書簡 大杉栄宛
(一九一六年五月二七日)
伊藤野枝



宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館



 今日私はあなたがおたちになる前に、二三日前からの私の我儘わがままをお詫びして許して頂かうと思ひましたの。それで、幾度も幾度もあなたの処に行くのですけれど、何んだか自然であなたに話しかける事がどうしても出来ませんでしたの。さうして、とうたう又あなたの方から口をお切りになりましたのね。さうして、私があなたに向つて云はうとする事を、あなたが私に仰云おっしゃつたのですもの、私本当に自分の小さな片意地がいやになつて、あなたに申訳けがなくて、それで泣きましたの。

 自分で、我儘な事も片意地も何も彼も皆なよく解つてゐて、そしてつまらない事にねて、気持の悪い思ひをする事が、どんなに馬鹿々々しいかと云ふ事も知りながら、それでどうしても素直でない自分が忌々いまいましくて仕方がないのです。一昨日から、私は自分のその悪い癖をあなたに話して、もう決してそんなまねをしないようにしようと幾度思つたか分りません。そしてすつかりあなたにお話しする事も出来てゐながら、今度は本当にあなたにお話しようとしますと、前からきめて話す事は如何にも不自然らしくて厭やになつて仕舞ふのです。それでつい黙つて仕舞ふのです。さうすると今度は、猶一層いけない私の癖が、また私を怒らすのです。

 自分の頭で考へた事を直ぐに決して話さないと云ふこと。私はそのためにどんなにあなたにいやな思ひをさせたかを知つてゐるのです。知りながら、その癖に打ち勝てない自分に反感を起さずにはゐられないのです。それを考へますと、私は直ぐメランコリイになるのです。それをあなたが御覧になると、あなたも直ぐ不快におなりになるし、それが今度は私の方にはまた一層強く来るのです。さうして、だん〳〵に気持が妙に外れて来るのを見てゐますと、私はもうたまらなくなるのです。

 私が、昨日だか一昨日だか、パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話を持ち出しました時、私はあの主人公と女主人公の事をふと思ひ出して、私があれをどんなに興味をもつて読んだかをお話して、そして私の片意地をお話しようと思ひました。けれども、さう思ふと同時に、頭の中ではあなたにお話しようとする事は綺麗に整つて仕舞ひましたけれど、さてそれをそのまま話す事は、もう何んだか不自然な気がして、素直に口にする事が嫌やになつて、そのまま黙つて仕舞ひましたのです。

 そんな風で、昨日山を一人で歩いてゐます時にも、その事ばかり考へてゐましたの。自分で自分に手のつけようがないのですもの。しばらく私はあの池の岸で考へてゐました。さうして仕舞ひには泣きさうになりました。それからまたり焦りして来ましたので、山に登り始めましたの。そして急な道を一足々々用心しい〳〵登つてゐるうちに、何時かその方に気をとられて、頂上の平らな道に出ました時には、ぼんやりしてゐましたの。そして少ししやがんでゐるうちに、急に又あなたの事を思ひ出して、あなたがまたいやな顔をして本を読んでゐらつしやるのだらうと思ひますと、直ぐ大急ぎで歩き出しましたの。そして帰つたら、今度こそ本当にすつかり私のいけない事をお話しなければならないと思つて息を切らして帰つて来ると直ぐに二階へ上つて見ましたら、あなたはお留守なのですもの。本当に私かなしくなつて仕舞ひました。それから暫くしてあなたがお帰りになつた時には、もうすつかり先きのやうな無邪気な心持は失くしてゐました。

 今日あなたがお帰りになることは分りきつた事ですし、直きお会ひ出来るのも分つてゐますから、それは何んともなかつたのですけれど、この二三日の私の我儘から、あなたに不快な日を送らせて、それをお詫びしようと思ひながら、反対にあなたからお詫びを云はれて、まだ自分では何にも云へなかつた事を考へますと、私は自分にいくら怒つても足りないのです。あなたがくるまに乗つてお仕舞ひになつた時、私はまた涙が出さうになりました。

 さつき、あなたのお乗りになつた汽車の発車するのを聞きながら、小熱いお湯の中にひとりで浸つてゐる内に、私はすつかり落ちつきました。今も大変静かにしてゐます。今頃はあなたはもう東京の明るい町を歩いてゐらつしやるでせうね。此処は今、私がかうやつて書いてゐるペンの音だけしかしません。雨もやんだやうです。明日からは仕事が出来さうな気がします。

 あなたがこちらにゐらつしやる間に神近さんから手紙が来て、あなたがそれを読んでゐらつしやる時、私は本当に淋しくなつて仕舞ふのです。ゼラシイぢやないんです。本当にただ淋しいんです。ぢつと私は、私のまはりを見まはしたくなるんです。そして、だん〳〵に沈んで仕舞ふのです。それが、何時でも自分ひとりでゐる時のやうに、用心深く自分を見てゐないからだと云ふことがよく分ります。うつかり、あなたと一緒にゐるといい気になつて仕舞ふのです。さうしては、さう云ふ場合になつて、自分のその弱味を見る事が、私には口惜しくて仕方がないんです。それでつい黙つて仕舞ふのです。

 ひとりでゐますと、総ての事が非常にはつきりしますから、すきを持たずにゐられます。ですから、あなたが神近さんの傍にゐらしても保子さんの処にゐらしても、何んのさびしさも不安も感じません。本当に、一緒にゐますと、離れてゐる事が苦痛ですけど、かうしてゐますと却つてその方がいいやうな気がします。出来るだけ離れてゐる事にしませうね。早く仕事をすまして九州へゆきます。さうして、一二ヶ月後にあなたに会へる事を楽しみにして勉強します。

 今夜はもう止めます。私は今日お湯にはいつてから急に足が痛んで困つてゐます。昨日の疲れだらうと思ひます。

 つまらない手紙を書きましたね。でも、何かしら書いたので少しいい気持になりました。おやすみなさい。

[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1──『青鞜』の時代」學藝書林

   2000(平成12)年531日初版発行

底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会

   1926(大正15)年98

※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:酒井裕二

校正:雪森

2016年14日作成

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