書簡 大杉栄宛
(一九一六年五月九日 二信)
伊藤野枝



宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館



 今、安成やすなり(二郎)さんがお帰りになつたところです。私は何もお話も書きもしないつもりでしたけれど、折角あなたの紹介でこんな処までゐらしつたのですから、書くだけは御約束いたしました。けれども、まだ何を書かうと云ふあてもつきませんのです。でも、大変静かに気持よくお話いたしました。

 あなたのけんかの話を伺ひました。どうしてそんな乱暴な事をなさつたの。堺さんまでひどい目にお合はせになつたのですつてね。虫の居所でも悪かつたのですか。野依さんは何を云つたのですか。何んだか気になりますわ。私の名も出たんですつてね。何んだかお目にかかつてお聞きしたいやうな事が沢山ありますわ。

 安成さんがお帰りになる時に一緒に行きたいやうでしたわ。

 それから保子さんのこと昨日の手紙に書きましたが、あれは取消しませう。今日、安成さんから少しばかりお話を伺ひました。私の想像してゐる方とは大ぶ違ふやうですから。もしさうでしたら、会ふだけ無駄だと思ひますから。もしあなたの保子さんに対するお考へが本当にくわしく伺へれば本当にいいと思ひますけれど、それも無理には伺ひたくありません。

 今朝から私はいろ〳〵に考へてゐましたの。私の神近さんと保子さんに対する本当の心持を知りたいと思ひましてね。ですけれど、私は矢張りどちらの関係もあなたの生活の一部として是認するだけで、あなたと保子さん、それからあなたと神近さん、あなたと私、と云ふ風に切り離しては考へられないのです。要するに私が、神近さんと、或は保子さんとあなたとの間の事に就いて、お互ひに理解し合つたり認め合つたりすると云ふ事の方を、現在の一番大事な事のやうに考へてゐたのは、まだ本当に自分であなたと私との関係がのみ込めなかつたからだと云ふ風に考へられて来ました。

 本当に平凡な理屈ですけれど、神近さんと云ひ保子さんと云ひ私と云ひ、ただあなたを通じての交渉ですから、あなたに向つての各自の要求がお互ひにぶつかりさへしなければ(何んだか他に云ひ方があるやうな気がしますが)皆なインデイフアレントでゐられる筈だと思ひます。さうすれば、猶一層よくあなたを理解し合はうとする皆んなの努力があれば、其処で初めて完全に手を握る事が出来るのだと思ひます。

 さうして今、私と神近さんとは──と云ふよりも、私の神近さんに対する気持は第一段にゐるのだと思ひます。保子さんに対する私の気持は第二段に進みかけてゐるのですが、保子さんはまだ恐らく第一段までも来てはゐらつしやらないやうに思はれます。そこで私の保子さんに持つ心持は、保子さんには無理すぎる事になつて来ます。で、今しばらくはインデイフアレントでゐます。或はそれ以上に進まないかとも思はれます。私としては、神近さんとも保子さんとも、本当に手を握りたいのが望みです。神近さんには会つてよくお話しすればそこまで進めるかと思ひます。是非さうあらねばならぬと思ひます。さうして始めて私達の関係は自由なのですね。さうしてお互ひに進んでゆきたいと思ひます。

 ひとりゐて、私はさう云ふ事を考へては、自分の気持が進んでゆくのがはつきり見えるのが、嬉しくてたまりません。此間あなたにお別れしてから、本当に淋しかつたり、会ひたくなつたりして、堪えずあなたの事が忘れられませんけれど、こんな事ばかり考へてゐますと頭がハツキリして来て、気が晴れ〴〵していい気持になれます。

 けれども、私はまだ恐れてゐます。今、私があなたの愛を一番多く持つてゐると云ふ事に、自分の安心があるのではないかと云ふ事を。絶えずさう思つて注意してゐますけれど、今のところでは、別にそんな感情は少しも混つてゐないやうですけれど、その反省だけは怠らずに続けてゐます。

 今日は朝からまだ一枚も書きません。あなたにお手紙を書いてから、浜でカジメやなんかが一昨日のあらしで波に打ち上げられて来るのを、皆んなでとつてゐるのが面白いからと云ふので見に行きました。皆な裸で海の中に飛び込んであげてゐるのですよ。女も男も夢中になつて。それから帰つて、あんまりいいお天気ですから、ひとりで夕影の松の所に行つて見ました。そして、帰りに下のお寺に金盞花きんせんかが綺麗に咲いてゐましたので、それを買つて来てさしてゐましたら、安成さんがゐらしたのです。三時の汽車でお帰りになりました。そして此の手紙を書き始めましたの。あの松の木の下ではもつと〳〵種々いろいろな事を沢山考へてゐたのですけれど、思ひ出せなくなりました。また思ひ出した時に書きませう。

 さびしいからお手紙だけは書いて下さいね、毎日。お願ひします。では左様さようなら。

[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1──『青鞜』の時代」學藝書林

   2000(平成12)年531日初版発行

底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会

   1926(大正15)年98

入力:酒井裕二

校正:雪森

2016年14日作成

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