うき草
林芙美子



 その村には遊んでゐる女が二人ゐた。一人はほんの少しばかり氣がふれてゐるさえといふ女で、三年ほど前、北支那へ行つてゐて、去年の夏、何の前ぶれもなくひよつこり村へかへつてきた。

 さえの家は炭燒きをしてゐたのだけれど、父親はもうずつと以前に亡くなり、たつた一人の兄は二度も兵隊にとられて、その二度目の戰場生活はもう三年ばかりになり、何でもビルマの方へ行つてゐるらしいといふ話であつた。──さえの家庭は母親のしもと、兄嫁のすぎと、その子の三郎といふ九つになる息子と七つになるいまといふ娘との四人暮しである。男手がないので炭燒きの仕事ももう四五年も休んでゐて、さえの母たちは少しばかりかひこをかふことと、近所の温泉旅館へ手傳ひにゆくこと位で暮しをたててゐた。この家の持ちものといつては、少しばかりの畑地と、古ぼけた草屋根の家があるきり。そこへ氣の狂つたさえが戻つて來たので、急に家の中は前よりもいつそう暮しにくくなり、家のなかはじめじめとしてぐちが多くなつた。

 さえは支那へ行く前は近所の温泉旅館の女中をしてゐたのだけれども、北京で宿屋をしてゐるといふふれこみで、一ヶ月ほど皮膚病をなほしに來てゐた男と出來てしまひ、誰も知らない間に、さえはその男と北京へ行つてしまつた。さえがゐなくなつた當座は、村の誰彼もしばらくさえの風評ばなしをしてゐたのだけれども、いつの間にかさえの話も消えるやうに忘れられてゐたのだ。

 そのころ、この山峽やまかひ六十戸ばかりの小さい村のなかにも、滿洲移民の話が華やかに持ちこまれてゐた折なので、血氣にはやる若い男や、小作ばかりして生涯を過してきた土地のない老人達まで滿洲行きをぼつぼつ志望してゐて、この村からももう三家族ほどは家や畑を賣つて出掛けてゆくものがあつた。拓務省あたりの宣傳も利いたとみえて、土地のないものはなほさら眞面目に滿洲へ渡つてゆくことを考へてゐたのである。──そのくせ、村の人達は小さい寒村だけれども自分の村が何處よりも好きであつた。よそのひとは、この村のことを半日村といつた。夏のさかりでも半日しか陽が射さない暗い山峽の村であつたから。何しろ東南に小さい山がせまつてゐて、何のことはない雛段の途中に長くのびたやうな村であつた。

 村のうしろを河が流れてゐたけれど、この河は大雨でも降ると隣村へ行く橋を流してしまふほどの荒い河である。山峽の上流に近い河なので、水は清麗で、夏になると河鹿が鳴いたし、河沿ひの藪には大きい螢が澤山飛んでゐた。──さえは暑いさかりに戻つてきたのだけれど、晝日中は色のあせた日傘をさして浴衣姿でこの河沿ひの廣い河原で呆んやり水の流れをみてゐた。人並以上に背が高いので遠くから見ると何となく美人にはみえたけれども、近くで見ると、顏は青黒くて、眼のいろにつやがなかつた。二十六だといふことだけれど、年よりは老けてみえる。

 もうひとりの女は蝶子といつて足の惡い女で、三ツになる男の子をかゝへて村はづれの共同湯のそばに住んでゐた。蝶子の生んだ子供は私生子であつた。建てて以來手入れをしたことがないので、ところどころ雨漏りがしたし、疊もぼろぼろで、道具といつては木箱をたてたやうな古い佛壇と、がたがたのちやぶ臺が一つあるきり、蝶子はきたない爐ばたの板の上に曲らない足をのばして子供と遊んでゐる。子供の父親は、道一つへだてた蝶子の家の前にある長五郎だといふことだけれど、この長五郎にはさくといふ年上の女房がゐたし、看護婦をしてゐる大きい娘があつた。

 蝶子の家は昔ながらの簡單な田の字造りの家だつたので、西側の二間を障子で區切つて、一部屋づつ東京から來た疎開者に貸してゐた。どの部屋も拾五圓ばかりの間代で、どちらの部屋にも、子供づれの女が來てゐた。表側の方には尾久で藝者をしてゐたといふ氣象の荒い女が大きい女の子を連れて來てゐた。奧の方には工場長の細君だといふ女が、小さい女の子を連れて蒲團だけといふ、工場長の妻女にしてはおそろしくおそまつな所帶道具だけで、ぼろぼろの疊に寢起きをしてゐた。──貧しい蝶子がどうして食べていつてゐるのか、村の七不思議の一つだつたけれども、時々、長五郎が金を渡してゐるのだらうといふことは村のうちでもうすうすは知つてゐるに違ひないのであらう。長五郎は本職は山師で、いまでは材木統制會社の事務員をしてゐた。町からかへつて來る自轉車のうしろに、時々、珍しいものを持つて來てゐた。なかなかの好人物で、長五郎は村の人達にも好かれてはゐた。

 蝶子は小さい時から足が惡かつたので、一度も結婚した事はなかつた。親父は一人娘の蝶子に養子をしたかつたのだけれど、下駄なほしで貧乏暮しの家には誰も來てくれてがなく、蝶子は近所の温泉旅館の縫ひ物や、洗濯仕事に雇はれてゆく程度で、娘ざかりをすごしてしまひ、二十八になつた秋、長五郎の子供を宿した。蝶子が姙娠したことを知ると、親父はそれを苦にして、納戸で腹を切つて自殺してしまつた。駈けつけて來た前村まへむらの醫者が、「をぢさん、乃木さんをやつたのか」と云つたといふ事が村の評判になつてゐた。蝶子は今年三十一になるのだけれど、割合年をとらない躯つきで、大柄で、髮がちゞれてゐて、眼が一寸ひつこんでゐるところは南洋あたりの女のやうにもみえた。蝶子は村の人達には道路人夫の子供だと話してゐた。一夜泊めたのがさいなんだつたのだと、それでもあはあは笑ひながら愉しさうに話してゐる。村ぢゆうでみんな知つてゐることだのに、蝶子の話も亦、みんなさうなのかと、二重うつしの寫眞のやうな受取りかたで蝶子の身の上を話しあつてゐた。蝶子の子供は長五郎によく似てゐたけれど、長五郎も知らん顏をして暮してゐた。

 戰爭が段々苛烈になつて來ると、この村でも早朝から女の集りをして竹槍のけいこをするやうになり、蝶子もびつこをひいて國民學校の庭に出掛けて行つた。氣の狂つてゐるさえも、いつも家の者のかはりにされては竹槍を持つて國民學校へ行つた。夜が仄々と明けそめる頃なので、まだ、四圍には蚊がうなつてゐて、長い講演があるあひだぢゆう、村の女達は顏や足を蚊にさゝれては厭な思ひをしなければならない。蝶子は何處と戰爭をしてゐるのかわからなかつたし、竹槍を持つてゐる女達の鉢卷姿がをかしくてならなかつた。えいツ、えいツと叫んでゐる女達の號令が山彦になつてかへつて來る。女達のなかには七十のおばあさんも四五人は混つてゐた。子供づれも澤山來てゐた。さえも、竹槍をふるひながら、自分で何をしてゐるのかかいもく判らないのだ。竹槍を空へ突きあげるたびに、大きい星がぴかぴかと光つてゐるのをうつとりとみとれてゐる時がある。すると、若い將校の教官が走つて來てさえをどなつた。さえはびつくりしてまた一所懸命に槍をふりまはした。

「米英げきめつツ、えいツ、えいツ」といふ女衆の聲が村の上を彈ぜてゐる。やつと竹槍けいこが終つて、またひとくさり講演になると、女衆は我家の忙しさを思つて氣もそゞろになつてくるのであつた。小鳥がさへづりはじめ、蝉や蛙がやかましく鳴きはじめるころ、やつと集りが終り、女達は竹槍を肩にして急いで我家へかへつてゆくのである。

 そのかへり、足ののろい蝶子とさえはいつも一緒になつた。

「米坊どうしてる?」

「まだ眠つてるさ」

「あゝ腹がへつたなア」

「おらも腹へつた。早く戻つてかぼちや飯でも煮るさ……」

「蝶ちやんはそれでもいゝさ、たつた二人だからなア」

「二人だからつて食べるのは同じだぞ」

「うん、それでも澤山食べられる」

 二キロもある山道を、二人はゆつくり歩きながら話しあつてかへつて來る。この山の村では竹が生えなかつたので、蝶子もさえも、竹槍をつくるには苦勞をして、古い物干ざをを竹槍にして持つてゐた。こんな古ぼけた竹槍で人を殺せるとは思はなかつたけれども、竹槍でなければならぬといふ役場からの規則であつてみれば、竹と名のつくものでなければならないのだ。蝶子のもさえのも、竹槍にはもう割目がはいつてゐた。

「おさえ、おらの家に寄つてゆかねえか、せんべでも燒くさ」

「うん、寄つてくかな」

 蝶子の爐ばたにさえが上つてゆくと、蝶子はすぐ爐の火をたいた。子供はつぎはぎだらけの蚊帳のなかで氣持ちよささうに眠つてゐる。共同湯から、男たちの賑やかな話聲がきこえてゐる。さえはいきほひよく燃えてゐる爐の火をぢつとみつめてゐた。蝶子はふすまの混つた配給の粉を丼にねつてゐる。

「おさえのところは、今年はかひこさんえらいあたつたつてねえ」

「うん、おら知らねえよ」

「お前手傳はねえのかい」

「うん、桑つみ位のもんださ」

「お前の家ぢやア、あねつがよく働くでなア、おツかアも助かるね」

「お蝶さんは支那そば食つたことあるかね?」

「支那そば? そんなものは知らないよ」

「うめえもンだなア。北京で食べたけど、えらいうめえもンだよ」

「ふうん、北京にやア、そんなうめえもンがあるのかね」

「うん、まだ、うんとうめえものあるさ、おらア、近いうちに北京へもう一度行かうかと思つてゐるンだよ」

「そりやア羨ましい話だなア、おらアもついて行きてえなア、一度位そんなところへ行つてみてえものだなア」

 平べつたい鍋で小麥のねつたのを燒きながら、蝶子が如何にも羨ましさうである。河の向うの前村の山の上にかんかんと朝の陽が射してゐる。やがてせんべいが燒けて、二人が茶を飮んでゐる時、古手拭で鉢卷をした長五郎が入口からにゆつと顏を出して、

「おう、さえも來てるのか、えらい早いなア」

「あゝ今朝は竹槍けいこだ」

「あゝさうか、さくもさつきけえつて來た」

「何だね、こんなに早く、珍しいなア、おめえ……」

 蝶子が一寸なまめかしく笑つた。

「うん、俺、たうとう令状來た」

 蝶子はずうんと地のなかへめりこむやうな驚きかたで暫く口をあけたまゝ默つてゐた。

「俺もびつくりしたのさ。さく、云はなかつたか?」

「おらきかねえよツ、そんなこと、さくさん默つてゐたもの……」

「八日に村を出る……」

「おらア厭だなア」

 蝶子は泣きさうな顏をして足をにゆつと板の上に突き出した。さえはきよとんとした顏をしてゐた。

「おら、そんなの厭だなア、お前が戰爭へ行くのは厭だよツ」

「靜かにせんかいツ、いまさら令状が來たものにどうとも仕方あるめいぢやアねえかツ」

「それでも、おら厭だ。厭だよツ」

 蝶子は大粒な涙を流してゐた。その涙を拭きもしないで爐に薪をくべた。

「えれえいぶる生木でなア、涙出て仕樣がねえぞ」

 長五郎はさう云つて、燒けたせんべいへ手をのばした。蝶子は立つて行つて、入口をぴつしやりと閉めた。子供は爐の煙にむせて眼をあけた。

「おかア」

「何だ、起きたのか、前のをぢきが來てるぞ……」

 蝶子は蚊帳の吊手を一方だけはづして子供を横抱きにして出て來た。さえは默つてせんべいを食べてゐる。自在鈎のやくわんの湯がぽとツぽとツと煮えこぼれ始めた。坂道になつた往來を自轉車が三臺流れるやうに河原の方へ走つて行つた。

「さア、かうしちやゐられねえ、また來る」

「お前、もう少し話して行きなよ」

「うん、また夜にでも話しに來るさ、坊主、しつかりしておかアの云ふことをきいてるンだぞ、びいびい泣くと土産もつて來てやらねえぞ、いゝか、丈夫でなア……」

 長五郎はにこにこ笑つて子供の汚れた手を強く握つた。子供はうるさがつて泣き聲をあげた。蝶子はあわてて子供を抱きしめたまゝ茶を淹れてゐる。さえは火をかきたてた。

「今日も暑さうだなア、さえはこのごろ頭の工合はどうだ」

「うん、はつきりしねえ、おらも、もうどつかへ行きてえよ」

「はつきりしねえのは一番いけねえなア、何か藥はないものかねえ」

「おらの藥はないさ、北京へ行けばなほつてしまふ……」

 茶がはいると、長五郎はふうふう吹きながら高い音を立てて茶をすゝつた。一滴ものこらず茶をぐうつと飮んでしまうと、長五郎は膝を叩くやうにして表戸を開けて默つて出て行つてしまつた。

 軈てさえもかへつてゆくと、蝶子は米雄を抱いて、蚊帳のなかへはいつて横になつた。思ひきり泣きたかつたからだ。寢あきた子供は一方のはづれてゐる蚊帳の紐をひつぱつて獨りごとを云ひ乍ら遊んでゐた。何かに截斷られたやうな切ない思ひが油然と湧きあふれてきた。往來で「おい、長五郎、何時行くンだツ」と大きい聲でたづねてゐる聲がしてゐる。蝶子はその聲をきくと急にまた切なく涙が溢れた。長い間、長五郎との間を取り繕つてゐたことが苦しかつた。いつぺんに自分が寠れてゆくやうな心細さである。

 さえは晝飯が濟むと共同湯へ洗濯に行つた。野良が忙はしいので、晝間の湯には誰もはいつてゐなかつた。のびのびと湯につかり、湯の中に汚れものをつけて洗濯を始める。湯の中は、どろどろと藻のやうなものが浮いてゐた。掘立小屋のかしいだやうな格子の間から動いてゆく白い雲が見える。暗い天井裏のはりには古ぼけたおふだが張りつけてあつた。ゆつくりゆつくりと湯の上にも空の色がうつつてゐる。湯は體がしびれるほど熱かつたけれど、さえは平氣で兩の乳房を握つてはいつてゐた。派手な色の布地が湯の上であざやかな色にしみていつて、まるでびろうどのやうに光つてゐた。

 さえは歌をうたつた。何の歌ともつかないきれぎれな聲で歌つてゐる。

「さえか?」

「うん」

「湯、熱いかや?」

「丁度いゝよ、はいんな……」

 蝶子が裸の子供を連れて湯へはいつて來た。子供はすぐ湯のなかへ足をつつこみかけたが、「おかア、熱いやア」といつて赤くなつた足を宙に浮かした。

「こら、米坊、熱くねえよオ、はいンな」

 さえが子供を背中から抱きあげて湯へつけたが、子供はすぐ火のついたやうな聲をあげて泣いた。

「さえ、いゝよ、上げてやンな、この子は熱いのきらひだよ」

 子供は飛びはねるやうにして流しへ出て來たが、體ぢゆうが茹でたやうにぱつと赤い色にそまつてゐる。蝶子も湯へ手をつつこんだけれど流石に熱いと見えて、いつとき流しに坐りこんで湯を浴びてばかりゐた。思ひきり泣いたとみえて眼のふちが赤くふくれあがつてゐた。さえの歌は囈語のやうにぶつぶつきこえた。熱い湯にはいつてゐたくせに、流しへ上つて來たさえの體は青ずんだ色をしてゐて見るからに冷性な女のやうに氣味惡く見えた。年をとつてゐる蝶子の方がはずんだやうななめらかな肌をしてゐた。男湯では通りすがりのものでもはいつてゐるのか珍しく湯の音がしてゐる。蝶子は默つて呆んやりと格子の上をみあげてゐた。

「さつき、長五郎さん。紋附の羽織着てたよ。夏羽織村長にでもかりたのかな」

「おめえの家に行つたのか?」

「うん、挨拶に來た」

「村でもみんな男たちは出てゆくな」

「うん、さくさ泣くだらう、娘も町の病院から戻つて來たつてよ」

 蝶子はまた默つてゐた。子供は湯が熱いので、罐詰の空罐で小流れから水を運んでは湯へあけてゐる。

「おらア、八日には町まで送つてゆくからさえもつきあひなよ」

「うん」

「どうだね」

「うん、北京へ行くのさ、おれ、もう荷物つくつたンだよ」

「お前、さうたやすく切符は買へないよ」

「なアに飛んで行きアいゝよ。わけないさ、子供ぢやアあるめえし……」

 さえの眼中に怪しい光りがあつた。蝶子は妙な氣がしてくすくすと笑つた。

 その夜、一時ごろ、蝶子は山の上の尼寺へ行つた。長五郎が宵の口に蝶子の家の窓をのぞいてそつと、「尼寺へ一時に來い」と云つたからだ。小雨が降つてゐた。蛙合戰でもしてゐるやうに山の田圃ではおそろしく蛙が啼きたててゐた。眞暗い道を蝶子はびつこを引きながら尼寺へ行つた。杉の並木のところで印ばんてんらしいものを着た長五郎が石どうろうのやうにつくねんと立つてゐた。

「誰にも逢はなかつたか?」

「誰にも逢はねえ」

「雨が降つてかへつて都合がいゝ」

「……」

「お前、辛抱しな、いゝか」

「仕方がないよ」

「こんな時に、逃げかくれすりやア、憲兵が來てピストルで打ち殺すといふからなア」

 長五郎は蝶子の手を探つて紙包みを握らせた。

「何だね?」

「金だよ。足りねえだらうが、これで何とかやつててくンな」

「おら、こんなものいらねえ」

「いらねえことアねえ、みすみす配給のもンだつて買へねえと困るからな」

「もらつていゝのかね」

「あゝいゝとも、三百圓はいつてるよ、大事につかひな。そのうち、兵隊へ行つておれ、おめえの事考へてやる。何しろ急だものなア──さくも困るさ。あれも途方にくれてゐるが、まア、あれは走り使ひにはもつて來いの體してるからな」

「おれ、半分もらつとかうか」

「いゝンだよ。もつと置いておきてえ位なンだ……」

「體さへ元氣で戻つてくれりやアいゝさ。臆病と云はれてもいゝからおめえ、勇氣のあるとこみせちやアいけないよ」

「判つてるさ、死にたくはないよ。何とかして戻つて來る」

 森の上で山鳥が啼いた。尼寺も灯が消えたまゝこんもりと闇の中に沈んでゐる。蝶子も長五郎も最後の愛情を示しあふ術を知らなかつた。たゞ默つて二人は雨の中に立つてゐた。

「明日は前村へ行つて祝ひをしてもらふで逢へねえ。米坊は病氣させねえでなア……」

「おれ、八日には、驛まで送つてゆく……」

「送つて來ることアない。家にゐてくれた方がおれ安心だよ。送つて來ちやアいけねえ」

 長五郎が思ひあまつたやうに不器用な手つきで蝶子の右腕をつかんだ。蝶子は聲をしのんで暫く泣いてゐた。

「お前さきに戻んな」

「厭だよ、お前さきにかへりなよ」

「おれは男だもの、あとでゆつくり戻る」

「もうこれきりだなア」

「元氣でゐさへすりやア逢へる。何とかなるから待つてな」

 蝶子は放心したやうに立つてゐたが、軈てあきらめてぬかるみのひどい山道を默々とびつこを引きながら我家へ戻つた。家へ戻ると、工場長の細君のところへ、東京から主人が來たところだと云つて、さかんに東京の空襲の話をしてゐた。蝶子は足を拭いてそつと暗い蚊帳のなかへもぐり込んだ。

「いくら空襲空襲つて云つても、こんなに長いあひだ來ないつて法はないわよ。──女でも出來て、山のことなんか忘れてるンだつて思つてたわ。何だか口惜しくつて、私、だまされてこんなところへ追ひやられたみたいで、もう二三日あなたが來なかつたら、私、切符なしでもいゝからさつさと東京へかへるつもりだつたのよ。考へたつてみじめだわ。こんな生活なつてないぢやないのツ。薄情にも程があると思つて……」

 深夜なので、小聲で話してゐても蝶子の耳にはよくきこえてくる。蝶子は金のはいつた紙包みを乳房にしつかり抱いてゐた。

「山は涼しいねえ、東京は暑くて風呂にもはいれないンだからねえ」

「どんなに厭な東京だつて、私、どうしてもかへりたいツ……」

「空襲つて、生やさしいものぢやないンだぞ」

 蝶子はきいてゐてぞつとした。その生やさしいものでないものすごい戰場へ出て行く男のことを考へると不愍でならなかつた。申しわけないやうな氣持ちがして寢てもゐられないやるせない氣持ちである。

 八日の朝早く、長五郎は村の老人や女達に送られて村を出て行つた。蝶子は子供を連れて小高い裏の馬鈴薯畑へ登つて、河原の道を行く長五郎の行列を眺めてゐた。國民服に國旗のたすきをかけた長五郎の背の高い姿が見える。二十人ばかりの送り手もぞろぞろ歩いてゐる。

「米坊、萬歳と叫んでみなよ」

 子供は知らん顏をして行列を眺めてゐた。

 さえの母親と、兄嫁のすぎが桑つみにひよつこり蝶子の後へ上つて來た。蝶子は狼狽した。すぎは娘の手を引いてゐた。

「おはやう、長さんもう行つたかやア?」

「あゝ」

 蝶子は何氣ない風に返事をした。蝶子の馬鈴薯畑の隣りがさえの家の桑畑になつてゐた。

「おめえの家、今年はかひこの當りだつてなア」

「さうでもねえさ、麥でも植ゑた方が割がいゝのだけど、根つこ掘るのも大變だでなア」

「さえさんどうしてる?」

「あゝさえかね、長さん送つて行つたよ。おめえ長さん送つて行かねえのかね?」

「おらア、足惡いもの、ごめんかうむつたのさ」

「長さんも御苦勞なこンさ。さくも一人になつて困るだらう。娘はまだ仕送り出來ねえしなア」

 氣のふれたさえが長五郎を送つて行つてくれたのかと、蝶子は濟まない氣持ちであつた。

「村も、これぢやア女ばかりになつて困るだよ。おらアの兄も仲々けえつちやアくれねえものなア」

 すぎは背中のぼてをおろして桑をつんでゐる。蝶子は默つて立つてゐた。山ぐみの赤い實がたわゝになつてゐる枝をかゝへて、見知らぬ男が桑畑の横を降りて行つた。

「あれ疎開者かね? 見かけたことのねえ男だねえ」

 しもがふりかへつてハイカラなかつかうをした男の後姿をみおくつてゐる。蝶子は何氣なく河原の方を見たけれども、もう長五郎の行列は反對の橋を渡つてしまつたのか見えなかつた。村の家々では國旗が出てゐる。恰度その時、共同湯のそばの物見の梯子を誰か登つてゐるのが見える。

「また飛行機だよ、誰か鐘つきに登つてるぞ」

 間もなくあつちからもこつちからも鐘が鳴り始めた。二機、銀色の大きい飛行機がぐうんぐうんぐうんと明るいエンヂンの音をたててコバルト色の晴れた空の上を飛んでゐる。驚いて見てゐる間に大きい飛行機は東の山ぎはへ吸ひこまれるやうに去つて行つた。

「えらい立派な飛行機だなア」

「母さん、おれ、初めて敵の飛行機見たよ。いまのがBといふンだらう」

 蝶子もびつくりして空を見上げてゐた。

 その夜、また方々の村々の鐘が鳴つた。蝶子や疎開の連中もそつと戸外へ出てみたりした。西の山の向うが夕燒のやうにうすあかく染つてゐる。

 暗い道を走りながら、誰かが「長岡がいまやられてゐるンだ」と云つた。そのうすあかい虹の色は暗い山の向うの空に擴がつたり横にのびたりしてゐた。逃げまどふ人々の悲鳴がきこえるやうな氣がした。蝶子はよういならぬ不安を感じてゐる。戰爭といふものは遠いところのもののやうに考へてゐたのだけれど、長五郎が出征していつてしまふと、急におそろしいものに思へ、山の向うの淡い焔を見てゐると蝶子は體ぢゆうががたがたふるへて來た。

「お蝶さん、うちのおさえ來てねえかね?」

 すぎがくらやみから不意に出て來てたづねた。

「來てねえよ。さえゐないのかね? 湯ぢやないのかね」

「うゝん、何處にもゐないのだよ。長さん送つて行つて、橋の途中までさくさん達と戻つて來たのは知つてるが、それから、皆もついうつかりしてさえを見なかつたのだつて……」

「それぢやア、晝も晩も飯食はないでどうしたのかねえ……」

 うすあかい炎はますますひどく擴がつてゐた。無氣味な村々の鐘が、蝶子の感傷なぞはふみにじつてしまふかのやうにいつまでもかアんかアんと鳴つてゐた。四十里も山の彼方にあるといふ、長岡の燃えてゆく炎がいつまでも夜空をうすあかくほてらせてゐる。

 さえはそれから何日たつても村へは戻つて來なかつた。

底本:「林芙美子全集 第五巻」文泉堂出版

   1977(昭和52)年420日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:しんじ

校正:阿部哲也

2018年527日作成

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