雨瀟瀟
永井荷風



 その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日やくびもまたそれとはほとんど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西日にひぐらしの声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳もうしわけらしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉ばしょうも破らず紫苑しおんをも鶏頭けいとうをも倒しはしなかった──わたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなくあきらかに記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣ゆかた一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢じゅばんを重ねたのみか、すこし夜もけかけたころには袷羽織あわせばおりまで引掛ひっかけた事があるからである。彼岸ひがん前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋のにわかに肌寒く覚えるゆうべといえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。

 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。ただその頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終って行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。わたしはもうこの先二度と妻を持ちしょうを蓄え奴婢ぬひを使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先えんさきには金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰返くりかえす事は出来ないであろう。時代は変った。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するような時代にあって毎朝煙草盆たばこぼん灰吹はいふきの清きを欲し煎茶せんちゃの渋味と酒のかんほどよきを思うが如きはの至りであろう。ころもは禅僧の如くみずから縫い酒は隠士いんしを学んで自ら落葉をいて暖むるにはかじというような事を、ふとある事件から感じたまでの事である。

 十年前新妻の愚鈍にあきれてこれを去り七年前には妾の悋気りんき深きに辟易へきえきして手を切ってからこのかたわたしは今にひとりで暮している。興動けばただちに車を狭斜きょうしゃの地にるけれど家には唯らんうぐいすと書巻とを置くばかり。いつか身は不治のやまいに腸と胃とを冒さるるや寒夜かんやに独り火を吹起ふきおこして薬飲む湯をわかす時なぞ親切に世話してくれる女もあらばと思う事もあったが、しかしまだまだその頃にはわたしは孤独のわびしさをば今日の如くいかにするとも忍びがたいものとはしていなかった。孤独を嘆ずる寂寥せきりょう悲哀のおもいはかえって尽きせぬ詩興の泉となっていたからである。わたしは好んで寂寥を追い悲愁を求めんとするかたむきさえあった。忘れもせぬある年……やはり二百二十日の頃であった。夜半滝のような大雨の屋根を打つ音にふと目をさますとどこやら家の内に雨漏あまもりしたたり落るようなひびきを聞き寝就かれぬまま起きて手燭てしょくに火を点じた。家には老婢ろうひが一人遠く離れた勝手に寝ているばかりなので人気ひとけのない家の内は古寺の如く障子ふすまや壁畳からく湿気が一際ひときわ鋭く鼻をつ。ひま漏る風に手燭の火の揺れる時怪物のようなわが影は蚰蜒げじげじう畳の上から壁虎やもりのへばり付いた壁の上にうごめいている。わたしは寝衣ねまきそでに手燭の火をかばいながら廊下のすみずみ座敷々々の押入まで残るくまなく見廻ったが雨の漏る様子はなかった。まくらに聞いたそれらしい響は雨だれのといからあふれ落ちるのであったのかも知れぬ。わたしは最後に先考せんこうの書斎になっていた離れの一間ひとまの杉戸を開けて見た。紫檀したん唐机とうづくえ水晶の文鎮ぶんちん青銅の花瓶黒檀の書架。十五畳あまりの一室は父が生前詩書に親しまれた当時のままになっている。机の上にひろげられた詩箋しせんの上には鼈甲べっこうの眼鏡が亡き人の来るを待つが如く太い片方のつるを立てていた。本棚のしみを防ぐ樟脳しょうのうの目にしむ如きにおいは久しくこの座敷に来なかったわたしの怠慢を詰責きっせきするもののように思われた。わたしは斑竹はんちくとうに腰をおろし燭をかざして四方の壁に掛けてあるれん書幅しょふくの詩を眺めた。

碧樹如晩波。清秋無客重

故園今即如煙樹。鴻雁不風雨多

 これは今なお記憶を去らぬ書幅の中の一首をしるしたに過ぎない。わたしはいつか燭もつき風雨も夜明けと共にしずまる頃まで独り黙想の快夢にふけっていた。

 正月二日は父の忌辰きしんである。或年の除夜翌朝父の墓前に捧ぐべき蝋梅ろうばいの枝をろうとわたしは寒月皎々こうこうたる深夜の庭に立った。その時もわたしはただちにこの事を筆にする気力があった。

 長年使いれた老婢がその頃西班牙風邪スペインかぜとやらとなえた感冒にかかって死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り珈琲コーヒーわかしまた葡萄酒ぶどうしゅの栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興のく時はさしてつらくはなかった。わたしは銀座の近辺まで出掛けた時には大抵精養軒せいようけんへ立寄ってパンと缶詰類を買って帰る。底冷そこびえのする雪もよいの夜であった。二きんほど買ったパンは焼いたばかりのものと見えて家へ帰るまで抱えた脇の下から手の先までをほかほかと好い工合に暖めてくれた。精養軒の近処は夜となれば芸者の往来がはげしい。わたしはかつて愛誦あいしょうした『春濤詩鈔しゅんとうししょう』中の六扇紅窓掩不開──妙妓懐中取煖来という絶句をおもい起すと共にようせざるもパンを抱いて歩めばまた寒からずと覚えず笑を漏らした事もあったほどである。

 詩興き起れば孤独の生涯も更に寂寥ではない。貧苦病患も例えばかの郎士元ろうしげんが車馬雖僻。鶯花不貧といい、白居易はくきょいが貧堅志士節。病長高人情というが如き句あるを思い得ばまたいささか慰めらるる処があろう。しかし詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来らず叫んでこたえるものでもない。されば孤独のわびしさを忘れようとしてひたすら詩興のすくいを求めても詩興更に湧き来らぬ時憂傷の情ここに始めて惨憺さんたんきょくいたるのである。詩人平素独りあじわい誇る処のかの追憶夢想の情とても詩興なければいたずらしき愚痴ぐちとなり悔恨の種となるに過ぎまい。

 わたしは街を歩むうち呉服屋ごふくやの店先にひらめ友禅ゆうぜんの染色に愕然がくぜん目をそむけて去った事もあった。若き日の返らぬよろこびを思い出すまいと欲したがためである。隣の家から惣菜そうざいの豆煮るにおいの漂いきたるにわたしは腹立たしく窓の障子をしめた事もあった。かつてはわれも知った団欒だんらんの楽しみを思い返すに忍びなかったからである。庭に下りて花をうえる時、街の角に立って車を待つ時、さては唯窓のすだれかんとする時吹く風に軽くたもとを払われてもたちまち征人せいじんきょうを望むが如き感慨を催す事があった。かくては風よりも月よりも虫の声よりも独居の身に取って雨ほどつらいものはあるまい。わたしは或日の日記に、

久雨きゅううなおまず軽寒腹痛を催す。夜に入つて風あり燈を吹くも夢成らず。そゞろにおもふ。雨のふる夜はたゞしん〳〵と心さびしき寝屋ねやの内、これ江戸の俗謡なり。一夜不眠孤客耳。主人窓外有芭蕉。これ人口に膾炙かいしゃする少杜しょうとの詩なり。またおも杜荀鶴とじゅんかくが、半夜燈前十年事。一時和雨到心頭しかり雨の窓を打ち軒に流れしたたり竹にそそぐやそのひびき人の心を動かす事風の喬木きょうぼくに叫び水の渓谷にむせぶものに優る。風声は憤激の声なり水声は慟哭どうこくなり。雨声に至りては怒るにあらず嘆くに非ず唯語るのみ訴ふるのみ。人情千古かわらず独夜枕上ちんじょうこれを聴けば何人なんびとうれいを催さゞらんや。いはんやわれやまいあり。雨三日に及べば必ず腹痛を催す。真に断腸のおもいといふべきなり。王次回おうじかいが『疑雨集ぎうしゅう』の律詩りっしにいへるあり。

病骨真成験雨。呻吟燈背和啼螿

凝塵落葉無妻院。乱帙残香独客牀。

附贅不嫌如キヲ巨瓠。徒𤶛安ンヤスニ枯腸

唯応三復南華語。鑑井蛢𧕇是薬王。

この詩まさしくわれに代って病中独居の生涯を述ぶるもの。故にまたこれを録す。


 その年二百二十日の夕から降出した雨は残りなくはぎの花を洗流あらいながしその枝を地に伏せたが高く延びた紫苑しおんをも頭の重い鶏頭けいとうをも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降りつづけた揚句あげく三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花のおずおず昼のうちから咲きかけたほどであった。物の湿ることは雨の降る最中さいちゅうよりもかえって甚しく机の上はいつも物書く時手をつくあたりのとりわけ湿って露を吹き筆の軸も煙管きせる羅宇らおもべたべたねばり障子の紙はたるんで隙漏ひまもる風にはがれはせぬかと思われた。彼岸ひがん前に袷羽織あわせばおりを取出すほどの身は明日も明後日ももしこのような湿っぽい日がつづいたならきっと医者を呼ばなければなるまい。病骨は真に雨を験するのほうとなる。しかしわたしはとこに置き捨てた三味線さみせんのふと心付けば不思議にもその皮の裂けずにいたのを見ると共に、わが病躯びょうくもその時はまたさいわい例の腹痛を催さぬうれしさ。三日ほど雨に閉籠とじこめられた気晴しの散歩かたがたわたしは物買いにと銀座へ出掛けた。

 わたしはその雅号を彩牋堂さいせんどう主人ととなえている知人の愛妾あいしょうはんという女がまたもと芸者げいしゃになるという事を知ったのは、鳩居堂きゅうきょどう方寸千言ほうすんせんげんという常用の筆五十本線香二束にそくを買い亀屋かめやみせから白葡萄酒しろぶどうしゅ二本ぶらさげて外濠線そとぼりせんの方へ行きかけた折であった。

 曇った秋の日は暮れるに早い。家の門を明けると軒にはもう灯がついていた。わたしは抱えて戻った葡萄酒の栓を抜いて直様すぐさま夕飯をすますと煙草たばこものまずに巻紙を取り上げた。

拝呈その後は御無音ごぶいんに打過ぎ申訳もうしわけ無之候これなくそうろう。諸処方々無沙汰ぶさたの不義理重なり中には二度と顔向けさへならぬ処も有之これあり候ほどなれば何とぞ礼節をわきまへぬは文人無頼ぶらいの常と御寛容のほど幾重いくえにも奉願上ねがいあげたてまつり候。実は小生去冬きょとう風労ふうろうに悩みそれより滅切めっきり年を取り万事はなはだものうく去年彩牋堂竣成しゅんせい祝宴の折御話有之候薗八節そのはちぶし新曲の文章も今以てそのまゝ筆つくることあたはず折角の御厚意無にいたし候不才の罪御詫おわび致方いたしかた無御座ござなく候。されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之これなきまま一字金一円と大きく吹掛ふっかけをり候ものゝ実は少々老先おいさき心細くこれではならぬと時にはひたいに八の字よせながら机に向つて見る事も有之候へども一、二枚書けばたちまち筆渋りて癇癪かんしゃくばかり起り申候間まづ〳〵当分は養痾ようあに事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節おりふし若き頃読耽よみふけりたる書冊しょさつらちもなく読返してわずか無聊ぶりょうを慰めをり候次第に御座候。寝ては起き起きては物食ひその日その日を送行おくりゆく事さへ実はつらくてならぬ心地致され候。それ故三味線も切れたる糸掛換かけかへるが面倒にてそのまゝ打捨てうぐいすも先日鳥屋へ戻しやり申候。有楽座ゆうらくざ始め諸処の演奏会は無論芝居へも意気な場所へも近頃はとんと顔出し致さずしたがって貴兄の御近況も承る機会なくこの事のみ遺憾にたえ申さず候。しかしその後は薗八節再興の御手筈おてはずだん〳〵と御運びの事と推察つかまつりをり候処実は今夕偶然銀座通にてお半様に出遇であひ彩牋堂より御暇おいとまになり候由承り、あまりといへば事の意外なるに驚愕仕きょうがくつかまつり候次第。もとより往来しげ表通おもてどおりの事わけても雨もよひの折からとて唯両三日中には鑑札がさがりませうからとのみ如何いかなる訳合わけあいにや一向いっこう合点がてんが行き申さず。余りに不思議に候まゝ御無沙汰の御詫おわびに事寄せくだ〳〵しくおたずね申上候もとかく人のうわさ聞きたがるは小説家の癖と御許被下おゆるしくだされたくいづれ近々参堂御機嫌伺上うかがいあげたくまずは御無沙汰の御詫おわびまで匇々不一そうそうふいつ

九月 日
金阜散人きんぷさんじん
彩牋堂雅契さいせんどうがけい


 封筒に切手を張っている時折好おりよく女中がぜんを取片づけにふすまを開けた。食事をしたせいか燈火とうかのついたせいかあるいは雨戸を閉めたせいでもあるか書斎の薄寒さはかえって昼間よりもしのぎやすくなったような気がした。しかし雨はまたしても降出ふりだしたらしい。点滴の音は聞えぬが足駄あしだをはいて女中が郵便を出しにと耳門くぐりの戸をあける音と共に重そうな番傘ばんがさをひらく音が鳴きしきる虫の声の中に物淋ものさびしく耳についた。点滴の音もせぬ雨といえば霧のような糠雨ぬかあめである。秋の夜の糠雨といえば物の湿ける事入梅にもまさるが常とてわたしは画帖や書物の虫を防ぐため煙草盆たばこぼんの火をき立てて蒼朮そうじゅつき押入からきりの長箱を取出して三味線をしまった。そのついでに友人の来書一切いっさいおさめた柳行李やなぎごおりを取出しその中から彩牋堂主人の書柬しょかんえらみ分けて見た。雨の夜のひとりみこんな事でもするよりほかに用はない。

 彩牋堂主人とは有名な何某なにがし株式会社取締役の一人何某君の戯号ぎごうである。本名はいささかはばかりあればここには妓輩ぎはい口吻こうふんしてヨウさんといって置こう。わたしとは二十年ほど前米国のある大学で始めて知合になった。ヨウさんは日本の大学にった頃俳人としてその道の人には知られていた。今でも折々名句を吐くのでもしヨウさんの俳号をいえばこのほうでも知る人は必ず知っているに違いない。しかし彩牋堂なる別号は恐らく私のほかには誰も知らないであろう。いわんや今では彩牋堂なるその家はっても住むものなくヨウさんは再びその名を用ゆる折がなくなってしまったのである。彩牋堂の由来は左の書簡中におのずから説明せられてある。

拝啓御新作出勤の途次とじ車上にて拝読致候いたしそうろう倉皇そうこうの際わずかに前半の一端をうかがひたるのみに御座候得そうらえども錦繍きんしゅうの文章ただちに感嘆の声を禁じ得ず身しばしば自動車の客たる事を忘れ候次第忙中かへつてよく詩文の徳に感じ申候。目下新緑晩鶯ばんおうこう明窓浄几めいそうじょうきの御境涯羨望せんぼういたり有之これあり候。さて旧臘きゅうろう以来種々御意匠をわずらはし候赤坂豊狐祠畔あかさかほうこしはんの草庵やつと壁の上塗うわぬりも乾き昨日小半こはん新橋しんばしを引払ひ候あいだ明後日夕景よりいつもの連中ばかりにていささ新屋しんおく落成のしるしまで一酌いっしゃくいたしたくぞんじ候間御迷惑ごめいわくながら何とぞ御枉駕ごおうがの栄を得たく懇請たてまつり候。当夜は宮薗千斎みやぞのせんさいは無論の事宇治紫仙都吾中うじしせんみやこごちゅうらも招飲致候間おたがいに親類のおつきあひその御覚悟十分しかるべく候。電話も今明日中には通ずべきはづ芝○○番に御座候由御面倒ごめんどうながら貴答に接するを得ば幸甚こうじん々々

彩牋堂主人
金阜先生碩北けんぽく


二伸  かの六畳土庇どびさしのざしき太鼓張襖紙たいこばりふすまがみ思案につき候まゝ先年さる江戸座の宗匠そうしょうより売付うりつけられ候文化時代吉原よしわら遊女の文殻反古張ふみがらほごばりに致候処妾宅しょうたくには案外の思付に見え申候。よってかの家を彩牋堂とこじつけ候へども元より文藻ぶんそうに乏しき拙者せっしゃ出鱈目でたらめ何かき名も御座候はゞ御示教願はしく万々ばんばん面叙めんじょを期し申候

 ヨウさんは金持であるが成金ではない。品格もあり学問もあり趣味には殊に富んでいる。わたしの処へ寄越よこす手紙にはその用件の次第によって時々異った雅号が書かれてあるがそれを見てもヨウさんの趣味と学識の博い事が分る。いつぞやわたしが天明てんめい時代の江戸の書家東江源鱗とうこうげんりん書帖しょじょうの事について問合した事があった時ヨウさんはその返事に林檎庵頓首りんごあんとんしゅと書いて来た。沢田東江さわだとうこうの別号来禽堂らいきんどうから思いついた戯れであろう。自動車が衝突した時見舞の返書に富田塞南とんださいなんと書いて来た事もあった。次に録する手紙に半兵衛はんべえとあるのは「口舌八景くぜつはっけい」を稽古けいこしていたためとまた芸者小半の事にかかわっているからであろう。

昨夜はまた〳〵無理に御引留おひきとめ致しさぞかし御迷惑の段御容赦被下ごようしゃくだされたく候。人生五十の坂も早や間近の身を以て娘同様のものいつも側に引付けしだらもなきていたらくはずかもなく御目にかけ候傍若無人ぼうじゃくぶじん振舞ふるまいいかに場所がらとはもうしながら酒めてははなはだ赤面のいたりに御座候。しかし放蕩紳士ほうとうしんしが胸中を披瀝ひれき致候も他日雅兄がけい小説御執筆の節何かの材料にもなるべきかと昨夜は下らぬ事包まずおたずねのまゝ懺悔ざんげ致候次第に御座候。明後日は会社の臨時総会にて残念ながら半輪亭はんりんていのけいこ休みと致候。ただし当月中には是非とも「口舌八景」上げたきつもり貴処もせいぜい御勉強のほど願はしくお花半七掛合かけあい今より楽しみに致をり候

半兵衛ゟ
金阜きんぷ先生さま


 その頃まではなんのといっても私にはまだ若い気が残っていた。四十の声を聞いて日記雑録など筆を執るごとにしきりに老来のたんをなしたのも、思えばなお全く老いるにはいたらなかった証拠であろう。愚痴ぐち不平をいう元気のあるうちはまだ真に絶望したとはいわれない。今の芸者の三味線などは聞かれたものでないなぞと人前で耻し気もなくそんな事が言われたのはまだ色気いろけもあり遊びたい気もせなかった証拠である。遊びたい気があれば勉学の心も失せないわけである。述作の興味もくわけである。一夜ある人の薗八節そのはちぶしを語るを聞きわたしもその古調をあじわい学びたいと思立おもいたって薬研堀やげんぼりの師匠の家にかよっていた事がある。その時分ふとした話から旧友のヨウさんも長唄ながうた哥沢うたざわ清元きよもとといろいろ道楽の揚句あげくが薗八となり既に二、三年も前から同じ師匠を木挽町こびきちょう待合半輪まちあいはんりんというへ招き会社の帰掛かえりが稽古けいこに熱心している由を知ってたがいにこれは奇妙と手をって笑った。それからわたしはヨウさんに勧められるまま朝の稽古通いをめて夕刻木挽町の半輪へ出向く事にしたのであった。

 ヨウさんは稽古の日といえば欠さず四時半ごろに会社からおかかえの自動車でけつけ稽古をすますとそのままわたしを引留め贔屓ひいきの芸者を呼んで晩餐ばんさん馳走ちそうした。そして十時半というと規則正しく帰り支度をする。雨の降る晩なぞわざわざわたしの家の門前まで自動車で送って来てくれる事もあった。ヨウさんの座敷に呼ばれる芸者は以前は長唄清元なぞの名取連なとりれんまじえられていたそうであるがその頃は自然河東一中かとういっちゅう薗八という組のものばかりに限られていたので若いといっても二十五、六より下はない。既に芸者とよりは師匠らしく見える老妓ろうぎもあった。さればその頃初めて十九になったとやらいう小半の姿はまさ万緑叢中ばんりょくそうちゅうこう一点あまり引立ち過ぎて何となく気の毒にも見えまた問わずしてこの女がヨウさんの御世話になっているものと推量されるのであった。

 小半はいかにも血色のよい大柄ながっしりした身体付からだつき。眼はぱっちりしてまゆも濃く生際はえぎわもよいので顔立は浮彫うきぼりしたようにはっきりしている代り口のやや大きく下腭したあごの少し張出している欠点も共に著しく目に立って愛嬌あいきょうには至って乏しくうれいもまずきかぬ顔立であった。豊艶ほうえんな女をばいつの時代にも当世風とするならば小半も勿論もちろんその型の中に入れべきものである。当世風の小半がヨウさんの持物である事を知った瞬間にはわたしは実をいえば意外な気がしないでもなかった。しかしその心持は小半が年に似ず当世風に似ず薗八の三味線も大分その流儀になっている事を知るに及んでただちに取消されてしまった。

 或晩いつもの如く稽古をすましてから勧められるまま座敷をかえてヨウさんとさかずきかわした。小半を始めいつも来るべきはずの芸者はいずれも歌舞伎座かぶきざに土地の芸者のさらいがあるとやらで九時近くまで一人も姿を見せず、その晩はまた師匠までが少し風邪かぜの気味だからと稽古をすますと直様すぐさま車を頂戴ちょうだいして帰ってしまった。ヨウさんとわたしは女中に酌をさせながらかえって話に遠慮のいらぬのをさいわい江戸俗曲の音楽としての価値及びその現代社会に対する関係から将来の盛衰についてまで、互に思う処を論じ合った。三味線は言うまでもなく二世紀以前売色ばいしょくちまたに発生し既に完成しつくした繊弱悲哀なる芸術である。現代の社会に花柳界かりゅうかいと称する前代売色の遺風がそのまま存在している間は三味線もまた永続すべき力があろう。三味線は浮世絵歌舞伎劇などと同じく現代一般の社会観道徳観を以て見るべき芸術ではない。生きた現代の声ではない。過去のつぶやきであるが故にうれいあるものこれを聞けばかえって無限の興趣と感慨とを催す事あたかも商女不知亡国恨。隔江猶唱後庭花の趣がある。これまさに江戸俗曲の現代における価値であろう。これは以前からわたしの持論である。ヨウさんは日々職務の労苦を慰める娯楽としては眼にる書画の鑑賞よりも耳に聞く音楽がはるかに簡易である。豊太閤ほうたいこうは茶を立てたが茶よりも浄瑠璃じょうるりがよい。浄瑠璃も諸流の中で最もしめやかな薗八に越すものはない。薗八節の凄艶せいえんにして古雅な曲調には夢の中に浮世絵美女の私語を聞くようなおもむきがあると述べた。二人の言う処はいずれにしても江戸の声曲を骨董的こっとうてき愛玩あいがんするという事に帰着するのである。

 女中が欠伸あくびをそっとみしめながら銚子ちょうしを取替えにと座を立った時ヨウさんは何か仔細しさいらしくわたしの名を呼んだ。そして、「実はこの間からおはなししたいと思っていたのです。あの、小半のことです。小半はどうでしょう。うまくなるでしょうか。みっしり薗八を稽古けいこさせて行々ゆくゆくは家元の名前でも継がせて見たいと思っているのですが、どんなものでしょう。」

 薗八節は他派の浄瑠璃とは異り稽古するものの少いため今のうちどうにかして置かなければ早晩断滅しはせぬかと危ぶまれているものである。ヨウさんがその趣味とその富とによって衰滅せんとする江戸の古曲を保護しようという計画には異議のあろうはずがない。また小半の腕前もその年齢に似ずのぞみを嘱するに足るべき事はわたしもとくに認めていたので、その通り思う処を述べるとヨウさんはおもむろ一盞いっさんを傾けつつ事の次第を話した。

「何ぼ何でもこの年になって色気いろけで芸者は買えません。芸でも仕込んで楽しむより仕様がない。あなたの前だから遠慮なく気燄きえんを吐きますが僕はこう見えてもこれでなかなか道徳家のつもりです。今の世の中の紳士しんしや富豪は大嫌だいきらいです。富豪も嫌いなら社会主義者も感心しません。真面目まじめな事を言ったって用いらるべき世の中じゃありませんから、わたしはむしろそれをいい事にして毎晩こうして遊んでいるんですが……まアそんな事はどうでもいいとして……わたしが芸者に芸を仕込んで見ようなぞと柄にもない事を思い付いたのはいささかわけがあります。茶碗ちゃわん色紙しきしに万金をなげうつのも道楽だ。芸者に芸を仕込むのも道楽にかわりはありますまい。

 わたしはこれまで随分大勢の人を世話しました。真面目に世話をしましたがその結果は要するに時勢の非なるを悟るに過ぎません。現に家には書生が三人います。惣領そうりょうせがれも来年は大学にはいるはずです。わたしは人の世話をしたからとてその人から礼を言われたいなぞとそんな卑劣な考えは微塵みじんも持ってはいません。失敗成功そんな事はわたしの深く問う処でない。唯いつまでも心持よく話の出来るような人物になってもらいたい。わたしの世話をしたものは皆成功しています。しかしわたしにはその成功ぶりが甚だ気に入らんのです。

 名前は言いませんがもう七、八年前の事です。人から頼まれまたわたし自身も将来有望と思って或青年の画家に経済的援助を与えた事がありました。蕪村ぶそんとか崋山かざんとかいうような清廉せいれんな画家になるだろうと思ったら大ちがいでした。展覧会で一、二度褒美ほうびもらい少し名前が売れ出したと思うともう一廉ひとかど大家たいかになりすました気でおおいに門生を養い党派を結び新聞雑誌を利用して盛んに自家吹聴ふいちょうをやらかす。まるで政治運動です。しかしその効能はおそろしいもので、素寒貧すかんぴんの書生は十年ならずして谷文晁たにぶんちょう写山楼しゃざんろうもよろしくという邸宅の主人になりました。

 もう一人成功した家の書生でわたしの閉口しているものがあります。これは教育家です。大学に通っている時分じぶん或日わたしに俳句を教えてくれというからわたしももともと嫌いな道ではないので蔵書も貸してやる。また時にはこっちからどうだ句はまだ出来ないかと催促して直してやった事もありました。しかし後になって考えて見るとその男は別に俳句が好きというのではない、わたしが時々句をよむから御気に入ろうと思ってそんな事をきいたのでしょう。とにかくそういう抜目ぬけめのない男の事ですから学士になって或地方の女学校の教師になると間もなくその土地の素封家そほうか壻養子むこようしになって今日では私立の幼稚園と小学校を経営して大分評判がよい。それだけの話なら何も悪くいう処はない。わたしもおおいに感心しなければならんのですがどうも気に入らないのはその男のやり方です。教育の事業をまるで商店か会社の経営と心得ているらしい。毎年東京へ来て朝野ちょうやの有力者を訪問する。三年目には視察と称して米国へ出掛け半年位たって帰って来ると盛んに演説をして廻る。まアそれも結構です。わたしの甚だ気に入らないのは去年の事だ。やっと四十になったかならずの年輩でありながら自分の銅像をその地方の公園に建ておのれの功績を誇ろうとした事です。天下の糸平いとへいの石碑がいかに大きかろうがそれは子孫のやった事だから致し方がない。自分の道楽からわが銅像をわが家の庭に立てる位の事なら差支えないがその男の遣方やりかたはそれとなく生徒の父兄を説いて金を出させ地方の新聞記者を籠絡ろうらくして輿論よろんを作り自分は泰然としているように見せ掛けるのだから困ります。

 わたしは一体に今の人たちの立身出世の仕方が気に入りません。失敗して金を借りに来ても心持さえさっぱりしていれば、わたしは喜びます。いくら成功しても正義堂々としていないものはいやです。わたしはそれらの事から真面目に人の世話をするのがいやになり馬鹿々々しくなりました。それらの事が直接の原因という訳ではありませんが小半に薗八の稽古をさせているうちわたしはいつかこの女を自分の思うような芸人に仕立てて見たらばと柄にもない気を起すようになったのです。世の中を相手にする真面目な事は皆駄目でしたから今度は芸人を養成しようかというのです。今の芸人は男も女も御存じの通りで皆仕様がありません。このさき名人上手の出ようはずもない。それに薗八なぞは長唄ながうた清元きよもととはちがって今の師匠がなくなればちょっとその後をつぐべきものもないような始末ですから、もし小半がわたしの思うようにみっしり修業を積んでくれればわたしの道楽も真面目くさっていえば俗曲保存の一事業にもなろうというわけです。」

 ヨウさんが小半をひかせる事に話をきめ妾宅しょうたく普請ふしんに取かかったのはそれから三月みつきほど後のことである。その折の手紙を見ると、

御風邪ごふうじゃの由心配致しをりそうろう蒲柳ほりゅう御身体おからだ時節がらこと御摂生ごせっせい第一に希望致し候。実は少々御示教にあずかりたき儀有之これあり昨夜はいつもの処にて御目おめに掛れる事と存じをり候処御病臥びょうがの由面叙めんじょの便を失し遺憾に存じ候まゝ酒間乱筆を顧みずこの手紙差上申さしあげもうし候。御相談と申すはかの妾宅の一件御存じの如く兼々かねがね諸処心当りへ依頼致置いたしおき候処昨日手頃てごろの売家二軒有之候由周旋屋の手より通知に接し会社の帰途一応見歩き申候。一軒は代地河岸だいちかし一軒は赤坂豊川稲荷あかさかとよかわいなり横手裏に御座候。本来は築地つきじ辺一番便利と存じ最初より註文ちゅうもん致置候処いまだに頃合ころあいの家見当り申さぬ由あまり長延ながびき候ては折角の興も覚めがちになるおそれも有之候あいだ御意見拝聴の上右浅草あさくさか赤坂かのうちいづれにか取極とりきめたき考へに御座候。当人の小半は代地は場所がらとて便利なだけ定めし近隣のうわさもうるさかるべく少し場所はわるけれど赤坂のほう望ましきやうもうしをり候。赤坂の売家は庭古びて樹木もあれど家屋はまづツブシと存ぜられ候。代地の方は建具造作ぞうさく入替いれかえ位にてどうにか住まへるかと存じ候へども場所がらだけあまり建込たてこ日当ひあたりあしく二階からも一向に川の景色見え申さず値段も借地にて家屋だけ建坪三十坪ほどにて先方手取一万円引ナシとは大層な吹掛ふっかけやうと存じ候。江戸むきは庭はなくとも我慢は出来申候へども川添ならでは奇妙ならず。

さて赤坂の方はこの辺もと〳〵成金紳士の妾宅しょうたくには持つてこいといふ場所なれば買つた上でいやになればかへつて値売ねうりのぞみも有之候よし周旋屋の申条もうしじょうに御座候。地所七十坪ほど家屋つき壱万五千円の由坂地なれば庭たいらならぬ処自然のおもむき面白く垣の外すぐに豊川稲荷の森に御座候間隠居所妾宅にはまづ適当と存ぜられ候。昨日見にまいり候折参詣人さんけいにん柏手かしわでつ音小鳥の声木立こだちを隔てゝかすかに聞え候趣おおいに気に入り申候。地勢東北は神社の森かげとなりまづ西南向にあい見え候間古家建直しの折西日さへよけるようにすれば風通しもかるべくまさか田福でんぷくが「わが宿は下手へたのたてたるあつさかな」の苦しみもなかるべくと存じ候。とにかく山の手は御存じの如く都の中にても桃隣とうりんが「市中いちなかや木の葉も落す富士おろし」の一句あり冬の西風と秋の西日禁物きんもつに有之候。方角は磁石失念のためしかとわからず今一応検分のつもり何とぞ貴下御全快を待ち御散歩かたがた御鑑定希望のいたりに御座候。とんだ御迷惑はなはだ恐縮しかし昔より道楽は若い時に女。中年に芸事。老いては普請庭つくり。これさへ慎めば金が出来るとやら申す由なれど小生道楽の階程かいていも古人のいましめに適合致候は誠に笑止しょうしに御座候。とてもの事に道楽の仕納しおさめには思ふさまつた妾宅建てたきもの何とぞ御暇おひまの節御意匠被下くだされまじくや。同じ江戸風と申しても薗八一中節そのはちいっちゅうぶしなぞやるには『梅暦うめごよみ』の挿絵に見るものよりは少し古風に行きたく春信はるのぶの絵本にあるやうな趣ふさはしきやに存ぜられ候。江戸趣味は万事天明てんめいぶりありがたし〳〵

冬来るや気儘頭巾きままずきんもある世なら

御病気御全癒のほどこの際一日千秋のおもいに御座候。

十一月  日
半兵衛より
金阜きんぷ先生


 そのころ世の中は欧洲おうしゅう戦争のおかげで素破すばらしい景気であった。株式会社が日に三ツも四ツも出来た位なので以前から資本のしっかりしているヨウさんの会社なぞは利益も定めし莫大ばくだいであったに相違ない。贅沢品ぜいたくひんは高ければ高いほどく売れる。米が高いので百姓も相場をやるという景気。妾宅の新築には最も適当した時勢であった。その頃旧華族がしきりに家宝の入札売立にゅうさつうりたてを行ったのもヨウさんの妾宅新築にははなはだ好都合であった。ヨウさんは地形じぎょうもまだ出来ぬうちから売立のあるごとにわたしを誘って入札の下見に出掛けた。勿論もちろん俳味をもっぱらとする処から大きな屏風びょうぶや大名道具にはふだを入れなかったが金燈籠きんどうろう膳椀ぜんわん火桶ひおけ手洗鉢ちょうずばち敷瓦しきがわら更紗さらさ広東縞かんとんじま古片こぎれなぞすべて妾宅の器具装飾になりそうなものは価を問わずどしどし引取った。やがて普請が出来上ると祝宴の席でわたしは主人を始め招かれた芸人たちにも勧められ辞退しかねて「彩牋堂の記」なるものを起草した。それのみならず薗八節新曲の起稿をも依頼される事になった。

 その翌日からわたしは早速新曲の資材となるべき事蹟じせきを求めたいと例の『燕石十種えんせきじっしゅ』を始めとして国書刊行会飜刻本ほんこくぼんの中に蒐集しゅうしゅうされた旧記随筆をあさり初めた。そしてこれはと思う事蹟伝説が見当ったならすぐにも筆を執る事ができるように毎夜枕元まくらもとに燈火を引寄せ「松の葉」を始め「色竹蘭曲集いろたけらんきょくしゅう」「都羽二重みやこはぶたえ」「十寸見要集ますみようしゅう」のたぐいを読み返した。その頃わたしには江戸戯作者げさくしゃのするようなこうした事が興味あるのみならずまたはなはだ意義ある事に思われていたので既に書かけていた長篇小説の稿をも惜まず中途にしてよしてしまった。二葉亭四迷ふたばていしめいでて以来ほとんど現代小説の定形の如くなった言文一致体げんぶんいっちたいの修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑ぶざつなデアルの文体を排棄はいきしようと思いながら多年の陋習ろうしゅう遂に改むるによしなく空しく紅葉こうよう一葉いちようの如き文才なきをたんじている次第であるノデアル。わたしはその時新曲の執筆に際して竹婦人ちくふじん玉菊たまぎく追善ついぜん水調子みずぢょうし「ちぎれちぎれの雲見れば」あるいはまた蘭洲らんしゅう追善浮瀬うかぶせの「傘持つほどはなけれども三ツ四ツるる」というような凄艶せいえんなる章句に富んだものを書きたいとこいねがった。既にその前年一度医者より病の不治なる事を告げられてからわたしは唯自分だけの心やりとして死ぬまでにどうかして小説は西鶴さいかく美文は也有やゆうに似たものを一、二篇なりと書いて見たいと思っていたのである。『鶉衣うずらごろも』に収拾せられた也有の文は既に蜀山人しょくさんじんの嘆賞かざりし処今更後人こうじんの推賞をつに及ばぬものであるが、わたしは反復朗読するごとにあんってこの文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。その故は何かというに『鶉衣』の思想文章ほど複雑にして蘊蓄うんちく深く典故てんこによるもの多きはない。それにもかかわらず読過其調の清明流暢りゅうちょうなる実にわが古今の文学中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辞は『鶉衣』を織成おりなとなり元禄げんろく以後の俗体はそのけいをなしこれをいろどるに也有一家の文藻ぶんそうと独自の奇才とを以てす。渾成こんせい完璧かんぺきの語ここに至るを得てはじめて許さるべきものであろう。わたしがヨウさんに勧められ「彩牋堂の記」を草する心になったのも平素『鶉衣』の名文を慕うのあまりにでたものである。彩牋堂記の拙文は書終ると直様すぐさま立派な額にされたが新曲は遂に稿を脱するに至らずその断片は今でも机の抽斗ひきだししまわれてある。

 わたしが新曲に取用いようと思い定めた題材は『江戸名所図会ずえ』に記載せられた浅草橋場采女塚あさくさはしばうねめづかの故事遊女采女が自害の事であった。ヨウさんの賛成を待って筆をつけようと思った時は丁度七月のぼんに近く稽古けいこは例年の通り九月なかばまで休みになる。ヨウさんは家族をつれて大磯おおいその別荘に行く。わたしは暑気にあてられて十日ほど寝る。秋涼を待ち彩牋堂の稽古が始まる頃にもなったら机に向おうと思っていると、今度は師匠が病気になった。十月に入って師匠が稽古に出られる頃にはその年は折悪おりあしく主人のヨウさんが会社の用で満韓まんかんへ出張という次第。帰京すれば間もなく歳暮に近くそれから正月一ぱいこれはまた芸人の習慣で稽古は休みである。

 心中しんじゅう采女塚はそんな事ですっかり執筆の興がせてしまった。二月に至って彩牋堂から稽古始めの勧誘状が来たが毎年わたしは余寒のきびしい一月から三月も春分の頃までは風のない暖かな午後の散歩を除いてはなるべく家を出ぬことにしているので筆硯ひっけん多忙と称して小袖こそでの一枚になる時節を待った。独居の生涯は日頃ひごろ人一倍気楽なかわりやまいした折の不自由もまた人一倍である。それもいっそぐっと寝就いてしまうほどの重患なればとやかくいう暇もないが看護婦雇うほどでもない微恙びようの折は医者の来診を乞う折にもその車屋にやるべき祝儀しゅうぎも自身に包んで置かねばならず医者の手を洗うべき金盥かなだらい手拭てぬぐいの用意もあらかじめ女中に命じて置かねばならぬ。養痾ようあのためにかえって用事が多くなるわけなので風邪かぜ引かぬ用心に寒気を恐るる事はさながら温室の植物同然の始末である。

 その年はやはり凶年であった。日頃の用心もそのかいなく鳥き花落ちる頃に及んでかえって流行感冒にかかりつづいて雨の多かったためか新竹伸びて枇杷びわ熟する頃まで湯たんぽに腹あたためぬ日とてはなく食事の前後数うれば日に都合六回水薬粉薬取交とりまぜて服用するわずらわしさ。して書を読もうにもひもとく手先早くつかれ坐して筆をろうにも興を催すによしなく、わずかに書肆しょしきたって旧著の改版を請うがまま反古ほごにもすべき旧稿の整理と添刪てんさんとに日を送ればかえってすぎし日の楽しみのみ絶え間もなく思い返されるばかり。しばしば朱筆をなげうって、

シテ残書幾篇

軽狂蹤跡廿年前。

犀首花間盞。

蛾眉月下船。

黄祖怒時偏自喜

紅児癡処絶タリムニ

如今興味銷磨

剰愛銅鑪一炷烟。

と『疑雨集』中の律詩りっしなぞを思い出して、わずかうれいる事もあった。かくては手ずから三味線さみせんとって、浄瑠璃じょうるりかたる興も起ろうはずはない。彩牋堂へはそのまま忘れたように手紙の返事さえも出さず一夏を過して、秋もまたたちまなかばに及んだその日の夕。わたしは突然銀座通りで小半の彩牋堂を去った由を知るやおのれが無沙汰ぶさたは打忘れただ事の次第をいぶかったのであった。


 点滴のといをつたわって濡縁ぬれえんの外の水瓶みずがめに流れ落る音が聞え出した。もう糠雨ぬかあめではない。風と共に木の葉のしずくのはらはらと軒先に払い落されるひびきも聞えた。先ほどからきつづけた蒼朮そうじゅつと、煙草たばこの煙のこもり過ぎたのに心づいてわたしは手を伸ばして瓦塔口かとうぐちふすまを明けかけた時彩牋堂へてた手紙を出しに行った女中がその帰りがけ耳門くぐりの箱にはいっている郵便物を一掴ひとつかみにして持って来た。郵便物は皆しっとりれていた。葉書が三枚その中の二枚は株屋の広告一枚は往復葉書で貴下のすきな芸者と料理屋締切しめきりまでに御返事下さいなどと例の無礼千万な雑誌編輯者へんしゅうしゃの文言。そのほかに書状が二通あった中の一通は書体で直様すぐさま彩牋堂主人と知られた。わたしはこの際必ずお半の一条が書いてあるに相違ないと濡れたままの封筒を干す間もなく開いて見た。

久しく御消息に接せず御近況如何いかがに候。本年は残暑の後意外の冷気に加へて昨今の秋霖しゅうりん御健康如何やと懸念けねんに堪へず候。この分にてもう二、三日晴れやらずば諸河しょか汎濫はんらん鉄道不通米価いよいよ騰貴とうきいたすべしと存候。さて突然ながらかのお半事このほどいささか気に入らぬ仕儀有之これあり彩牋堂より元の古巣へ引取らせ申候。古人既に閑花只合閑中看。一折帰来便不鮮。とか申候間とやかく評議致すはかへつて野暮の骨頂なるべくまた人に聞かれては当方のはじにも相なりもうすべき次第。と申せば大通だいつうの貴兄大抵は早や御推察の事かと存じ候。拙者とて芸者に役者はつきものなり大概の事なれば見て見ぬ度量は十分有之候。いはんやほかの芸事とはちがひ心中物しんじゅうものばかりの薗八節そのはちぶしけいこ致させほれねばならぬ殿ぶりに宵の口説くぜつをあしたまで持越し髪のつやぬけてなど申すところはとりわけじょうをもたせて語るやう日頃註文ちゅうもん致をり候事とて「口舌八景くぜつはっけい」の口舌ならねど色里いろざとの諸わけ知らぬ無粋ぶすいなこなさんとは言はれぬつもりに候へども相手が誰あろう活動の弁士と知れ候ては我慢なりがたく御払箱おはらいばこ致申いたしもうし候。同じいやなものにても壮士そうし役者か曾我そが位ならまだ〳〵どうにか我慢も出来もうすべく候へども自動車の運転手や活動弁士にてはいかに色事を浄瑠璃じょうるり模様に見立てたき心はありても到底色と意気とを立てぬいて八丈縞はちじょうじまのかくし裏なぞといふやうな心持にはなりかね申候。この辺の心事は貴下平素の審美論にも一致致すべき次第一層御同情に値する事かと愚考罷在まかりあり候。

お半二度左褄ひだりづま取る気やらまた晴れて活弁かつべんと世帯でも持つかそのの事はさっぱり承知致さず。折角の彩牋堂今は主なく去年尊邸より頂戴ちょうだい致候秋海棠しゅうかいどう坂地にて水はけよきため本年は威勢よく西瓜すいかの色に咲乱れをり候折から実の処ぜに三百落したよりは今少し惜しいやうな心持一貫三百位と思召被下おぼしめしくださるべく候。まづは御笑草おわらいぐさまで委細くだんのごとし

  月  日
彩牋堂さいせんどう旧主
金阜きんぷ先生


 雨はやっとれた。霽れさえすれば年のうちで最も忘れがたい秋分の時節である。残暑は全く去って単衣ひとえすそはさわやかに重ねるの羽織のたもともうるさからず。すだれ打つ風には悲壮の気満ち空の色怪しきまでに青く澄み渡るがまま隠君子いんくんしならぬ身もおのずから行雲こううんの影を眺めて無限の興を催すもこの時節である。曇って風静まれば草の花ちょうはねのかえって色あざやかに浮立ちほりの水には城市の影沈んで動かず池の水みぞの水雨水のたまりさえことごとく鏡となって物の影を映すもこの時節である。

昨来風雨鎖書楼

新晴簾可鉤。

籬菊未開山桂落

雁来紅一園秋。

 思出すまま先人の絶句を口ずさみながら外へ出た。足の向くまま彩牋堂の門前に来て見るとひのきの自然木を打込んだ門の柱には□□ぐうとした表札まだそのままに新しく節板ふしいたの合せ目に胡麻竹ごまだけ打ち並べた潜門くぐりもんの戸は妾宅しょうたくの常とていつものように外から内の見えぬようにぴったり閉められてあった。久しく訪わなかったのでいわれなく入って見たいような気がした。普請の好きなわたしは廊下や縁側の木地きじにも幾分かさびが出来たであろう。庭の土も落ちつき石にも今年は雨が多かったのでこけがついたであろう。わたしの家から移植うつしうえた秋海棠の花西瓜の色に咲きたる由書越かきこされた手紙の文言を思出してはなお更我慢がならず耳門くぐりの戸に手をかけるとすらすらと明いたのみならず、内にはいればこれはいかに、萩垣はぎがき彼方かなたから聞える台広だいびろの三味線。丁度二を上げて一撥ひとばち二撥当てた音締ねじめ。但し女にあらず。女にあらずとすればまさしく師匠の千斎せんさいである。わたしは二の糸の上った様子から語っているのは何かと耳を傾けるとも知らず内ではおもむろに

おもひきらしやれもう泣かしやんな──────

と主人が中音。さては浮橋縫之助うきはしぬいのすけたがいに「顔と顔とを見合せて一度にわつと」嘆きさえすれば後は早間はやまに追込んで「鳥辺山とりべやま」の一段はすぐさま語り終られると知るものから、わたしは無遠慮に格子戸こうしど明けて中座させるも心なきわざと丁度目についた玄関のひさしに秋の蜘蛛くも一匹しきりに網をかけているさまを眺めながら佇立たたずんでいた。


「いや君実に馬鹿々々しい話さ。活弁かつべんに血道を上げるとは実にお話にならない。あれは全く僕の眼鏡ちがいだった。活弁の一件がないにしてもあの女は行末望みがないようだ。芸者をしている時分芸事には見込があるように思われたのはつまり非常に勝気な女で何事によらず人にまける事が嫌いだからそれで自然稽古けいこにも精を出したものらしい。だから商売をやめたとなると競争する張合はりあいがない。一月ひとつき二月とたつうち三味線の稽古はわたしへの義理一方という事になった。初めはわたしもいろいろ小言をいった。生れつきたちのわるいほうではないのだから今のうちみっしりやって置けといい聞かしても当人には自分の天分もわからず従って芸事の面白味も一向に感じないらしい。たとえば用がなくて退屈だという時何という気もなく手近の三味線を取上げて忘れた手でも思出して見ようという気にはならないらしい。それなら何が好きなのかというと別にこれといって好きなものもないらしい。針仕事は勿論もちろん読み書きも好きではない。ただ芝居へ行って友達と運動場をぶらぶらするとか三越みつこし白木しろきへ出掛けて食堂で物を食い浅草あさくさの活動写真を見廻るといったような事がまず楽しみらしい。小言をいうと遂には反抗する。面倒なおもいをして三味線の師匠なぞになった処で何が面白いといわぬばかりの様子を見せるようになった。これでは到底のぞみがないと思ってひまをやったわけだがしかしこれはあの女ばかりに限った話ではない。今の若い女は良家の女も芸者も皆同じ気風だ。会社で使っている女事務員なぞを見ても口先では色々生意気な事をいうがつらい処を辛抱して勉強しようという気は更にない。今の若い芸者に薗八なんぞ修業させようとしたのは僕の方が考えれば間違っていたともいえる。家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分る話で今日の若い女には活字のほかは何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙くさぞうしは読めない。薗八節稽古本の板木はんぎ文久ぶんきゅう年間に彫ったものだ。お半は明治も三十年になってから後に生れた女だ。稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶はねつるべ竿さおに残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。そういう女が口先で「重井筒かさねいづつの上越したすいな意見」とうたった処で何の面白味もないわけだ。「盛りがにくい迎駕籠むかえかご」といったところで何の事だかわかりはしない。分らない事に興味の起ろうはずはない。『五元集ごげんしゅう』の古板こはん其角きかく自身の板下はんしただからいくら高くてもかまわない買いたいと思うのはわれわれの如き旧派の俳人の古い証拠で、新傾向の俳人には六号活字しか読めないのだから木板もくはんの本はいらない訳だ。今の芸者が三味線をひくのは唯昔からの習慣と見ればよい。丁度新傾向の俳人がその吟咏ぎんえいにまだ俳句という名称をてずにいるのと同じようなものだ。僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりかわれわれは果していつまでわれわれ時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。僕の会社でもいよいよ昨夜から同盟罷工ひこうが始った。もう夕刊に出る時分だが今日はそんなさわぎで会社は休みも同然になったのでもっけのさいわいと師匠を呼んで二、三段さらったわけさ。」

 ヨウさんは溜池ためいけ三河屋みかわやへ電話をかけわたしに晩餐ばんさん馳走ちそうしてくれた。わたしは家へと帰る電車の道すがら丁度二、三日前から読みかけていたアンリイ・ド・レニエーが短篇小説。

MARCELINE OU LA PUNITION FANTASTIQUE

の作意とヨウさんの話とを何がなしに結びつけて思い返したのであった。レニエーの小説というのは新妻の趣味を解せざる事を悲しみいきどおる男の述懐である。男は日頃伊太利亜イタリアもヴニズの古都を愛していたので新婚旅行をこの都に試みたが新妻は何の趣味をも感じない。男はある骨董店こっとうてんで昔ヴニズの影絵芝居で使った精巧な切子きりこ人形を見付け大金を惜まず買取ってやがて仏蘭西ふらんすの旧邸へ帰る。夫婦の仲はだんだん離れて来る。新妻の友達に下卑げびていながら妙に女の気に入る医者があって主人をば精神病の患者と診断し新妻は以後主人を狂人扱いにする。或日主人は外から帰って見ると先祖代々住古すみふるした邸宅は一見あらた建直たてなおされたのかと思うばかりその古びた外観を改めまた昔の懐しい家具は椅子いす卓子テーブルに至るまでことごと巴里パリー街頭の家具店に見られるような現代式のけばけばしい製造品に取替えられている有様、男は憤怒のあまり周囲のものを打壊して卒倒してしまう…………わたしはヨウさんに別れて家に帰ると直様すぐさま読掛けたこの小説の後半をば蚊帳かやの中で読んだ。……篇中の主人公がヴニズの骨董店で買取った秘蔵の人形は留守中物置の中に投込まれていたが折から照り渡る月の光に動き出して話をしだす。感情の興奮している主人公は夢ともうつつともわけが分らなくなって遂にはどうやら自分ながらも日頃周囲のもののいっていたように真の狂人であるが如き心持になってしまう──というのがこの小説の結末であった。

 蚊帳の外に手を延ばして燈火を消した時遠く鐘の音が聞えた。数えると二時らしかった。秋の夜ごとにふけ行く夜半過やはんすぎわけて雨のやんだ後とて庭一面こおろぎの声をかぎりと鳴きしきるのにわたしはつかれぬままそれからそれといろいろの事を考えた。一刻も早く眠りたいと思いながらわけもなく思いにふける思いである。あくる日起きてしまえば何を考えたのやら一向に思い出す事の出来ない取留とりとめのない思いである。


 その後わたしは年々暑さ寒さにつけて病をいたわる事のみにいそがしく再び三味線のけいこをするような気にもならずまたしいて著作の興を呼ぶ気にもならなくなった。生きがいもなき身と折々は憂傷悲憤に堪えなかったその思いさえも年と共に次第に失せ行くようである。たまたま思当るのはフェルナン・グレイが詩に、


J'ai trop pleuré jadis pour des légères!

〔Mes Douleurs aujourd'hui me sont e'trange`res ……〕

〔Elles ont beau parler a` mots mysterie'ux ……〕

Et m'appeler dans ĺombre leurs voix légères;

Pour elles je n'ai plus de larmes dans les yeux.


Mes Douleurs aujourd'hui me sont des inconnues;

Passantes du chemin qúon eut peut-être aiméeş

Mais qu'on n'attendait plus quand elles sont venues,

Et qui śen va là-bas comme des inconnueş

Parce qúil est trop tard, les âmes sont fermées.


わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど。

その「哀傷」何事ぞ今はよそ〳〵しくぞなりにける。

哀傷の姫はたえなる言葉にわれをよび、

ぐらきかげにわれを招ぐもあだなれや。

わがまなこ涙は枯れて乾きたり。


なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。

折もしありなば語らひやしけん辻君つじぎみの、

寄りそひ来ても迎へねば、

わかれしのちは見も知らず。

何事もわかき日ぞかし心と心今は通はず。


 なるほど情は消え心は枯れたにちがいない。欧洲おうしゅう乱後の世をいましむる思想界の警鐘もわが耳にはどうやら街上あめを売るおきなふえに同じく食うては寝てのみ暮らすこの二、三年冬の寒からず夏の暑からぬ日が何よりも嬉しい。胃の消化よく夢も見ず快眠をむさぼり得た夜の幸福はおそらく美人のひざまくらにしたにも優っているであろう。しかしふと思立ってわたしは生前一身の始末だけはして置こうものとまず家と蔵書とを売払って死後のわずらいを除いた。閑中いささか多事のおもいをなしたのは唯この時ばかりであった。

 住みれた家を去る時はさすがに悲哀であった。『明詩綜みんしそうする処の茅氏ぼうしの絶句にいう。

蒼苔塵。

家園一旦属西鄰

傷心畏ルヲ門前柳。

明日相看レバ路人。

 その中売宅記ばいたくきとでも題してまた書こう。

大正十年正月脱稿



雨瀟瀟序


 拙作『雨瀟瀟』はかつて余が編輯へんしゅうせし雑誌『花月』に掲載せむがため大正七年の秋稿を起せしもの。初め「彩箋堂佳話さいせんどうかわ」と題せしがその冬雑誌の廃刊と共に転居の事などありて、そのまゝ久しく筆を断ちたり。大正九年の夏築地つきじより現在の家に移るに及び再び執筆の興を催し同年十二月の末に至りて稿を脱し得たり。あたかも雑誌『新小説』記者の草稿を求むるに会い浄写の時改めて『雨瀟瀟』となしぬ。大正十一年九月当時執筆の短篇小説数篇及雑録の類とあわせてこれを一巻となし春陽堂しゅんようどうより刊行したり。大正十三年九月『麻布襍記あざぶざっき』の一書をするに当り、再びこの小篇『雨瀟瀟』を取りてその巻初に掲げぬ。昭和二年九月書肆しょし改造社かいぞうしゃの『現代日本文学全集』第廿二篇を編輯するや『雨瀟瀟』の一篇またその巻首に採録せられぬ。このたび書估しょこ野田氏のだしまたこの一小篇を取りて刊行せむとす。って印行の次第を記し以て序に代ふ。昭和十年乙亥きのとい秋八月於偏奇館、荷風散人しるす

底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店

   1987(昭和62)年1016日第1刷発行

   1991(平成3)年85日第6刷発行

底本の親本:「荷風小説 五」岩波書店

   1986(昭和61)年99

初出:雨瀟瀟「新小説」

   1921(大正10)年3

   雨瀟瀟序「雨瀟瀟」野田書房

   1935(昭和10)年9月刊行

※表題は底本では、「あめ瀟瀟しょうしょう」となっています。

※引用文の旧仮名は、底本通りです。

※底本巻末の蜂屋邦夫による訓読注記は省略しました。

入力:入江幹夫

校正:酒井裕二

2017年1124日作成

2017年125日修正

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