和州地名談
柳田國男




「さらぎ考」という論文を、『大和』誌上に見出した時から、私はいつかは一度、大和の地名という問題を考えてみたいと思っていた。明治十九年以前にできた地理局の小地名調査は、奈良県の分は相応に綿密で、自分もその中から若干の抜萃ばっすいをして持っていたのだが、誰かに貸してあって今は利用し得ない。そうしてその原本は焼けてしまったのである。控えが県庁にあるか、あるいはまた分散してそれぞれの町村にでも伝わっているか。とにかく地名は決して一地限りで生まれたものでない以上、比較ができなければ本当の意味はわからぬと同時に、比較によって思いがけないことを発見し得る望みもある。私がこれを日本民俗学の練習に、利用してみようとした動機はそこにあった。しかも大和は最もこの方法を説きやすく、かつ多くの人の関心をこの方面に、集注せしめやすい国ではないかと思っているのである。

 最初私はもっと弘い地域、たとえば中国一帯とか奥羽六県とかにわたり、また時にはわざと懸け離れた遠方の土地から、似寄ったたくさんの地名を拾い集めて来なければ、この比較の事業は完成せぬように思っていたが、それは現実にそう容易な試みではない。地方の学者の免れがたい弱点は割拠であった。えらい人でも他所の事は知らない。またそれでよいものと心得ている。その反動としては、たまたま少しばかり外の事実を手に入れると、釣合いもなくそれに価値を置き過ぎる。結局全国をまんべんなく、見渡し得る時まで待たなければならぬのである。ところで大和で地名を考えてみようとする場合ばかりは、そうまで待ち遠しい思いをせずとも、ここだけでも若干の成績が挙げられそうな気がする。少なくとも地名が一民族の文化史の上に、どれくらいの発言権をもつかを見究めるだけは可能であって、従って他所の類例を捜す熱意と、それを判別する鑑識とを養い、ある程度孤立の不利を補い得るかと思う。自分は余力が乏しくて何の助勢もできそうにないが、将来地名研究の新機運が、特に大和の地に興らんことを期しまた念じている。



 地名が千年以上の治乱盛衰を貫いて、切れまもなくきて働き続けていた実例を、大和のように顕著にまた数多く持っている地方は、内外を通じて実はまれなのである。単に昔の記録に見えているというだけなら、あるものはもっと古くまた詳しいかも知れず、それを現在に当てはめて疑いなくここのことだと、立証し得るものも多いかは知らぬが、中古久しい間書冊とは縁がなく、言葉はただ口から耳へ、授受していた人の住んでいたことを考えると、そんなのは復活でありまたは再認識であって、長く地名の生きていた例にはならぬのである。古代大和人の血脈が絶えず、大きな移住もなく入替りもなくて、前代後代が順ぐりに、始終話頭にのぼせていたればこそ、この記憶は永く続いたので、同じ文化の連鎖は地名のみと言わず、あるいは今一段と奥底に横たわるものにも、及んでいるかも知れぬのである。

 この一部の精確な保存があるために、第二の体験もまた有益なものになっている。それは地名の消滅と変化で、かつてはあれほどにまで重要であり、または歌謡の咏歎えいたんの中に、入って来たほどの感動深い地名でも、時が経ちまた何かの原因があれば、忘れてしまいもすれば横なまっても伝えられる。広い一郷の称呼が田畠の小名に残り、もしくは知らぬ間に場処がずれている。もとよりその中には若干の牽強附会けんきょうふかい、土地をぜひとも旧蹟と見たいという念慮もまじっていないとは限らぬが、とにかくに地名の残ろうとする力は相応に強い。それにもかかわらずこれと対抗して、新たに構造しなければならぬ必要が人生にはあったのである。まのあたりこの変化の幾段階を見比べる機会がなかったら、あるいは国が古いからすべてのものが古かろうと思い、または時代がすでに新しいゆえに、いっさいはすべて改まり尽していると推断して、過去千年の間の生存の要求、それがおのおのの時代に常に重要であって、文化を現在あるがごとく形づけずにはいられなかったことを、考えない人の数が今よりももっと多かったであろう。

 奈良朝・奈良文化などという言葉の流行は、あるいは少しばかり奈良県を災いしている。ここは全国でも珍しく人の多い、生活利害の最も錯綜さくそうした、言わば日本の見本のような地方であるのに、外から訪う者ばかりか内にいる人まで、これを万葉遺物の包含層ででもあるかのごとく、眺めようとする気風が強くなっている。どこかの部面には前代と比べて、零落している点もないとは言われぬが、少なくとも庶民の物質文化は、年とともに進展しているのである。かりに中世以降の史書は乏少であろうとも、これをもって空無と同一視することはできない。他にもまだくさぐさの痕跡はあるであろうが、地名の変遷と増加のごときも、また一つの歴然たる文字以外の史徴である。



 大和の実験はおそらくは我々の好参考であろう。地名が前代生活の無意識の記録であることは、他の府県においても変りはないはずだが、土著が新しかったり、住民の移動がしげかったり、起原が複雑であっていかようの想像でも成り立つ上に、上代の記録がないから古今の比較ができず、消えたり動いたりまちがえたり、また新しいものが次々に加わったりしたことを、確かめてみるような折がないので、理由もなく一ぺんに生まれたものと思い、または最初の形のままだときめてしまって、強いてこじつけの解説を下そうとする人ばかり多いのである。大和には限らぬが近畿地方の地名は、幸いにしてちょうど正反対の条件を具えている。誰にも気が付かずにいられぬことは、村がおいおいと開け戸口が増加するとともに、これに比例して地名が多くなって来たという事実である。たった一つの名で漠然と呼ばれていた広野でも、家が建ち小路が通れば曲り目ごとに、小さな区劃ごとにあざというものが入用になる。今まであったので間に合せる場合は少なく、後から附け添えて新旧いろいろの地名が、隣を接することになるのは自然である。記念すべき上代の故跡に近いから、どれもこれも古かろうなどということができないのは、土地の人自身がまずちゃんと心得ている。ただ外部の者から古そうだと言われて、強いて苦情を唱えるほどの根気がないだけである。

 しかも新しい地名と言ったところで、そう近頃のものが多かろうはずはない。普通の人から見れば一様に皆昔だ。それを順序立てて乙は甲より後、丙がすでに生まれて丁のまだできなかった期間が、どのくらい続いたろうかというようなことは、大切な歴史であるがまだちっとも教えられていないのである。今日の歴史教育は常に「昔」を押し平めて、煎餅せんべいのようにして観るようにしか教えていない。日本人の過去生活には、見霞むような奥行のあることを、考えたり感じたりする習慣はちっともない。ことに中古以来の数百年は、何の努力も喜怒哀楽もなしに、一飛びにでも抜けて来たように見られている。大和は少なくとも絶対にそうでなかったことは、人が賢いという一事からでも立証し得られる。ただいわゆる事件を起さなかったか、あるいは起しても甚だしく小さかったために、それが年代記の上に顕われていないだけである。彼等が平穏無事の間に積み上げたものは、土地とその利用状態とであるがこれは物を言わぬ。物を言うのはおそらくは地名のみだが、これが次々の先祖の足跡を遠望する唯一の目標であることを、今はまだ心付かずにいる人が多いらしいのである。



 この資料の粗末になりやすい原因は、主として分量のあまりにも多いからであるようだが、そんなもったいない話はないと思う。地名そのものにはいっこうに時代性が表われていないから、目安が立たぬようにいう人もあるが、これも実際は注意が鈍いためで、たとえば同じ開墾の結果を示す呼び名でも、時代時代につれて用語の差の著しかったことは、土地の制度を調べた人なら皆知っている。それに引き当てたらできた時期はほぼ判る。信仰にも推移があって、神仏の名からでも、またこれに伴なう行事慣例の特徴からでも、起りの察せられるものがいくらもある。田地の一団にそれぞれのい名を附け、または柿のもととか松の本とか、目に立つ老樹によって屋敷を呼ぶなどという風習には、よほど早い頃に始まりかつ近世まで続いているものもあるらしいが、これとてもよく見れば植物の種類、それと場処との関係、またはこれを記念する言い伝え等に、おのおの時代の異なる姿が認められるのではないかと思う。

 それよりもさらに概括して言い得ることは二つ、第一に地名の意味すなわちもとの趣旨が、古くなるほどだんだんと不明になる。従って何とも解しにくい地名が、だいたいに古いものと見てよかろう。最初から意味なしに人が名を下そう道理はなく、いずれは日本語であって国栖くず土蜘蛛つちぐも言葉の伝わるものは稀有けうだったろうが、それがこじつけようにもほとんと道がなく、是非なくそのままで暗記しているというのは、一応は古くなって元の単語が消え、もしくは知らぬ人の片こと、言いそこないが、通用しているものと認めてよい。日本では武蔵・出雲という類の国の名の大部分、その他に有名な名称が数十あって、はやくから問題になっているが、これらは大切な国語史の資料として、別にまた広汎こうはんな比較方法により、行く行く復活して見られる見込みのあるものである。大和にそういう上代の固有名詞の、よそよりずっと多く残っていることは事実であろうが、さし当りの地名研究には、それだけは別の扱いにして、ただ我々が少し考えれば判るものが、何でも古かろうという予断の下に、やたらにその古い中へ押し込まれるのを、用心していればよいかと思う。

 第二に言い得ることは、古い地名は消えて行く一方で、新たに発見せられるということはまずないゆえに、現在の総数から見ると割合がぐんと少なく、世がくだるとともにだんだんと数多くなって、最近はもう新たに添加する余地もないから別だが、少なくともまだ開発の可能であった江戸時代の中期までは、後になるほど増加率が大きかったろうということである。その結果の実際の上に見られるのは同種地名の数である。だいたいに一つしかない地名、他ではいっこう聞いたことがないというものが古く、そちこちに折々似たものがあるというのがその後の発生で、いくらも村々に例があるというのが、さらにそれよりも新しい地名であると、推定してまちがいはなさそうである。そういう事実を確かめようとすれば、せめては奈良一県だけでも共同して調査するの他はない。各自の土地ばかりで勝手な推断を下していては、わかるべきものもわからず、どれもこれも万葉以前からあったかと思うような、先入主を脱し得まい。



 大和の地名が興味ある研究題目であることは、よほど早くから私なども感じていた。故高橋健自氏は大和で完成した考古学者であったが、毎度我々のために地名の話をしてくれられたことがある。その話の一つとして今でも記憶しているのは、あるいは他の人も言うことかも知れぬが、大和には土佐とか能登とか、国号を地名にもつ土地が非常に多く、捜したら全部がそろっておりはせぬかと思うばかりである。これには何か理由があるだろうが、心当りはないかというような話であった。私が寡聞かぶんなためかとも思うが、古い記録の中には思い合せるようなことはなく、また単独にも推測し得られる原由はない。つまりは一つの史上の不思議である。たとえ全部でなくとも十以上、もしも二十近くもそういう例が見つかるならば、これだけからでもかなり重要な過去の事実が、発見せられる日が来るのではないかと思うが、果してそのように数多くの国号地名が大和にはあるのであろうか。もしあるとするならばこれをいつの頃どういう事情の下に現われたものと考えてよいか。いずれの側から見ても我々には興味が深い。個々の観察者は必要上、いつもやや大まかな類推法を使おうとする。もしもこの場合に何かあってもよいような原因が仮定し得られたなら、あるいはそれから逆戻りに、証拠はもっとあったのが消えたのだろうという風に想像したかも知れない。幸いなことにはここではほとんと見当が付かぬので、今後の協同の研究に残されているのである。

 もちろん古い事跡の埋没しきっているものはまだ多い。それが微々たる地名の暗示によって、次第に顕われて来ることも期待してよい。あたうべくんば幾つかの仮定を立てて、当否を試みることも許されるであろう。ただその推論はどこまでも客観的で、誰の目にも安全なものでなければならぬ。日頃かくあれかしと念ずる方へ、ないしは反対する者の少なそうな方へ導いて、楽をしようとする態度は面白くない。むやみに危惧きぐするのも不道徳かは知らぬが、一般に今日の論文は簡単過ぎる感じがある。もう少し複雑な原因の組合せを、予想する習慣を付けないと、せっかくこの方面の開拓を始めても、収穫を挙げる日はかえって遅くなるであろう。



 このごろようよう自分達も用心するようになったが、地名の音声とこれを表わす文字とは、たいていの場合には時を同じくして生まれてはいない、というよりもその間が相応に隔たっている。たとえば南葛城みなみかつらぎ郡の一区域をサラギと呼び始めた人と、そのサラギに蛇穴という漢字を宛てた人とは、祖父母と孫との続きだったかも知れぬし、またもっと離れていたかも知れぬ。その心持は前後同じであったとは限っていない。子供の名前などこそ近来は始めから文字によって付けるが、それでも人からは始終まちがえて書かれる。まして久しい間口でばかり呼んでいて、何か必要があって記録の上に、それも咄嗟とっさの間に文字にして掲げるのだから、当字あてじが必ずしも最初の意味を、代表しておらぬのは不思議でない。大和の地名には漢字渡来前、さらに何百年も古いものが段々ある。しかも一方にこれが現存の記録となったのは、阿直岐あちき王仁わによりもまた何百年か後のことで、両者の間隔は大分開いている、ということに注意する必要が、この地方はことに大きいのではないかと私は思う。

 ちょうど適切な例だからサラギ蛇穴の問題に触れるが、決して野村さんの説をばくする意味ではない。同じく前代大和人の判断を、推測せしめる痕跡とはいいながら、土地をサラギと呼び始めたのも一つの事実、それに蛇穴の字を用いることにしたのもまた一つの別の事実で、私はこの間にかなりの歳月があったものと思っている。サラキという日本語は古今を通じて、幸いにしてそう幾通りもできてはいない。『延喜』の諸式を見ても盆または瓼等の文字に、サラキもしくはサラケの訓が下してあって、土器の一種の名としてあの頃までは、ごく普通の名詞であったことが察せられ、少なくとも祭の奉仕者には、まだ久しい間知られていたろうと思われるから、これを生産する土地として、地名に呼ぶことになったのも自然である。ところがそういう古い言葉でも、使わぬ人が次第に多くなったとみえて、いつの頃からかこれをサラギと濁音にしてしまったが、これまた幸いなことには他にそういう名詞はできていない。『太平記』などにも出て来る鎌倉の武士、大仏某をオサラギというのは異例なようだが、これはサラキとよく似た土器の一種に、ホトキまたはホトケというものがあるので説明が付く。仏ももとはホトケまたはサラキに対する新しい宛字であったのを、後には逆推して大仏を、オサラギと訓んでもよいように思っただけで、それもこれもサラキという古来の物品が、だんだんに名を知られなくなった結果と見られる。



 サラキもしくはサラギに蛇穴の二字を宛てるというのも、そうなってからでないとできぬことであろう。土器の一種にサラキのあることはすでに忘れ、蛇穴をサラギというようになった時代でないと、ただ単独にこんな文字を用いても、通用するはずはないと私は思う。蛇穴は何かということが今はやや問題になっているようだが、これはまだ推測する道がある。誤字としてしまえば簡単に片付きはするものの、それはなお少しく捜してみて、絶対に蛇穴をサラギなどといったことがないと、確かめてからでないと順序が悪い。関東地方で蛇がトグロを巻くというのを、北陸や佐渡の島では皿になるといっている。サラもサラキも多分は一つの語であろうから、まだ一隅にはそういう語が残っているのである。私などの在所では蛇コシキ、あるいは蛇がコシキ(甑)をかくというが、現在は近畿地方もそういっていることと思う。甑も皿もまたトグロ・ツグラも皆同じで、今では土器の製法はすでに変り、ただわら製のツグラだけにしか残っていないが、以前は埴土はにつちひもをぐるぐると輪に重ねて行って、すべての円い器物を造っていた。それがいつの頃まで続いたかは考古学が答えてくれるだろう。とにかくに蛇のトグロをサラギといい始めた時代までは、まだそういう製法があったので、もっと細かいことを言えばそれから後、両者の共通を忘れて蛇の方だけを知っているようになってから、いと無造作に蛇穴の字をサラギに宛てたものと見られる。近来は蛇も悠長でなくなり、たまたま一匹だけが皿を巻いているのを見るばかりだが、話に残っているのは大小幾つもの蛇が、順々に輪になっていることがあるといい、それを見たものが勇敢に手をその穴に入れると、底には必ず宝物があるといい、これを得て立身した話がたしか『美少年録』の始めの趣向にもなっていた。江戸の随筆にはこの中から一枚の古銭を得たという実話さえ出ている。少なくとも蛇穴は近世までの一つの話題であり、またおそらくは一種の霊異譚れいいたんの種でさえあった。土器の製作の根源が蛇の習慣から、暗示を得たというような想像も成り立ち得たかも知れない。これがやや事を好んだ地名の文字になっているお蔭に、昭和の我々までがこの前代生活の一端に触れ得たのだから、珍重しなければならぬ無形の遺物である。私の地名談は竜頭蛇尾、長いばかりでいっこうだらしがない。蛇のサラギのごとく崩れてしまわずば幸いである。

(『奈良叢記』昭和十七年一月)

底本:「柳田國男全集20」ちくま文庫、筑摩書房

   1990(平成2)年731日第1刷発行

底本の親本:「定本柳田國男集 第二十巻」筑摩書房

   1962(昭和37)年825日発行

初出:「奈良叢記」駸々堂書店

   1942(昭和17)年110

入力:フクポー

校正:木下聡

2020年428日作成

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