文化史上の寺田寅彦先生
中谷宇吉郎



 現代のわが国のもった最も綜合的な文化の恩人たる故寺田寅彦先生の全貌を語ることは、今日の日本のもつ教養の最高峰を語ることであって、単に物理学の部門での先生の一門下生たる自分などのなし得るところではないかも知れないが、何人がその任に当っても恐らく非常に困難なことであろう。

 先生は、外見上は全く異なる二方面において、今日のわが国の文化の最高標準を示す活動を続けられていた。その一は物理学者としてであって、帝国学士院会員、東京帝大教授としてのほかに理化学研究所、地震研究所、航空研究所において、それぞれ研究室を持ち、多彩の研究をほとんど間断なく発表されていたのである。他の一面は漱石門下の逸材吉村冬彦としての生活であって、その随筆もまたわが国の文学史上に不朽の足跡を止めている。この一見全然相反する二方面の仕事が先生の場合には渾然として融合していたのである。先生はある時、自分にその点について「科学者と芸術家とは最も縁の遠いもののように考える人もあるが、自分にはそうは思えない。趣味と生活とが一致しているという点ではこれくらい似寄ったものはない」と語られたことがあった。科学も芸術もともに職業とせずして生活とされていた先生の頭の中では、この両者は実は区別が出来ていなかったのであろう。

 物理学者としての先生の事績を外面的に見れば、英文で書かれた論文が三千ページに及んでおり、その部門が地球物理学、気象学、広い範囲における実験物理学、その他にわたっていることなどであろう。そのおのおのの部門における研究が、どれも文字通りに日本の物理学界を世界的の水準まで引き揚げるのに重要な役割をしていたことは今さら述べるまでもない。英国の科学雑誌ネーチュア誌に、世界の目ぼしい研究を毎回少数ずつ拾って紹介している中に、先生の研究がわが国からは一番多く紹介されていたようである。あまりに天才的なその研究が、たまたまわが国では奇異の眼をもって見るような人を生じたかも知れないが、実際のところ、その研究は、広い意味において極めてオーソドックスな物理の大道を行ったものである。しかしそのようなことは結局この場合にはいうまでもないことであって、近年先生の頭の中に次第に醗酵してきていたと思われる「新物理学」の体系こそは、誠に人智の恐るべき企てであった。

 この「新物理学」の内容は、もはや何人も窺知することを許さぬ世界のものとなってしまった。今となっては近年の先生の研究題目の中からこれを推測するより他に仕方がない。盲人が象をさぐる譬えがそのまま当てはまるのである。そのような大胆なことが許されるならば、まずその一つの相は生物の現象の物理的研究である。「藤の実の割れ方の研究」「椿の花の落ち方について」「生命と割れ目」などの論文がその一面を物語っている。この最後の論文を草せられるためには、欧文の細胞学の専門書を五、六冊も繙かれたことを知っている。今一つの相は、粉体の力学、砂の崩れ方の研究などとなって現われている。形の決まった固体の力学も、形のなくなった流体の力学も、ともに現在の物理学の取扱う範囲である。しかし形はあっても極めて微小で、しかもそのおのおのはあらゆる複雑な形をしている、そのようなものの集合が全体としてはある一定の法則に従うというのが粉体の力学である。これならば物理学に縁のない人でも、現在の物理学の範囲を出た問題であることが首肯されるであろう。

 第三の相をなすものは、先生のいわゆる「形の物理学」である。それは具体的に発表されたものとしては、電気火花の形の問題および割れ目の研究などとなっている。この問題について、先生は自分に極めて意味深い言葉を洩らされたことがある。それは「形の同じものならば、必ず現象としても同じ法則が支配しているものだ。形の類似を単に形式上の一致として見逃すのは、形式という言葉の本当の意味を知らない人のすることだ」という意味の言葉であった。割れ目の物理学は第一段としては今一息という所まで進んでいたようであった。病床における先生は、有能な助手の人の努力によって、この研究が着々進行してゆく姿を心に画いておられたようであった。最後に、まだ着手はされていなかったが、随筆の中にほのめかされた重要な問題がある。それは現在の物理学の「方法」が「分析」に偏しているのに対して、「綜合の物理学」を建てようと企てられていたことである。たとえば、ここにある複雑な形の波形がある。それを応用数学の力でいわゆるフーリエ級数に展開して、分析して研究するのが現在の物理学の方法である。先生はこれを「複雑な形の波全体」として何かわれわれの感覚に触れさせようと試みられたのである。それにはこの波形の高低をトーキーのフィルム上に濃淡で印画して、波全体を一種の雑音として聞こうという企てであった。これは現在の科学の方法論の根柢に触れる考えである。

 これらの種々相から勝手な推論が許されるならば、これこそ本当の意味での「新物理学」の創設である。先生のルクレチウスの科学の評論には次のような意味のことが附加されている。現代の物理学の形式は全くギリシア時代の人間の考え方とほとんど差がない。これは西洋的の物の考え方の基礎をなしている思考形式であって、人間の頭脳の力が文化によっていかに強く支配されているかをよく物語っているものであるという説である。東洋の全く異った文化に育成されてきた者のもつ意識は、全く新しい形式の科学の創設に重要な役割をしないとは断言出来ない。問題を物理学に限定すれば、現代の物理学は、量的に計測し得るもの、あるいは数学の式で取扱い得る現象の物理学である。自然にはそれ以外の物理現象がいくらもあって、それらの問題を取扱う別の物理学もあってもよいはずであるというのが先生の持論であった。このように見ると、人類の文化にかなり本質的な貢献をなすべき考え、少くともその萌芽が、一九三五年の十二月三十一日、先生の肉体とともに永久に消え去って、再び花を開く日がこないのではなかろうかと悼まれるのである。

 文学史上に残された吉村冬彦としての業績については自分らの能く論じ得るところではない。しかし、漱石同門の尊敬すべき文学者などの見解を借りてみても、先生の随筆は科学者の余技などとして見逃し得るものではない。今日わが国において随筆という形式の文学が全盛を極めていることは看過し得ざる一つの文化現象である。この現代の随筆を徳川時代の随筆と比較してみる時、その内容的ならびに形式的の進化に最も貢献した人を探すならば、何人も吉村冬彦の名を挙げるに躊躇しないであろう。英国文学におけるエッセイの地位まで、わが国の随筆を引き上げるためには、『藪柑子集』以来の三十年に近い先生の筆の力を必要としたのである。このような意味において、『冬彦集』以来の先生の随筆集は、漢詩の世界の中から日本語の詩を産み出した『藤村詩集』と同じような地位を、随筆文学の中に占めているものであろう。

 約十年くらい前のことである。私は先生の書斎において、随筆に関する先生の見解を聞く機会を得たことがある。一国の「文化」が高まり、個人の教養が深くなるにつれて、文学は随筆の形式をとるようになる、あるいはもっと精確にいえば、随筆が文学のあるかなり重要な領域を占めるようになる。それを助成する外界の条件としては、人々の生活が忙しくなって長い小説などを読むような時間がなくなるという、極めて卑近ではあるが動かし難い事実がある。内面的にもっと重要な事柄は、文学の意味を「人生の記録と予言」という観点から見る傾向が多くなるのではなかろうか、そのような傾向の下では、主観的真実の記録たる随筆が、文学の重要な部門を占めることは自然の勢いであろうという意味のことであった。

 このような意味における随筆の目指す目的は、結局科学の目指す所と同一であって、先生の頭の中で、物理的の研究と随筆とが全く融合していたのもまた不思議ではない。『触媒』の中の一文中には、「顕微鏡で花の構造を仔細に点検しても花の美しさは消滅しない。花の植物生理的機能を学んで後に初めて十分に咲く花の喜びと散る花の哀れを感ずることも出来るであろう」と書かれている。

 本質論を離れて、広い意味での科学技術的に先生の随筆を見ても、科学の研究と同じ方法がその中に用いられていることを知るであろう。第一にその中に書かれている対象は、それが外界であると内界であるとを問わず、十分によく「見て」あることである。そして至る所に「発見」をしてあることである。試みに『蒸発皿』の巻頭にある「烏瓜の花と蛾」を開いてみるならば、ほとんど各ページに一つまたは二つの「発見」が惜し気もなく羅列してあるのに驚かぬ人はないであろう。次に問題とすべきはその記述の方法である。先生の文章は勿論美文ではない。しかしいわゆる達意の文というものとも少し異るものである。最も近いものを探せば、それは科学的名著とか優れた研究者の論文とかいう種類のものであろう。それは「生産能」を包有している文章である。勿論先生の比類なく高い教養と、およそ何物をも愛せずにはいられない心情とが、その肉附けをしている点は事新しくいうまでもない。

 以上のほかにも先生の俳諧論映画論などにおける研究で問題とすべき事柄はいくらもあるが、ここでは立ち入る余裕を与えられていない。先生の全集出版の企てがある由で、これらの科学と文学との両域にわたる全労作が、日本の文化史を飾る日も遠くはないであろう。そのような全集はゲーテ以来あまり数多くはないであろう。先生の如き人こそ吾らが同時代に生れた光栄を喜ぶべき第一の人であろう。

(昭和十一年二月『大阪毎日新聞』)

底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店

   2000(平成12)年105日第1刷発行

底本の親本:「冬の華」岩波書店

   1938(昭和13)年910

初出:「大阪毎日新聞」

   1936(昭和11)年25

※初出時の表題は「故寺田寅彦先生の新物理学と随筆観」です。

入力:kompass

校正:岡村和彦

2019年1124日作成

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