一人の芭蕉の問題
江戸川乱歩



 木々高太郎君の「新泉録」に對し成可く無遠慮な感想を書けといつて雜誌ロックの山崎君が新泉録の原稿を見せてくれた。山崎君の内心は私達の間に活溌な論爭を期待してゐる模樣であつたが、木々君の考へと私の考へとは故甲賀三郎君と木々君と程は相違してゐないので、論爭にはならないかも知れない。併し多少意見の相違が無いでもないから、少しく私の感想を書いて見ようと思ふ。

 最も直截に云ふと木々説は探偵小説本來のもの即ち謎や論理の興味が如何に優れてゐても、獨創があつても、それが文學でなければ意味がないといふのに對し、私の考へは、無論文學を排撃するものではないが、如何に文學として優れてゐても、謎と論理の興味に於て水準を拔いてゐなければ、探偵小説としてはつまらないといふのであつて、同じことを違つた角度から云つてゐるやうにも見えるけれど、文學と探偵興味とが兩者の最高に於て渾然として一體となることが至難の道であるが故に、現實の問題としては、兩者の考へに相當の距離を生じて來るのである。木々君は文學第一主義、私は探偵小説第一主義、これが渾然一體化するのが理想であるが、その理想實現が殆んど不可能に近いほど困難なところに問題が生ずるのである。

 私は以前から、一つの理想論としては、心中ひそかにその至難を危みながらも、木々説に賛意を表して來た。往年の隨筆「探偵小説の意欲」「探偵小説と科學精神」などはこれを語るものである。私は木々君に劣らず文學が好きである。しかし遙かなる理想としては探偵小説文學論に賛意を表しながらも、實際問題としては、私は一應普通文學と探偵小説とを分けて考へてゐる。人生の機微に觸れんとする時には探偵小説に之を求めないで、普通文學に親しむ。探偵小説に求むる所のものは普通文學に求め得ない所のものである。これを假りに謎と論理の興味と名づける。探偵小説に求むる所は謎と論理の興味であつて、人生の諸相そのものではない。探偵小説にも人生がなくてはならない。しかしそれは謎と論理の興味を妨げない範圍に於てゞある。

 普通文學の手法を出來る限り取入れることは望ましい。しかしそれは「文學味ある探偵小説」を極限とし、それ以上に、即ちたゞの文學にまで拔け出すことは、私の考へでは至難の業である。たゞの文學となつた時、探偵小説は最早かげをひそめてしまふからである。私はまだ探偵小説の探偵小説らしさを愛する。この「らしさ」を失つたたゞの文學を、私は探偵小説と呼稱する必要を認めないのである。それは最早探偵小説といふジャンルが消滅することである。たゞの文學にまで拔け切つて、しかも探偵小説と呼び得るものが若し生れたならば、それは最も困難な理想が爲しとげられたことであるが、私の現在の想像力を以てしては、さういふ作品を腦裏に描くことが出來ない。至難中の至難である。

 木々君はトリックの創案が先ではない、さういふトリックを生む人間及人間相互の關係を創造することが先であるといふ。その意味が動機の必然性の重視にとゞまるならば少しも異議はない。しかし、こゝにも限度がある。文字通りトリックを第二とし、人間及人間相互の關係のみを重視してその必然を追つて行く時は、さういふ作中人物は最早作者の意のまゝには動かなくなるのが自然であるから、果してそこから探偵小説的トリックが生れて來るかどうかは疑問である。トリックなどは生れないでもつと違つたもの、或は探偵小説としては不滿足なトリックしか生れて來ないこともあると思ふ。人間そのものを先にする場合これは當然の成行きである。そこから生れるものは、若し作者があくまで文學的に正直であるならば、せい〴〵幾らか探偵味のある普通文學である。「カラマーゾフの兄弟」は假りに之を探偵小説として評價する時、そんなに程度の高いものではない。探偵小説本來の興味はおのづから別個のものである。

 實際問題としても、内外の探偵作家がトリックと推理のある本來の探偵小説を書く場合、先づ人間を創造しその人間の必然を追つて行つて、ごく自然にトリックが生れて來るのではない。さうではなくて先づトリックを創案して、そのトリックにふさはしき(可能なる限りに於て必然性ある)人間關係を生み出すといふ順序を採つてゐると思ふ。文學上のリアルとは逆であるが、そこに探偵小説の宿命がある。この宿命を無視してリアリズム文學の常道を進むならば、そこから生れて來るものは探偵小説ではない。

 繰返して云ふが、私は文學を排撃するものではない。探偵小説本來のものを第一とし、それを害はざる限りに於て文學を取入れよといふのである。こゝにヴァン・ダイン乃至甲賀三郎説との相違がある。しかし更らにその限度を越して文學第一の木々説までには到つてゐないのである。その可能性を全く否定するものではない。たゞ至難を感ずることがより深いのである。

 私は日本の探偵小説は全體として探偵的興味よりも文學味に於て勝つてゐると考へる。傑作集などを編纂しながら、英米の短篇探偵小説集と比べて、文學味ではこちらの方が稍々高いなと感じることが屡々である。無論その文學は第一流のものではない。比較上の話である。これに反して日本の作品には探偵小説本來の論理的興味は極めて稀薄である。三、五十枚の短篇ではこれも止むを得ないと思ふが、では長篇にその興味の濃厚なものがあるかといふと、それは更らに甚しく乏しいのである。

 私は戰爭中から戰後にかけて、英米の著名の長篇を從來になく多量に讀んだが、讀めば讀むほど、日本の探偵小説は世界の主流とはひどくかけ離れてゐることを、段々強く感じて來た。我々は嘗つて英米の探偵小説に刺戟を受け、當初はさういふ方向を目ざして出發したのであるが、まだ本來の探偵小説を卒業しない前に、いつの間にか傍道にそれてしまつてゐたのではないか。日本の探偵小説に今必要なものは文學論ではなくて(それはある程度持つてゐるのだから)却つて探偵小説論ではないか。そして、今一度本街道に立戻り、本來の探偵小説、殊に長篇探偵小説に於て、英米の傑作と肩を並べ、或はそれを凌駕するが如き作品を生まなければならない。私は終戰後探偵小説復興の機運を見た時、この事を最も強く感じてゐたのである。

 英米探偵小説の傑作と雖も純粹文學の觀點よりすれば決して第一流のものではない。しかし最高の文學でないからと云つて、私はこれを無視しないのである。無視しないばかりか、これを重要視し、日本の探偵小説がその本來の興味に於て英米傑作の水準に達してゐないことを殘念に思ふのである。今後我々は好むと好まざるとに拘らず、從來よりも一層世界人の立場に立たなければならない。探偵小説もその例外ではない。これを世界的觀點から批判し育成しなければならない。さういふ意味からも、日本の探偵小説は全體としては世界の本道に立歸ることが望ましいのである。

 以上は現實當面の問題であるが、目を遙かなる水平線の彼方に馳せ、遠き理想を語る場合には、又おのづから別個の感想がある。

 私は昭和十一年頃の隨筆「探偵小説の意欲」の中に、「一口に云へばそれは割り切れるものと割り切れないもの、科學精神と藝術精神とを如何にして有機的に化合せしめんかとの苦惱である。探偵小説は割り切れる世界のものであるとして英米探偵小説の舊道に安住するのはたやすい。又その常識論理のマンネリズムにあきたらずして、探偵小説そのものを捨て去り、別の割り切れぬものの世界へ踏み込んで行くのも難しいことではない。だが、そのいづれにも滿足しない心、そして兩者融合の新世界に憧れる貪慾、こゝに探偵小説の根本的な苦惱がある」と書いてゐる。これは永遠の夢であるかも知れない。夢は夢なるが故に尊いのかも知れない。流石の文學論者木々高太郎君も過去の業績に於ては、まだこの夢を實現してはゐない。第一流の文學であつてしかも探偵小説獨自の興味をも失望させないもの。實に實に至難の道である。しかしながら私はそれの可能性を全く否定するものではない。革命的天才兒の出現を絶望するものではない。若し探偵小説界に一人の芭蕉の出づるあらんか、あらゆる文學をしりへに、探偵小説が最高至上の王座につくこと、必ずしも不可能ではないからである。

 和歌の卑俗滑稽なるものから分脈發生した俳諧は、もともと市井俗人の弄びにすぎなかつた。貞徳、宗因の先輩は概ね平俗なる洒落と滑稽に終始してゐた。古俳諧には謎々、語呂合せの分子すら多分に含まれてゐた。しかし芭蕉の個人力は、貴族歌人嘲笑のもとにあつたこの俗談平語の俳諧を、悲壯なる氣魄と全身全靈をかけての苦鬪によつて、遂に最高至上の藝術とし、哲學としたのである。

 こゝに歴史上の事實がある。革命の先例がある。探偵小説を至上の藝術たらしめる道は恰かもこの芭蕉の道のほかのものではない。常識の豫想し得ざるもの。百年に一人の天才兒が生涯の血と涙を以て切り開く人跡未到の國。あゝ、探偵小説の芭蕉たるものは誰ぞ。好漢木々高太郎果して芭蕉の慘苦を惱むの氣魄ありや否や。(「ロツク」昭和二十二年二月號)

底本:「日本推理作家協会賞受賞作全集 7 幻影城」双葉文庫、双葉社

   1995(平成7)年515日第1刷発行

底本の親本:「幻影城」岩谷書店

   1954(昭和29)年7

初出:「ロック 第2巻第2号」筑波書林

   1947(昭和22)年2月号

入力:第二回シャッカソンメンバー乱歩班

校正:sogo

2016年99日作成

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