旅人
林芙美子



 斷崖絶壁の山道を往復四十里して、吉野川の下流、白地はくちの村まで下つて來ると、恍惚の景色にも大分辟易して來てゐて、乘合自動車もろとも、河の中へ眞逆さまに落ちこんでしまひたくなつてゐる。

 祖谷いやの山々が黄昏の彼方にかすみ、東京も遠いのであつたし、何も彼もが夢のやうである。谷間のなかには、大した人の名もなければ、大した富もなく、侘しさは侘しさのまゝに麥を植ゑ、河に魚をとつて暮してゐると云ふ、旅人の好くやうな靜かな景色の村落が、あつちにも、こつちにも點在してゐた。溷濁の浮世を離れてゐても、こゝにも世界の波は、波紋の外側のゆるい一筋の渦のやうに動いてゐる。

 嶮しい山の上の農家の軒先きには、日の丸の旗がはためき、齋戒の嚴しさが淨らかに眼に浮んで來た。何も彼も、こゝからでは遠いとおもつてゐるうちに、自分の躯までがふはふはと宙に浮いて來るやうで、もう慾にも乘合自動車に乘つてゐる氣がしなくなり、鐵橋のやうに長い三好橋のそばで、私はふつと自動車から降りてしまつた。

 橋を渡れば伊豫の方へ拔けてゆく街道であり、川添ひのまゝの道を下つてゆけば、昨夜泊つた阿波池田の町に行く。私は阿波池田へは降りてゆかないで、長い三好橋を渡り、伊豫路への街道を歩いた。自動車から降りてみると、四圍の山々には急に鶯や山鳩が鳴きたててゐて氣持ちがよかつた。高い橋の上から下をのぞくと、緑の水と白い砂地の境がばうと靡いてゐて、沁みるやうな苔深い色をして下流へ流れてゐる。行くさきも、わがふるさとにあらなくに、爰を旅とは何いそぐ、妙に自分を幸福だと思つた。橋の上を歩きながら笑つてゐる。山の向うの青い空には、綺麗な空氣がいつぱいつまつてゐるやうだ。

 橋を渡りきると、家々のかどぐちに、藤紫のせんだんの花が咲き、まるで合歡ねむの並木を見てゐるやうだつた。橋の袂の大きい藥屋の看板には、猫ほどもある鼠をぶらさげた男の繪が描いてあり、おほかたは猫いらずの廣告でもあるのだらうけれど、何となく妙な繪である。藥屋の前に馬方が馬を連れて立つてゐたので、この邊に旅館はないかと尋ねてみる。

 馬方は西へ一町もゆけば「道甚だうじん」と云ふ宿屋があるから、そこへ行つて泊めてくれるか、泊めてくれぬか訊いてみてはどうかと教へてくれた。伊豫路への白い往還が一直線に河へ沿つてゐる。藥屋のとなりが自轉車の修繕所、そのとなりが店の間に何一つない菓子屋、それからずつと麥畑が續いて酒屋だの荒物屋が續いてゐる。

 人通りもまれな村道を私はほつほつ歩く。何にも考へることもなければ、かうして歩いてゐることに、矛盾も感じない。祖谷いやの山の頂では、あゝ生きてゐることもあだだつたと云つたやうな呻吟する氣持ちをもつてゐたのが、こゝまで來てしまふと、まるで行商人のやうにふはふはした氣持ちになる。世の中には、こんな妙な人間もゐるのかと、輕いスートケースを肩へかゝへあげて、蕎麥屋の出前持ちよろしくのかつかうで歩いた。西歐の田舎へ行くと、よくこんなスートケースをぶらさげた女の行商人がゐたものだ。スートケースの中には花飾りのついた靴下止めだの、粉石でねつた大きな首飾り、本當の髮の毛を植ゑた美人の繪葉書なんかが出て來た。自轉車で過ぎてゆく二人連れの男が、私の風體を見てふりかへりながら笑つて行つた。全く、東京は遠い。何も彼もふりすてて來たやうな決心が強くなつてゐて、心のなかではこんな旅愁にすらも何の抵抗力もなく甘くなつてゐる。せんだんの木には黄色い粒々の實がなつてゐる。

 谷間の村は氣韻の高い山の香りを吹き流して何も彼も美しい。道甚と云ふ旅館はすぐ判つた。廣い間口に青い暖簾がさがつてゐた。暖簾のさげてある横が黒板塀になり、産院の門にでもあるやうな、ペンキ塗りの鐵門が開いてゐる。そつとその中へ這入つて行くと、つゝじの眞盛りのなかに、麥藁帽子をかぶつた背の高い年寄りが、つくねんと蹲踞しやがんでさつきの鉢をいぢつてゐた。

「泊りたいのですが、部屋はありませうか」スートケースを石疊の上へ降してその老人に聲をかけると、老人はふつと私を見上げて、思ひがけない人のいゝ笑ひかたをして、「さアどうぞお泊りなされ、──おい、女子をなごはをらんかや、お客樣だよ」と奥へ聲をかけてくれた。廣い玄關の、破れたついたての蔭から、色の青黒い若い女が出て來て、吃驚したやうに私を見てゐる。

 通された座敷は二階の廣間で、隣りも、その次の部屋も同じ部屋が並んでゐる。障子を開けると、てすりの下には眞白い砂丘が河の眞中まで盛りあがり、狹く曲つてゐる青い水が、まるで張りついたやうに森閑として流れてゐた。向う岸は岨道つゞきの山々で、風が吹くたびに、雜木山の梢の葉裏が白く湧き立つてみえた。「お客さんお一人かな」女中がたづねた。一人旅だと云ふと、女中はすぐ降りて行つて暫くは上つて來なかつた。家の隣地は麥畑なので、黄いろくうれた麥畑の反射が夕映のやうに明るく見える。舊知己にめぐりあつたかのやうな景色を呆んやり眺めてゐると、眼だけは景色に感動してゐながら、自分の心のなかは少しも美しい景色についてゆけない。人のゐない景色は退屈である。上衣をぬいでみたり、部屋の壁に張りつけてある宿泊料の公定値段を讀んだり、床の間の軸の前に立つたりしてみる。軸の字はいやらしいほどくづしてあつて少しも讀めない。人に讀めもしない字を書いて得意となつてゐる書家の俗臭がなまぐさく感じられた。襖を開けてゆくと、隣りも、その隣りも十疊の部屋で、疊は汚點だらけで赤く燒けてゐる。襖のとりてには穴があき、その穴から自分の部屋を覗いて見ると、ちやんと眞中の茶向臺が見える。

 暫くして女中がぬるい茶と菓子を持つて來た。「あのなア、お客さまのところを書いておいて下さい」女中がちびて黒くなつた鉛筆を持つて來た。あのなアとか、お泊りなされと云ふ言葉が耳について來て、何となく居心地はいゝ。鶯と、烏がよく啼いてゐる。



 夜になつて、さつきをいぢつてゐた老人が二階へ上つて來た。上つて來るなり、「ごめんなされ、東京のお方ときいて、なつかしくて上つて來ました」と、老人は私の茶向臺の横へぺつたりと坐つた。暗い燈火に河からは羽蟲や蛾が澤山飛びこんで來た。私は遲い夕食を愉しみにたべてゐた。赤い刺身には手をつけずに、うろうろと膳の上のとぼしい菜皿の上で私の箸は迷つてゐる。──鱧に近い固い鰻だけが美味い。

「お客樣は東京からこんなところに、何しにお越しなされたのですか。祖谷へでもお登りなされたのですかな」

 老人は腰から煙草入れを拔いて、短い煙管に煙草をつめた。煙草入れがみごとだつたので、私は口の中に御飯を頬ばりながら、「おぢいさん、それは金唐皮きんからかはぢやありませんか」と感心してみせると、老人は嬉しさうな笑ひ方をして、「これはあなた、私が東京にゐたときに、池ノ端の村田から取り寄せたもンで、仲々えゝもンでごはす」と得意さうであつた。

 御飯は御時世で麥ばかり。香のものは大根が二切、あとは魚ばかりで、爪楊枝をつかつても、氣持ちの惡いほどなまぐさい。熱い湯を茶碗へついで、ぐりぐりとうがひをして窓から、眼の下の昏い砂丘の上に吐きすてる。好きなひとには見せられない圖だけれど、何度もぐりぐりと咽喉を鳴らしてうがひをする。暗い空の向うに、もう一つ眞黒い山のうねりが見え、風の音だけがさわさわと麥の穗を鳴らしてゐた。茶碗を手に持つて、ぬるい湯を一くち唇にふくむと、ふつと思ひがけない早さで涙が溢れて來た。別に何の哀しさもあるではないのに、胸のなかでわくわくして來てゐる。このやうな感情は、三十歳をすぎた女にはむしろ愉しいとさへ思はれるやうだ。誰にも凭れてゆかない、始末のいゝ感傷は、一人で泣き笑ひして爽かに愉しんでゐられる。老人は背をかゞめて煙草をつけながら落ちついて坐つてゐた。

「おぢいさんはいくつです?」茶碗を持つたまゝ膳の前へ戻ると、刺身の皿の中に大きい蛾が落ちてゐた。老人は七十七の祝ひで、もうあと三年も生きてゐれば貯金の拂ひ出しもすつかり濟むと笑つてゐた。面長な顏が、まるで動物のやうに見える。青年時代の眉目の色が、どんな風のものであつたのか、この枯れきつた表情からはうかゞふすべもない。男の七十七といふ年齡がこんな風貌になるものなのかと、入齒の白くそろつたのだけが眼をそむけたくなるほど氣持ちが惡かつた。人造の齒莖は桃色で妙な形をしてゐる。古い家の板の汚點のやうなのが、顏一面に薄くひろがつてゐた。眼光は魚の眼のやうに衰へ、吐く息はぜいぜい忙はしい。「お客さんはよい浴衣を着てをりなさるが、その柄は東京でなければ買へんものですなア」老人はさう云つて、また煙草をつけてゐる。

 老人はこの宿の主人の叔父に當るひとだとかで、河岸に小さい藁屋根の家を建てて氣樂に隱居してゐる身分のひとださうだ。大岩の崩れたあとのやうな、人間の生涯のもろさを感じてくる。七十七歳の長壽を尊いと思ひながらも、現實に見る老人の顏は私にはあまりに哀しい表情でみにくく見えた。そのくせ、老人のあどけない笑ひ顏や、浴衣の模樣をほめる姿を見てゐると、私は何とない仄かな愛情をすら感じてゐるのであつた。老人は三四日は是非ともお泊りなされと云つて、東京から戻つて丁度六年になり、天涯孤獨、田舎では、誰一人話相手もござりませんと云ふのである。私は話がないので、東西南北をたづねてみたり、蛾を取つて下さいと頼んだりしてゐる。食事のあとも、燈火の下で、老人と二人でぼそぼそ話に耽つてゐた。話しながらスートケースの中を整理してゐると、老人は私の鞄を讃めてくれたりした。枯木のやうな手に私のべつかふの櫛をとつてそつと匂ひを嗅いだりしてゐる。私は眼をそむけて、ケースの中からハーモニカを出しててすりへ行つて吹いた。私は少女の頃からハーモニカが得意で、ハーモニカを吹いてゐると何も彼も忘れて子供のやうに浮々となるのであつた。田舍の町にゐる頃、私がハーモニカを吹くと、近くの女學生が、私を中學生だとおもつてそつとのぞきに來ることがあつた。城ヶ島の唄だの、沈鐘なんかは何時でも好きで吹いた。

 暗いてすりに凭れてハーモニカを吹いてゐると、煙管をもつたまゝ老人は背を曲げてきゝほれてゐた。てすりの下から涼しい麥の風が吹いて來る。微塵にくだけ散つて行つたなつかしい思ひ出が、常識の埓外で手をふり上げてあばれまはつてゐるやうだ。燦爛と降りそゝぐ歳月の光が、ハーモニカの音色とともに胸の中に射しこんで來る。「お客さまは小さい足をしてゐなさる」老人がそんなことを云つた。

 淡路から四國へ出て、祖谷いやの山奥ふかくはいつて行つた此の十日あまりの旅の生活が、私にはまるでもう人跡未踏の世界へ來たやうな人なつかしさを與へてゐるのであつた。漱石の草枕のなかにも、小さい温泉場の一夜のなかで、「おれは泣く事の出來る男だと云ふうれしさ丈の自分になつてゐる」と云ふ言葉が書いてあつた。主人公は蒲團へはいると、色々と思ひに耽り、「海棠の露をふるふや物狂ひ」と云ふ句をつくつてゐる。私はハーモニカの穴にたまつたつばきを手でふりながら落した。何も狂ふやうな考へはないのだけれども、あるといへばあるやうだし、ないと云へばないと云つた、漠然とした前路に知己のない境涯にたゝずんでゐる。



 翌日、老人の住んでゐると云ふ河岸へ降りてゆくと、小さい藁屋根が眼にとまり、家の後には色々の美しい竹藪が風にさわいでゐた。軒には白樂園と云ふ木の額がさがつてゐた。

 格子のうへには、加納津助と云ふ表札が立つてゐる。私がたづねて行くと、老人はすぐ出て來て、「さアさ、お上りなされ、お上りなされ」と框を上つたり降りたりしてうれしさうにしてゐた。土間へはいるとぷんと尿の匂ひがした。老人の一人住ひの生活が薄黒く澱んでゐて氣持ちが惡い。長火鉢の上には小さい地球儀が置いてあつた。「おぢいさん、こんなものを見てゐるのですか」と訊くと、老人は地球儀をくるくる𢌞して、「何處の國が喧嘩しとンのか、これを見れば位置がすぐ判る」と云ふのであつた。桃色のイギリスも、紫色のフランスも、黄色のドイツも一眼のうちだ。

 津助老人は三十年も東京暮しをしてゐて、東京で妻をうしなひ、息子をうしなひ、一人になると、寄席に行つたり、代議士の演説をきゝに行つたりして餘生をたのしんでゐたのだけれども、東京の生活はたつた一人住ひでも月に百圓はかゝるので、たうとうかへるべき古里ではない、かうした故郷へ戻つて來たのだと話してゐた。田舍の生活は月五圓もあれば足りる由にて、家は自分の手でこつこつ建てたのである。津助老人は大工であつた。十五の時に高知へ出て行つて、食べるに困つてしまふと、下駄をひろひ歩いて、それで位牌をつくつて賣つた。三ツ穴のあいてゐるところは、上手に切り捨てて、桐の棺なんかでは蓮花の臺なぞをつけて棺桶屋へ高く賣りつけたもんだ。

「私は位牌をつくつては橋の下に寢とるもんですから、近くの百姓が、田圃の草むしりを手傳へと云うて、私は二三日草むしりをしましたが、私が草をむしつたところは少しも土の中へ草を埋めてをらんと云うてえらい叱られましてねえ、おこらへなされ、おこらへなされと河の中を逃げて歩いたものです」

 津助老人はさつきをつくる事が好きであつた。大工から請負になり、鐵道の枕木敷設に仙臺へ行つた時には、津助老人も何萬と云ふ貯へが出來てゐたのだけれど、さつきに凝ることが深くなつて來ると、さつきにをし氣もなく金を出してあつめた。田舍へ復る時には八トンの荷車にも積み切れぬさつきの鉢をもつてもどつて、一錢にもならぬまゝに五年の間にすつかりさつきは四散してしまつたさうだ。老人の部屋には、金牌を二つ三つ貰つたと云ふ岩津波と云ふ大きいさつきの鉢が置いてあつた。太い幹には蔓がからまり、白に紅の絞りのある花が蠶がもぶれてゐるやうにぎつしり咲きほうけてゐる。

 私はさつきと云ふ花はあまり好きではない。津助老人の趣味に淫した果ての、かうした昔がたりをきいてゐると、常識では解せないやうな愉しい莫迦げた人生があつた。

鶯もきゝあきて喰ふ麥の飯

 こんな句が浮んだので、設計用の柔い鉛筆で紙の上に書いてゐると、津助老人は、私が死んでしまうたら、こゝへ來てお住ひなされと云つた。おぢいさんの部屋は臭くていやだと云ふと、老人は心外さうに、部屋ぢゆうの戸障子を開けに立つてゆく。家の前には石屋が來てゐて、河の石を形よく刻んでゐた。おぢいさんの逝く三途の川と云ふのはこんな處ではないのかと、石屋の後の白く光つた河原を眺めてゐる。──腦裏にうつるものは遠く去つて行つたひとの顏だつた。白い砂丘のなかに黒いものが煤を散らしたやうに見える。過勞の眼のせゐではあるけれども、何となく心身が疲れてゐるのがよく判る。地球儀のアメリカがいやに廣い。あのひとも元氣でゐるやうに。

 縁側には、實生の紅葉の鉢や、すがれたやうな汚れた花をつけたさつきの鉢が五つ六つ置いてあつた。朝霧とか、御所車、わびすけ、露の宿と云ふ意氣な名前がついてゐる。六疊が一間、四疊半が一間、たつたこれだけの小さい家だつたけれど、隅々に東京がへりの生活がたゞようてゐて面白い。老人は古びた木箱を出して來て、村田から取り寄せたと云ふ煙草の煙管を何十本となく並べてみせるのであつた。

 裂地のもの、革のもの、絽差し、さう云つた煙草入れも五ツ六ツはある。煙草入れの根〆にも、相當有名な彫匠の名前のはいつたのもあつて、老人は都から來た私に、そんなものを出しては昔の生活のなごりを愉し氣に語るのであつた。その話は纒綿としてゐて、仲々盡きさうにもない。

 老人は、何時死んでも思ひ殘すことはないと云つておきながら、死に直面してゐる年齡であるせゐか、死を語ることが、安々と死んでゆけないぞと云つてゐるやうにも考へられて、私には少しも同感出來ない。津助老人は生死に就いての話になると、活々として、これから百までも生きてゐたいやうな慾をはつきりみせてゐる。

 現代の戰爭のことも、社會の事もあまり興味はないらしく、只、生きてゐたい、生きてゐたいの欲望のみで、一日を終るのだと話してゐた。津助老人は眠る時も燈火をつけて眠つた。暗くしておくと死神がみまふと云ふのである。暗さの中では、いまにも息がとまりさうで不安で仕方がないのださうだ。

 私はだんだん津助老人に飽きがきてゐた。生死を語る人生觀には何の風情もなく、すべてにてんたんとしてゐる樣子でありながら、何も彼も掌に貯めこんでしまふ我慾さもうかゞへた。

 旅館は夜になると、村の居酒屋になつて、女達の聲でさわがしかつたけれど、晝は靜かでのんびりしてゐた。私は、一日二日、三日と滯在してゆきながら、終日、仕事にわづらはされて屈しては、津助老人とよく仲よく遊んだ。二人で釣竿を持つて、四國三郎の上流にやまめを釣りに行つたりした。

 私は津助老人を背景にして、白い砂丘の上にのびのびと寢ることも出來た。津助老人は私のそばで背を曲げて絲を垂れてゐる。頬杖をついて横から見てゐると、透きとほつた水洟がいくつもぶらさがつて膝の上に落ちてゐる。私は不機嫌になつて、遠い砂丘へ行つて寢ころんだ。鶯は鳴きつゞけ、河鹿のなく瀬音は耳に爽々と響いてくる。ハンカチに包んで來たハーモニカを吹くと何時の間にか目朶には涙が溢れてゐた。

 砂丘は背にあたゝかくて、まるでパンをあたゝめてゐるやうなぬくぬくとした感觸である。津助老人が股を擴げてよぼよぼとこちらへ立ちあがつて來ると、私は世の中の男のすべてが老いさらばへてしまつたやうな味氣ない氣持ちになり、自分の手の皮膚を眺めたり、白く光つた膝小僧に砂を盛りあげては遊んだ。

 雲烟の彼方に祖谷いやの神祕な山々がつらなつてゐた。向うの河岸では二十世紀の文明を乘せて、轟々と汽車が走つてゆく。河のおもてを見てゐると、白い雲が流れてゐた。君去つてまさに淼茫と云ひたいなまめかしい雲の姿である。少くも老衰のみえない若々しい雲がゆつくり走つてゆく。透きとほる美しい水のなかに悠々と祖谷の山の彼方へ白い雲は吹き流されて行く。

底本:「林芙美子全集 第五巻」文泉堂出版

   1977(昭和52)年420日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「田舍」と「田舎」の混在は、底本通りです。

入力:しんじ

校正:阿部哲也

2018年1024日作成

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