蛾はどこにでもゐる
横光利一




 たうとう彼の妻は死んだ。彼は全くぼんやりとして、妻の顏にかかつてゐる白い布を眺めてゐた。昨夜妻の血を吸つた蚊がまだ生きて壁にとまつてゐた。

 彼は部屋に鍵をかけたまま長らくそこから出なかつた。彼は蚊が腹に妻の血を蓄へて飛んでゐるのを見ると、妻の死骸よりも、蚊の腹の中で、まだ生きてゐる妻の血に胸がときめくのを感じた。



 彼は家をたたむと一時妻の家へ行つてゐた。彼はそこから日日金のある間、氣力を引き立てるために自動車を乘り廻して出歩いてゐた。しかし、彼は妻の葬に示してくれた多くの知己の好意を思ひ出すと、それにまだ一本の禮状さへ出してない自分のだらしなさが、突然ぼんやりした心の上へ重々しくのしかかつて來た。

「とにかく今は赦して貰ひたい。俺は、今は何も出來ないんだ。赦してくれ、赦してくれ。」

 彼はさう呟きながら、またふらふら自動車に乘り歩き、夜遲く妻の家へ疲れた身體で歸つて來た。しかし、さて寢ようとすると、いつも義妹の身體がひとり蚊帳の中で青白くぐつたりと眠つてゐた。



 彼はだんだん義妹の身體が恐くなつた。或る日、彼は默つて妻の家から逃げ出した。全く彼の行爲は、彼女の家人にとつて疑はしいことに相違なかつた。しかし、彼としてみればその場合それ以外の方法を考へ出すことは出來なかつた。

 彼は新らしい生活の荷物として、先づ輕い齒ブラシとタオルとを買つて恩師の家へよつた。そこで彼は好意ある恩師の言葉のままに暫くそこに落ちつくことにした。

 その夜彼は寢ようとして寢卷を着替へにかかると、不意に一疋の白い蛾が粉を飛ばせて彼の頬へ突きあたつた。彼は、はツしと掌で蛾を打つた。蛾は彼に打ち落とされたまま、暫く苦しさうにばたばた重厚な羽根で疊の上を叩いてゐた。と、どこに力があつたのか、突如として蛾はまた彼を目がけて奇怪な速さで突きかかつて來た。彼はひらりと身を低くめた。蛾は障子の棧にあたると再びそこから彼の腰を睨つて飛びかかつた。

「此奴、何者だツ。」と彼は思つた。彼は直ぐまた蛾を掌で打ち降ろすと、部屋の隅に突き立つたまま暫く蛾の姿を眺めてゐた。



 次の日、彼はぶらりと旅に出た。彼は此の頃漸く自然の美しさが彼なりに分りかけて來たやうに思はれた。彼は物を見るとき、なるだけその物の形だけを見るやうにと心掛けた。形だけを見てゐると、いかに些細な物體にもそれ相應の品位と性格とがあつた。さう云ふ彼の物の見方に一番多く見られてゐたのは、彼の亡くなつた妻であつた。凡そいかなる物の觀じ方があらうとも、死は形が亡くなると云ふことにちがひなかつた。彼の常に一番眼に觸れてゐた形である空と妻との二つのうち、最も美妙に動き續けて茫々たる空の倦怠を破つてゐた妻の形が、俄に彼の眼界から無くなつたと云ふことは、とにかくこれから空漠たる空のみ絶えず彼の相對として眼に觸れると云ふ豫想からばかりでも、彼にとつて此の生活と云ふ風景は全く色褪せた代物しろものであつた。

 彼は旅行に出ようとして恩師の家の門を出ると、もういきなり疲勞を感じた。彼は直ぐそのまま同じ街のホテルへ行つてベツドの上へ仰ふ向きに寢た。

「死とは何だ。死とは?」

 しかし、どうして左樣にわれわれは死を考へねばならぬのか──

 彼は自分の疑問に逆手を打つと寢て了つた。それから彼は夜中に眼が醒めた。すると、ぼんやり彼の見てゐる眞上の蚊帳の腹の上で、一疋の蛾が、彼の寢てゐる匂ひを嗅ぐやうに羽根を揃へてじつとしてゐた。



 彼は次の日、友人達の多くゐる海岸町へ行つてみた。そこの海岸では、裸體の男女の群れが輝く大きな海岸線にまつはりついて華やかに戲れてゐた。そこは全く別世界だ。

「これは生きてゐる。」と彼は思つた。

「青春とは有り難い。」

 彼は思はず双手を空に上げたくなつた。いかに夫婦生活が牢獄であらうとも、彼は一度妻の健康な身體を抱いて人竝に此の海の中を快活に泳いでみたかつた。もし出來得べくんば、妻をして悄然と自分の影に佇ませずに、群がる男の裸體の中へ溌溂と馳け込ませ、閃めく彼女の肉體から爽やかな昂奮を感じたかつた。

 その夜、彼は生れて初めての夏の多彩な海岸に眩惑されたまま、久し振りに生々としてゐた。が、さて寢ようとすると、また一疋の大きな白い蛾が彼の肩さきにとまつてゐた。

「これはをかしい。」と彼は思つた。

 彼は暫く蛾をじつと見詰めて立つてゐた。

「これは妻だ。」

 ふと彼はさう思つた。すると、俄に、前々夜から引き續いて彼の周圍を舞ひ續けて來た蛾の姿が、戀々とした妻の心の迷ひのやうに思はれ出した。

 彼より先に床の上へ寢轉んで彼の樣子を見てゐた友人のIは、急に起き上つた。

「何んだ、蛾か。」

「蛾だ。」

「よし。」とIは云ふと、いきなり蛾をひつ攫んだ。

「どうするんだ?」

「殺すんだ。」

「よしてくれ。」と彼は強く云つた。

 Iは蛾を握つたまま暫く彼の嶮しい顏を眺めてゐた。彼は此の不意に起つて來た自分の氣持ちを勿論知らう筈もないIの不思議さうな顏に好意を感じた。

「此奴は俺の死んだ家内なんだよ。紙で包んでそつと捨ててやつてくれないか。」

「よしよし」とIは笑ひながら穩やかに云ふと、蛾を窓の外へ捨てて了つた。彼は床の上へ寢ながら、どうして妻が自分に蛾を彼女だと思はせるのかと考へた。もつとも彼自身を彼だと思ふのと、蛾を妻だと思ふのはさう大した變りはなからう筈だのに、しかし、それにしてもわざわざ今の場合、蛾を特に自分の妻だと思ふ自分の氣持が彼には奇怪なことに思はれてならなかつた。



 彼は一週間もするともう華やかな海岸線から倦いて來た。そこで波に洗はれてゐる裸體の人々の形は、彼にとつて別にあの倦怠極まる空の形を變化さすほど、それほども魅力のある何物でもないのが分つてくると、彼はまたぼんやりと恩師の家へ歸つて來た。

 彼はこゝでも、夜いよいよ寢ようとするとき習慣的に蛾が身の周圍にゐないかと見廻した。すると、いつの夜でもどこかに必ず定つてゐるやうに、また白い一疋の蛾がちやんと彼の頭の横で待つてゐた。

「實に不思議だ。これは、しかし、全く不思議な奴だ。おい。」と彼は云つた。

 彼は蛾に近ぢかと頭を寄せて彼女の意志を讀みとるやうに蛾を見詰めた。だが、彼はあの愛すべき妻が、事もあらうに此の憐れな蛾の姿になつてゐると思ふと、それはいかに愚かな彼自身の空想だと考へたとしても涙を流さずにはをれなかつた。彼は蛾を掌の上に乘せながら妻の死の間際に云つた言葉や顏を思ひ出した。──

「もうYは一人ぼつちになるんだわ。私が死んだら、もうYの事をしてやるものが誰もないわ。」

 よしあつたとしても、無論彼女のそれのやうではないにちがひない。が、しかし、どうして彼女についての此の強烈な思ひ出が、かやうに自分を苦めるのか、と彼は考へた。いやそれよりも、彼はいかに自分と離れることを苦しがつたか計り知れない妻の念力を感じると、此のときこそ掌の上の一疋の蛾が、無氣味にひつそりとした物音のやうに生き生きと妻の亡靈に感じられた。寔に此の一疋の蛾が、實に明らかに一疋の蛾であるに過ぎないと云ひ得るごとく、此一疋の蛾が、實に明かに妻ではないとどうして云ひ得ることが出來るであらう。──



 その次の夜、夜が深まるにつれて彼は蛾のことが氣になり出した。彼は夜の深みの中でいつの間にか成り出した果實のやうな丸窓の黒い色を絶えず見た。蛾がもし彼の身邊に忍び込むとすれば、そこからにちがひないことを明らかにするやうに、彼は周圍の襖や障子を閉めておいた。暫くすると、母屋から離れた靜かな廊下の向ふから人の足音が聞えて來た。

「Yさん、Yさん。」

「はア。」

 襖の向ふから呼んだのは恩師の姪の哲子である。

「いらつしやるの。」

「ゐます。」

「あのね、」

「ええ、」

「這入つてもいい?」

「どうぞ。」と彼は云つた。

 襖が開くと哲子はそはそはしながら近かよつて來た。

「あのね、あなたにぜひ逢ひたいつて云ふ方があるの。」

「はア。」

「逢つてあげて下さいな。女の方よ。」

「はア」と彼は答へた。

「あなたに逢ひたい逢ひたいつて云つて、私どうしようかと思つたんだけど、あなた、逢つて上げて下さいよ。」

「誰です?」と彼は訊いた。

「それが私もはつきりまだ訊かないの。まだあなたに逢つたことがないんですつて、さつき私、門の前にゐたら、あなたがいらつしやるかつて訊くんでせう。だから、私、ついうつかりしていらつしやるつて云つちやつたの。」

「ぢや、逢ひませう。」と彼は云つた。

「さう。有り難いわ。ぢや連れて來てよ。私、もしかしたら、あなたにいけないかと思つたんだけど、美しい方なんですもの。」

 彼女はさう云ひながら、もう浮き浮きとして廊下の方へ馳けて行つた。しかし、何ぜ彼女はあのやうに彼に女を逢はすことを喜んでゐるのだらう、と彼は思つた。

 すると、不意に彼の描いてゐた廊下の長さを渡つて來る時間よりも奇怪に早く、トントンと輕い足音が聞えて來た。實際それは意想外の早さで、彼が一と數へてゐるときもう事實は二の終りまで進んでゐると云つた行動で、全くこれも不意に襖がさツと開かれた。

 しかし、これは何と美しく青ざめた女だらう。──これは妻の亡靈ではないかとまた彼は思ひ出した。全く彼女は妻と似た形ではないとしても、蛾に變り得る妻ならいづれ彼女に變り得られる筈ではないか。──女は彼にお辭儀をした。

「こちらへ、」と彼は云つた。

 女は默つて疊の上に坐ると彼の顏を眞直ぐに眺めてゐた。

「何か僕に御用でもおありですか。」と彼は訊いた。

「いいえ、あのう私、ただお逢ひしたかつただけですの。」と女は云つた。

「さう、しかし、どうして僕がここにゐるつて云ふことを御存知だつたんです?」

「私、あなたがきつとここにいらつしやると思ひましたの。」

 勿論、彼が此の恩師の家にゐると云ふこと位は、彼の近況を想像すれば誰にでも直ぐ推定出來ることにちがひなかつた。

「ぢや、あなたは僕の家内が亡くなつたのを御存知ですね。」

「ええ、存じてをります。」と女は答へた。

 しかし、此の女が妻の亡靈ではないとどこをもつて考へるのか、と彼は考へた。が、しかしまた此の女を妻の亡靈だと考へることは、蛾を彼が妻だと思つたことより餘りに奇怪を好みすぎた勝手な考へ方だと氣がついた。

 それにしても事件は不思議に彼の好みにあつた程度に應じて奇怪である。もしも此の奇怪さを利用して女を妻だと決定的に思ひ得るなら、これに越した樂しみはまたとあらうか──

 彼は彼の想像力が、次第に眼前の女を妻だと強ひても思ひ得られるに完全な答へを女の擧動と言葉とから得たくなつた。全く彼が一疋の蛾を妻だと思ふことが出來たなら、あの蛾よりもはるかに完全に妻に似てゐる形の女を妻だと思ひ得られない筈がない。

「あなたは僕の家内の死んだことをどうして御存知になつたんです?」

「私、あなたのお書きになつたものを拜見しましたの。」

「ああ、」と彼は頷いた。

 これでは女がだんだんと彼の喜ばしき幻覺の中の妻の亡靈から遠のいて行くのは間もなくであつた。彼は傍の香爐の中で手なぐさみに香を焚いた。

「あなたは。」と彼は何かを問ひかけた。が、別に問ふ氣ではなかつたのだと氣がついた拍子に、

「え?」と女は訊き返した。

「いや、」

 彼は默つて了つた。

「あなたの奥さまはお若くつていらつしやいましたの?」と女は訊いた。

「ええ、二十一です。」

「あら。」

「ぢや、あなたも?」

「ええ。」

「なるほど。」

 さう云ふ所が確にある。

 二人は暫く默つてゐた。

「あなたはどこかお惡いんですか?」と彼は訊いた。

「ええ、もう胸の方が。」と女は言つたまま下を向いた。

 ──これも妻の病氣と同じではないか。

 しかし、かうも妻と同じだと云ふことは、妻とは全く別の女だと云ふことを何故かくも突如として鮮明に感じさすのか。彼は彼女が彼と妻とのことを讀んで彼に逢ひたくなつたと思ふ氣持ちは直ぐ分る。どこに奇怪な何物があらう。しかし、今の場合奇怪ではないと云ふことは彼が女を妻だと思ひ得られない確實な事實を想像し得たが故であらうか。

 だが、それにしても彼女はあまりに青ざめて美しすぎる。それは夜の花のやうに絶えだえなものではない。どこか愁麗な夜のレールのやうに青ざめて光つてゐる。此の夜の深まつた一室に閉じ籠つてゐる男の前に、不意に鋭い輝きをもつて現れた敏捷な女の靜けさはいづれ奇怪な事實にちがひないのだ。

「まア、此の部屋はどうしてかう風が吹くんでせう。」と暫くして女は云つた。

 風が吹く?──

「どこに風が吹いてゐるんです。」

「あら、こんなに風が吹いてゐるぢやありませんか。」

「風が?」と彼は云ふと、はツと耳を立てるやうに心を立てて部屋の中を見廻した。

 しかし、彼には風と云ふ風は部屋のどこの隅にも吹いてゐるとは思へなかつた。ただ香爐から昇る煙りがもの靜かな煙のやうに靡いてゐるにすぎなかつた。

 彼はじつと身を沈めるやうにして女の顏を見詰めてゐた。すると、女は眼を光らせながら身體を後ろに反らすと、自分の身邊を索るやうに見廻した。

「まア、どうしたんでせう。こんなに……」

「風が?」

「ええ。」

「不思議だ。」

 彼は自分の感覺を疑ふべきか女の感覺を輕蔑すべきかに迷ひ出した。事實は明らかに怪談ではない。それにも拘らず、此の風の有無について此のやうに驚きを感じるとは、これは何たる事であらう。果して事實は怪談であるのかないのか。彼はこの區別に朦朧としてゐると、

「あツ」と女は悲鳴を上げて立ち上つた。

 見ると、一疋の蛾が彼女の片手に拂はれてぱたぱたと疊の上で藻掻いてゐた。

「妻が來た。」と彼は思つた。

 すると、蛾はまた羽根で疊を叩きながらしつこく女の足の方へ進んでいつた。

「あツ、あツ、」と女はけたたましい叫びを發して部屋の片隅へ馳けすくんだ。

 彼は蛾を掴むで捨てることが出來なかつた。少くとも、女を妻だと思ふより蛾を妻だと強く思つてゐる彼としては、その自分の妻を捨てて女を助けると云ふことは出來なかつた。と、女は蛾が彼女の足もとまで羽ばたきながら近か寄つたとき、急に襖を開けて部屋の外へ飛び出した。その瞬間、彼は女が悶絶するほどの恐怖を浮べてさツと振り廻された衣のやうに飜つた姿を見た。



 そのまま女はもう再び彼の所へは來なかつた。翌朝彼はひとりまた旅に出た。彼は前夜の不思議な女に關しては、ただ女が偶然にも蛾に本能的な恐怖を持つてゐたにすぎないと、ごく平凡な解釋を下して滿足しようとした。

 それなら、あの蛾は?

 いや、夏だ、蛾ならどこの電燈の下にだつてゐるにちがひない。

 彼は夜M町へ着くと、ホテルの日本間を借りて直ぐ仰向きに寢た。彼はのびのびと兩手を横に大きく擴げて出來るだけ大の字形になつてみた。彼はもうそこから出來ることなら動きたくはなかつた。しかし、もし本當に動かなくてすませるものなら、人の通らぬ野の雜草の中へ頭を突つ込んでいつまでも倒れてゐたかつた。

「どんな不思議なことがあらうとも、どんな奇怪なことがあらうとも、それは一體自分にとつてどうしたことだ。動くものは動くが良い。廻るものは廻るが良い。」

 彼は眼を瞑つて何事も考へまいとしてゐると、女中が夜の膳を運んで來た。彼は起き上つて箸をとつた。

「とにかく、俺は腹が空いて仕方がない。これだけは事實だ。」彼は膳に箸をつけようとして、ふと膳を見ると、また、一疋の蛾がじつと膳の縁にとまつたまま彼を見てゐた。彼は寒さを感じた。彼は暫く箸を持つたまま動けなかつた。

「いや、夏だ、蛾はどこにだつてゐるにちがひない。」

 彼は敢然として刺身を口に投げ込んだ。

底本:「定本 横光利一全集 第二卷」河出書房新社

   1981(昭和56)年831日初版発行

底本の親本:「春は馬車に乘つて」改造社

   1927(昭和2)年112日発行

初出:「文藝春秋 第四年第十號」

   1926(大正15)年101日発行

※「煙り」と「煙」、「こゝ」と「ここ」の混在は、底本通りです。

入力:姉十文

校正:みとこ

2017年825日作成

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