暗い花
林芙美子



 いつものやうに、ハンカチーフ一枚で朝湯に飛び込んだ。どこかのお神さんらしい一二度、この風呂で出逢ふ女が、もう、小太りな、眞白い躯を石けんで流してゐた。向うもつんとしてゐるから、こつちもつんとしてゐる。男湯の方は馬鹿に森閑としてゐた。房江は一人でのびのびとあをむけに湯につかつて、高い天井を眺めてゐた。熱くもなく、ぬるくもなしの湯かげんで、これが電氣で沸くのかと、房江はうつとりとなつて、まづ氣持ちのいゝ湯かげんに滿足してゐるうちに、今朝がた別れた厭な男のことも、もやもやと心のなかから消えていつてしまふのだ。

 どやどやと硝子戸が開いて、二三人、賑やかな女の聲が番臺の方でしたかと思ふと、間もなく、背の高い女がさつと淺黒い躯でしきりの硝子戸を足で押して這入つて來た。

「空いてるよツ」

 あとからも、二人ばかり、話のつゞきなのか、

「殺されるのはかなはないけどさア、何だわねえ……一寸、興味があるわねえ」

「だつて、裸にされて、首をしめられるの厭だわア」

「それがさア、いゝんだつて云ふンぢやアない? その男、四人も殺してるンだつて凄いわねえ……」

 喋くりながら、二人とも小桶を鷲づかみにして、ざアざアと湯をつかつた。

「住友のお孃さんをかどはかしたのだつてさア、面白い事件だわねえ……汽車へ乘つたり、宿屋へ泊つたりしてるのに、よく、十二三にもなつて、のめのめとついて行つたものねえ、汽車でも、宿屋でも、何とか、助けてくれつて人に云へなかつたのかしら?」

「よつぽど面白かつたのよ。その男、きつと何とかうまいのよ。さいみん術にかゝつたみたいなのねえ」

「十二三ぢやア、無理なのぢやない?」

「何が?」

「何がつて……」

 三人ともわアと笑ひ出した。

 房江も笑つて皆の方を向いた。

「あら、あンたもう來てたの?」

 房江と同じやうに、後からはいつて來た三人も、ハンカチーフ一枚の組。手拭なぞ、誰も持つてはゐない。パアマネントは、明るい浴場では馬鹿にごみつぽく見える。唇は眞紅、眉墨はとけて流れるやうに長く描いて、どの顏もみな似たりよつたりのメーキアップだ。

 しきりの硝子戸から、番頭がのぞいて、

「壽屋のお神さん、按摩さんが來ましたよ」

 と、流しの方へ聲をかけた。ぱアと明るかつた朝陽がかげると、あたりにじわじわと湯氣が立ちはじめて、雨もよひのやうな陰氣な光線に變つた。

「あら、このお風呂、按摩さんゐるのかしら?」

「ゐるンでせう……」

 すると背の高いのが、

「をばさん、こゝに按摩さんゐるンですか?」

 と先客の、さつき「すぐ、上りますよ」と返事した女に聲をかけた。

「えゝ、頼めば來てくれるンですよ」

「まア、何處で揉むンです?」

「二階で、揉んでもらふ部屋があるのよ」

「あら、いゝわねえ、あたいも揉んでもらはうかしら……をばさん、按摩さんいくらとるンですか?」

「十五圓がきまりね」

「へえ……隨分高いものなのね」

 軈てお神さんは、一風呂浴びて、さつさと上つて行つた。むきたて玉子のやうな、ぽつてりした躯を、眞新しいタオルで悠々と拭きたてて上つて行くと、房江がぷつと笑つた。すると、あとの三人もくすくすと笑ひ合つた。

「金太郎さんそつくりね」

「眞白い石けん持つてたわ。──あの指輪ダイヤでしよ?」

「見なかつたわ」

 このハンカチーフの一組は、不思議に、顏だけは洗はない。子供がいたづらをしてゐるみたいに、湯を相手の肩や背中にはじきあつてみたり、流しの石の上に立つて、犬猫體操をしてみたり、鏡の中へ、思ひつきり脚を高くあげてみたりして遊んでゐる。石けんもなければ櫛もない。貧弱なハンカチーフ一枚がたよりで、じやぼじやぼと湯にたはむれてゐる。

 仲間の風評話や、昔の思ひ出話、男の話、故郷の食物の話にしばらく身がいつて、それからどやどやと濡れた躯のまゝ、さつさと上つてゆく。ハンカチーフは片手で一握りのまゝきゆつとしぼつて、べとついたまゝのを、ほんの一寸、躯にこすりつけて拭いたと云ふかつかうだけで、生がわきの躯へ、汚れたシュミーズをわざと裏がへしにして着るものがゐる。房江が、レースのついたピンクのパンタロンをつけると、三人とも寄つて來て、

「あら、いゝわねえ、何處で買つたの?」

 と、珍しさうに眺めてゐる。

 四人とも住む家は違ふけれども、一度、築地の經理學校のところで行きあつてから、約束もしないのだけれど、何となく二三度行きあつて、繩張りがきまつたやうになり、各々、いろんな相手を、その場次第で見つけてはそのかいわいをうろついて夜をあかすのである。類は友をよぶの種類であらうか。

 此の金春湯は、朝四時半から電氣で沸いてゐるので、女達には至極便利であつた。一夜の汚濁に浸みた躯をさつぱりと、七十錢の風呂でみそぎをして、各々郊外の吾家へ戻つてゆくのだ。──いつも家を出る時は、手拭と石けんを持つて出ようと思ひながらも、きまつて、此樣な女達は忘れて出てゆくのである。そして、朝になると、小さいハンカチーフ一枚で金春湯へ飛び込むことになるのだ。

 四人とも、朝のすがすがしい街を銀座四丁目まで歩いて、それからてんでに別れて、市電に乘るもの、地下鐵に乘るもの、バスに乘るもの、房江は背の高い女と市電に乘つて新宿へ出て、終點のガードをくゞつて、中野行きのバスに乘るのだ。

 今日も、房江は薄陽が射したり、かげつたりしてゐるバスの停留所に立つて、十分ばかりもぢつとバスを待つてゐた。

 こゝまで來ると、房江はきまつて、土の中に落ちこむやうな淋しさになつて來る。一日ぢゆう穩かに過せる安心がありながら、その穩かさが、房江にはかへつて不安になつて來るのだ。甲州行きの汽車が、ガードの上を地響きさせて通つてゆく。ジープが走つてゆく。トラックが山のやうな木箱を載せてよろよろと走つてゆく。かげつてゐた陽が、幕を閉ぢたやうにふつと薄暗くなつた。雨でも來さうなしめつた空あひである。

 待ちくたびれた處へやつとバスが來た。

 バスは案外空いてゐた。ふつと、昏くなつた不安な思ひが杜絶えた。見るともなく燒跡の景色を眺めてゐると、氣もつかないうちに、あたりは何時の間にかすつかり秋めいて、猛々しく繁つてゐた唐もろこしも、藷畑も掘りかへされて、ところどころに水々しい大根の葉が黒土に鮮かに見え始めてゐる。

 中野の驛前で降りて、果物屋で二十世紀を一つ買つて房江はアパートへ戻つた。昨夜、鍵をかけて出た筈だのに、扉が少し開いてゐる。妙な氣がして、房江がそつとのぞきこむと、狹い入口に、新しい地味な下駄が一足そろへてある。扉をぐつと押して這入つてゆくと、

「おや、おかへりかな?」

 と、思ひがけなく、おふくろが顏を出した。

「何だつて、急に、また……」

 怒つた表情で、房江が生がわきのハンカチで眞紅な唇を急いでこすりながら、

「厭だわ、不意に出て來たりして……」

 敷きつぱなしの寢床はたゝまれて、あたりはきちんと片づいてゐる。

「電報でも打つて來るつもりだつたが、急に話があつて來たンだで、まア、勘辨しておくれえな」

 おふくろは、おろおろした樣子で立つてゐた。房江は、此日頃の不機嫌をいつぺんに吐き捨てる相手がみつかつたかのやうに、ぷりぷりして買物袋を疊に投げ出した。そして、電氣コンロにスイッチを入れたけれども、停電とみえて、ニクロム線が少しも赤く光つては來ない。すると、また腹が立つてきて、開き放した硝子戸をぴしやりつと閉めた。

「壯吉が百日咳でなア……」

「へえ、醫者にかけてるの?」

「醫者にも診て貰うてるだけど、何にしても長いこんでなア……」

 房江は梨をむいて、古新聞の上に置いて四つに切つた。別に、おふくろに食べろと云ふでもなく、一切をむしやむしやと食べはじめた。おふくろは、大きい風呂敷包みから、キャベツと粉の袋だの、米の袋を出して疊に並べてゐる。

 房江は寢不足で頭の芯がづきづきしてゐた。押入れから、ピースの箱を出して、一本唇に咥へた。七輪のそばから、よれよれのマッチを取つて來て、何本も無駄にしながら、やつと、煙草に火をつけると、ふうつと美味さうに吸つて、脚を投げ出して壁へ凭れた。

 半年ぶりに逢つた娘の無雜作な、無作法な姿に呆れ返りながら、おふくろは暫く默つてみつめてゐた。

「何時に着いたの?」

 娘に優しく言葉をかけられると、おふくろは急にまた嬉しさうな顏になり、

「六時頃着いたけンどなア、探しまくつてゐたもンで、さつき來たばかりださ……」

「汽車は混んでたのでせう?」

「それがさ、まるで、どぢやう鍋みてえに混んでさ、わしやア、昨夜、まんじりともしねえのださ。それでも、やつと、腰だけはかけられた……」

「健ちやんはどうしてるの?」

「あれも學校さ、やめてしまうて、いま、庄さんの世話で製材所へ勤めてるでのう……」

「なつさん元氣?」

「うん、相變らず躯弱くて困るなア。兄さんが戰死さへしなけれやア、あれも、あんなに氣いおとす事もないけンども、何しろ、まだ若いだで、里へ戻す方がえゝと思うとるのよ。子供がなかつた事が一番しあはせさアねえ……。それで、健とも話したンだが、なつに戻つて貰うて、家、たたんぢまうて、健とわしと、房のところへ行つて、親子水いらずで働けばどうだらうつて話になつたので、近頃、郵便ぢやア埓あかねえ事だし、わし、突然になア、お前に相談打ちに來たのださ。──考へれば、いまのところ、それが一番えゝだで、お前も月給取つて、一人でまンま炊いて會社へ行くより、わしがまンま炊けば、健も勤めに出ればいゝしさ、そンな事でもして細々とでもやつてゆくのが、一番えゝことだと思ふでなア……」

「だつてえ、東京へ出るつたつて、第一轉入なンて出來つこないのよ。それに、健が來るにしたつて、この東京に、健のやうな學校にも行かない田舍者を何處で使つてくれるのよ。東京は廣いけど、人が山ほどゐるンだもの、二百や三百の月給を取つたところで、第一、暮せつこないわ。──東京は、人一人の生活が月千圓近くはどうしてもかゝるンですもの、どうして、一家族四人も食べてゆけるのよ」

 おふくろは途方に暮れてしまつた。たとへ、四疊半の破れ疊でも、一家四人が住めない事はないし、第一、房江一人で住むには家賃ももつたいなからうと、さつきから、おふくろは胸算用をして、もう、東京住ひしたやうな氣で、汚れてどろどろになつた、猫の額ほどな臺所も綺麗に掃除をしておいたのである。どんなものを食べて生きてゐるのか、押入れにも、棚の上にも、食べ物らしいものは見當らない。

「田舍も苦しくて、わしも、よくよく辛抱しきれねえでやつて來たのさ。──それに、四月もお前から金が來ないし、わしも、なつにきまり惡いし、なつは何も云はねえでも、あれも、お前を案じてゐて、病氣でもしてるでねえかなンて云うてるのさ、壯吉もなつになついて、まるでおふくろみたいに後追うて不憫なものさ……」

 相手がみつかりさへすれば、一晩、百圓位にはなつたけれども、月の半分は雨が降つたり、相手のない夜もある。食べてとほるだけが、いまのところ、房江にはせいいつぱいのところであつた。

「もう、一寸、何とか我慢出來ないものかしら……私も、いまのところ、とても苦しいのよ」

 房江がものうさうに疊に横になつた。眉毛に墨を塗つた、眼のふちにまでくまを入れてゐる娘の顏が、おふくろにはどうしてもかたぎに見えないのだ。娘の勤めさきも、あまり香ばしい風でもない事が見てとれる。

 房江は腹が空いたので、管理人のところの細君に頼んで、鰻の燒いたのを五十圓ほどと、コッペパンを買つて來て貰ふやうに頼みに行つた。

 暫くして、鰻の竹の皮包みを、細君が持つて來てくれると、それを皿に入れるまでもなく、竹の皮の包みごと、疊へ開いて置いた。

「おつかさん、お上りよ」

「珍しいものだねえ。東京つてところは何でも賣つてるだね」

「うん、これ、一串十五圓位するンだよ」

「ほう、えらい高價なものだなア……吃驚するだねえ。もつたいなくて食へねえなア」

 串を拔いて、小さくちぎつて頬ばると、燒きたてのせゐか案外美味かつた。

「お前、まンま、自分で炊かねえのかえ?」

「忙はしくて出來ないから、外食券でやつてるのよ。このごろは、食堂も藷ばつかりで厭になつちまふ……」

「東京は、薄情なところだのう。よくそれで躯がもつ事だよ」

 思ひがけなく、おあつらへ向きに電氣がついた。房江は電氣コンロに凸凹のやかんをかけてスイッチを入れた。おふくろは呆れたやうに、じいんと唸り出したコンロを眺めてゐる。東京の便利さが、味氣ないものに思へてきた。

「お前、産婆さんの拂ひ、まだ濟ましてねえらしいが、どうなつてるだアね? きつい叱り状が來て、おれ、恥づかしくて仕方がねえ」

「男の方から拂つてある筈よ」

「そんな事ア知らねえけど、とても憤つて來てたぞ」

 房江は壯吉の父親の事を思ふとむしやくしやして仕方がなかつた。信州の田舍から、村の娘達十五六人が一つの集團になつて、蒲田の工場に追ひやられて、寮生活をしてゐるうちに、房江は營業部の恩田となれそめてしまつた。恩田はもう四十を過ぎて、埼玉の田舍には、妻も子もあつたのだけれど、毎日毎日空襲さわぎで、一種の神經衰弱みたいになつてゐた房江にとつては、恩田の家庭の事なんか考へてゐるひまはなかつたのだ。何とか切拔けてゆく一日一日が無上の天地であるかぎり、その狹い世界だけで、頼りあふ異性に凭れてゆく便法をつくらなければ、その當時は、ゐても立つてもゐられない不安な状態にあつたのだ。道徳に對する注意力は極度に衰へてゐて、房江は恩田に必死になつて身を任せていつた。

 終戰になつた時は、もう子供を宿して七ヶ月にもなつてゐた。恩田に連れられて、本郷の産院をたづねた時は、腹帶をするにはもう遲いと云はれた位、房江は無關心に過してゐたのである。恩田の仕送りで、十一月の終にその産院でどうやら男の子を産んだ。産院の世話で子供は里子に出したのだけれども、恩田からの仕送りが續かないで、三ヶ月ほどして子供は産院に返されて來たので、房江は産院に母を呼び、田舍へ赤ん坊を連れて歸つて貰つたのである。

 娘の不始末をなげき悲しんでゐたけれども、孫の顏を見ると、おふくろはそれでもよろこんで連れて歸つた。二ヶ月ばかりは子供の仕送りもしたけれども、あとは梨のつぶてで、段々、わけのわからない生活に落ちてゆきながら、一日のばしなじだらくな生活に溺れて、房江はたうとう、いまではそのふしだらな生活から拔けきる事が出來なくなつてゐた。

 十四五人の娘達も、東京で、それぞれの人生的な思ひ出をつくつて故郷へ戻つて行つたけれども、房江と、もう一人、さくと云ふ娘だけが、つまづいたなりで、東京に居のこつてしまつた。いまは、そのさくと云ふ娘も、子供を連れて、此廣い東京の何處で暮してゐるのか、房江には消息が判らなくなつてしまつてゐる。

「一串十五圓もする鰻を食べてちやア、どうにも身分でねえからな。──もつと、かたぎな暮しむきと云ふものは、なんぼなんでも廣い東京だとてあらう筈ださ……わし、苦味いこと云ふではないが、あんまり、お前の暮しはよくないでねえかえ?」

 おふくろは案じて、鰻の一串もよう食べきれずにゐるのであつた。

 おふくろにとつて、東京は不思議な都會である。娘の姿は世にもをかしな姿で、昔、村の祭でみた事のある、サーカスの自轉車乘りのかつかうにも見えた。汚れた白い上着に、花模樣のぎらぎらと光りのしたスカート、櫛目もない亂れた髮、蒼ざめた顏の色、大きい黒の石のはいつた奇妙な指輪をわざわざ右の人差し指にはめたところは、何としても、昔の娘の姿とは思へない。

 すつかり人が變つてしまつた。まだはたちになつたばかりの娘つこが、さつきから煙草をふかしてゐる。人並な、おふくろの慾目で云へば、まあまあ十人並と云つた娘の樣子が、いまは無雜作に荒れ果てて一種異樣な光をおびた落ちつかない眼の光りが、おふくろには不安をそゝるに充分である。ぺろりと母親の分まで鰻を食べてしまふと、その食べがらを片づけるでもなく、湯がしんしんと沸いてくると、齒ブラシの立ててあるコップをほんのかたばかりにゆすいで、灰皿へあけると、熱い湯をついで、唇をとがらしてふうふう吹きながら飮んでゐる、娘の部屋には一つまみの茶の葉もないのだ。

「おつかさん、幾晩泊るつもり?」

「幾晩つて、わしは、お前に相談に來たのだもの、話がきまりさへすれば、明日にでもすぐ戻るだが……何せ、今夜はくたぶれてるだで、泊めて貰はなくてはかなはンぞい」

 おふくろは、ひどく腹が空いてゐた。米を煮たくも鍋がなささうである。

「何ぞ、煮炊きのもンは持つとらんのかや?」

「何もありやアしないのよ。待つてなさい、一寸、借りて來てやるわ」

 如何にもかつたるさうに、房江はまた管理人のところへ行つて、ニュームの小さい鍋を持つて來た。おふくろは、それへ、少しばかり米をあけて、房江に教はつて、洗ひ場へとぎに出て行つた。房江は押入れから、汚れてどろどろになつてゐる上蒲團を引きずり出して、疊へぢかに横になつた。何も彼もがめんだうだつた。虚空に消えて雲散霧消出來るものならばそれでもよいのだ。赤ん坊は産みつぱなしで別れてしまつてゐるので、案外、何のみれんもない。そのくせ、おふくろにだけは何となく濟まないと思ひながら、眠り不足な心身は、妙に不機嫌になつてしまつてゐるので、正直に、その不機嫌さが露骨になつてきて、少しも、おふくろの心細さにはついてゆけない。むしろ、反對に、善良な弱い者が憎くさへあつた。──かうした動物的な心を創つた神樣のやうなものに對して、房江は何時も自然に舌を出して笑つてゐた。久しい間房江は、人間的な涙と云ふものを忘れてしまつてゐるのだつた。どの女を見ても、そして、どの男を見ても、人間らしい人格と云ふものは少しもないと決めてかゝつた。有るのは肉體の求める、はかない慾望ばかりである。──たつた一人だけ、房江は妙な男にめぐりあつて金をめぐまれた事があつた。そのほかは、どの男とも快樂をともにして、なにがしかの金錢にありついてゐたのである。

 その妙な男と云ふのは、六月頃の或小雨の降つてゐる夜であつた。習慣の樣に、いつもの建物のところに立つて、煙草を唇に咥へてゐた。これはときめた相手が通れば、火をかりる心算である。間もなく、これと思ふ相手が通つた。煙草の火を借りた。火を借りながら、小さい聲で房江は炎に目を染めて、

「遊ばない?」

 と、云つてみた。

 男は驚いたやうに、ふつとライターの火を消して、しばらく默つて立つてゐたが、何を思つてか、

「君は金に困つてゐるのかい?」

 と、尋ねた。

 どの男も、房江が遊ばないかと云ふと、すぐ、遊んでもいゝねと返事をするのだけれども、その男だけはそんな事は云はなかつた。内ポケットから百圓札を一枚拔いて、房江のしめつた手に渡すと、

「君、今夜は歸り給へ……」

 さう云つて、さつさと行つてしまつた。

 房江は、何となく胸の中がどきどきした。云はれた通り、その夜はそのまゝアパートへ戻つて、久しぶりにのうのうと自分の寢床へやすんだ。房江はアパートの部屋へだけは男を連れ込むと云ふ事をしなかつたのだ。アパートの生活だけはかたぎな世界として、せめてそこだけは殘しておきたかつたから。──いまでも、時々、あの雨の夜の、不思議な男を思ひ出すのである。もう一度逢つてみたくて、よく同じ場所に立つたものだけれども、あの夜以來、その男には一度もめぐりあふ機會がなかつた。──房江のやうな女は、社會からは何の同情も與へられてはゐないのだ。房江は、同情のないかうした世界が、かへつて氣が樂であり、社會に向つてそつぽをむいてゐる事に、痛快なものを感じてもゐた。社會の裏の裏までみてしまふと、標本のやうな敬虔さを説いてゐる人間たちの愚が、をかしくなつて來るのだ。永遠性のない小細工だけが、ペンキ繪のやうに都會にひろがつてゐる。ひとでのやうな速度で……。房江は身を以つて、人間の醜の醜を覺えさせられた。そして、善い事をしたあとの、あの空虚感よりも、惡い事に溺れてゐる、痺れるやうな落ちぶれかたの方が、房江のやうな女には身に合つてゐるのだつた。愛情なぞと云ふ感情は、もうとつくに脱落してしまつてゐて、もののあはれをさそはれるやうな、はたちの青春は骨の髓まで色あせてしまつてゐるのである。

 夜の都會が、房江にとつて、どんなに魅力深いものであつた事だらう。恍惚ときらめく星空の下に寢る時もあつた。時には暗い河岸の橋の下で、相手の顏も知らずにたはむれる時もある……。神に見はなされた獸となつた二人の人間が、平凡な、あたりまへな營みをする……。たゞそれだけの事だ。房江は、その時々の、夜の複雜な、情深い景色だけが心に殘つた。男の體臭や、激しい息づかひは、まるで工場の機械にスイッチを入れたと同じやうなものにしか感じられなかつた。ぶうんと機械が唸り始める。只、それだけだ。スイッチが止まれば、いくばくかの金錢を手にする……。そして、男はまた逢はうと云つてくれる。房江のやうな女に滿足したしるしなのだらうと、房江はさう思ふ。そして、男と別れて歩みながら、房江は、地上に伏して見上げた、あの悠久な空の暗さや、星の光りが、立つて歩くと同時に狹く淺くなつてゐる事に淋しさを感じてゐた。太古とでも云ふ頃は、人間には、戸外以外には寢床もない日があつたのに違ひない筈だと、野に寢る女にとつて、大自然が、男の躯のうしろから、如何に優しくほゝゑみかけてくれる事かと、房江は、伏して見上げる空の美しさを忘れる事が出來なかつた。

 房江は、現實に自分が生きてゐることを疑はなかつた。生きてゐる事だけで、何一つ考へる事は無駄であつた。動物のやうに、心動くまゝに素直に行動し、實行して死ぬ……。だが、本當は死ぬる事なぞ、一度も考へた事はない。生きて行進してゆくだけである。生きて行進してゆく事が無意識な信仰であつた。反省してみたり、少しでも悔いに耽ると云ふ事はしなかつた。


「お前、何處か、躯が惡いのかえ?」

 米を洗つて來たおふくろが、疊に寢轉んで、蒲團を被つてゐる娘を見て不安さうにしてゐる。

「房、お前、氣分が惡いのかえ?」

 もう一度尋ねた。何處からともなく、ラジオで、新内の透きとほるやうな歌聲と三味線の音色が流れてきた。疊の冷たさも何となく秋だ。

 おふくろが、鍋を置いて房江のそばへ來た。

「あたいは、眠いンだよウ……」

「どつこも惡いンぢやないのかえ?」

 一寸、安心をしたやうに、おふくろは、電氣コンロの上のやかんと鍋をとりかへてかけた。

「わしは、こんな事云ひたかねえが、お前もすつかり變つてしまうたぞ……、妙な女子になつてむごたらしいなア」

 おふくろは鼻をすゝりあげて、默つて涙をこぼしてゐた。房江はうとうとしてゐる。風呂上りの、けだるい五體が、まるで、ぼつてりと水を含んだやうに重い。一言、慰めの言葉をかけてやりたいとは思ひながらも、何時の間にか、房江は昏々と眠つてしまつてゐた。


 滿ち足りた眠りから覺めたのは、晝過ぎの三時頃であつたらうか。房江がぱつちりと眼を開けると、握りの取れた古トランクに風呂敷をかけて、洗つた灰皿に土産の味噌漬けが刻まれ、眞白い鍋の飯が食慾をそゝつた。

 コンロを消すことが出來なかつたと見えて、やかんは白い湯氣をたててしゆんしゆんと猛烈に煮えくりかへつてゐる。

 部屋には誰もゐない。小さい聲で「おつかさん」と呼んでみたが聲がない。

 腹這ひになつて、房江は煙草を吸つた。頭が輕くなつた。手をのばして、買物袋からコンパクトを出して顏をうつした。荒れた生活をしてゐながら、皮膚は磨いたやうに青ずんでなめらかで、思ひのまゝに化粧の出來さうな明るい表情である。小さい鼻の上は膏で光つてゐる。鏡を眼のそばに持つてゆくと、金茶色をした瞳が、猫の眼のやうに光つて見えた。ふぞろひな太いまつげが濡れてゐる。

 左側の鼻の下に、盛り上つたやうな小さい黒子があつた。おふくろが足音をしのばせて部屋へ這入つて來た。

「お起きかえ?」

「隨分よく眠つたわねえ……何處へ行つたの?」

「お前の汚れものをば洗濯しておいたのさ。あんまりだらしねえからさ……」

「天氣が惡くなるつてえのに、世話やきだね」

「わしは、氣になつて仕樣ねえたちだからのう……」

「いゝのよ。──あらツ、少し焦げ臭いねえ」

 房江があわてて電氣コンロのところへ行くと、木の臺がこんがりと燒けかけてゐた。房江はスイッチを止めた。


 その夜、房江は水々しく、化粧をこらして外出した。おふくろが、呆れて眺めてゐるそばで意地惡いまでに落ちつき拂つて、眉に墨を入れ、唇に厚く紅を塗つて出掛けた。明日はどうでも、いくばくかの金を持たせて母親を田舍へ發たせなければならないと思つた。

 長い事、電車にゆられて、築地の終點で降りて、習慣のやうに魚河岸の建物の方へ行つた。今朝がた、金春湯で逢つた女の一人も、もう來てゐる。──その夜相手は、房江を連れて、大森の燒け殘りの小さいホテルへ連れて行つた。かうした、夜の女にはあつらへ向きに出來てゐる安ホテルの一室。停電で、狹い部屋にはローソクの灯が運ばれて來た。昔は病院のベッドであつたらうかと思はれる鐵製のベッドが一臺、元の塗りのはげたサイドテーブルには、何の花ともつかぬ、眞紅な造花がガラス瓶に一輪つきさしてあつた。

 東海道線に汽車が通るたび、線路添ひのこのホテルは浮き立つやうに震へた。房江は馴れた姿でシュミーズ一枚になり、手術を受ける患者のやうに、感動のない眼差しで、相手を見上げた。昆蟲のやうな、眞空な律動が始まる。そして、何の苛責もない跪いた女の大きい影が、色濃く天井にうつつてゐる。房江は相手の背中の向うにうつる影繪の壁に、右手をさしのべて狐の影繪をつくつてみた。壁や天井にうつる大きい狐の繪は震へてゐた。をかしくつてたまらなかつた。劇場にでもゐるやうな、暗い舞臺のなかの樣々な影の面白さに、房江は悠久な星空を見るやうな思ひで、心の中に、力いつぱい喝采をおくつてゐる。汐臭いしめつた風が硝子戸をゆすぶる。草藪でこほろぎが力いつぱい雌を呼んでゐる。

 ローソクの光りが終ると、深い森林に押しこめられたやうな、耳鳴りのする靜けさに沈んだ。四方から原始林の匂ひもする。濃い闇の中に、重たい男の寢息がしてゐる。滿ち足りた寢息だ。暗黒な、この森々とした黒い帷は、房江にとつて最大の安息場所でもあつた。願はくば、永遠に夜であれかしと祈りたい位に、房江は夜が好きであつた。カーテンもないガラス戸の上に、暗い空が見える。闇の中に殘つてゐる、執念深い蚊の唸りや、甲高い鋭い汽車の汽笛、そして心持ちのいゝ假睡の状態で見る蝶々のやうなはかない夢のさまざま、夜更けて吸ふ煙草の哀れな赤い火の色。──房江はアパートに殘つて、神經をいらだててゐる、哀れなおふくろの事なぞは考へてもみなかつた。かうした闇の中では、精神も青く粉々に光つて、分裂して、空中に飛んでゐるだけだ。一緒に眠つてゐる男がどんな男なのかせんさくする氣もない。たゞ大阪言葉をつかつてゐるのだけが、旅の人と云ふ名殘りを殘すだけで、どの男も似たりよつたりのていたらくである。──闇の中では、房江の假睡の夢も醗酵する。その淺い夢の中で、現實にもなかつたほどな怖ろしいばかりのみだらな夢を見るのだ。翅を震はせるやうな恍惚境に、この貧しい天使はふはふは吹きさらはれてゆく……。

 さうした假睡の果てに、仄々とまた厭な夜明けがやつて來るのだ。旅の男は案外氣前よく、澤山の金錢を房江にめぐんでくれた。仄々とした夜明けに見る男は年をとつてゐた。──さつさと身支度をして二人はホテルの前でお互の表情もみずに東と北に別れてゆく。

 房江の足は自然に新橋に降りて、朝の市電で、築地に行き、また、ハンカチーフ一枚で、金春湯へ飛び込んで行くのである。鳥がねぐらへ戻つたやうな安易さで……。そして、また、自分と同じやうな身分の女達に出逢ふ。風呂からあがつて、裸のまゝ坐りこんで、林檎を食つてゐる女もゐる。一足二千圓もしたと云ひながら、靴の包みを開いて、裸で靴をはいてみせびらかしてゐる女もゐた。その女とは、一度、警察のトラックで一緒になり、淺草のY病院へ行つた顏なじみでもあつた。


 房江が中野のアパートへ戻つた時は九時頃であつたらうか。おふくろは打ちひしがれたやうに悄げきつて、片づいた部屋の中にきちんと坐つて娘を待つてゐた。唇を紅く染めた房江に對して、もう何も苦味い事は云はなかつた。

底本:「林芙美子全集 第五巻」文泉堂出版

   1977(昭和52)年420日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:しんじ

校正:阿部哲也

2018年527日作成

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