雛祭りとお彼岸
折口信夫



明治以後、暦法の変化によって年中行事の日取りが変ったものと、変らないものとがある。だから、三月の行事といっても旧暦によって行っている行事はもと二月であったものが三月のこととなり、旧暦の日取りをそのまま新暦に移したものは依然として三月に行っている。後者でいえば東京の雛祭りがそうだが、多くの地方では未だに旧暦で行っている。例えば雛の節供(節の祭りとともに供え物をする意味)に用いる桃の花なども、新の三月三日には室咲きを用いなければならぬ、といった錯誤が起ってくる。前者の方でいえば彼岸会の如きものがある。この二つを中心に新旧三月の行事を解説してみよう。

現在では彼岸の中日が、春秋両季の皇霊祭と重っているので一層複雑になってきた。だが普通彼岸会なるものは仏説によって成り立つというが、根底から仏教的のものではない。ただ彼岸会を修することのはじまった頃──凡そ平安朝初期とする説が正しかろう──には、春分・秋分の日から各七日間行ったことは事実で、ここから彼岸会の根本精神を解く手がかりも生ずる。つまりこの季節に当っては、日が正東から出て正西に入る。いわば彼岸なる阿弥陀の浄土に最短距離を示す日であるわけだが、こうした暦法を詳しく知らない時代の人が、勿論こんなことを考えるわけはないが、暦法を理会りかいすると同時に、それ以前の信仰を合理化し、新しい年中行事が起ることになる。即ち彼岸会の考えられる以前にその根底があるわけだ。叡山の坂本には古くから彼岸所なるものが廿一ヶ所あり、ちょうど古く叡山にあった彼岸談義所に相当している。春分・秋分に当って、そこで談義を行ったところから起ったものと思われる。国々ではこの頃から晩春へかけて女の山籠りが行われ、叡山でもこれより遅れて、里の女達がみな山に登って山の花を折りかざす行事があった。

恐らくこの行事に関連して起ったものが比叡の談義所だと考えられる。その遺風と思われるものが今もあって、地方ではなお「日の友」などと称して彼岸の中日、東に日の上る頃から、西に日の沈むまで、篤信者が野に出て一日歩き廻っている。この行事は恐らく山籠り──山に遠い地方では野遊び──の風習をほかにしては説明出来ない。比叡についで大阪の四天王寺の彼岸会は見逃すことができないもので、その中日には、善男善女が寺の西門に集まって日を拝む習慣がある。四天王寺の塔は極楽浄土の東門に向っていると信ぜられ、春秋彼岸の中日が一等適切に西方浄土と相向う日と考えたものである。これらが彼岸会なる風習がわが国に生じた、最も強い仏教的根拠といえばいえるが、むしろ春分に近い春の日に山籠り・野遊びをする風習があったことを示していると見るべきであろう。

山籠り・野遊びというのは、里の神事に先立って女だけの共同の物忌みの日があったわけで、里の異性達の眼の届かぬ場所に籠ることによって行われるのである。これが後には春の行楽として、運動会・修学旅行などの古風なもののような形をとった地方もあるわけだが、この山籠り・野遊びが雛祭りと結合している地方が多い。雛祭りは王朝の風流に幻惑されて、支那伝来のものばかりと思われているが、平安朝の物語類をみると、現在でも地方に残っている禊ぎが行われた名残であることを示している。例えば光源氏、須磨謫居のくだりにも、三月の節供に大きな人形──自分の姿に似せた人形を船にのせて流す描写がある。

近代でも川に近い地方では、この日形代かたしろを川に投ずることがあり、「お名残り惜しや。来年もござれ」という類のことをいう。このこと及びいわゆる立雛の形から、雛人形は禊祓に用いる形代の変化と考えるべきである。その形代を直ちに流し捨てることもあったろうが、常に座右において親しんだことから人形となったが、何故上巳じょうしが女、端午たんごが男の節供となったかというと、前述の山籠り・野遊びの時季になっていたに過ぎないのである。

底本:「仏教の名随筆 2」国書刊行会

   2006(平成18)年710日初版第1刷発行

底本の親本:「折口信夫全集17」中央公論社

   1996(平成8)年

初出:「東京日日新聞」

   1936(昭和11)年229

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2019年222日作成

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