一つ身の着物
壺井栄



 赤ん坊の名を右文といった。生後一年で孤児になり、私の家へくることになった。赤ん坊のひいおばあさんにあたる人からこの話をもちこまれる前に、私たち夫婦はもうその覚悟でいたのだが、いよいよとなると、さまざまな難問題が湧いてきた。しかし、だからといって肩をはずすわけにも行くまいと考えられたので、とにかく引き取ろうということになった。その中どこからか救いの手がのびてくるだろうという空だのみもあったし、また一方では、赤ん坊という新鮮な存在が、もうとっくに初老をすぎた私たちの、沈滞した家庭生活を若返らせもしようかという、とてつもない希望も抱かせられた。

「うちに赤ん坊ができるなんて、なかなかいいじゃないか。このたび老妻に男の子が生れました──とみんなに通知して、一つお祝いをして貰うんだね。」

 夫がそういうと、娘の正子までがのり気になって、本気な顔でいった。

「そうよ、そうよ、ほんとにうちではこれまでよその赤ちゃんにばかりお祝いしてるんですもの、今度はそうしましょうよ。みんな驚くわよ。ねえお母さん、わたしが育てるからさ。うちに生れた子だと思ったら、育てるのあたり前ですもの。」

 まるで私一人が二の足でもふんでいるようないい方に、私はにやりとし、

「そりゃそうさ。うちに生れたと思えばいいんだけどね、なかなかそうは思えないからね。」

「なぜ。」

「だって、どっちの子供さ。お母さんが生んだつもりになるのかい。それとも正子かね。」

「あら、失礼ね。」

 正子は顔赤らめてきゃっきゃっと笑う。実子のない私たちは、この正子をも小さい時から育てたのである。正子は私の姪にあたる。結果として生母の生命を奪ってこの世に生れてきた正子を私たちが育てることになったのは、正直にいって三分の迷惑と七分の義理からであったが、お父さんお母さんと呼ばれて一つ屋根に暮している中に、いつか義理や迷惑は消えてしまって、自然なじょうに結ばれた平穏無事な親と子になっている。それどころか正子はもう厳然たる存在で、私たちの家庭で正子の部門を占めていた。正子をぬいては、まったく私たちの生活は形を変えねばならぬほど、彼女は私たちにとって有りがたい存在だった。あまり健康でない私は、朝寝坊の寝床の中で台所の朝の音を聞きながら、隣りの夫に、

「ほんとに正子がいればこそよ。もう二十三ですからね。あなたもあんまりがみがみいわないでよ。正子がいなければ私たちは誰からもお父さんお母さんと呼ばれなかったのよ。」

 夫が正子をこっぴどく叱りつけたりした翌朝など、私はよくこんなことをいった。すると夫は一先ず私の言葉を素直にうけ、

「わかったよ、わかったよ、しかしね、がみがみいうのは本当は隔てがないからいうんだがね。分らないかなア。それにお前は俺だけが口やかましいようにいうけれど、お前だっていいかげんいってるよ。」

「そりゃあ私は自分のつながりですもの、聞く方も流せるのよ。そこへゆくとあなたは謂わば義理の中よ。」

「じょうだんじゃない。二十年も一しょに暮して、義理もへちまもあるかい、愛情なんてものはね、ぜったいにそんなものじゃないよ。もしも正子がそんなふうに考えてるなら、俺ア本当に怒るよ。」

 いつもの口ぐせだった。しかしそれがただ口ぐせだけでないのを私は知っていた。真実の心を割ってみたならば、血のつながっている私よりも、夫の方が純粋な情愛を正子に抱いているかもしれないと思うことがよくある。しかし若い正子はそれを見抜くまでに到っていない。だが正子としては、両親の愛情を秤にかけてみなければならないほど複雑にはならなくてもよいらしい。父親に叱られてすねてみることはあっても、結局は一人っ子の苦労以外の苦労はあまり知らずに育ってしまったのだ。彼女の日頃の言葉の中には、一人っ子の嘆きがいつもあった。だから今、赤ん坊がくるかも知れぬということになると、彼女は単純に喜んでしまった。

「右文なんてめずらしい名前ね。右文ちゃんなんて呼びにくいから、私、右坊って呼ぶわ。でも、右坊もへんね。何てよぼうかな。」

 正子は楽しそうに眼を細くしていた。それに水をぶっかけるように私はわざといってみる。

「そんなことよりもさ、大へんなんだよ正子、その右坊という子がお前普通の子ならいいけれど、発育のおくれた、手のかかる子らしいよ。」

「いいわよ。」

「いいわよというがね、子育てなんて、そんな生やさしいことじゃないのよ。正子で身にしみたからね。」

「じゃあ、ことわるっていうの。」

「そんなわけには行きそうもないから、ためいきなんだよ。」

「そんなら仕方がないじゃないの。私、弟ができたと思って可愛がってやるわ。ご恩返しにね。」

「だれのご恩返しさ。」

「お母さんのよ。」

「あ、そりゃ有りがたい。そんなら正子に頼むわね。」

「大丈夫よ。夜も抱いてねるわよ。」

「やれやれ。」

「おしめの洗濯なんて、ぜったいにお母さんの手かりないわ。朝の中にちょこちょこっとすませるからいい。」

「ああ、ああ、かんたんだね。」

「大丈夫。だって私よりも若い人が子供うんでるもの。私は子供好きですもの、ほんとに大丈夫と思う。どこの赤ちゃんでもすぐつくんだもの。」

「それでは万事正子に任せて、私はおばあちゃんてことになろうかね。」

「それでいいわ。私の年で二人くらいのお母さんの人もあってよ。」

 正子はなかなか積極的だった。彼女がのり気になってくれることは、何よりも有りがたかった。赤ん坊は私の兄の孫にあたるので、正子にとっても従弟ちがいというわけだから、将来力になり合うのも不自然ではないと、ひそかに私は考えた。だが、それを見届けるだけの生命が私にあるかどうかの自信はなかった。しかし、見届けねばならぬこともないだろうし、見届けたいために引きとるのでは尚更なおさらないのだから、精一ぱいに育てさえすれば、あとは又あとの風が吹くだろう。


 秋晴れの暖かい日、私たちは夫婦づれで赤ん坊を引きとりに出かけた。赤ん坊は横浜に母と二人で暮していたのだが、母親の死後親戚に預けられていた。八歳をかしらに四人の男の子があるというその仮り親の家でのひと月足らずのあけ暮れは赤ん坊にとっては憂うつ極まるものであったらしい。つまり、四人の幼い男の子たちは、仔犬を可愛がると同じように赤ん坊をかまったのでもあろうか。赤ん坊はすっかり気むずかしやになっていた。その一か月の仮りの母は、それが赤ん坊の天性ででもあるようにいった。

「右文ちゃんはとても子供ぎらいでしてね、子供をみると泣き出すんですよ。」

 しかし大人をみても笑いはしなかった。泣きも笑いもせず、ただ物憂げな力ないまなざしで、私たちを見た。何の意志も表せないそのまなざし、四人のいたずらっ子にとりまかれた生活から、大人ばかりの家につれてゆかれるとも知らず、他人の手から手へ小荷物のように渡される一人の赤ん坊。

「右文ちゃん、さあ、今日からはこの小母ちゃんがお母さんよ。」

 泣きも嘆きもされず、赤ん坊は私の手の中に渡された。ひと月前にみたときよりもやせてしぼんでいた。抱いてみてその軽さにもびっくりせずにいられなかった。焼跡のでこぼこ道を歩いて帰りながら、私は自然な動作で背の子を軽くゆさぶり、母親らしく話しかけている自分の姿を不思議に思わずにはいられなかった。不思議は私だけでなく、夫までが神妙に、父親らしくわきにつれ添っているのだ。しかもおしめの包みを片手に下げている。

「私たちは、ほんとに姪や甥の育てぶにがあるのね。」

「生めないんだから、それぐらいのことあってもいいのかもしれんな。」

「そうかもしれない。だけどこうして無理矢理──でもないけれどとにかく強引に背負わされてさ、さあ今日からお母さんだよと宣告されても、正直なところまだ愛情よりも不憫ふびんさの方が強い感じね。それが可哀そうだと思わない?」

「ふーん。」

「これがお母さんだよなんて、ずい分越権ですよ。」

 錆トタンの掘立小屋が点々と散らばっているその間を縫って、焼跡の通路はでこぼこしながら往来へのびている。焼トタンに囲まれた小さな小屋の人たちが、思い思いの足跡でふみ固め、つないで行く太々しい記録なのだ。五つと七つ位の男の子が地べたに足を投げ出してぼんやりとこちらをみている。光りのない目の色、変った人種かと思うほど赤黒い皮膚の色。そのそばに母親らしいやはり色の黒い女が、野天でさつま芋を切っている。俎板まないたは柱のような四角な木切れだった。人も家も、大人も子供も、俎板もさつま芋も、どす黒い煙にいぶされたような色だった。畳にすれば僅か二枚ほどのその哀れな住居の前を人々は不遠慮に歩いている。見られることも見ることも何とも思っちゃいられぬ風景である。しかしあのはだしの男の子には母親がある。

「空襲では助かって、病気で死ぬなんて、順ちゃんも死にきれなかったでしょうね、その子を私が育てるなんて、不思議だ。」

 私はため息をした。死んでいった若い、そして貧しかった母の名を順子という。彼女は死の床で私たちの名を呼び赤ん坊を頼むといったそうである。

「まったく死にきれなかったろう。空襲で助かって、終戦を迎えたとたんに死ぬなんて、要するに戦争で死んだようなものさ。金でもあって闇のものでもうんと食ってれば抵抗力もあったろうからな。」

 栄養不足の哀れな若い未亡人は、ひょいとつまずいて倒れたきり、立ち上る力がなかったのだ。あたら若い生命を飢ですり減らすなど、何という哀しさだろう。しかもこれからさき、八千万の日本人は八人に一人の餓死者を出すだろうと新聞は報じていた。八人に一人、この迫りくる飢餓線を、赤ん坊もろともふみ越えてゆけるかどうか、私は思わず背の子をふりかえった。赤ん坊は寝息もかすかに、ぐったりと頸を横に曲げていた。晴れた秋空の下では、その顔色は余計に黄色く、くろずんで見える。ゆきつく先も知らず、流れる水のように柔順なその姿のどこに生後一年の溌剌はつらつさが宿っているのだろうか。

「あたら男の子よ。ほしくてほしくてならない人もあるだろうに、ただ一片の義理と不憫さの中で育つなんて、可哀そうよ。」

 私の馬鹿正直さは、この子を可愛いとも、可愛らしいともいえなかった。

「今に可愛くなるよ。よちよち歩き出したり、片言をいい出したりするようになれば、親子の情なんて自然に湧いてくるさ。」

「それはそうよ。私が辛がってるのは今の気持なの。この出発が哀しいのよ。愛情の中に迎えられていないということ。私なんて、ずい分薄情なんだわ。」

 私は涙ぐんでいた。

「正直なんだろ。」

 夫がとりなすようにいう。

「どうだかね。とにかく嘘でない気持なのよ。私、この子を可愛いとはまだ思えないんだもの。──でも正子で助かるわ。正子は無条件らしいから。それでかんべんしてもらおう。」

「俺たちだって、何も条件なんかないぜ。」

「あ、そうだわ。そうね。正子じゃないけど、うちに生れたと思えばそれでいいんだわ。たとえ憎くたってそれでいいんだから。」

「そうさ、ぽかっと男の子が出来るなんていいよ。」

「あんたも正子も、まるで棚の上の牡丹餅ぼたもちぐらいに考えてるのね。」

「そう考えた方が楽しいよ。」

「おんぶするのは私ですからね。」

「そう深刻に考えるなよ。」

 家へ帰ると正子は玄関の外で待ちうけていた。気が軽くなって私は思わず「ただいま。」と若々しくいった。

「さあさあ、右文ちゃん、お前さんのうちだよ。」

 私の手は子育てになれた女の手つきをしておぶい紐を解いていた。するするとすべらせるようにして茶の間のまん中に坐らせると、赤ん坊は急におびえた声を出し両手をひろげて私にかじりついてきた。

「あ、よしよし、よしよし。」

 抱きよせて背を撫でてやると、やっと安心したらしい。だが夫にも正子にもゆこうとしなかった。僅か三時間ほど馴染なじんだだけで、これだけの信頼を見せる右文の動作はいたく私の心をうった。部屋の隅で子守唄を歌ってやると、すぐ眠った。二十年ぶりの子守唄だった。それは正子に歌ってやったと同じ子守唄だった。正子がしのび足でうしろからそっとのぞいている。

「あしたになれば正子に馴れるよ。おっぱいをやったり、抱っこしたり、それを正子が受け持ったら、たちまち正子っ子になるわよ。」

 少しがっかりしているような正子の機嫌をとるように私はいった。

「疲れたでしょお母さん、おんぶして肩はらなかった? もみましょうか。」

 きゅうんとこたえて私はいそいで次の間にゆき、座ぶとんの隅かけに寝かせつけた。

「何しろ二十年ぶりだもの、肩もはるさ。」

 正子はやはりついてきて、寝かせ方をみている。

「あしたから、私がするわ。」

「ありがとう。」

 私はもうかくそうとせずに、正子の前で目をしばたたいた。

「あとでね正子、右文のおべべを縫うの手伝っておくれよ。何にも着がえもってないのよ。」

「あら、なんにも? 一枚も?」

「そう、これから仕度にとりかかるという季節だったから、無理もないさ。去年のものは駄目だもの。小さくて、その上スフや人絹だものね。」

あわせなの。」

「ああ、袷もじゅばんもよ。一つ身を又縫うなんてことがあろうとは、思わなかったね。」

「これも二十年ぶり?」

「そうとも。でもね、赤ん坊の着物ってものは……」

 のどがつまって切れた言葉を、私はあわててつぎ足した。

「たのしみなものさ。」

 縫っている中に、だんだん愛情とからみついてきた正子の小さい時のことを思い出したのである。

底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社

   1994(平成6)年825日第1刷発行

底本の親本:「壺井栄全集 第五巻」筑摩書房

   1968(昭和43)年9

入力:大久保ゆう

校正:noriko saito

2018年527日作成

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