしたり肩を凝らしたりする。次ぎにペン字の不便な点は、インキの乾きが遅いために吸取紙を使ふ必要のあることである。尤もこれも、細く軽く書く人にはさまで必要がないのであらうが、私などは、書いた傍から一行一行吸ひ取らせて行かないと、手頸や原稿用紙を汚すことになる。分けても困るのは消しをした場合である。私は消しをした部分は、他人に読まれないやうに真つ黒に塗り潰す癖があるのだが、万年筆の細い線でまんべんなく塗り潰すのは甚だ手数がかゝる上に、何度も〳〵重ねて塗らないと、下の字が透いて見えるのである。ところで、やつと見えないやうに塗れたかと思ふと、今度はインキがギラ〳〵浮いて容易に乾かない。仕方がないから吸取紙をあてる。すると又下の字が見えて来る。それではならぬから、又塗り潰す。斯くの如くにして、しまひには原稿用紙に穴をあけてしまふことが屡〻である。


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 以上の弊害を考へて、扨試みに毛筆を使つた場合を想像して見給へ。これらの不便は総べて除かれるのである。先づ文字が思ふやうに太く書けるのは云ふ迄もないとして、いくら力を入れて書いても、柔かで、抵抗がないから、肩を痛めると云ふ心配が少い。が、それより何より実に気持ちがせいせいするのは、吸取紙と云ふ厄介なものが机辺から姿を消してしまふ一事である。私は塗り潰しに使ふ太い筆を別に用意しておいて、書き損ふと、一遍にずうツと塗り潰す。万年筆だと何度も〳〵塗る所を、毛筆だと上から下へ一度にぐツと引けば済んでしまふ。墨さへ濃かつたら、めつたに下の字が透いて見えるやうな憂ひはない。尚、毛筆には、書いてゐる時に全く音がしないと云ふ長所がある。ペンや万年筆は、(これも力を入れて書くからだが)へんにガサガサと騒がしい音がする。鉛筆の音はスラスラして、さうイヤでないが、あの金属性の光つた先が紙に引つかゝる音は、決して耳に快いものではない。欧文だとさうでもないであらうが、漢字は画が複雑な上に、直線を幾度にも屈曲させてつゞける場合が多いので、自然、余計にあゝ云ふ音が出るのである。私の知人に日本剃刀は音がしないが、西洋剃刀はケンケン鳴るので気持ちが悪いと云つた人があるが、ペンと毛筆の比較に於いても同じことが云へる。ま、あのくらゐな音は何でもないかも知れないけれども、深夜、一室に閉ぢ籠り、カタリと云ふ物音もしない中で、静かに想を練り筆を運ぶ者に取つては、実にあれだけの些細な音でも異様に耳につくのである。そして、時にはあの響きが随分神経を疲らせたり昂ぶらせたりすることがある。然るに毛筆は、どんなに急いで書いたにしても、絶対に音を立てない。従つて心が落ち着き、頭脳が冴え渡るやうに思ふ。


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 毛筆を使ふ場合には、原稿用紙も日本紙の方が便利であることは云ふ迄もないが、日本紙はそれ以外にもいろいろ都合のいいことがある。第一、私は関西の郊外に住んでゐるので、原稿を記者に手渡しすることは殆んどない。いつも郵便で送り届けるのであるが、そのためには、目方のかゝらない、嵩張らない紙質で、強靭なものゝ方がよいのである。それに私は、非常に書き潰しをする方で、統計を取つた訳ではないからハツキリしたことは云へないが、一枚について少くも四五枚は無駄をする。だから百枚の物を書くには、四五百枚以上の紙を用意してかゝる。それでも筆が思ふやうに運ばない時は、仕事が捗らないのに反比例して、用意した紙は見る〳〵減つて行き、紙屑籠が直きに氾濫するのであるが、執筆中は女中を呼んで籠をあけさせるのさへ億劫おくくふなものであるから、机の周りが散らかつて仕方がない。そんな場合に、日本紙の紙屑は嵩張らないだけに氾濫する度数も少く、籠をあけに行く手数が大分省ける。又旅先へ仕事を持つて行く時など、五百枚千枚といふ西洋紙を持ち運ぶのは厄介だけれども、日本紙だと手軽に運搬出来るのである。


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 用紙を印刷所へ頼んで印刷させると、刷る度毎に、紙質、大きさ、インキの色合ひなどを、いくらかづゝ違へて来る。私は以前、冴えた黄色で刷らせたが、ルラを充分に洗つてくれないので、黄色がへんに濁つたものになり、弱つたことがあつた。で、いろいろ考へて、現在では、日本紙の用紙だけは家で手刷りにすることにしてゐる。これだと、紙も自分で紙屋から買つて来、絵の具も自分で調合するので、間違へると云ふ恐れがない。万一間違へたとしても、そこは人間、勝手なもので、自分の手落ちならまあ仕方がないとアキラメがつく。手刷りは面倒のやうだけれども、刷ると云ふことに面白味もあり、一遍に千枚も二千枚も作る必要はないのだから、日に五十枚百枚ぐらゐづゝ、暇に任せて刷つて行けばいいし、自分でやるのがイヤだつたら、子供や女中に教へ込んで置けば、訳はないのである。そして、いつ原稿用紙が払底しても、紙さへあれば、立ちどころに百枚や二百枚は刷ることが出来る。紙も特別な紙でない限り、近所の紙屋へ駈けつければ、大概は間に合ふ。だから書き潰しが予想外に多かつた時などでも、用紙に不自由することは殆んどない。絵の具は、以前は製図用の粉絵の具を用ひ、次ぎには山梔くちなしの実を煎じて用ひたが昨今は紅殻を用ひてゐる。製図用の染料は、自分の好きな色に調合するのが面倒である上に、万一払底した場合、大阪か神戸迄出かけないと、郊外の小さな町などでは、簡単に手に入らない。山梔の実の乾したのは、何処の薬屋でも売つてゐるから、手に入れるのは容易であり、色もあのまゝで、調合せずに使へるけれども、煎じると云ふ手数があつて、且最大の欠点は褪色し易いことである。専門家に聞くと、山梔で染めたものは、日光に曝しておいたら一と月も立たぬうちに跡形もなく消えてしまふと云ふ。私は近頃迄それを知らずにゐたのだが、さう聞いてから山梔を止めにした。活字にするだけのことならいいが、長く保存しておくのに、罫が消えてしまふのでは困る。紅殻もやはり植物性の染料であらうから、幾分褪色はするだらうけれども、山梔よりは色がずつと濃いのだから、跡形もなくなると云ふやうなことはなさゝうに思へる。それに、これは粉末を水で融けばよいので、煎じるには及ばないし、関西地方では普通一般に家屋の塗料に使ふから、どんな田舎でも売つてゐるのである。


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 旅行には万年筆の方が便利のやうに誰しも思ふだらうけれども、万一片田舎で故障が起つたり、紛失したり、インキが切れたりした時どうするか。これに反して、今日どんな辺鄙な地方の旅館でも、座敷に硯箱を備へ付けてない家は、一軒もないのである。即ち水のある所なら、筆と墨には不自由をしない。原稿用紙にしても然りで、私は長逗留をする時は、常に版木を鞄へ入れて持つて行く。これさへあれば、紅殻も紙も、旅先で購へる。どんなに書き潰しをしても安心である。


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 鉛筆は、下へカーボン紙を入れて、コツピーを取る必要のある時に用ひることにしてゐる。これは、少し音がするのと、抵抗が強いのと、適当な鉛筆削りのないのが欠点だけれども、(此の頃バリカン式と云ふ鉛筆削りが出来たので大分助かるが、デスクへ釘付けにする在来の奴は、無風流で困る。)消しゴムが使へると云ふ便利があり、吸取紙の必要がなく、机や手を汚すことは最も少い。そして、固くならずに、安易な気持ちで筆を執るには、鉛筆が一番いいやうである。


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 日本紙や毛筆を使ふと、多少不経済ではあるが、われわれに取つては絵かきの絹や絵の具に相当する商売のもとでゞあるから、それに金がかゝるのをぐづぐづ云つては、冥利につきると云ふものである。況んや絹や絵の具に比べて、比較にならぬ安価な物たるに於てをやである。

底本:「日本の名随筆27 墨」作品社

   1985(昭和60)年125日第1刷発行

底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第二〇巻」中央公論社

   1968(昭和43)年6

初出:「文藝春秋」

   1933(昭和8)年10月号

入力:大久保ゆう

校正:noriko saito

2020年328日作成

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