ニュートン
石原純



ニュートン祭


 イギリスのニュートンとえば、科学の先祖のように尊ばれているのは、多分皆さんもご存じでしょう。毎年十二月の二十五日になると、大学の物理学の教室では、古い先輩の方々から学生までが集まって、ニュートン祭というものを行います。ニュートンの肖像を正面に飾って、赤い林檎りんごの実をその前に盛って、それから先輩の思出話や、大学の先生方のおもしろい逸話を漫画に描いたのを写し出したり、にぎやかにその夜を興じ過ごすのが例になっています。そしてニュートンへの思慕を通じて、みんな科学を知る喜びをしっかりと胸に抱くのです。

 十二月の二十五日は、ニュートンの誕生日に当るので、その生まれたのは一六四二年のことですから、今からはもう三〇〇年前になります。そんなに古い昔のことですから、その頃にはもちろん今日のような科学はまるで無かったとってよいのです。ところがニュートンは小さい時から科学的な頭をもっていて、器械をいじることなどが好きで、それからだんだん学問を勉強して、ついに科学の先祖とわれるまでになったのでした。

 イギリスでは国家に功労のあった偉い人達をロンドンのウエストミンスター寺院に葬ることになっているのですが、その光栄をなった人々の中には、政治家や軍人ばかりでなく、文学者や科学者などもたくさんにあります。これは学問に重きを置く上から当然のことでありますが、科学者のなかでニュートンの墓石がひと際目立って並んでいることはうまでもありません。ニュートンは一七二七年の三月三十一日に八十四歳の高齢で逝くなったのでした。それから今日まで彼の名声は、ひとりイギリスばかりではなく、世界中のどこにもゆきわたっているのを見ても、その一生涯の仕事の大きさが想われるわけです。


林檎りんごの伝説


 ニュートン祭になぜ林檎りんごを飾るかといえば、それはニュートンが林檎りんごの実の落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しばかり説明してみますと、次の通りです。

 ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣り町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁さいかしたのに、そこでまた夫に死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになったのですが、成績も非常によかったので、卒業後はもう少し学問を大成させようということになり、十八歳の折にケンブリッジの大学に入学しました。

 大学では数学や物理学を修め、一六六五年に優等で卒業し、そのまま大学に留まってなお研究を続けていました。ところがその頃のヨーロッパにはペスト病が激しく流行し、諸処しょしょを襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎りんごの実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたとうのです。

 この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンのめいから聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎りんごの実から引力を思いついたということは、はなはだ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎りんごの樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だとわれるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。

 とうのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎りんごの実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。


月も地球に落ちてくる


 ニュートンがどうして万有引力を発見したかとうと、それにはいろいろな苦心が重ねられたので、林檎りんごの実の落ちるのを見たぐらいでぐにそんなすばらしい発見が出来るものではありません。

 林檎りんごの実に限らず、どんなものでも地球上で支えるものがなければ落ちるということは誰でも知っています。これを自由落下といいますが、それに対する法則はニュートンよりも前に、イタリヤのガリレイという学者がすでに発見しました。ところで皆さんは、何も支えるものが無いのに拘わらず、いつまで経っても地面に落ちて来ないもののあるのを知っていますか。何だかそううと謎みたいに聞こえますが、それはつまり空に輝いている月です。月は地球の周りをまわっているのだということが、今でははっきりわかっていますけれども、それにしても月はどうして地面に落ちないのでしょうか。林檎りんごは落ちるけれども、月は落ちない。これが多分ニュートンの最初の疑問ではなかったのでしょうか。つまり月を問題にしたところに、ニュートンの人並みすぐれた烱眼けいがんがあったのです。

 そこでニュートンは、はっきりとした論理を追究してゆきました。林檎りんごが落ちるならば、月もまた落ちなくてはならない。それなら月は果してどんな速さで落ちているかを計算して見よう。これがニュートンの研究の出発点でありました。

 これだけでは皆さんに月の落ちていることがまだよくわからないかも知れませんから、もう少し説明するとこういうことになるのです。野球の球を投げると、曲線を描いて遠方に落ちます。投げる力が強ければ、強いほど遠くへゆくでしょう。大砲の弾丸でも同じことです。そこで仮に非常な強い力で弾丸を打ち出したならどこまでゆくかと考えて見ましょう。この力をますます強くしたと考えれば、落ちる場処ばしょはだんだん遠方になり、例えば日本から打ち出したものが支那しなまでとどき、もっと強ければ支那しなを超えてヨーロッパまでもゆき、ついにはそれも通り越してアメリカにも達するという理屈です。実際にそんなことは出来ないにしても、理窟りくつの上では確かにそうなるのに違いないので、つまり月は非常な速さで投げ出されていると見れば、それは地球をぐるぐるまわるけれども、結局それでも地面に届かないということになるのです。

 ともかくこのようにしてニュートンは月の運動を研究して、それを地球上で物の落ちるのと比較し、月が遠方にあるから、それに対する地球の引力は距離の遠いだけ減っているのを見出みいだし、その大きさが丁度ちょうど距離の二乗に逆比例するということを計算で出したのでした。


万有引力の発見


 さて地球と月との間に引力が働いているならば、その外の星や太陽の間にもやはり同じような引力が働くにちがいないとうのが、ニュートンの次に考えたところでした。太陽のまわりの星の運動については、その頃ケプラーの法則というのが知られていました。これは星の軌道が太陽を焦点とした楕円だえんだということを示したものでありますが、ニュートンは太陽と星との間にも同じような引力があると考えて、この軌道を説明することができはしまいかと、いろいろ苦心しました。この問題を解くのには、非常に長い年月を要したので、それは数学の上で微積分学とわれているものを考え出して、それを使わなければならなかったからです。この研究をすっかりまとめて書いた有名なプリンシピアという書物が出版されたのは一六八六年ですから、前の林檎りんごの話からは二十年も後に当ります。ともかくもこれであらゆる物体の間に万有引力が働いているということが証拠立てられたのでした。ニュートンが非常な勉強家であったことはその当時の誰も驚いていたので、彼の親友であった天文学者のハリーがある時、

「それ程たくさんの大きな発見を君は自分でどうして仕遂しとげることができたと思うか」と尋ねましたら、ニュートンは、「僕はただ間断なくそれを考えただけだよ」と答えたということです。それからまれに見る謙遜家であったことは、彼の有名な次の言葉がそれを十分に示しています。

「私は世間が私をどう見るかを知りません。しかし私自身では、丁度ちょうど限りない真理の大洋が横たわっている前で、浜辺になめらかな小石や美しい貝殻を拾って楽しげに遊んでいる一人の小児しょうにのようにしか思われないのです。」

 それはなんと奥ゆかしい言葉ではありますまいか。

 ニュートンの果した科学上の仕事はこの万有引力の発見のほかに光に関する研究などいろいろあるのですが、ここではそれらは省いておきます。それにしてもともかくニュートンはイタリヤのガリレイにいで科学の正しい道をふみ進めた人としてたたえられていることは、今では誰もが認めていることにちがいないのです。

底本:「偉い科學者」實業之日本社

   1942(昭和17)年1010日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

「或る」は「ある」に、「迄」は「まで」に、「併し」は「しかし」に、「その儘」は「そのまま」に、「遂に」は「ついに」に、「益々」は「ますます」に、置き換えました。

※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。

※「う」と「言う」の混在は、底本通りです。

※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。

入力:高瀬竜一

校正:sogo

2018年1124日作成

青空文庫作成ファイル:

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