雪解
永井荷風



 兼太郎かねたろうは点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕ぼうずまくらから半白はんぱくの頭をもたげて不思議そうにちょっと耳をすました。

 枕元に一間いっけんの出窓がある。その雨戸の割目われめから日の光が磨硝子すりガラスの障子に幾筋いくすじも細く糸のようにさし込んでいる。兼太郎は雨だれのひびきは雨が降っているのではない。昨日きのう午後ひるすぎから、夜もけるに従ってますますはげしくなった吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだという事を知った。それと共にもうかれこれひる近くだろうと思った。正月も末、大寒だいかんさかりにこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろそろ近所の家からさけ干物ひものを焼くにおいのして来る時分じぶんだという事は、丁度去年の今時分初めてここの二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚ひあしを見てくらしたので、時計を見るまでもなく察しる事が出来るのであった。それにつけても月日のたつのは早い。また一年過ぎたのかなと思うと、兼太郎は例の如く数えて見ればもう五年前株式の大崩落だいぼうらくに家倉をなくなし妻には別れめかけの家からは追出されて、今年丁度五十歳の暁とうとう人の家の二階を借りるまでになった失敗の歴史を回想するよりほかはない。以前は浅草あさくさ瓦町かわらまちの電車どおりに商店を構えた玩具がんぐ雑貨輸出問屋の主人であった身が、現在は事もあろうに電話と家屋の売買を周旋するいわゆる千三屋せんみつやの手先とまでなりさがってしまったのだ。昨日も一日吹雪の中をあっちこっちとけ廻って歩くうち一足いっそくしかない足駄あしだの歯を折ってしまった事やら、ズブぬれにした足袋たびのまだ乾いていようはずもない事なぞを考え出して、兼太郎はエエままよ今日はいっそ寝坊ついでに寝て暮らせと自暴やけな気にもなるのであった。もともと家屋電話の周旋屋というのは以前瓦町の店で使っていた男がやっているので、一日や二日怠けた処で昔の主人に対して小言のいえようはずもなく解雇されるおそれもない……。

 窓の下を豆腐屋が笛を吹いて通って行った。草鞋わらじの足音がぴちゃぴちゃと聞えるので雪解ゆきどけのひどい事が想像せられる。兼太郎は寝過ねすごしてかえっていい事をしたとも思った。突然ドシーンとすさまじい響に家屋を震動させて、隣の屋根の雪が兼太郎の借りている二階のひさしへ滑り落ちた。つづいて裏屋根の方で物干竿ものほしざおの落ちる音。どうやら寝てもいられないような気がして兼太郎は水洟みずばなすすりながら起上った。すぐに窓の雨戸を明けかけたが、建込たちこんだ路地ろじの家の屋根一面降積ふりつもった雪の上に日影と青空とがきらきら照輝くのでしばらく目をつぶって立ちすくむと、下の方から女の声で、

「田島さん。うちの物干竿じゃありませんか。」

 兼太郎のあけた窓の明りで二階中は勿論もちろんの事、梯子段はしごだんの下までぱっとあかるくなった処からこのの女房は兼太郎の起きた事を知ったのである。

「どうだか家じゃあるまいよ。」と兼太郎はそんな事よりもまず自分の座敷の火鉢ひばちに火種が残っているか否かを調べた。

「田島さんもうじきおひるですよ。」

 ふすまの外で言いながら、おかみは梯子段を上り切って突当りに一間いっけんばかり廊下のようになった板のから、すぐと裏屋根の物干へ出る硝子戸ガラスどをばビリビリ音させながら無理に明けようとしている。いつも建付けの悪いのが今朝は殊更ことさら雪にしめって動かなくなったのであろう。

 この硝子戸から物干台へ出る間の軒下には兼太郎の使料つかいりょうになっている炭と炭団たどんを入れた箱にバケツが一個と洗面器が置いてある。

「あら、まア田島さん。炭も炭団もびしょぬれだよ。昨夜ゆうべうちにどうにかしてお置きなされァいいのにさ。」

 物干竿を掛直かけなおしたかみさんは有合ありあ雑布ぞうきんで赤ぎれのした足の裏をき拭き此度こんどは遠慮なくがらりと襖を明けて顔を出した。眉毛まゆげの薄い目尻の下った平顔ひらがおの年は三十二、三。肩のいかった身体付からだつきのがっしりした女であるが、長年新富町しんとみちょうの何とやらいう待合まちあいの女中をしていたとかいうので襟付えりつき紡績縞ぼうせきじま双子ふたこ鯉口半纏こいぐちはんてんを重ねた襟元に新しい沢瀉屋おもだかや手拭てぬぐいを掛け、藤色の手柄てがらをかけた丸髷まるまげ綺麗きれいなで付けている様子。まんざら路地裏のかかあとも見えない。以前奉公先なる待合の亭主の世話で新富座の長吉ちょうきち贔屓ひいきの客には知られている出方でかたの女房になって、この築地つきじ二丁目本願寺ほんがんじ横手の路地に世帯しょたいを持ってからもう五年ほどになるがまだ子供はない。

「おかみさん。湯に行って暖たまってよう。今日は一日いちんちらく休みだ。」と兼太郎は夜具を踏んで柱のくぎ引掛ひっかけた手拭を取り、「大将はもう芝居かえ。一幕ひとまくのぞいて来ようかな。」

播磨屋はりまやさんの大蔵卿おおくらきょう、大変にいいんですとさ。」

「おかみさんまだ見ないのか。」

「お正月は御年始廻おねんしまわりや何かで家の人がいそがしいもんだから。」と女房は襟にかけた手拭をあねさまかぶりにして兼太郎の夜具を上げ、

「ゆっくり行っておいでなさい。綺麗に掃除して置きますよ。田島さん、そうそう持って来るのを忘れてしまった。牛乳が火鉢の処に置いてありますよ。」

「今朝はもう牛乳はぬきだ。日が当っていてもやっぱり寒い。」と兼太郎は楊枝ようじをくわへて寝衣ねまきのまま格子戸こうしどを明けて出た。

 路地の雪はもう大抵両側の溝板どぶいたの上に掻き寄せられていたが人力車じんりきしゃのやっと一台通れるほどの狭さに、雪解のしずくは両側に並んだ同じような二階の軒からその下を通行する人の襟頸えりくび余沫しぶきとばしている。それを避けようと思って何方どちらかの軒下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った足駄を曳摺ひきずりながら表通おもてどおりへ出た。向側は一町ほども引続いた練塀ねりべいに、目かくしのしいの老木が繁茂した富豪のあき屋敷。此方こなたはいろいろな小売店のつづいた中に兼太郎が知ってからのち自動車屋が二軒も出来た。銭湯せんとうもこの間にある。蕎麦屋そばやもある。仕出屋しだしやもある。待合もある。ごみごみしたそれらの町家まちやつきる処、備前橋びぜんばしの方へ出るとおりとの四辻よつつじに遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓ひのみやぐらが見えるが、しかし本堂の屋根は建込んだ町家の屋根にさえぎられてかえって目に這入はいらない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くからえている。太い電燈の柱の立っているあたりにはいつの間に誰がこしらえたのか大きな雪達磨ゆきだるまが二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛冶屋かじやの職人が野球の身構みがまえで雪投げをしている。

 兼太郎は狭い路地口ろじぐちから一足ひとあし外へ踏み出すと、別にこれと見処もないこの通をばいつもながらいかにもあかるく広々した処のように感じるのであった。そして折々自分はどうしても路地に生れて路地に育った人間ではない、死ぬまでにいつか一度元のように表通おもてどおりに住んで見たいものだと思う事もあるのであった。兼太郎がこの感慨は湯屋の硝子戸を明けて番台のものに湯銭ゆせんを払う時殊更深くなる事がある。

 築地のこの界隈かいわいにはお妾新道めかけじんみちという処もある位で妾が大勢住んでいる。堅気かたぎの女房も赤い手柄てがらをかける位の年頃としごろのものはお妾に見まがうような身なりをしている。兼太郎は番台越しに女湯で着物をぬぎかける女の中に、小作りのぽっちゃりした年増盛としまざかりのお妾らしいものを見ると、以前代地河岸だいちがしに囲って置いた自分のお妾の事を思い出すのである。名はおさわといった。大正三年の夏欧洲おうしゅう戦争が始まってから玩具がんぐ雑貨の輸出を業とした兼太郎の店は大打撃を受けたので、その取返しをする目算で株に手を出した。とんとん拍子にもうかったのがかえって破滅のもとであった。四、五年成金熱に浮かされているうち、講和条約が締結され一時下った相場はまた暫く途拍子とっぴょうしもなく絶頂に達したかと思うとたちまちにしてまた崩落ぼうらくした。兼太郎は親から譲られた不動産までも人手に渡して本妻の実家へ子供をつれて同居するという始末、代地河岸に囲ってあったお妾のお沢は元の芸者の沢次さわじになった。幸い妾宅しょうたくの家屋はお沢の名儀にしてあったので、両人話合の末それを売ってあらた芸者家げいしゃやさわの看板を買う資本にしたわけである。兼太郎は本妻との間にその時八つになる男と十三になる娘があったにもかかわらず、いつか沢の家に入りびたりとなった。本妻の実家は資産のある金物かなもの問屋の事とて兼太郎の身持にあきれ果て子供を引取って養育する代り本妻お静の籍を抜きやがて他へ再縁させたという話である。

 丁度そんな話のあった頃から兼太郎は沢次の家にもどうやら居辛いづらいようになって来た。初めのうちは旦那の落目おちめに寝返りをしたなどと言われては以前の朋輩ほうばいにも合す顔がない。今までお世話になった御恩返しをするのはこれからだと沢次は立派な口をきいていたが、一年二年とたつ中いつか公然と待合にも泊る。箱根はこねへ遠出にも行く。兼太郎は我慢をしていたが、ついには抱えの女どもにまで厄介者あつかいにされ出したのでとうとう一昨年の秋しょんぼりと沢の家を出た。さすがに気の毒と思ったのか沢次はその時三千円という妾宅を売った折の金を兼太郎に渡した。以後兼太郎はあっちこっちと貸間を借り歩いた末、今の築地二丁目の出方でかたの二階へ引っ越して来た時には、女からもらった手切てぎれの三千円はとうに米屋町こめやまち大半あらかたなくしてしまい、のこりの金は一年近くの居食いぐいにもう数えるほどしかなかった。


 雪はんだ。裸虫はだかむし甲羅こうらを干すという日和ひよりも日曜ではないので、男湯にはただ一人生花いけばなの師匠とでもいうような白髭しらひげの隠居が帯を解いているばかり。番台の上にはいつも見るばばあも小娘もいない。流しの木札きふだの積んであるそばに銅貨がばらばらに投出したままになっているのは大方隠居の払った湯銭ゆせんであろう。兼太郎も湯銭を投出して下駄をぬごうとした時、ガラガラと女湯の戸をあけて入って来た一人の女がある。

 色糸の入った荒いかすり銘仙めいせんに同じような羽織を重ねた身なりといい、あごの出た中低なかびくな顔立といい、別に人の目を引くほどの女ではないが、十七、八とおぼしいその年頃とこのへんでは余り見かけない七三しちさんに割った女優髷じょゆうまげとに、兼太郎は何の気もなくその顔を見た。娘の方でも番台を間に兼太郎の顔を見るといかにも不審そうに、手にした湯銭をそのまましばらく土間の上に突立つったっていたが、やがて肩で呼吸いきをするように、

「まあおとっさんしばらくねえ。」といったなりあとは言葉が出ぬらしい。

「おてる。すっかり見ちがえてしまったよ。」

 兼太郎は人のいないのを幸い番台へ寄りかかって顔を差伸さしのばした。

「お父さんいつお引越しになったの。」

「去年の今時分いまじぶんだ。」

「じゃ、もう柳橋やなぎばしじゃないのね。」

「お照、お前は今どこにいるのだ。御徒町おかちまちのおじいさんの処にいるんじゃないのか。」

 お照はにわかに当惑したらしい様子で、「今日はアノ何なの──ちょっとそこのお友達の内へ遊びに来ているんですよ。」

「何しろここでお前におうとは思わなかった。お照、すぐそこだから帰りにちょっと寄っておくれ。お父さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲ると三軒目だ。木村ッていう家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。」

 その時戸を明けて貸自動車屋の運転手らしい洋服に下駄げたをはいた男が二人、口笛でオペラの流行唄はやりうたをやりながら入って来たので、兼太郎はただ「いいかねいいかね。」と念を押しながら本意ほいなくも下駄をぬいで上った。お照は気まりわるに軽く首肯うなずいて見せるや否や男湯の方からは見えないズット奥の方へ行ってしまった。


 茶の間の長火鉢で惣菜そうざいを煮ていた貸間のかみさんは湯から帰って来た兼太郎の様子にふすまの中から、

「田島さん。御飯をあがるんなら蒸して上げますよ。煮くたれててよければおつけもあります。どうします。」

「お汁は沢山だ。」と兼太郎は境の襖を明けて立ちながら、「おかみさん、不思議な事もあるもんだ。まるで人情ばなしにでもありそうな話さ。女房の実家さとへ置き去りにして来た娘に逢ったんだ。女湯もたまにゃアのぞいて見るものさ。」

「へえ。まア──。」

「その時分女房は三十越していい年をしていやがったが、よくよくおれに愛想あいそをつかしゃアがったと見えてよそへ片付いてしまやアがったんで、つい娘や子供の事もそれきり放捨うっちゃって置いたんだがね、数えて見るともう十八だ。」

「この辺においでなさるんですか。まアこっちへお入んなさい。」

「湯ざめがしそうだから着物を着て来よう。おかみさん娘が尋ねて来るはずなんだ。あんまりじじむさい風も見せたくないよ。」

 兼太郎は二階へ上り着物を着換えてお照の来るのを待った。午飯ひるめしを食べてしまったが一向いっこう格子戸の明く音もしない。兼太郎は窓を明けて腰をかけ口にくわえた敷島しきしまに火をつける事も忘れて、路地から表通の方ばかり見つめていたが娘の姿は見えなかった。お照はやはりおれの事をよく思っていないと見える。人情のない親だと思うのも無理はない。尋ねて来ないのももっともだ。手の甲で水洟みずばなをふきながら首をすっ込めて窓をしめると、何処どこかの家の時計が二時を打ち、ななめに傾きかけた日脚ひあしはもう路地の中には届かず二階中は急に薄暗くなった。長い間窓に腰をかけていたので湯冷ゆざめもする、火鉢の火を掻立かきたてて裏の物干へ炭団たどんを取りに行くとプンプン鳥鍋とりなべにおいがしている。隣家となり木挽町こびきちょう花柳かりゅう病院の助手だとかいう事で、つい去年の暮看護婦を女房にもらったのである。二階から此方こなたの家の勝手口へ遠慮なくちりを掃き落すというので出方でかたのかみさんは田舎者は仕様がないとわるく言切っている。兼太郎は雪にれた炭団たどんをつまんで独り火を起すその身に引くらべると、貰ってもない女房と定めし休暇と覚しい今日の半日を楽しく暮す助手の身の上がわけもなくうらやましく思われたので、聞くともなく物干一つ隔てた隣の話声に耳をすました。すると物干の下なる内の勝手口で、

「おかみさん、留守かい。おかみさん。」と言う男の声。物干の間からのぞいて見ると紺の股引ももひき唐桟縞とうざんじま双子ふたこの尻を端折り、上に鉄無地てつむじ半合羽はんがっぱを着て帽子もかぶらぬ四十年輩の薄い痘痕あばたの男である。

伊三いさどん、大変な道だろう。さアお上り。」水口みずぐちの障子を明けたかみさんは男の肩へ手をやって、

「今日は二階にいるんだからね。」と小声に言った。

「そうか。貸間のじじいかい。じゃまた来ようや。」

「何、いいんだよ。さア伊三どん。おお寒い。」

 男を内へ上げたのち、かみさんは男の足駄を手早く隠してぴったり水口の障子をしめた。男は伊三郎という新富町しんとみちょう見番けんばん箱屋はこやで、何でもここの家のおかみさんが待合の女中をしている時分じぶんから好い仲であったらしい。兼太郎は去年の今頃は毎日二階にごろごろしていたので様子はくわしく知っているのであった。その時分には二人は折々二階へ気を兼ねて別々に外へ出て行った事もあった。

 兼太郎は炬燵こたつに火を入れて寝てしまおうかと思ったが今朝は正午ひる近くまで寝飽ねあきたまぶたの閉じられようはずもないので、古ぼけた二重廻にじゅうまわし引掛ひっかけてぷいと外へ出てしまった。もとより行くべき処もない。以前ぶらぶらしていた時分行きれた八丁堀はっちょうぼり講釈場こうしゃくばの事を思付おもいついて、其処そこで時間をつぶしたのち地蔵橋じぞうばし天麩羅屋てんぷらやで一杯やり、新富町の裏河岸うらがしづたいに帰って来ると、冬の日は全く暮果くれはて雪解の泥濘ぬかるみは寒風に吹かれてもう凍っている。

 格子戸をあけると、わざとらしく境のふすまが明け放しになっていて、長火鉢や箪笥たんす縁起棚えんぎだななどのある八畳から手水場ちょうずば開戸ひらきどまで見通される台処で、おかみさんはたった一人後向うしろむきになって米をいでいた。

「おかみさん。とうとう来なかったか。」

「ええ。おいでになりませんよ。」とかみさんは何故なぜか見返りもしない。

 兼太郎はわけもなく再びがっかりして二階へ上るや否や二重廻を炬燵の上へぬぎすてそのままごろりと横になった。向う側の吉川よしかわという待合で芸者がお客と一所に「三千歳みちとせ」を語っている。聞くともなしに聞いているうち、兼太郎はいつかうとうととしたかと思うと、「田島さん、田島さん。」と呼ぶ声。

 階下したのかみさんは梯子段はしごだんの下の上框あがりがまちへ出て取次をしている様子で「お上んなさいましよ。きっと転寝うたたねでもしておいでなさるんだよ。まだ聞えないのか知ら。田島さん。田島さん。」

 兼太郎は刎起はねおきて、「お照か。まアお上り。お上り。」といいながら梯子段を駈下かけおりた。

 お照は毛織の襟巻えりまきを長々とコートの肩先からひざまで下げ手には買物の紙包を抱えて土間に立っていた。兼太郎は手を取らぬばかり。

「お照。よく来てくれたな。実はもう来やしまいと思っていたんだ。おれも今方いまがた帰って来た処だ。さア二階へお上り。」

「じゃ御免ごめんなさいまし。」とかみさんの方へ何とつかず挨拶あいさつをしてお照は兼太郎につづいて梯子段を上った。

「お照、ここがおとっさんのいる処だ。お父さんも随分変ったろう。」と兼太郎は火鉢の火を掻き立てながら、「ぬがないでもいいよ。寒いから着ておいで。」

 けれどもお照は後向になってコートと肩掛とを取乱された六畳の間の出入口に近いふすまほうに片寄せながら、

「さっき昼間のうち来ようと思ったんですよ。だけれどお友達と浅草あさくさへ行く約束をしたもんだから。」

「そうか、活動か。」と兼太郎は小形の長火鉢をお照の方へと押出した。

「お父さん、これはつまらないものですけれど、お土産みやげなの。」

「何、お土産だ。それは有難い。」と兼太郎は真実うれしくてならなかったので、お照が火鉢のそばへ置いた土産物をばひざの上に取って包紙を開きかける。土産物は何かの缶詰であった。

「お父さん、やっぱり御酒おさけを上るんでしょう。浅草にゃ何もないのよ。」

「ナニこれァお父さんの大好きなものだ。」

 兼太郎は嬉涙うれしなみだに目をぱちぱちさせていたがお照は始終頓着とんちゃくなくあたりを見廻すとこに二合びんが置いてあるのを見ると自分の言った事が当っているので急に笑いながら、

「お父さん、やっぱり寝る時に上るんですか。」

「何だ。はははは。とんだものを目付めつかったな。何、これァ昨夜ゆうべ雪が降ったから途中で一杯やったら、もういいというのに間違えてまた一本持って来やがったからそのまま懐中ふところへ入れて来たんだ。」

「お父さん、今夜はまだなの。お上んなさいよ。わたしがつけて上げましょう。」

 丁度手の届くところに二合罎があったのでお照はそれをば長火鉢の銅壺どうこの中に入れようとして、

「この中へ入れてもいいんでしょう。」

 兼太郎は唯首肯うなずくばかり、いよいよ嬉しくて返事も出来ず涙ぐんだ目にじっとお照の様子を見詰みつめるばかりである。お照が二合罎を銅壺の中に入れる手付きにはどうやら扱いれた処が見えた。

 兼太郎は昼間湯屋の番台で出逢であったその時から娘の身の上が聞きたくてならなかった。しかし以前瓦町かわらまちに店があった時分から子供の事は一切いっさい母親のお静にまかしたなり、ろくろく顔を見た事もなかった位。朝起きる時分には娘はもう学校に行っている。娘が帰って来る時分には兼太郎は外へ出て晩飯は妾宅しょうたくで食べ十二時過ぎでなければ帰っては来なかったので、今日突然こんなに成長した娘の様子を見ると、父親としてはいかにも済まないような心持もするしまた何となく恨んでいはせまいかと恐ろしいような気もして、兼太郎はききたい事も遠慮して聞きかねるのであった。

 実際その時分には兼太郎は女房の顔を見るのがいやでいやでならなかったのだ。気がきかなくてデブデブふとっている位ならまだしもの事生れ付きひどい腋臭わきががあったので嫌い抜いたあまり自然その間に出来た子供にまでよそよそしくするようになったわけである。兼太郎がそのころ目をつける芸者は岡目よそめには貧相ひんそうだと言われる位な痩立やせだちな小作りの女ばかり。旅籠町はたごちょうへ遂に妾宅まで買ってやった沢次さわじほかに、日本橋にほんばしにも浅草にも月々きまって世話をした女があったが、いずれも着痩きやせのする小作こづくりな女であった。大柄な女はいかほど容貌きりょうがよく押し出しが立派でも兼太郎はさして見返りもせず、ああいう女は昔なら大籬おおまがき華魁おいらんにするといい、当世なら女優向きだ、大柄な女は大きなメジまぐろをぶっころがしたようで大味おおあじだと冗談をいっていたのもそのはず、兼太郎は骨格はしっかりしてはいたが見だてのない小男なので、自分よりもせいの高い女房のお静が大一番おおいちばん丸髷まるまげ姿を見ると、何となく圧服あっぷくされるような気がしてならないのであった。

 それこれと当時の事を思い出すにつけて兼太郎は娘のお照が顔立は母に似ているが身体付からだつきは自分に似たものかそれほどデクデクもしていないのを見ると共に、あの母親の腋臭はどうなっただろうと妙な処へ気を廻した。しかしそれは折から階下したのかみさんが焼き初めた寒餅かんもちにおいにまぎらされて確かめる事が出来なかった。

 お照は火針へ差かざす手先に始終おかんを注意していたが寒餅の匂に気がついたものと見え、「お父さん御飯はどうしているの。下でおまかないするの。」

うちにいる時はそうするがね。毎日桶町おけちょうまで勤めに行くからね、昼は弁当だし帰りにゃ花村はなむらかどこかで一杯やらアな。」

「お父さん。それじゃ今は勤め人なの。」

ろくなものじゃないよ。お前は子供だったから知るまいが、瓦町の店へ来た桑崎くわざきという色の黒い太った男だ。それが今成功して立派な店を張っているんだ。そこへ働きに行くのさ。」

「桑崎さん、覚えているわ。どこだかお国の人でしょう。この頃はどこへ行ってもお国の人ばかりねえ。お国の人が皆成功するのねえ。」

「お父さん見たようになっちゃ駄目だ。御徒町おかちまちのおじいさんも江戸ッじゃないよ。」

 兼太郎は話が自然にここへめぐって来たのを機会にその後の様子を聞こうと、「お照。お前おっかさんがお嫁に行く時なぜ一所について行かなかったんだ。はいけないというはなしでもあったのか。」

「そうでもないけれど……。」とお照は兼太郎の見詰める視線をけようとでもするらしく始終伏目になっていたが、「お父さん、もうお燗がよさそうよ。どうしましょう。」

 指先で二合罎をつまみ出して灰の中へそっとしずくを落している。

「お照、お前どこでお燗のつけ方なんぞ覚えたんだ。」

「もう子供じゃないんですもの。誰だって知ってるわ。」と猫板ねこいたの上に載せながら、「お父さんおさかずきはどこにあるの。」

 兼太郎は肝腎かんじんな話をよそにして夜店で買った茶棚の盃を出し、

「どうだお前も一杯やるさ。お燗の具合がわかる処を見ると一杯位はいけるだろう。」

「わたしは沢山。」とお照は壜を取上げて父の盃へついだ。

「お照。お前にめぐりった縁起のいい日だからな。」とぐっと一杯干して、「お父さんがお酌をしよう。飲めなければ飲むまねでもいいよ。」

「そう。じゃついで頂戴ちょうだい。」

 お照は兼太郎が遠慮して七分目ほどついた盃をすぐに干したばかりか火鉢のふちで盃の雫をぬぐって返す手つき、いよいよ馴れたものだと兼太郎は茫然ぼうぜんとその顔を見詰めた。

「お父さん。いやねえ。先刻さっきから人の顔ばかり見て。わたしだっていつまでも子供じゃないわ。」

「お照、お前、お母さんがお嫁に行ってから会ったか。」

「いいえ。東京にゃいないんですって、大阪にお店があるんですとさ。」

角太郎かくたろうはどうしている。お前が十八だと角太郎は十三だな。」

「角ちゃんは今だってちゃんと御徒町にいるでしょう。男ですもの。」

「女だといられないのか。」

「いられないっていうわけもないけれど、わたしが悪かったのよ。おじいさんの言う事をきかなかったから。」

「そんなら謝罪あやまればいいじゃないか。謝罪ってもいけないのか。」

ほかの事と違うから、今更帰れやしませんよ。こうしているほう呑気のんきだわ。」

「外の事とちがう。どんな事なんだ。」

「どんな事ッて、そのうちに言わなくっても分りますよ。お父さんも道楽した人に似合わないのね。」

「わかったよ。だが、どうもまだよくわからない処があるな。お照、何も気まりをわるがる事はねえや。そんな事をいった日にゃお父さんこそ、お前に合す顔がありゃしない。お前がちゃんとおとなしく御徒町の家にいた日にゃ途中でったって話も出来ないわけなんだ。そうだろう。乃公おいらは女房や子供をすてた罰で芸者家からもとうとうお履物はきものにされちまった。それだから、こうしてお前と話もしていられるんだ。」

「それァそうねえ。わたしが御徒町の家を出たからってお父さんがせんのように柳橋やなぎばしにいたら、やっぱり何だか行きにくいわね。お父さん、何故なぜ柳橋と別れたの。」

「別れたんじゃない。追出されたんだ。もうそんな過ぎ去った話はどうでもいいや。それよりか、お照、お前の話を聞こう。表のお湯屋で逢ったんだからこの近所にゃ違いなかろうが、何処にいるんだえ。お嫁にでも行ったのか。」

「ほほほほ。お父さん。わたしまだやっと十八になったばかりよ。」

「十八なら一人前の女じゃないか。お嫁にだって何だって行けるぜ。自分でもさっきもう子供じゃないって言ってたじゃないか。」

「それァいろんな心配もしたし苦労もしたんですもの。」

「お燗はつけるしお酌はできるし、すみにゃ置けなそうだな。お父さんに似ていろんな事を覚えたんだろう。ははははは。あてて見ようか。お茶屋のねえさんにしちゃ髪や風俗なりがハイカラだ。まずカッフェーかバーという処だが、どうだ。お照、笑ってばかりいないで教えたっていいじゃないか。」

「てっきりお手のすじですよ。」

「やっぱりカッフェーか。どうもそうだろうと思った。この近処にゃしかし気のきいたカッフェーはねえようだが、何処だい。」

「この間まで人形町にんぎょうちょうみやこバーにいたんですよ。だけれどももうよしたの。せん日比谷ひびやにいた時お友達になった姐さんがこの先の一丁目に世帯を持っているから二、三日泊りながら遊びに来ているのよ。もう随分遊んだからそろそろまた働かなくちゃならないわ。」

「カッフェーは随分もらいがあるという話だがほんとかい。月にいくら位になるもんだね。」

「そうねえ、一番初めまだれない時分でも三、四十円にはなってよ。銀座にいた時にはやッぱり場所だわね。百円はかかさなかったわ。だけれども急がしい処は着物にかかるからつまり同じなのよ。」

「ふーむ偉いもんだな。どうしても女でなくちゃ駄目だ。お父さんなんか毎日足を棒にして歩いたっていくらになると思う。やっと八十円だぜ。その中で二十円は貸間の代に、それから毎日食べて行かなくちゃならないからな。そこへ行くと三十円でもくらしが出なけれァ楽だ。」

「だから残そうと思えば随分残るわけなのよ。中には五百円も六百円も貯金している人もあるけれど、何ののってたまったかと思うとやっぱり駄目になるんですとさ。だからわたしなんぞ貯金なんかした事はないわ。有る時勝負で芝居へ行ったり活動へ行ったりして使っちまうのよ。」

「お客様に連れて行ってもらうような事はないのかい。カッフェーだって同じだろう。お茶屋や待合の姐さんと同じように好いお客や旦那があるんだろう。」

「ある人はあるし無い人はないわ。お父さんもうこれでおつもりよ。」

 お照は二合壜をさかさにして盃につぎ、「何時でしょう。わたしもうそろそろおいとましなくちゃならないわ。二、三日うちに行くところがきまったら知らせるわ。」

「まだいいやな。あの夜廻よまわりは九時打つと廻るんだ。」

「今夜これから襦袢じゅばんえりをかけたりいろいろ仕度しなくちゃならないのよ。明日あしたの晩にでもまた来ますよ。お酒と何かおいしそうなものを持って来ますよ。」とお照は立ちかけて、「お父さん、ここのお家、はばかりはどこなの。」


 お照は約束たがえず翌日あくるひの晩、表通おもてどおりの酒屋の小僧に四合壜しごうびん銀釜正宗ぎんがままさむねを持たせ、自身は銀座の甘栗あまぐり一包を白木屋しろきや記号しるしのついた風呂敷ふろしきに包んで、再び兼太郎をたずねて来た。甘栗は下のおかみさんへの進物しんもつにしたのである。この進物でかみさんはすっかり懇意になり、お照が鉄瓶てつびんの水をみにと、下へ降りて行った時そでを引かぬばかりに、

「お照さん、あなた、おかんをなさるんならこの火鉢をお使なさいましよ。銅壺どうこに一杯沸いていますよ。何いいんですよ。家じゃ十一時でなくっちゃ帰って来ませんからね。いっその事今夜はここでお話しなさいましよ。田島さん、ねえ、田島さん。」と後からつづいて手水場ちょうずばへと降りて来た兼太郎にも勤めたので、二人はそのまま長火鉢のそばへ坐った。

 かみさんとお照はかきもちと甘栗をぼりぼりやりながら酌をする。兼太郎はいつになく酔払よっぱらって、

「お照、お前がおいらの娘でなくって、もしかこれが色女いろおんなだったら生命いのちも何もいらないな。昔だったらたんさんという役廻りだぜ。ははははは。」

「丹さんて何のこと。」

「丹さんは唐琴屋からことや丹次郎たんじろうさ。わからねえのか。今時いまどきの娘はだから野暮で仕様がねえ。おかみさんに聞いて御覧ごらん。おかみさんは知らなくってどうするものか。」

「あら、わたしも知りませんよ。御酒の好きな人の事を丹次郎ッていうんですか。アアわかりましたよ。赤くなるからそれで丹印たんじるしだっていう洒落しゃれなんですね。」

「こいつは恐れ入った。ははははは。おそれ入谷いりや鬼子母神きしぼじんか、はははは。」

「のん気ねえ。ほんとにおとっさんは。」

「酒は飲んでも飲まいでもさ。いざ鎌倉という時はだろう、ははははは。しかし大分今夜は酔ったようだな。」

「お酒のむ人は徳ねえ。苦労も何も忘れてしまうんだから。」

「だから昔から酒はうれい玉箒たまぼうきというじゃないか。酒なくて何のおのれが桜かなだろう。お酒さえ飲んでいれァお父さんはもう何もいらない。お金もいらない。おかみさんもいらない。」

「そんな事いったって、お父さん、一人じゃ不自由よ。いつまでこうしていられるもんじゃない事よ。」

「いてもいられなくってもう仕様がないやな。まァお照そんな話はよしにしようよ。折角せっかく今夜はお正月らしくなって来たところだ。お照、お父さんのお箱を聞かせてやろうか。蓄音機で稽古けいこしたんじゃねえよ。」

 やがて亭主が帰って来た。役者の紋をつけた双子縞ふたこじまの羽織は着ているが、どこか近在の者ででもあるらしい身体付から顔立まで芝居ものらしい所は少しもない。どうやら植木屋か何かのようにも見れば見られる男で、年は女房とさして違ってもいないらしいが、しょぼしょぼした左の目尻に大きな黒子ほくろがあり、狭いひたいには二筋深いしわが寄っている。かみさんは弟にでも物言うような調子で、

「お前さん。田島さんのお嬢さんだよ。頂戴物ちょうだいものをしてさ。」

「そうかい。それァどうも。」と言ったきり亭主は隅の方へ座って耳朶みみたぶへはさんだエヤシップの吸残すいのこりを手にとったが、火鉢へは手がとどかないのか、そのまま指先で火を消した煙草たばこの先をつまんでいる。

「どうです。芝居は毎日大入りのようですね。」と兼太郎は酔った揚句あげくの相手ほしさに、

「一杯けんじましょう。今年のさむさはまた別だね。」

「ありがとう御在ございます。お酒はどうも……。」と出方でかたは再びエヤシップを耳にはさんでもじもじしている。

「田島さん。駄目なんですよ。奈良漬もいけない位なんですよ。」

「そうかい。ちっとも知らなかった。酒なんざまないに越したこたアないよ。呑みゃアつい間違いのもとだからね。おかみさん、いい御亭主を持ちなすってどんなに仕合せだか知れないよ。」

 かみさんは何とも言わずに台所へと立って膳拵ぜんごしらえをしはじめた。

 路地ろじうちしんとしているので、向側むこうがわの待合吉川で掛ける電話のりんのみならず、仕出しを注文する声までがよく聞こえる。

「お父さん、それじゃわたし明日からまたせんにいた日比谷のカッフェーへ行きますからね。通りかかったらお寄んなさいよ。御馳走ごちそうしますよ。」とお照は髪のピンをさし直してハンケチをたもとに入れた。

 兼太郎は酔っていながらにわかさびしいような気がして、「寒いから気をつけて行くがいいぜ。今夜はやっぱり一丁目の友達のところか。」

「どうしようかと思っているのよ。今夜はこれからすぐ日比谷へ行こうかと思っているのよ。今日おひる過ぎちょっと行って話はして来たんだし、それに様子はもうわかっているんだから。」

「今夜はもうおそいじゃないか。」

「まだ十二時ですもの。電車もあるし、日比谷のバーは随分おそくまでやってるわ。夏のうちはどうかすると夜があけてよ。」

 お照は出方の夫婦と兼太郎に送り出されて格子戸を明けながら、

「まアいいお月夜。」

 建込たちこんだ家の屋根には一昨日おとといの雪がそのまま残っているので路地へさし込む寒月の光はまぶしいほどに明るく思われたのである。

「なるほどいいお月夜だ。風もないようだな。」とあががまちから外をのぞいた兼太郎は何という事もなくつづいて外へ出た。兼太郎は台処のそばにある手水場ちょうずばへ行くよりも格子戸を明けて路地で用を足す方が便利だと思っているので寝しなにはよく外へ出る。

 お照は二、三歩先にたたずんで兼太郎を待っていたが、やがて思出したように、「お父さんあの人が芝居の出方なの。どうしてもそうは見えないわね。」

「むッつりした妙な男だ。もう一年越し同じ家にいるんだが、ろくぞっぽ話をしたこともないよ。」

「何だか御亭主さん見たようじゃないわね。わたし気の毒になっちまったわ。」

 路地を出ると支那蕎麦屋しなそばやが向側の塀の外に荷をおろしている。芸者の乗っているらしい車が往来ゆききするばかりで人通ひとどおりは全く絶え、表の戸を明けているのは自動車屋に待合ぐらいのものである。銭湯せんとう今方いまがた湯を抜いたと見えて、雨のような水音みずおとと共にどぶからく湯気が寒月の光に真白まっしろく人家の軒下まで漂っている。

「今夜は馬鹿に酔ったぜ。そこまで送って行こう。」

「お父さんソラあぶない事よ。」

「大丈夫、自分で酔ったと思ってれァ大丈夫だ。」

「ねえ、お父さん。あのおかみさんは、わたし御亭主さんにれていないんだと思うのよ。」

「何だ。また家のはなしか。」

「惚れていない人と一緒になると皆ああなんでしょうか。いやなものなら思切って別れちまったほうがよさそうなものにねえ。」

「色と夫婦とは別なものだよ。惚れた同士は我儘わがままになるからいけないそうだ。お前なんぞはこれからが修行だ。気をつけるがいいぜ。」

「お父さん。わたしが銀座にいた時分から今だに毎日々々きっと手紙を寄越よこす人があるのよ。わたしの頼むことなら何でもしてくれるわ。随分いろんなものを買ってもらったわ。」

「そうか。若い人かね。」

「二十五よ慶応けいおうかたなのよ。この間一緒に占いを見てもらいに行ったのよ。そうしたらね。一度は別れるような事があるッて言うのよ。だけれど末へ行けばきっとのぞみ通りになれるんですッて。」

「いい家の坊ちゃんかね。」

「ええお父さんは銀行の頭取よ。」

「それじゃ大したものだ。あんまりすぎるから親御おやごさんが承知しまいぜ。」

「だから占を見てもらいに行ったのよ。だけれどね、おとうさん。もしどうしてもむこうのお家でいけないッて言ったら、その時は一所に逃げようッていうのよ。お父さん、もしそうなったら、お父さんどうかしてくれて。二階へかくまって下さいな。」

 兼太郎は返事に困って出もせぬ咳嗽せきにまぎらした。いつか酒屋の四つ角をまがって電車どおりへ出ようとする真直まっすぐな広い往来を歩いている。

「大丈夫よ。お父さん、わたしだって其様そんな向見むこうみずな事はしやしないから大丈夫よ。カッフェーに働いていさえすれば誰の世話にならなくっても、毎日会っていられるんだから。いっそ一生涯そうしている方がいいかも知れないのよ。」

「お照、お前怒ったのか。」と兼太郎は心配してお照の顔色をうかがおうとした時電車通の方から急いで来かかった洋服の男がれちがいにお照の顔を見て、

「照ちゃんか。日比谷だっていうから行ったんだよ。」

「これから行く処なの。」とお照は男の方へかけ寄って歩きながら此方こなたを見返り、「お父さんそれじゃさよなら、もういいわ。さよなら、おかみさんによろしく。」

 取残された兼太郎は呆気あっけに取られて、寒月の光に若い男女がたがいに手を取り肩を摺れあわして行くその後姿うしろすがたと地にくその影とを見送った。

 見送っているうちに兼太郎はふと何の聯絡れんらくもなく、柳橋やなぎばし沢次さわじを他の男に取られた時の事を思出した。沢次と他の男とが寄添いながら柳橋を渡って行く後姿を月の夜に見送ってもういけないとあきらめをつけた時の事を思出した。思出してから兼太郎はどうして今時分そんな事を思出したのだろうとその理由を考えようとした。

 お照と沢次とは同じものではない。同じものであるべきはずがない。お照は不届ふとどき至極しごく親爺おやじの量見違いから置去りにされて唯一人世の中へほうり出された娘である。沢次は家倉はおろか女房までもふり捨てて打込んだ自分をば無造作に突き出してしまった女である。事情も人間も全然ちがっている。しかし夜もふけ渡った町のかどに自分は唯一人取残されて月の光に二人づれを見送る淋しい心持だけはどうやら似ているといえば言われない事もない。

 お照はそれにしても不人情なこの親爺にどういうわけで酒を飲ませてくれたのであろう。不思議なこともあればあるものだ。それが不思議なら、あれほど恩になった沢次が自分を路頭に迷わすような事をしたのもやはり不思議だといわなければならない。

 帽子もかぶらずに出て来たので娘が飲ませてくれた酒もたちまちめかかって来た。赤電車が表通を走り過ぎた。兼太郎は路地へ戻って格子戸を明けると内ではもう亭主がいびきの声に女房が明ける箪笥たんすの音。表の戸をしめて兼太郎は二階へ上り冷切ひえきった鉄瓶てつびんの水を飲みながら夜具を引卸ひきおろした。

 路地の外で自動車が発動機の響を立て始めたのは、大方向側むこうがわの待合からお客が帰る処なのであろう。

大正十一年一月─二月稿

底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店

   1987(昭和62)年1016日第1刷発行

   1991(平成3)年85日第6刷発行

底本の親本:「荷風小説 五」岩波書店

   1986(昭和61)年99

初出:「明星」

   1922(大正11)年3~4月

※表題は底本では、「雪解ゆきどけ」となっています。

入力:入江幹夫

校正:酒井裕二

2018年327日作成

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