人魚の姫
ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen
矢崎源九郎訳



 海のおきへ、遠く遠く出ていきますと、水の色は、いちばん美しいヤグルマソウの花びらのようにまっさおになり、きれいにすきとおったガラスのように、すみきっています。けれども、そのあたりは、とてもとても深いので、どんなに長いいかりづなをおろしても、底まで届くようなことはありません。海の底から、水のおもてまで届くためには、教会のとうを、いくつもいくつも、積みかさねなければならないでしょう。そういう深いところに、人魚たちは住んでいるのです。

 みなさんは、海の底にはただ白い砂地があるばかりで、ほかにはなんにもない、などと思ってはいけません。そこには、たいへんめずらしい木や、草もえているのです。そのくきや葉は、どれもこれもなよなよしています。ですから、水がほんのちょっとでも動くと、まるで生き物のように、ゆらゆらと動くのです。

 それから、この陸の上で、鳥が空をとびまわっているように、水の中では、小さなさかなや大きなさかなが、そのえだのあいだをすいすいとおよいでいます。

 この海の底のいちばん深いところに、人魚の王さまのお城があるのです。お城のかべは、サンゴでつくられていて、先のとがった高い窓は、よくすきとおったこはくでできています。それから、たくさんの貝がらがあつまって、屋根になっていますが、その貝がらは、海の水が流れてくるたびに、口をあけたりとじたりしています。その美しいことといったら、たとえようもありません。なにしろ、貝がらの一つ一つに、ピカピカ光る真珠しんじゅがついているのですから。その中の一つだけをとって、女王さまのかんむりにつけても、きっと、りっぱなかざりになるでしょう。

 そのお城に住んでいる人魚の王さまは、もう何年も前におきさきさまがなくなってからは、ずっと、ひとりでくらしていました。ですから、お城の中のご用事は、お年をとったおかあさまが、なんでもしているのでした。おかあさまは、かしこい方でしたが、身分のよいことを、たいへんじまんにしていました。ですから、自分のしっぽには、十二もカキをつけているのに、ほかの人たちには、どんなに身分が高くても、六つしかつけることをゆるさなかったのです。でも、このことだけを別にすれば、どんなにほめてあげてもよい方でした。わけても孫むすめの、小さな人魚のお姫さまたちを、それはそれはかわいがっていました。

 お姫さまは、みんなで六人いました。そろいもそろって、きれいな方ばかりでしたが、なかでもいちばん下のお姫さまがいちばんきれいでした。はだは、バラの花びらのように、きめがこまやかで美しく、目は、深い深い海の色のように、青くすんでいました。でも、やっぱり、ほかのおねえさまたちと同じように、足がありません。どうのおしまいのところが、しぜんと、さかなのしっぽになっているのでした。

 一日じゅう、お姫さまたちは、海の底の、お城の中の大広間であそびました。広間のかべには、生きている花がいていました。大きなこはくの窓をあけると、さかなたちがおよいではいってきました。ちょうど、わたしたちが窓をあけると、ツバメがとびこんでくるのと同じように。さかなたちは、小さなお姫さまたちのそばまでおよいできて、手から食べ物をもらったり、なでてもらったりしました。

 お城の外には、大きなお庭がありました。お庭には、火のように赤い木や、まっさおな木が生えていました。そういう木々は、くきや葉を、しょっちゅうゆり動かすので、木の実は、金のようにかがやき、花は、燃えるほのおのようにきらめきました。底の地面は、とてもこまかい砂地になっていましたが、いおうのほのおのように、青く光っていました。

 こうして、あたりいちめんに、ふしぎな青い光がキラキラとかがやいていましたので、海の底にいるような気がしません。頭の上を見ても、下を見ても、どこもかしこも青い空ばかりで、かえって、空高くにうかんでいるような気がしました。風がやんでいるときには、お日さまを見ることもできました。お日さまは、むらさき色の花のようで、そのうてなから、あたりいちめんに光が流れ出てくるように思われました。

 小さなお姫さまたちは、お庭の中に、自分々々の小さい花壇かだんを持っていました。そこでは、自分の好きなように、土をほったり、お花を植えたりすることができました。ひとりのお姫さまは、花壇をクジラの形に作りました。もうひとりのお姫さまは、かわいい人魚の形にしました。ところが、いちばん下のお姫さまは、お日さまのようにまんまるい花壇を作って、お日さまのように、赤くかがやく花だけをうえました。

 このいちばん下のお姫さまは、すこしかわっていて、たいへんもの静かな、考え深い子供でした。おねえさまたちが、浅瀬あさせに乗りあげた船からひろってきた、めずらしいものをかざってあそんでいるようなときでも、このお姫さまだけはちがいました。お姫さまは、ずっと上のほうにかがやいているお日さまに似た、バラのように赤い花と、それから、美しい大理石の、たった一つの像だけを、だいじにしていました。その像というのは、すきとおるように白い大理石にほった、美しい少年の像で、あるとき、難破した船から、海の底へしずんできたものだったのです。

 お姫さまは、この像のそばに、バラのように赤いシダレヤナギをうえました。ヤナギの木は、いつのまにか美しく、大きくなりました。若々しい枝は、その像の上にかぶさって、先は青い砂地にまでたれさがりました。すると、枝が動くにつれて、そのかげがむらさき色にうつって、ゆらめきました。そのありさまは、まるで、枝の先と根とが、たがいにキスをしようとして、ふざけあっているようでした。

 お姫さまたちにとっては、上のほうにある人間の世界のお話を聞くことが、なによりの楽しみでした。お年よりのおばあさまは、船だの町だの、人間だの動物だのについて、知っていることを、なんでも話してくれました。そのお話の中で、お姫さまたちが、なによりもおもしろく、ふしぎに思ったのは、陸の上では、花がよいかおりをして、におっているということでした。むりもありません。海の底にある花には、なんのにおいもないのですからね。それからまた、森はみどりの色をしていて、木の枝と枝とのあいだに、見えたりかくれたりするさかなたちは、美しい、高い声で、楽しい歌をうたうということも、ふしぎに思われました。おばあさまがさかなと言ったのは、じつは、小鳥のことでした。なぜって、そうでも言わなければ、まだ鳥を見たことのないお姫さまたちには、どんなに説明しても、わかるはずがありませんからね。

「おまえたちが、十五になったらね」と、あるとき、おばあさまが言いました。「海の上に浮びあがることをゆるしてあげますよ。そのときには、明るいお月さまの光をあびながら、岩の上にこしをおろして、そばを通っていく大きな船を見たり、森や町をながめたりすることができるんですよ」

 つぎの年には、いちばん上のお姫さまが十五になりました。あとのお姫さまたちは、年が一つずつ下でした。ですから、いちばん下のお姫さまが、海の底から浮びあがって、わたしたち人間の世界のありさまを見ることができるようになるまでには、まだまだ五年もありました。

 そこで、お姫さまたちは、はじめて海の上に浮びあがった日に見たことや、いちばん美しいと思ったことを、帰ってきたら、妹たちに話そうと、たがいに約束やくそくしあいました。なぜって、みんなは、もう、おばあさまのお話だけでは満足できなくなっていましたからね。お姫さまたちが人間の世界について知りたいと思うことは、とてもとてもたくさんあったのです。

 とりわけ、いちばん下のお姫さまは、海の上の世界のながめられる日を、だれよりもずっと強く待ちこがれていました。それなのに、いちばん長いあいだ待たなければならないのです。けれども、お姫さまは、もの静かな、考え深いむすめでした。幾晩いくばんも幾晩も、開かれた窓ぎわに立って、さかなたちがひれしっぽを動かしながらおよいでいる、まっさおな水をすかして、上のほうをじっとながめていました。すると、お月さまやお星さまも見えました。その光は、すっかり弱くなって、ぼんやりしていましたが、そのかわり、水をとおして見ていますので、お月さまもお星さまも、わたしたちの目にうつるよりは、ずっと大きく見えました。

 ときには、黒い雲のようなものが、光をさえぎって、すべっていくこともありました。それは、頭の上をおよいでいくクジラか、でなければ、大ぜいの人間を乗せている船だということは、お姫さまも知っていました。でも、船の中の人たちは、美しい小さな人魚のお姫さまが、海の底に立っていて、白い手を、船のほうへさしのべていようとは、ゆめにも思わなかったことでしょう。

 さて、いちばん上のお姫さまは、十五になったので、海の上に浮びあがってもよいことになりました。

 このお姫さまが、海の底に帰ってきたときには、妹たちに話したいと思うことを、それはそれはたくさん持っていました。お姫さまの話によりますと、いちばん美しかったのは、お月さまの明るい晩、静かな海べの砂地にころんで、海岸のすぐ近くにある、大きな町をながめたことでした。その町には、たくさんの光が、何百とも知れない星のようにかがやいていたということです。それから、音楽に耳をかたむけたり、車のひびきや、人々のざわめきを聞くのもすてきなことでしたし、また、たくさんの教会のとうをながめて、かねの鳴るのを聞くのも楽しかったそうです。いちばん下のお姫さまは、まだまだ、しばらくのあいだ、海の上へ浮びあがっていくことができないだけに、だれよりもいっそうあこがれて聞きいりました。

 ああ、いちばん下のお姫さまは、どんなに熱心に、そういうお話に耳をかたむけたことでしょう! それからというものは、夕方になると、あけはなされた窓ぎわに立って、青い水をすかして、上のほうを見あげるのでした。そして、そのたびに、いろいろなもの音のするという、大きな町のことを、心に思ってみるのでした。すると、そんなときには、教会の鐘の音までが、遠い海の底の、自分のところまで、ひびいてくるような気がしてならないのでした。

 一年たつと、二番めのお姫さまが、海の上に浮びあがって、どこへでも好きなところへおよいでいってよい、というおゆるしをいただきました。

 お姫さまが浮びあがったとき、お日さまがちょうどしずむところでした。そのながめが、このうえもなく美しく思われました。空いちめんが金色にかがやいて、と、これは、お姫さまのお話です。雲の美しいこと、ほんとうに、そのありさまは、言葉などでは言いあらわすことができません。雲は赤く、スミレ色にもえて、頭の上を流れていきました。けれども、その雲よりもずっとずっと速く、ハクチョウの一むれが、長い白いベールのように、一羽いちわ、また一羽と、波の上を、今しずもうとしているお日さまのほうにむかって飛んでいきました。お姫さまも、そちらのほうへおよいでいきました。しかし、まもなく、お日さまが沈んでしまうと、バラ色のかがやきは、海の面からも雲の上からも消えてしまいました。

 また一年たつと、今度は、三番めのお姫さまが、海の上に浮びあがっていきました。

 このお姫さまは、みんなの中で、いちばんだいたんでしたから、海に流れこんでいる、大きな川を、およいでのぼっていきました。やがて、ブドウのつるにおおわれた、美しいみどりのおかが見えてきました。こんもりとした大きな森のあいだには、お城や農園が見えたりかくれたりしています。いろんな鳥がさえずっているのも聞えてきました。お日さまがあまり暑く照りつけるので、何度も何度も水の中にもぐっては、ほてった顔をひやさなくてはなりません。

 小さなに来ると、人間の子供たちが、大ぜい集まっていました。みんなまっぱだかで、水の中をピチャピチャはねまわっていました。人魚のお姫さまも、子供たちといっしょにあそびたくなりました。ところが、子供たちのほうでは、びっくりして、げていってしまいました。そこへ、小さな黒い動物が一ぴき、やってきました。じつは、それはイヌだったのです。でも、お姫さまは、それまでに、イヌというものを見たことがありません。それに、お姫さまにむかって、イヌがワンワンほえたてたものですから、お姫さまはすっかりこわくなって、また、もとの広々とした海へもどってきました。それにしても、あの美しい森や、みどりの丘や、それから、さかなのしっぽもないのに、水の中をおよぐことのできる、かわいらしい子供たちのことは、けっして忘れることができませんでした。

 四番めのお姫さまは、それほどだいたんではありませんでした。ですから、広い広い海のまっただ中に、じっとしていました。それでも、お姫さまの話では、そこがいちばん美しいところだったということです。どちらを向いても、何マイルも先まで見わたすことができました。空は、大きなガラスのまる天井てんじょうかと思われました。ときどき目にうつる船は、ずっと遠くに、カモメのように見えました。ふざけんぼうのイルカは、トンボ返りをうっていました。そうかと思うと、大きなクジラが、鼻の穴から水をきあげていました。そうすると、まわりに、何百ものふんすいができたように見えました。

 今度は、五番めのお姫さまの番になりました。お誕生日たんじょうびが、ちょうど冬の最中でしたから、このお姫さまは、おねえさまたちとはちがったものを見ました。海は、すっかりみどり色になっていて、まわりには大きな氷山がうかんでいました。その氷山の一つ一つが、真珠のようにかがやいて、人間のたてた教会の塔よりも、ずっとずっと大きかったと、お姫さまは話しました。おまけに、そういう氷山は、世にもふしぎな形をしていて、ダイヤモンドのようにキラキラかがやいていました。

 お姫さまは、いちばん大きな氷山の一つに、腰をおろしました。船の人たちは、お姫さまが、氷山の上にすわって、長いかみの毛を風になびかせているのを見ると、びっくりして、向きをかえて行ってしまいました。

 やがて、日がくれかかると、空は雲でおおわれました。いなずまがピカピカ光り、かみなりがゴロゴロ鳴りだしました。黒い海の波に、大きな氷山が、高く持ちあげられ、赤いいなずまに照らしだされて、キラキラ光りました。どの船も、みんなをおろして、船の中の人たちは、おそろしさにふるえていました。おひめさまは、波のあいだをただよう氷山の上に静かにこしをおろして、青いいなずまが、ジグザグに、ピカピカ光る海の面にきらめき落ちるのをながめていました。

 おねえさまたちは、はじめて海の底から水の上に浮びあがったとき、新しいものを見たり、美しいものを目にして、みんな夢中むちゅうになってよろこんでいました。けれども、一人前のむすめになって、好きなときに、いつでも行けるようになると、いままでほど心をひかれなくなりました。それどころか、かえって、うちがこいしくなりました。一月ひとつきもたつと、海の底がやっぱりどこよりも美しくて、うちにいるのがいちばんいいと、口々に言うようになりました。

 五人のおねえさまたちは、夕方になると、よく手をつないでは、ならんで、海の上に浮びあがっていきました。

 お姫さまたちは、どんな人間よりも、美しい、きれいな声をもっていました。あらしがおこって、船がしずみそうになると、その船の前をおよぎながら、それはそれはきれいな声で、海の底がどんなに美しいかをうたいました。そして、船の人たちに、海の底へ沈んでいくのをこわがらないでください、とたのむのでした。けれども、船の人たちには、お姫さまたちのうたう言葉がわかりません。あらしの音だろうぐらいに思いました。それから、その人たちは、美しい海の底を見ることもできません。それもそのはず、船が沈めば、人間はおぼれて、死んでしまうのです。そうしてはじめて、人魚の王さまのお城に行くのですからね。

 こうして、夕方、おねえさまたちが、手をとりあって、海の上に浮びあがっていってしまうと、いちばん下の小さなお姫さまは、たったひとり取りのこされて、おねえさまたちのあとを見送るのでした。そんなときには、さびしくって、泣きたいような気がしました。けれども、人魚のお姫さまには、なみだというものがありません。涙がないだけに、もっと苦しい、つらい思いをしなければなりませんでした。

「ああ、あたしも、早く十五になれないかしら」と、お姫さまは言いました。「海の上の世界と、そこに家をたてて住んでいるという人間が、きっと好きになれそうだわ」

 とうとう、お姫さまも十五になりました。

「もう、おまえも大きくなりました」と、お姫さまにとってはおばあさまにあたる、王さまのおかあさまが言いました。「さあ、おいで。おけしょうをしてあげましょう。おねえさんたちにしてやったようにね」

 こう言って、おばあさまは、白ユリの花輪をお姫さまのかみにつけてやりました。見ると、その花びらは、一つ一つが、真珠しんじゅを半分にしたものでした。それから、お姫さまが高い身分であることをあらわすために、お姫さまのしっぽを八つの大きなカキにはさませました。

「あら、いたいっ!」と、人魚のお姫さまは言いました。

「りっぱになるのには、すこしくらい、がまんをしなくてはいけませんよ」と、おばあさまが言いました。

 お姫さまは、そんなおかざりなどは、どんなにはらい落してしまいたかったかしれません。重たい花輪なども、取ってしまいたいと思いました。そんなものよりも、お庭にいている赤い花のほうが、お姫さまにはずっとよく似合うにきまっています。でも、いまさら、そうしようとも思いません。

「行ってまいります」と、お姫さまは言って、すきとおったあわのように、かろやかに、水の中を上へ上へとのぼっていきました。

 お姫さまが海の上に頭を出したとき、ちょうどお日さまがしずみました。けれども、雲という雲は、まだバラ色に、あるいは金色に照りはえていました。うすモモ色の空には、よいの明星みょうじょうが明るく、美しく光っていました。風はおだやかで、空気はすがすがしく、海のおもては鏡のように静かでした。

 むこうのほうに、三本マストの大きな船が浮んでいました。風がすこしもないので、は、たった一つしかあげていません。そのまわりの綱具つなぐや、帆げたの上には、水夫たちがすわっていました。船からは、音楽と歌も聞えてきます。そのうちに、夕やみがこくなってくると、色とりどりの、何百ものちょうちんに、火がともされました。そのようすは、まるで万国旗が風にひらひらと、ひるがえっているようでした。

 人魚のお姫さまは、船室の窓のすぐそばまでおよいでいきました。からだが波に持ちあげられるたびに、すきとおった窓ガラスを通して、中のようすをのぞくことができました。そこには、きれいに着かざった人たちが、大ぜいいました。なかでも美しく見えたのは、大きな黒い目をした、若い王子でした。年のころは十六ぐらいでしょうか。それより上には見えません。きょうは、この王子の誕生日たんじょうびだったのです。それで、こんなににぎやかに、お祝いの会が開かれているのでした。水夫たちが、甲板かんぱんおどりをはじめました。そこへ、若い王子が出てきますと、花火が百いじょうも空高く打ちあげられました。そのため、あたりが、ま昼のように明るくなりました。

 人魚のお姫さまは、びっくりぎょうてんして、水の中にもぐりこみました。でも、すぐまた、頭を出してみました。と、どうでしょう。空のお星さまが、みんな、自分のほうへ落ちてくるようです。お姫さまは、こういう花火というものをまだ一度も見たことがなかったのです。大きなお日さまが、いくつもいくつも、シュッ、シュッと音をたてながら、まわりました。すばらしい火のさかなが、青い空に飛びあがりました。そうしたすべてのありさまが、すみきった、静かな海の面にうつりました。

 船の上は、あかあかと照らし出されました。人間の姿はもちろんのこと、どんなに細い帆づなでも、一本一本をはっきりと見わけることができました。ああ、それにしても、若い王子は、なんという美しい方でしょう! 王子は、にこにこしながら、人々とあくしゅしていました。そのあいだも、このはなやかな夜空に、音楽はたえず鳴りひびいていました。

 夜はふけました。それでも、人魚のお姫さまは、船と、美しい王子から、目をはなすことができませんでした。もう今は、色とりどりのちょうちんの火は消えて、花火も空に上がらなくなりました。お祝いのための大砲たいほうの音もとどろきません。けれども、深い海の底では、低くブツブツといううなりがしていました。お姫さまは、あいかわらず、水の上に浮びながら、波のまにまにゆられて、船室の中をのぞいていました。

 ところが、船は、きゅうに、今までよりも速く走りだしました。帆が一つ、また一つと、張られました。気がついてみると、波は山のように高くなり、空には黒雲が集まってきて、遠くのほうでは、いなずまがピカピカ光っているではありませんか。ああ、おそろしいあらしがやってきそうです。このありさまに、水夫たちはまた帆をおろしました。大きな船は、あれくるう海の上を、ゆれながらも、矢のように速くつき進んでいます。波は、大きな山のように、黒々ともりあがって、今にもマストをつきたおそうとします。

 船は、まるでハクチョウのように、高い波の谷間に沈むかと思うと、すぐまた、とうのような波のてっぺんに持ちあげられました。人魚のお姫さまには、おもしろい航海のように思われました。ところが、船の人たちにしてみれば、それどころではありません。船は、うめくような音をたてて、ミシミシときしりはじめました。大波が船にはげしくぶつかると、そのいきおいで、あつい船板がまがり、海の水が流れこみました。マストは、アシかなにかのように、まんなかから、ポキッと折れてしまいました。船は横にかたむいて、水がどっと船倉へ流れこんできました。

 船の中の人たちの命が、あぶなくなりました。人魚のお姫さまも、ようやく、そのことに気がつきました。でも、そうは思っても、お姫さま自身が、海の上をただよっている、船の材木や板切れに、気をつけなくてはなりません。

 そのとき、きゅうに、あたりがまっ暗になって、なに一つ見えなくなりました。と、思うまもなく、また、いな光りがして、ぱっと明るくなりました。船の上のものが、またみんな見えました。だれもかれもが、大さわぎをしています。お姫さまは、その中で、あの若い王子の姿をさがしました。と、船がまっ二つにさけたとたん、深い海の中へ、王子の落ちこんでいくのが見えました。

 その瞬間しゅんかん、お姫さまは、すっかりうれしくなりました。王子が、海の底の、自分のそばへくるものと思ったからです。けれども、すぐまた、人間は水の中では生きていられない、ということを思い出しました。だから、この王子も死ななければ、おとうさまのお城へは降りていくことができないのだと気がつきました。ああ、王子さまを死なせてはいけない! どうしても死なせてはならない! そう思うと、お姫さまは、自分の身の危険も忘れて、海の上をただよっている材木や板のあいだをかきわけて、王子のほうへおよいでいきました。もし、その材木の一つでも、からだにあたれば、お姫さまはしつぶされてしまうのです。

 お姫さまは、水の中へ深くもぐったり、大きな波のあいだに浮びあがったりしているうちに、とうとう、若い王子のところへおよぎつきました。王子は、もうこれ以上あれくるう海の中をおよぐことはできなくなっていました。手足はつかれきって、もう、しびれはじめていたのです。美しい目は、しっかりととじていました。もしもこのとき、人魚のお姫さまがきてくれなかったなら、きっと死んでしまったことでしょう。お姫さまは、王子の頭を水の上に持ちあげて、どこともなく、波に身をまかせて、ただよっていきました。

 明けがた近く、あらしはすぎさりました。船はかげも形もなく、あたりには、切れはし一つ見えません。お日さまがあかあかとのぼって、海のおもてをキラキラと照らしました。すると、気のせいか、王子のほおにも、血のがさしてきたように思われました。でも、やっぱり、目はかたくとじたままでした。人魚のお姫さまは、王子の高い、美しいひたいにキスをして、ぬれた髪の毛をなであげてやりました。見れば、王子は、どことなく、海の底の小さな花壇かだんにある、あの大理石の像に似ているような気がします。お姫さまは、もう一度キスをして、王子さまが、どうか生きていてくれますように、と、心の中でいのりました。

 やがて、むこうのほうに陸地が見えてきました。高い、青い山々のいただきには、ちょうど、ハクチョウがているようなかっこうで、まっ白い雪がキラキラ光っていました。下の海べには、美しいみどりの森があって、その前に一つの建物が立っていました。それは教会なのか修道院なのか、お姫さまにはよくわかりませんでした。見ると、庭にはレモンやオレンジの木がえていて、門の前には高いシュロの木が立っています。海は、ここで小さなになっていました。入り江の中はとても静かでしたが、おくの岩のところまでたいそう深くなっていました。その岩のあたりでは、白いこまかい砂が波にあらわれていました。

 人魚のお姫さまは、美しい王子をだいて、そこへおよいでいきました。そして、王子を砂の上に寝かせましたが、そのときも王子の頭を高くして、暖かいお日さまの光がよくあたるように、気をつけてあげました。

 そのとき、大きな白い建物の中で、かねが鳴りました。そして、若いむすめたちが大ぜい、庭から出てきました。それを見ると、人魚のお姫さまは、そこからはなれて、二つ三つ海の面につき出ている、大きな岩のかげまでおよいでいきました。そこで、海のあわを髪の毛や胸にかぶって、だれにも顔を見られないようにしてから、この気の毒な王子のそばに、どんな人がやってくるか、じっと見ていました。

 まもなく、ひとりの若い娘が歩いてきました。娘は、王子を見ると、たいそうびっくりしたようでした。でも、すぐにもどっていって、ほかの人たちを呼んできました。人魚のお姫さまが、なおも目を離さずに見ていますと、王子は、とうとう気がついて、まわりにいる人たちにほほえみかけました。けれども、命をたすけてくれた人魚のお姫さまのほうへは、ほほえんでも見せませんでした。考えてみれば、むりもありません。お姫さまに命をたすけてもらったことなどは、ゆめにも知らないのですからね。でも、お姫さまは、たいそう悲しくなりました。まもなく、王子が大きな建物の中にはこばれていってしまうと、人魚のお姫さまは、悲しみながら水の中へしずんで、おとうさまのお城へもどっていきました。

 このお姫さまは、もともと、もの静かで、考え深いたちでしたが、今では、それがもっともっとひどくなりました。

「ねえ、海の上で、どんなものを見てきたの?」と、おねえさまたちはしきりにたずねましたが、お姫さまはなんにも話しませんでした。

 それからは、幾晩いくばんも幾朝も、お姫さまは、王子と別れた海べに浮びあがっていきました。いつのまにか、庭の木の実が熟してもぎとられていくのを見ました。高い山々の雪が、とけていくのも見ました。それでも、王子の姿は見えません。そのたびに、お姫さまは、前よりもいっそう悲しくなって、うちへ帰っていくのでした。

 いまのお姫さまにとっては、自分の小さな花壇の中にすわって、王子に似ている、あの美しい大理石の像をうでにだくことだけが、たった一つのなぐさめとなりました。もう、お姫さまは、花の手入れもしてやりません。ですから、草花は、まるでのように、道の上までぼうぼうとおいしげってしまいました。おまけに、長いくきや葉が、木のえだとからみあっているものですから、あたりはまっ暗になりました。

 とうとう、人魚のお姫さまは、もうこれ以上がまんができなくなりました。自分の苦しい気持をおねえさまのひとりに、そっと打ちあけました。すると、すぐに、ほかのおねえさまたちにも知れてしまいました。でも、この話を知っているのは、おねえさまたちと、ほかに、二、三人の人魚の娘たちだけでした。みんなは、ごくなかのいい友だちにしか話さなかったからです。ところが、ぐうぜんなことに、その友だちの中に、王子のことを知っている娘がいました。その娘も、いつか船の上で開かれていた、王子の誕生日のお祝いを見ていたのでした。そして、うれしいことに、王子がどこの国の人で、その国はどこにあるのかということまで、知っていました。

「さあ、行きましょう」と、ほかのお姫さまたちが言いました。そして、みんなで、腕とかたとを組んで、長く一列にならんで、王子のお城のあるという海べへ浮びあがっていきました。

 そのお城は、つやつやした、うす黄色の石で作られていました。大きな大理石の階段がいくつもあって、その一つは海の中まで降りていました。上には、金色の、すばらしいまる屋根がそびえていました。まる柱が建物のまわりをとりまいていましたが、その柱と柱のあいだには、ほんとうに生きているのではないかと思われるような、大理石の像が立っていました。

 高い窓のすきとおったガラスからは、中が見えました。そこには、たとえようもないくらいりっぱな広間がつづいていて、りっぱな絹のカーテンと、じゅうたんとがかかっていました。それに、かべというかべには、大きな絵がいくつもかざってあって、いくら見ていても、あきないくらいでした。いちばん大きな広間のまんなかには、大きなふんすいが、サラサラと音をたてていました。そのしぶきは高く飛びちって、ガラスばりのまる天井てんじょうまで、届くほどでした。お日さまの光が、ガラスの天井からさしこんできて、水の上や、大きな水盤すいばんうかんでいる美しい水草を、キラキラと照らしていました。

 こうして、王子の住んでいるところがわかると、人魚のおひめさまは、それからというものは、夕方から夜にかけて、何度も何度も、その海べへ浮びあがっていきました。そして、ほかの人たちには、とてもまねのできないくらい、陸の近くまでおよいでいきました。それどころか、しまいには、せまい水路をさかのぼって、美しい大理石のテラスの下まで行きました。テラスのかげは、水の面に長くうつっていました。

 人魚のお姫さまは、そのテラスの下に身をかくして、若い王子を見あげました。王子のほうでは、ほかにだれかいようとはゆめにも知らず、ただひとり、明るいお月さまの光をあびて立っていました。

 お姫さまは、王子が音楽をかなでながら、旗をひらひらとなびかせた、美しいボートに乗って、夕方海に出ていくのを、何度もながめました。お姫さまは、みどりのアシのあいだから、そっとのぞいていたのでした。風がそよそよといてきて、お姫さまのしろがね色の、長いベールをひらひらさせると、それを見た人は、ハクチョウがつばさをひろげたのだろうと思いました。

 漁師りょうしたちが、晩にたいまつをともして、海の上で漁をしながら、若い王子のうわさをしてほめているようなことが、よくありました。お姫さまは、それを聞くたびに、この王子が、いつかあれくるう波にもまれて、いまにも死にかかっていたとき、自分が、その命をたすけてあげたのだと思うと、うれしくてなりませんでした。そして、王子の頭が、自分の胸の上にじっともたれていたことや、王子のひたいに、心をこめてキスをしたことなどを思い出すのでした。でも、王子のほうでは、そんなことはなんにも知らないのです。お姫さまのことなどは、夢にも思ってみたことがありませんでした。

 お姫さまは、だんだんに人間をしたうようになりました。ますます、人間の世界へのぼっていって、仲間にはいりたいと思うようになりました。人間の世界は、海の人魚の世界よりも、ずっとずっと大きいように思われました。人間は、海の上を船に乗って走ることができます。雲の上までそびえている、高い山にものぼることができます。それに、人間の住んでいる陸地には、森や畑があって、それが、お姫さまの目の届かないほど遠くまで、どこまでもどこまでもひろがっているのです。

 お姫さまの知りたいと思うことは、まだまだたくさんありました。おねえさまたちにきいてみても、だれもみんな答えてくれることはできません。そこで、お姫さまは、お年をとったおばあさまにたずねてみました。おばあさまなら、上の世界のことをよく知っていましたから。上の世界というのは、おばあさまが海の上の陸地につけた、なかなかうまい名前だったのです。

「人間というものは、おぼれて死ななければ、いつまでも生きていられるんでしょうか? 海の底のあたしたちのように、死ぬことはないんですか?」と、人魚のお姫さまはたずねました。

「いいえ、おまえ、人間だって死にますとも」と、おばあさまは言いました。「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面にいて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのないたましいというものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどりの色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。

 ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても、前から知ることのできない世界なんだがね」

「どうして、あたしたちには、いつまでたっても死なないという魂がさずかりませんの?」と、人魚のお姫さまは、悲しそうにたずねるのでした。「あたしの生きていられる、何百年という年を、すっかりお返ししてもいいから、そのかわり、たった一日だけでも、人間になりたいわ。そうして、その天国とかいうところへのぼっていきたいわ」

「そんなことを考えちゃいけないよ」と、おばあさまが言いました。「わたしたちは、あの上の世界の人間よりも、ずっとしあわせなんだからね」

「だって、それなら、あたしは死んでしまうと、あわになって、海の上をただよわなくてはならないんでしょう。そうなれば、もう、波の音楽も聞かれないでしょうし、きれいなお花や、まっかなお日さまも見られないんでしょう。ああ、どうにかして、いつまでも死なないという、その魂をさずかることはできないものでしょうか?」

「そんなことをいってもねえ」と、おばあさまが言いました。「でも、たった一つ、こういうことがあるよ。人間の中のだれかが、おまえを好きになって、それこそ、おとうさんよりもおかあさんよりも、おまえのほうが好きになるんだね。心の底からおまえを愛するようになって、牧師さまにお願いをする。すると、牧師さまが、その人の右手をおまえの右手に置きながら、この世でもあの世でも、いついつまでも、ま心はかわりませんと、かたいちかいをたてさせてくださる。そうなってはじめて、その人の魂が、おまえのからだの中につたわって、おまえも人間の幸福を分けてもらえるようになるということだよ。その人は、おまえに魂を分けてくれても、自分の魂は、ちゃんと、もとのように持っているんだって。

 でも、そんなことは、起るはずがない。だって、考えてもごらん。この海の底では、美しいと思われているものでも、たとえばだね、おまえの持っている、そのさかなのしっぽにしたって、陸の上にいる人間の目には、みにくく見えるんだからね。人間には、そのねうちがわからないんだよ。だから、そのかわりに、かっこうのわるい、二本のつっかい棒を持たなければならないんだよ。人間は、うまく言いつくろうために、そのつっかい棒のことを、足なんて言っているけどね」

 それを聞くと、人魚のお姫さまは、ほっとため息をついて、悲しそうに自分のさかなのしっぽをながめました。

「さあさあ、ゆかいになろうよ」と、おばあさまが言いました。「はねたりおどったりして、わたしたちの生きていられる三百年のあいだを、楽しくくらそうよ。三百年といえば、ずいぶん長い年月じゃないの。それからあとは、思いのこすこともなく、ゆっくり休むことができるというものさ。そうそう、今夜は、舞踏会ぶとうかいを開こうね」

 その晩の舞踏会は、陸の上ではとても見られない、美しい、はなやかなものでした。

 大きな部屋のかべや天井は、あついけれども、よくすきとおるガラスでできていました。広間のどこを見まわしても、かべというかべには、バラ色や草色の大きな貝がらが、二、三百も列を作ってならんでいました。そして、その貝がらの一つ一つに、青いほのおの燃えている明りがともっていて、広間じゅうを明るく照らしていました。そのうえ、かべをとおして、外のほうまでさしていましたから、まわりの海は青い光で、明るく照らしだされていました。

 かぞえきれないほどたくさんのさかなたちが、ガラスのかべのほうにむかっておよいでくるのが見えました。まっかなうろこをキラキラさせているさかなもあれば、金色や銀色のうろこをきらめかせているのもありました。

 広間のまんなかを、はばの広い流れが一すじ、サラサラと音をたてて流れていました。その流れの上では、人魚の男や女たちが、美しい人魚の歌をうたいながら、それに合せて踊っていました。そんな美しい声は、とても地上の人間にはありません。わけても、いちばん下のお姫さまは、だれよりも、美しい声でうたいました。みんなは、手をたたいてほめそやしました。お姫さまも、心の中ではうれしく思いました。陸の上にも、海の中にも、自分より美しい声を持っているものがないことを思ったからでした。けれども、すぐまた、上の世界のことを思うのでした。あの美しい王子のこと、王子の持っているような、死ぬことのない魂が、自分にはないという悲しみを、どうしても忘れることができませんでした。

 それを思うと、お姫さまはたまらなくなって、おとうさまのお城からこっそりけだしました。みんなは、お城の中でにぎやかにうたったり、踊ったりしているというのに、お姫さまだけは、たったひとりで、自分の小さな花壇かだんの中に、悲しみにしずんですわっていました。

 そのとき、ふと、つのぶえのひびきが、水の中をつたわって聞えてきました。お姫さまは、はっとして、思いました。

「きっと、いま、あのかたが海の上を、船に乗ってお通りになっているのだわ。おとうさまよりもおかあさまよりももっと好きなあのかたが。あたしがいつも思っているあのかたが。あのかたのお手に、あたしの一生のしあわせをおまかせしてもいいわ。あのかたと死ぬことのない魂とが、あたしのものになるのなら、どんなことでもやってみるわ。おねえさまたちが、おとうさまのお城の中で踊っているあいだに、魔法まほう使いのおばあさんのところへ行ってみよう。あの魔法使いは、今まではこわくてならなかったけど、でも、きっといい知恵をかして、助けてくれるわ」

 そこで、人魚のお姫さまは、庭から出て、ゴーゴーとすさまじい音をたてている、うずまきのほうへ行きました。魔法使いは、このうずまきのむこうに住んでいるのです。

 人魚のお姫さまは、この道をまだ一度も通ったことがありませんでした。そこには、花もいていなければ、海草もえていません。ただ、なんにもない、灰色の砂地があるばかりです。それが、うずのまいているところまでひろがっていました。そこでは、海の水がゴーゴーと音をたてて、水車のようにうずをまいていました。いったん、その中にまきこまれたが最後、どんなものでも、深い底のほうへひきずりこまれてしまうのでした。どんなものをも、粉々にくだいてしまう、このうずのまんなかを通りぬけていかなければ、魔法使いの国へは行くことができないのです。おまけに、そこまで行くのには、ずいぶん長いあいだ、ブクブクとあわのたっている、あついどろの上を行くほかには道がありません。

 このどろのところを、魔法使いは、どろぬまと言っていました。そのむこうに、ふしぎな森があって、そのまんなかに、魔法使いの家があるのです。

 森の中の木ややぶは、どれもこれも、はんぶんは動物で、はんぶんは植物のポリプでした。そのありさまは、ちょうど百の頭を持ったヘビが、地から生え出ているようでした。えだはといえば、みんな、ねばねばした長いうでで、まるで、ミミズのようにまがりくねる指を持っていました。そして、根もとから、いちばん先のはしまで、一節ひとふし一節を動かすことができました。こうしていて、水の中で何かをつかまえようものなら、それがどんなものであろうと、しっかりとまきついて、二度とはなしはしないのです。

 人魚のお姫さまは、ここまでやってくると、すっかりこわくなって、立ちすくみました。あまりのおそろしさに、胸はどきどきしています。引きかえそうかとも思いましたが、王子のことや、人間の魂のことなどを思って、また、勇気をふるいおこしました。そこで、まず、ほどけた長いかみの毛を、頭にしっかりと巻きつけて、ポリプにつかまらないようにしました。それから、両手を胸の上にかさねて、さかなが水の中をすいすいとおよぐように、気味のわるいポリプのあいだをすりぬけていきました。そのあいだじゅう、ポリプたちは、腕と指とをお姫さまのほうへ、うねうねとばしていました。

 見れば、どのポリプも、つかまえたものを、何百という小さな腕でぎゅっとしめつけているのです。まるで、がんじょうな鉄のひもででもしめつけているようなぐあいに。海で死んで、底深くしずんできた人間が、白骨となって、ポリプの腕のあいだからのぞいていました。船のかいや、はこもしめつけられていました。そうかと思うと、陸の動物の骨も見えました。ほかにもまだ、小さな人魚のむすめがひとりつかまって、しめ殺されていました。そのありさまが、お姫さまには、この上もなくおそろしいものに思われました。

 やがて、お姫さまは、森の中の、どろどろした広いところへきました。そこには、あぶらぎった、大きなウミヘビがとぐろをまいて、気味のわるい、うす黄色の腹を見せていました。広場のまんなかに、一けんの家が立っていましたが、それは、船が沈んだときに死んだ人間の白骨で、作ったものでした。

 その家の中に、魔法使いがいたのです。魔法使いは、ちょうど、人間が小さなカナリアにおさとうをなめさせてやるようなぐあいに、自分の口から、ヒキガエルにえさをやっているところでした。そして、あの見るもいやらしい、ふとったウミヘビを、魔法使いは、「かわいいひなっこや」と呼んで、だぶだぶした大きな胸の上をはいずりまわらせていました。

「おまえさんがなんできたのか、わたしにゃ、ちゃんとわかってるよ」と、魔法使いの女は言いました。「ばかなことはやめておおき。わがままをし通すと、今にふしあわせになるよ、きれいなおひめさん。おまえさんは、さかなのしっぽを取っちゃって、そのかわり、人間みたいに、歩くときに使う、二本のつっかい棒がほしいんだろ。そうして、若い王子がおまえさんを好きになって、おまえさんは、王子と死ぬことのないたましいを手に入れようってつもりだね」

 こう言って、魔法使いは、ぞっとするような高い声で笑いました。そのひょうしに、ヒキガエルとウミヘビは下にころがり落ちて、あたりをはいずりまわりました。

「だが、おまえさんは、いいときにきたんだよ」と、魔法使いは言いました。

「あしたになって、おてんとさまがのぼっちまえば、あと一年たたないことにゃ、おまえさんを助けてやるわけにはいかなかったんだよ。

 どれ、ひとつ、飲みぐすりをこしらえてやろうかね。おまえさんは、それを持って、おてんとさまののぼらないうちに、陸地におよいでいくんだよ。それから、岸にあがって、くすりをお飲み。そうすりゃ、おまえさんのしっぽはちぢんでしまって、足ってものになるよ。ほら、人間がきれいな足といってる、あれさ。だが、そりゃあ痛いのなんのって。まるで、するどいけんでつきさされるようだよ。

 そのかわり、おまえさんを見れば、どんな人間でも、ああ、今までに見たことのないきれいなむすめだ、と言うにきまってるよ。おまえさんの歩きかたはじょうひんで、軽そうで、どんなおどだって、おまえさんみたいにはいかないさ。だが、歩けば、ひとあしごとに、するどいナイフをふんで、血が出るような思いをするだろうよ。どうだい。それでも、がまんができるというのなら、力をかしてやってもいいよ」

「はい、お願いします」と、人魚のお姫さまは、ふるえる声で言いました。王子のことを思い、死なない魂を手に入れることを、じっと思っていました。

「だが、これだけは忘れちゃいけないよ」と、魔法使いが言いました。「一度、人間の姿になっちまえば、もう二度と、人魚の娘にもどることはできないんだよ。二度と水の中をくぐって、ねえさんたちや、おとうさんのお城へ、もどってはこられないんだよ。それにだね、王子が、おとうさんやおかあさんのことを忘れてしまうほど、おまえさんを好きになって、心の底から、おまえさんのことばかり思うようになり、牧師さんにたのんで、おまえさんたちふたりの手をにぎらせてもらって、夫婦ふうふにしてもらわなきゃ、死なない魂は、おまえさんの手には、はいりっこないんだよ。もしも王子が、だれかほかの女とでも結婚けっこんしようもんなら、そのつぎの朝には、おまえさんの心臓ははれつして、おまえさんは、水の上のあわとなってしまうんだよ」

「それでもかまいません」と、人魚のお姫さまは言いました。けれども、顔の色は、死人のように青ざめました。

「それから、わたしにはらう代金のことも、忘れちゃこまるよ」と、魔法使いは言いました。「なにしろ、わたしのほしいってのは、ちょっとやそっとのものじゃないからね。おまえさんは、この海の底のだれよりもきれいな声を持っている。その声で王子の心をまよわそうってつもりなんだろうが、じつはその声を、わたしゃもらいたいのさ。

 だいじな飲みぐすりをやるんだから、そのかわりに、おまえさんの持っているいちばんいいものを、もらいたいってわけだよ。なにしろ、飲みぐすりが、もろのつるぎのようによくきくようにするためにゃ、わたしゃあ、自分の血を、その中へまぜこまなきゃならないんだからね」

「でも、あなたに、この声をあげてしまったら、あたしには、いったい、何がのこるんでしょう?」と、人魚のお姫さまが言いました。

「おまえさんにゃ、きれいな姿と、軽い、じょうひんな歩きかたと、ものをいう目があるじゃないか。それだけありゃ、人間の心をまよわすことができるってもんさ。

 おや、おまえさん、勇気がなくなったかい? さあ、さ、その小さな舌をお出し。くすりのお代に切らせてもらうよ。そのかわり、よくきくくすりはやるからね」

「いいわ、どうぞ」と、人魚のお姫さまは言いました。

 魔法使いは、なべを火にかけて、魔法のくすりを作りにかかりました。

「まず、きれいにしてとね」

 魔法使いは、こう言って、ヘビをくるくると結んで、それで、なべをみがきました。それがすむと、今度は、自分の胸をひっかいて、黒い血をなべの中にたらしました。すると、そこから湯気が、もうもうとたちのぼって、なんともいえない、気味のわるい形になりました。

 そのようすは、まったくおそろしくて、ぞっとするほどでした。魔法使いは、ひっきりなしに、なべの中に新しいものを入れました。やがて、それがよくにたつと、まるで、ワニの鳴くような音をたてました。こうして、とうとう、くすりができあがりました。見ただけでは、まるで、きれいにすんだ水のようでした。

「さてと、できたよ」と、魔法使いは言いました。そして、人魚のお姫さまの舌を切りとりました。これで、お姫さまはおしになってしまいました。もうこれからは、歌もうたえませんし、ものを言うこともできません。

「おまえさんが、これから森の中を帰っていくとき、ポリプどもにつかまりそうになったら」と、魔法使いは言いました。「たった一たらしでいいから、この飲みぐすりをかけてやんなさい。そうすりゃ、やつらのうでや指は、みんな粉々に飛んじまうから」

 でも、そんなことをするまでもありませんでした。ポリプたちは、お姫さまの手の中で、くすりがお星さまのようにキラキラ光っているのを見ると、はっとおそれて、からだをひっこめてしまいました。ですから、お姫さまは、なんの苦もなく、森もどろぬまも、はげしいうずまきの中をも通りぬけていきました。

 おとうさまのお城が見えてきました。大きな部屋の明りは、もう消えています。みんなは、きっとているのにちがいありません。お姫さまは、みんなのところへ行こうとはしませんでした。今は、ものを言うこともできませんし、それに、きょうかぎり、一生のお別れをしようと思っているのです。お姫さまの心は、悲しみのためにはりさけそうでした。そっとお庭の中にはいっていって、おねえさまたちの花壇かだんから、一つずつ花をつみとりました。そして、お城のほうへ、何度も何度もキスを投げてから、青い海の中を上へ上へとのぼっていきました。

 まだ、お日さまののぼらないころ、人魚のお姫さまは、王子のお城を見あげながら、りっぱな大理石の階段の上にのぼりました。お月さまが、美しく、明るくかがやいていました。人魚のお姫さまは、燃えるように強いくすりを飲みました。すると、もろ刃のつるぎで、かぼそいからだをつきさされたような気がしました。たちまち、気が遠くなって、死んだようにその場にたおれました。

 やがて、お日さまがキラキラと海のおもてを照らしました。人魚のお姫さまはようやく気がつきましたが、はげしい痛みをからだに感じました。目をあげて見れば、すぐ前に、あの美しい、若い王子が立っています。王子は、黒い目で、じっと、お姫さまを見つめていました。お姫さまは、思わず、その目をふせました。と、どうでしょう。さかなのしっぽは、いつのまにか消えてしまって、かわいらしい人間の娘しか持っていないような、世にも美しい、小さな白い足がえているではありませんか。けれども、お姫さまは、なんにも着ていません。はだかでしたので、ゆたかな長いかみの毛で、からだをかくしました。

「あなたは、どういうかたですか? どうしてここへきたのですか?」と、王子はたずねました。

 お姫さまは、青い目で、いかにもやさしそうに、でも、たいそう悲しげに、王子を見つめました。なぜって、お姫さまは、口をきくことができないのですから。王子は、お姫さまの手をとって、お城の中へ連れていきました。お姫さまは、ひとあし歩くたびごとに、魔法使いが前に言ったとおり、とがったはりか、するどいナイフの上をふんでいるような思いがしました。けれども、このくらいの苦しみはよろこんでがまんしました。王子に手を引かれながら、お姫さまは、水のあわかと思われるほど、たいそうかろやかに、のぼっていきました。その軽々とした、かわいらしいお姫さまの歩きかたに、王子もほかの人たちも、ただただおどろいていました。

 お姫さまは、絹やモスリンの、りっぱな着物をいただきました。お城の中で、お姫さまが、だれよりもいちばんきれいでした。でも、かわいそうに、おしだったのです。歌をうたうことも、ものを言うこともできません。絹と金とで着かざった、美しい女のどれいたちが出てきて、王子と、王子のご両親の王さま、おきさきさまの前で、歌をうたいました。中のひとりが、ほかのものよりもじょうずにうたいました。すると、王子は手をたたいて、その女のほうへほほえみかけました。それを見ると、人魚のお姫さまはとても悲しくなりました。自分だったら、もっともっとよい声でうたうことができたのに、と思ったのです。そして、心の中で言いました。

「ああ、王子さま、あなたのおそばにいたいために、あたしは、永久に声をすててしまったのです。せめて、それだけでも、わかってくださったら」

 やがて、女のどれいたちは、すばらしい音楽に合せて、今度は、美しく、かろやかにおどりました。人魚のお姫さまも、美しい白い腕をあげて、つま先で立ちながら、ゆかの上をすべるように、軽々と踊りました。そんなにみごとに踊ったものは、だれもありません。踊って動くたびごとに、お姫さまの美しさが、いよいよ加わりました。その目は心の中の思いをあらわして、どれいたちの歌よりも、強く強く人の心を打ちました。

 人々は、みんな、うっとりと見とれていました。なかでも、王子のよろこびかたはたいへんなもので、「かわいいすて子さん」と呼びました。お姫さまは、足が床にさわるたびごとに、するどいナイフの上をふむような思いをしました。それでも、じっとがまんして、踊りつづけました。

 王子はお姫さまに、これからは、いつも自分のそばにいるように、と言いました。そのうえ、お姫さまは、王子の部屋へやの前にある、ビロードのふとんに寝てもいい、というおゆるしもいただきました。

 王子は、お姫さまのために、男の着物を作らせて、ウマに乗っていくおともをさせました。ふたりは、かおりのよい森の中を通っていきました。みどりのえだかたにふれたり、小さな鳥が若葉のかげでさえずったりしていました。

 お姫さまは、王子といっしょに高い山にものぼりました。か弱い足からは、だれの目にもわかるくらい、血がにじみ出ましたが、それでも、お姫さまはただ笑って、どんどん王子のあとについていきました。とうとう、雲の上まで出ました。そこから見ると、下のほうを流れている雲は、遠くの国へ飛んでいく、鳥のむれのように見えました。

 王子のお城で、ほかの人たちが夜になって寝てしまうと、お姫さまは、はばの広い大理石の階段をおりて、燃えるような足をつめたい海の水の中にひたして、ひやしました。そんなときには、深い海の底にいる、なつかしい人たちのことが思い出されるのでした。

 ある晩のこと、おねえさまたちが、手をつないで、海の上に出てきました。みんなは、波のまにまにうかびながら、ひどく悲しい歌をうたいました。お姫さまが、手まねきすると、おねえさまたちのほうでも、それに気がつきました。

「海の底ではね、あなたがいなくなってから、みんな、とっても悲しんでいるのよ」と、おねえさまたちは話しました。

 それからというものは、おねえさまたちは、毎晩たずねてきてくれました。ある晩などは、もう何年も海の上に出てきたことのない、お年よりのおばあさまと、頭にかんむりをかぶった、人魚の王さまの姿までも、ずっと遠くのほうに見えました。おばあさまもおとうさまも、お姫さまのほうへ手をさしのばしました。けれども、おねえさまたちのように、陸の近くまでこようとはしませんでした。

 一日ごとに、王子は、おひめさまが好きになりました。といっても、王子は、おとなしい、かわいい子供をかわいがるように、お姫さまをかわいがっていたのです。ですから、おきさきにしようなどとは、ゆめにも思っていませんでした。ところが、お姫さまのほうでは、どうしても、王子のお妃にならなければなりません。さもなければ、死ぬことのないたましいを、手に入れることができないのです。いや、それどころか、王子が結婚けっこんしたつぎの朝には、海の上のあわとなってしまうのです。

 王子が人魚のお姫さまをうでにだいて、美しいひたいにキスをすると、お姫さまの目は、

「あたしが、だれよりもかわいいとはお思いになりませんか?」と言っているように思われました。

「うん、おまえがいちばん好きだよ」と、王子は言いました。「だって、おまえは、だれよりもやさしい心を持っていて、ぼくにま心をつくしてくれているんだもの。それに、おまえは、ある若いむすめさんに似ているんだよ。その娘さんには、いつか一度会ったことがあるけれど、きっともう、会うことはないだろう。

 ぼくが船に乗って、海に出たときのことだよ。乗っていた船は、あらしにあって、しずんだけれど、ぼくは波に打ちあげられて、岸べについた。見ると、その近くには修道院があって、若い娘さんが、何人もおつとめをしていた。その中のいちばん若い娘さんが、岸べに打ちあげられているぼくを見つけて、命を助けてくれたんだよ。そのとき、ぼくは、その娘さんの顔を、二度しか見なかった。でも、ぼくがこの世の中で、いちばん好きに思うのは、ただ、その娘さんだけなんだよ。

 だけど、おまえを見ていると、とても、その娘さんによく似ている。だから、ぼくの心の中にある、その娘さんの姿も、しのけられてしまいそうなくらいだよ。でも、その娘さんは、あの修道院に一生いる人だから、幸福の神さまが、かわりに、おまえをぼくによこしてくださったんだよ。これからは、どんなことがあっても、はなれずにいよう」

「ああ、王子さまは、あたしが命を助けてあげたことをごぞんじないんだわ」と、人魚のお姫さまは心の中で思いました。「あたしが、海の上を、修道院のある森のところまで連れていってあげたのに。それから、あたしは、海のあわをかぶって、だれかこないかと見ていたんだわ。そうしたら、きれいな娘さんがきたんだわ。その娘さんを、王子さまは、あたしよりも好いていらっしゃる」

 人魚のお姫さまは、深いため息をつきました。けれども、泣くことはできませんでした。

「そのむすめさんは、一生修道院につかえているんだと、王子さまはおっしゃったわ。そうすると、この世の中へは出てこられないんだから、おふたりはもう会えないわけだわ。それにくらべれば、あたしは、こうしておそばにいて、毎日毎日、お顔を見ている。あたしは、王子さまのお世話をしてあげよう。心から王子さまをおしたいしよう。そして、王子さまのためなら、この命もよろこんでささげよう」

 ところが、そのうちに、王子は結婚することになりました。おとなりの国の王さまの美しい王女を、お妃にむかえるという、うわさがたちました。そのために、船もたいそう美しくかざりつけられました。王子は、となりの国を見るために、旅に出かけるのだと言われましたが、ほんとうは、その国の王女にお会いになるためだったのです。おともの人たちも、大ぜいついていくことになりました。でも、人魚のお姫さまは、頭をふって、ほほえみました。王子が心の中に考えていることは、だれよりもよく知っていたからです。

「ぼくは、旅に出なければならない」と、王子は、お姫さまに言いました。「美しい王女に会ってこなければならないんだよ。おとうさまやおかあさまが、そうするようにとおっしゃるからね。しかし、その王女を、どうでもおよめさんにして帰ってくるように、とはおっしゃっていないよ。ぼくが、その王女を好きになんかなれるはずはない。だって、修道院で見た、あの美しい娘さんに似ているはずがないもの。あの娘さんに似ているのは、おまえだけだよ。ぼくが、いつかお嫁さんをえらばなければならないとしたら、いっそのこと、おまえをえらぶよ。ものをいう目をした、口のきけないすて子の、かわいいおまえをね」

 こう言って、王子はお姫さまの赤いくちびるにキスをしました。そして、お姫さまの長いかみの毛をいじりながら、お姫さまの胸に頭をおしあてました。お姫さまの心は、人間のしあわせと、死ぬことのない魂とを、ゆめに見ているのでした。

「だけど、海はこわくないだろうね、口のきけないすて子さん」

 おとなりの国へ出かける、りっぱな船の上に立ったとき、王子はお姫さまに、こう言いました。それから、王子は、あらしのこと、海の静かなときのこと、深いところにいるふしぎなさかなのこと、それから潜水夫せんすいふが海の中で見る、めずらしいもののことなどを、いろいろと話してやりました。お姫さまはほほえみながら、王子の話を聞いていました。だって、海の底のことなら、お姫さまはだれよりもよく知っていたのですから。

 お月さまの明るい晩、かじとりだけが、かじのところに立っていました。ほかの人たちは、みんな、寝しずまっていました。そのとき、お姫さまは船べりにすわって、すみきった水の中をじっと見つめていました。すると、おとうさまのお城が見えたような気がしました。お城のいちばん高いところには、なつかしいおばあさまが頭に銀のかんむりをかぶって、立っていました。おばあさまは、速い水の流れをとおして、船のほうをじっと見あげていました。

 そのとき、おねえさまたちが、海のおもてうかびあがってきて、お姫さまを悲しそうに見つめながら、もうだめだというように、白い手をもみあわせました。

 お姫さまは、おねえさまたちのほうへうなずいて、ほほえみながら、なにもかもがうまくいっていることを話そうとしました。ところがそこへ、船のボーイが近づいてきましたので、おねえさまたちは、水の中へもぐってしまいました。ですから、ボーイは、今なにか白いものを見たような気がしましたが、それはきっと、海のあわだったろうと思いました。

 あくる朝、船はおとなりの国の、美しい都にある港にはいりました。教会という教会のかねが鳴りわたり、高いとうからは、ラッパがき鳴らされました。兵士たちは、ひるがえる旗を持ち、きらめく銃剣じゅうけんを持って、立ちならびました。

 毎日毎日、宴会えんかいがもよおされ、舞踏会ぶとうかいだの、いろいろの会が、つぎからつぎへと開かれました。それなのに、この国の王女は、まだ一度も姿を見せたことがありません。なんでも、ずっと遠くの、ある修道院で教育をうけて、王女にふさわしい、いろいろの勉強をしているということでした。とうとう、その王女が帰ってきました。

 人魚のお姫さまは、その王女が、どんなに美しいかたか、早く見たいと思っていたのですが、見れば、なるほど、こんなに美しい姿の人は、いままでに見たことがない、というよりほかはありませんでした。はだは、きめがこまやかで、すきとおるような美しさでした。長い黒いまつげのおくには、ま心のこもった青い目が、にこやかにほほえんでいました。

「ああ、あなただ! ぼくが死んだようになって、海べにたおれていたとき、ぼくの命を助けてくださったのは!」と、王子はさけんで、はずかしそうに、顔を赤くしている王女をうでにだきしめました。

 それから、今度は、人魚のお姫さまにむかって、言いました。

「ああ、ぼくは、なんてしあわせなんだろう! どんなに願っても、とてもかなえられないと思っていたゆめが、かなえられたんだよ。おまえも、ぼくのしあわせをよろこんでくれるだろう。だれよりもいちばん、ぼくのことを思っていてくれたおまえだものね」

 人魚のお姫さまは、王子の手にキスをしました。けれども、胸は今にもはりさけそうでした。むりもありません。王子が結婚すれば、そのあくる朝、お姫さまは死んで、海の上のあわとなってしまうのです。

 教会という教会の鐘が、鳴りわたりました。お使いのものが、ウマに乗って町の中をかけめぐり、ご婚約のことを知らせました。どこの祭壇さいだんでも、りっぱな銀のランプに、よいかおりのする油が燃やされました。牧師さんたちが香炉こうろをふりました。花嫁と花婿はなむこはたがいに手をとりあって、僧正そうじょうさまの祝福をうけました。

 人魚のお姫さまは、絹と金とで着かざって、花嫁の長いすそをささげていました。けれども、お祝いの音楽も、耳にはいりません。おごそかな儀式ぎしきも、目にはうつりません。ただ、死んでからの、暗い暗いやみのことばかりを思っていました。この世でなくしてしまった、すべてのことを思っているのでした。

 その日の夕方、花嫁と花婿は船に乗りこみました。大砲たいほうがとどろきわたり、たくさんの旗が、風にひるがえりました。船のまんなかには、金とむらさきの、りっぱなテントがはられて、このうえもなく美しいふとんがしかれました。ここで、ふたりが、静かな、すずしい一夜をすごすことになっていたのです。

 は風をうけて、いっぱいにふくらんでいました。船は、すみきった海の上を、たいしてゆれもせずに、軽々とすべっていきました。

 あたりが暗くなると、色とりどりのランプに火がともされ、水夫たちは甲板かんぱんに出て、楽しそうにおどりはじめました。人魚のお姫さまは、はじめて海の上に浮びあがった晩のことを思い出さずにはいられませんでした。あの晩も、いま目の前に見ているのと同じように、にぎやかによろこびさわいでいるありさまが、目にうつったのでした。お姫さまも、みんなの仲間にはいって、くるくる踊りまわりました。そのありさまは、なにかに追いかけられて、身をひるがえしながら、軽々と飛んでいくツバメのようでした。見ている人々は、みんな、手をたたいてほめそやしました。お姫さまが、こんなにみごとに踊ったことは、今までにもありません。か弱い足は、するどいナイフでつきさされるようでしたが、いまはそれを感じないほどに、心のきずは、もっともっと痛んでいるのでした。

 お姫さまには、よくわかっているのです。今夜かぎりで、王子の顔も見られません。この王子のために、お姫さまは家族をすて、家をすてたのです。美しい声もあきらめたのです。くる日もくる日も、かぎりない苦しみをがまんしてきたのです。それなのに、王子のほうでは、そんなことは夢にも知らないのです。王子とおなじ空気をすうのも、深い海をながめるのも、星のきらめく夜空をあおぐのも、今夜かぎりとなりました。考えることのない、夢見ることのない、はてしなくつづくやみの夜だけが、お姫さまを待っているのでした。思えば、お姫さまには魂がありません。得ようとしても、いまとなっては、手に入れることのできないお姫さまなのです。

 船の上は、にぎやかなよろこびにみちあふれていました。もう、ま夜中をすぎています。それでも、お姫さまは、ほほえみを浮べながら、踊りつづけるのでした。心の中では、ただ死ぬことだけを思いながら。王子は美しい花嫁にキスをしました。花嫁は、王子の黒いかみの毛をなでました。そして、花嫁と花婿は手に手をとって、りっぱなテントの中にはいって、やすみました。

 やがて、船の中は、ひっそりと静かになりました。いまは、かじとりだけが、かじのところに立っているばかりです。人魚のお姫さまは、白い腕を船べりにかけながら、東の空に目をむけて、朝やけをながめていました。お日さまの光がさしてくれば、その最初の光で、お姫さまは死ぬのです。それは、お姫さまにはわかっていました。

 と、そのとき、おねえさまたちが、またもや、海のおもてへ浮びあがってくるのが見えました。おねえさまたちも、お姫さまと同じように青ざめていました。見れば、長い美しい髪の毛が、いつものように風になびいてはおりません。ぶっつりと、根もとから、たち切られているではありませんか。

「あたしたち、魔法まほう使いに、髪の毛をやってしまったのよ。あなたが、今夜、死なないですむように、魔法使いの助けをかりに行ったの。そしたら、ナイフをくれたわ。ほら、これよ。ねえ、よく切れそうでしょう。お日さまがのぼらないうちに、あなたは、これで、王子の心臓をつきささなくてはいけないのよ。王子のあたたかい血が、あなたの足にかかると、足がちぢこまって、また、さかなのしっぽがえるのよ。だから、また、もとの人魚になれるわけ。そうして、水の中へはいって、あたしたちのところへもどってくれば、死んで、塩からい海のあわになるまで、三百年も生きていられるのよ。

 さあ、早く! お日さまののぼらないうちに、王子かあなたか、どちらかひとりが死ななければならないのよ。おばあさまは、あんまり心配なさったものだから、白い髪が、すっかりぬけ落ちてしまったわ。あたしたちの髪の毛が、魔法使いのはさみで切られてしまったのと、そっくりよ。

 王子を殺して、帰ってきなさいね! さあ、いそぐのよ! 空が、うっすらと赤くなってきたじゃないの。もうすぐ、お日さまがのぼるわ。そしたら、あなたは死ななければならないのよ」

 こう言うと、おねえさまたちは、それはそれは悲しそうに、深いため息をついて、波間にしずみました。

 人魚のお姫さまは、テントのむらさき色のたれまくを引きあけました。中では、美しい花嫁が、王子の胸に頭をもたせてねむっています。お姫さまは身をかがめて、王子の美しいひたいにキスをしました。空を見れば、夜あけの空が赤くそまって、だんだん明るくなってきました。お姫さまは、するどいナイフをじっと見つめました。それから、また目を王子にむけました。王子は夢のなかで、花嫁の名前を呼びました。ほかのことは、すっかり忘れて、王子の心は、ただただ花嫁のことでいっぱいだったのです。人魚のお姫さまの手の中で、ナイフがふるえました。──

 しかし、その瞬間しゅんかん、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。

 そのとき、お日さまが海からのぼりました。やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上を、あたたかく照らしました。人魚のお姫さまは、すこしも死んだような気がしませんでした。

 明るいお日さまをあおぎ見ました。すると、中空に、すきとおった美しいものが、何百となく、ただよっていました。それをすかして、むこうのほうに、船の白いと、空の赤い雲が見えました。そのすきとおったものの話す声は、美しい音楽のようでした。といっても、人間の耳には聞えない、まことにふしぎな魂の世界のものでした。その姿も、人間の目では見ることができないものでした。つばさがなくても、からだが軽いために、空中にただよっているのでした。

 人魚のお姫さまは、そのものたちと同じように、自分のからだも軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上へ上へとのぼっていくのを感じました。

「どなたのところへ行くのでしょうか?」と、お姫さまはたずねました。

 その声は、あたりにただよっている、ほかのものたちと同じように、美しく、とうとく、ふしぎにひびきました。それは、とてもこの世の音楽などでは、まねすることもできません。

「空気のむすめたちのところへ!」と、みんなが答えました。「人魚の娘には、死ぬことのない魂というものがありませんね。人間に心から愛されなければ、どんなにしても、それを持つことができません。人魚がいつまでも生きていられる命を得るためには、ほかのものの力にたよらなければならないのです。空気の娘たちにも、やっぱり、死ぬことのない魂はありません。けれども、よい行いをすれば、やがてはそれをさずかることができるのです。

 あたしたちは、暑い国へ飛んでいきます。そこでは、空気がむし暑くて、毒を持っていますから、そのために人間は死んでしまいます。ですから、そこで、あたしたちはすずしい風を送ってあげるのです。それから、空に花のかおりをふりまいて、だれもが、さっぱりした気分になるように、みんなが元気になるようにしてあげるのです。こうして、三百年のあいだ、あたしたちにできるだけの、よい行いをするようにつとめれば、死ぬことのない魂をさずかって、かぎりない人間のしあわせをもらうことができるのです。

 まあ、お気の毒な人魚のお姫さま。あなたも、あたしたちと同じように、ま心をつくして、つとめていらっしゃいましたのね。ずいぶんと苦しみにお会いになったでしょうが、よくがまんしていらっしゃいました。こうして、いまは、空気の精の世界へのぼっていらっしゃったのですよ。さあ、あと三百年、よい行いをなされば、死ぬことのない魂が、あなたにもさずかりますのよ」

 人魚のお姫さまは、すきとおった両腕を、神さまのお日さまのほうへ高くさしのべました。そのとき、生れてはじめて、なみだほおをつたわるのをおぼえました。──

 船の中が、また、がやがやとさわがしくなりました。見れば、王子が美しい花嫁といっしょに、お姫さまをさがしています。お姫さまが、波の中に身を投げたのを、ふたりは、まるで知ってでもいるように、あわだつ波間を悲しそうに見つめていました。

 人の目には見えないけれども、人魚のお姫さまは、花嫁のひたいにそっとキスをして、王子にはほほえみかけました。それから、ほかの空気の娘たちといっしょに、空にただよう美しいバラ色の雲のほうへとのぼっていきました。

「そうすると、三百年たったら、あたしたちも、神さまのお国へ浮んでいけますのね」

「でも、もっと早く行けるかもしれませんよ」と、空気の娘のひとりが、ささやきました。「あたしたちは、人に見られないで、子供のいる人間の家にはいっていくのです。そうして、おとうさんやおかあさんをよろこばせて、おとうさんやおかあさんにかわいがられているよい子供を、毎日見つけるのです。そうすると、神さまがそれをごらんになっていて、あたしたちをおためしになる時を短くしてくださるのです。

 その子には、あたしたちが、いつお部屋の中を飛んでいるのかわかりません。でも、そういう子供を見つけると、あたしたちはうれしくなって、つい、にっこりと笑いかけてしまいます。そうすると、すぐに三百年のうちから一年へらしてもらえるのです。けれども、その反対に、おぎょうぎのわるい、よくない子どもを見ると、悲しくなって、思わず泣いてしまいます。そうすると、今度は、涙をこぼすたびごとに、神さまのおためしになる時が、一日ずつのびていくのです」──

底本:「人魚の姫 アンデルセン童話集」新潮文庫、新潮社

   1967(昭和42)年1210日発行

   1989(平成元)年111534刷改版

   2011(平成23)年9548

※表題は底本では、「人魚のひめ」となっています。

入力:チエコ

校正:木下聡

2019年329日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。