三人法師
谷崎潤一郎



世に「三人法師」と云う物語がある。いつの時代の誰の作かは明かでない。萬治二年の版があるそうだが、作者はこれを国史叢書の中に収めてある活字版で読んだ。さしたる名文と云うのではなく、たど〳〵しい稚拙な書き方であるけれども、南北朝頃の世相が窺われる上に、第一の法師から、第二、第三の法師になるほど話が複雑で面白く、組み立てもまとまっているし、哀愁が心の全篇を貫いているところは文学的に相当の価値を認めてよい。ちょうど秋の夜の読み物には適していると思ったので、くどい所や仮名書きのために分らない所は省略もしたし、多少は手を入れたが、大体原文の意を辿って成るたけ忠実に現代語に直してみた。もしいくらかでも古い和文の文脈と調子とを伝えることに成功したら作者としては満足である。



高野の山へ集って来たからにはどうせ世を厭う人々ではありながら、同じ厭離おんりの願いを遂げるにも座禅入定にゅうじょうの法もあれば念佛三昧の道もある。山は廣いので思い〳〵の半出家たちが彼方此方かなたこなたに宿を求め、めい〳〵己れのしょうにかなった教についてぎょうを修めているのであるが、或る晩そう云う人たちが或る宿房へ寄り合った時だった。一人の僧が、見渡したところ、われ〳〵はみな半出家ですが、いずれも遁世なされたのにはそれ〴〵の仔細があることでしょう、座禅をするのも悪くはありませんけれども、懺悔の徳も罪をほろぼすと云いますから、今夜は一つ皆の衆で懺悔物語をしてはどうですかと云い出して、それをしおにいろ〳〵な若い頃の想い出話が一座のあいだに弾んだ折、年頃は四十二三であろうか、綻びだらけの衣を着て難行苦行に見るかげもなく痩せ衰えているものゝ、鉄漿かねをふか〴〵とつけて何処かに尋常な俤のある僧の、さっきから隅の方に引っ込んでじっと考え込んでいたのが、ふと、ではわたしの身の上を聞いて下さいますかと云って、しんみりした口調で語り始めた。───

都のことは定めし方々かた〴〵も御存知でしょうが、わたしはもと、尊氏将軍のおん時に、糟屋の四郎左衛門と申して近侍に召し使われていまして、十三の年から御所へ参り、礼佛礼社らいぶつらいしゃ、月見花見の御供にはずれたことはなく、まめに仕えていますうちに、或る年のことでした、二条殿へお成りになる御供に附いて行きましたら、折節朋輩どもが寄り集って遊んでいましたものと見え、わたしのところへも使をよこして、速く来ないかと云って来ましたので、まだお帰りにはがあるかしらと思いながらお座敷のていをのぞいて見ますと、ちょうど御酒が二三献過ぎた時分らしく、一人の女房が引出物に、廣蓋ひろぶたの上へ小袖を載せて持って出て来るところでしたが、その女房と云うのが、二十はたちにはならないほどのうら若さで、練絹の肌小袖に紅花緑葉の単衣ひとえをかさねて、くれないの袴を蹈んで、長い髪を揺りかけている姿の美しさ、染殿の妃、女御更衣と申してもきっと此れほどではあるまいと思われて、あゝ、人間に生れたからにはこう云う人と言葉を交し、枕を並べたいものだが、それにしても今一度出て来てくれないものかしら、せめてもう一と目とっくり顔を見たいものだと思いましたら、その時からあくがれ心地が胸をとざして、忘れようとしても忘れられず、うつゝともない恋になってしまいました。それから宿へ帰っても上﨟の姿が眼の前を去らないので、食うものも食わずに打ち伏したなり四五日のあいだも出仕しなかったものですから、近頃糟屋はどうしているかと云うお尋ねに、病気のことを申し上げると、それなら薬師くすしをつかわすから療治をするがよいと云う仰せがあって、間もなく宿へ薬師が参りましたので、起き直って、烏帽子えぼし直垂ひたゝれをつけて対面しましたところが、ちょっと脈を取ってみて、どうもおかしい、別に病気があるようでもない、何か人を恨んでゞもおられるか、又は大事な訴訟でも持っておられはしないかと云うのです。私はさあらぬていを装って、子供の時からこんな工合におり〳〵わずらうことがありますが、半月も養生すればいつも直ってしまいますから、今度も日数を待っておりましょう、何も大事なことなんぞ思ってはいませんと云いましたけれども、薬師は御前へ出て、あれは病気とは覚えませぬ、身に大事を持っている人か、さもなかったら、昔ならまあ恋とでも云うわずらいでございましょうと申し上げたと見えるのです。すると、恋なら今の世にだってないことはあるまい、糟屋の胸のうちを探り出したいものだと云う将軍の仰せに、それなら佐々木三郎左衛門が一番親しくしておりますから、あれをおつかわしになりましたらと申し上げる者があったりしまして、やがてその佐々木が御前へ召されて仰せを受け、見舞いにやって来ましたが、わたしの寝ている枕もとへすわると、恨みを含んだ口ぶりで、日頃から朋輩の多い中でも兄弟のように契っていたものを、これほどの患いだったらなぜ知らしてくれなかったと云いますので、なあに、心配をかけるようないたつきではない、たゞ一人ある母にさえ知らせないくらいだから、お恨みは御尤もだけれども、悪く思ってくれては困る、此の上重くなるような時には御知らせするから、そうこと〴〵しく云わないで帰って下さい、私の身よりは御所の勤めが大切ではないかと云いますと、まあ看病させてくれと云って、四五日傍を離れないで、心のうちを尋ねるのです、私も暫くは包み隠していましたが、あまり親切にしてくれますので有りのまゝを打ち明けましたら、佐々木は聞いて、さては御分ごぶんは恋をしておられるのだな、それなら訳はないと云って、御所へ参って申し上げると、成るほどそうか、そんなことなら容易たやすいことだと仰っしゃって、かたじけなくも御所様が御自身で御文おんふみをお書きになり、佐々木を御使にして二条殿へ申し送って下さいました。ところが二条殿の御返事に、あれは尾上と申す女房ですから地下じげへ下す訳には行かないが、その男を此方こちらへ寄越して下さいと云うお文があって、それを御所から私の宿へわざ〳〵届けて下すったのです。ほんとうに何と云う有難いことか、その時の御所様の御恩は報じようもありませぬ。それにつけても浮世はあじきないものだ、たとい尾上殿に逢うことが出来ても、わずか一と夜の夢のようななさけにあずかるのに過ぎないものを、今こそ遁世をする時だと、その折わたしはそう思いながら、又考え直してみますと、糟屋と云う男は二条殿の女房を恋い申し、将軍のお声がゝりでよう〳〵願いがかなうようになったと思ったら、急に気が臆して世を遁れたと云われるのも生涯の耻だ、せめて一と夜逢いさえしたら、それから後は兎も角もなろうと思い定めて、或る晩のこと、別に際立ってどうと云う身じまいもしませんけれど、少しはなりふりに念を入れ、若党を三人つれて、案内者を立てゝ、夜の更けた時分に二条殿の御所へ参りましたら、結構なお座敷を屏風や唐絵で飾ってある中に、同じ年頃の女房たちが五六人花やかに立ち出でゝおられる所へ通されたのです。先ず御酒が出る、茶や、香や、さま〴〵の遊びが始まる。けれどもれが尾上殿やら、何しろ一と目見たゞけですし、いずれも〳〵美しい人ばかりですから、迷惑していますと、一人のかたが聞し召した盃を持ちながら、私の傍へちか〴〵と寄って来られて、人一人をへだてゝ、おもいざしを賜わったので、あゝ、これが尾上殿だなと、はじめて合点してそのお盃を戴いたことでした。さて夜も明け方になって、八声の鳥の鳴く、寺々の鐘のおとにきぬ〴〵の別れを惜しみつゝも、行くすえ変らぬ約束をして、まだ暗いうちに女房は立って行かれましたが、寝みだれ髪のひまから匂う艶なかおばせを見送っていますと、妻戸をあけて、縁へ出られて、

ならはずよたまにあひぬる人故に

   今朝はおきつる袖のしらつゆ

と遊ばしたので、わたしも直ぐにお答えしました。

こひえてはあふ夜の袖の白露を

   君が形見につゝみてぞおく

そう云うことがあってからは、始終御所へ参りましたが、時には忍んで私の宿へ入らせられることなどもあり、御苦労なことだと仰っしゃって、将軍からその女房へ、近江の国のうちで千石千貫の土地を差上げたりなさいました。そうこうするうちに、私はその時分北野の天神を信じていまして、毎月廿四日には参籠をするのが常でしたのに、その女房のために近頃とんと怠りがちになっていましたものですから、ちょうど十二月廿四日のこと、歳の暮れでもありますし、日頃の懈怠けたいをお詫びしなければならないと思って、お堂へ参って、夜どおし念誦ねんじゅしていますと、ほかにもお籠りをする人たちがあって、話しているのを聞いていましたら、あゝ可哀そうに、いったい何処の人だろうと、そう云う言葉が耳に這入りましたので、ふっと気にかゝって、何の話ですと尋ねてみると、たった今しがた、都はかよう〳〵の所に、年十七八ほどの女房を殺して、衣裳を剥ぎ取った者があると云うのです。聞くと私は胸騒ぎがして、気になって気になって取る物も取り敢えず走って行って見たところが、やっぱり虫が知らせた通りあの女房ではありませんか。それがむごたらしく殺された上に、何一つ残らず、髪の毛までも切り取られている有様に、夢ともうつゝともわきまえかねて、たゞぼんやりしてしまいました。まあ、ほんとうに、こんな憂き目を見ると云うのは如何なる罪の報いかしら。逢うのを嬉しいと思ったのが今では却って恨めしくなり、先だって行った人のために何しに心を盡したことか、我れ故に君は、まだ二十にも足らない年頃の女房の身として邪見の剣にかゝられるとは。その時の私の心の中をどうぞ思いやって下さい。どんな鬼神が向って来ようと、又は五百騎三百騎の敵陣の中へ割って這入ろうと、思うがまゝの働きをして捨てる命なら、露ほども惜しくはないと覚悟していた私ですけれども、知らない間に起ったことではどうにも力が及びませなんだ。そう云う訳で、その夜のうちに髻を切って僧となりましたが、それから此の御山に最早や二十年のとしつきと云うもの、其の女房の菩提を弔っているのです。

───そう語り終ったその僧は、はんかい入道と呼ばれている半出家であったが、一座がしばらく今の話にしんと静まり返っていたとき、やがて又一人の僧が前の方へにじり出た。見ると年は五十ぐらいで、身の丈は六尺もあろうか、のどの骨がび出し、おとがいが反り、頬が高く、唇が厚く、目鼻がすごく、顔の色が黒く、いかさま逞しそうな体つきで、次には私が話しましょうと云いながら、破れた布衣の袂のかげで大きな数珠をつまぐっているので、さあ、では早速に願いましょうと皆が促すと、不思議なこともあればあるものです、その上﨟を、私が手にかけて殺したのですと云う言葉に、樊噲はんかいはきっとなって眼の色を変えたが、此方こちらは落ち着いて、まあ〳〵、これから委しく事の仔細を申しますから一と通り聞いて下さいと云う。そしてはんかいが気を押し鎮めて固唾かたずを呑んでいるのを見ながらおもむろに語り始めるのであった。



都の方だったら大方お聞きになったことがあるでしょう、わたしの名は三条の荒五郎と云って、九つの年に盗みを始め、十三の年に人を斬り始め、その上﨟までに三百八十餘人の人を斬りましたので、夜討強盗を身についたのうと心得ていましたが、宿執因果の積り積ったせいでしょうか、今お話のあった年の、何でも十月頃からでしたか、盗みをしても一向にうまい仕事がなく、山賊をしても獲物がなく、今度こそはと思ってかゝっても見込みが外れることばかり。そのためにたいへん難渋しまして、朝夕のけぶりも立てかね、妻子の者もみじめなざまになりましたので、自然面白くないものですから、十一月頃からふっゝり家に寄りつかず、此処や彼処のお堂のひさし、社の拝殿の床下などに夜を明かしては日を送っていたのでした。そうするうちに、或る晩のこと、あまり久しくなりましたから、さすがに家が案ぜられて帰って来てみますと、妻なる女が袂をとらえてさめ〴〵と泣きながら云いますのに、そなたは何と云う恨めしい人だ、つれない人だ、夫婦の仲がうまく行かないのは世にありがちのことだから、そうならそうで私もあきらめようがある、もう縁がつき、心が変ったと云うのだったら、なんと慕い悲しんだところで無駄でしょうから、どうぞ直ぐにも暇をください、こうして女の身一つで捨てゝおかれてはとても佗びしくてたまりませんし、それに、正月も近くなるのに、幼い者どもを何とか扶持してやらなければなりません、そなたは所領があるのでもなければ、あきないも、農作もなさらず、たゞ一圓に人の物を取っていらしったのが、今はそれさえも叶わなくなったのに、子供の行末も考えては下さらず、家を外にしていらっしゃると云うのは、きっと私が厭になったからなのでしょう、それも仕方がありませんけれども、子供のかつえ死ぬのをほうって置く法がありましょうか、此の二三日は家じゅうの重宝も盡きてしまい、あの幼い者どもがひもじいと云って泣くのを見ては、どんなに辛い悲しい思いをすることかと、さま〴〵に掻き口説きますので、いや、私だって御前ごぜたちを疎んじるのではないが、前世の因果が報いて来たのか、今度こそはと見込みをつけて懸かる仕事がみんな外れてしまうものだから、何がな目ぼしい獲物はないかと此のあいだじゅうから外を漁って歩いたゝめに、つい家を留守にしてしまったのだ、それでもお前たちの顔を見たいと思えばこそこうして戻って来たではないか、何もやきもきすることはない、安心して待っているがよい、きょうあすにも必ず吉左右を聞かしてやるからと、そう云って妻をなだめて、心のうちでは、今宵はどんなことがあってものがすものかと覚悟をきめながら、日の暮れるのを待っていました。すると、やがて寺々の鐘が鳴り、たそがれごろになりましたので、いつもの車と太刀を持って出て、とある古い築地ついじのかげに身をひそめ、いかなる張良韓信が来ようともたゞ一と討ちと手に汗を握ってうかゞっていますと、程なくそこへ塵取ちりとり(註、屋根のなき輿こしの一種也)が一梃通りかゝって、若い者たちが、がや〳〵しゃべりながら来ましたけれども、そんなものは仕様がないのでやり過しました。それから又暫くたって一丁ばかり上の方から、何とも云えないこうくんじて来ましたので、さあ、今度こそは餘程の人が来ると見える、我が身の運も盡きないのだと思って、その時の嬉しさと云ったら、ぞく〳〵しながら待ち構えていましたら、それがあたりもかゞやく程の上﨟の、きら〳〵しいきぬをさや〳〵と鳴らして通るのではありませんか。召使いの女を二人つれて、一人を先に立て、一人を後に、上刺袋うわざしぶくろを持たせて、私のいるのを見ないようにして通り過ぎようとなさるのを、わざとやり過しておいてから跡を追いかけますと、前に立っていた女房はあれと云ったなり忽ち姿が見えなくなり、後にいたのも袋を捨てゝ、助けてくれと云うより早く逃げ失せてしまいましたけれども、その上﨟は別に騒がれるけしきもなく、声もたてずにいらっしゃるので、太刀をはきそばめて詰め寄って行き、なさけ容赦もなく衣裳を剥ぎ取って、しまいに肌小袖を取ろうとしました時でした。まあ、なんとする、肌小袖ばかりは女の耻だから許して下さい、その代り此れを上げますからと仰っしゃって、おん守りを取って投げ出されましたが、無道の者の悲しさには、なか〳〵それを聴き入れようとも思いませなんだ。いゝえ、これだけでは叶いませぬ、是非ともおん肌小袖を戴かせて下さいまし、と、そう云いますと、肌着を脱がされては生きていられぬ、そのくらいならいっそ命を取ってほしいと云う仰せに、よろしゅうございます、それこそ望むところですとお答え申して、たゞ一刀に刺し殺して、血を附けてはなりませんから慌てゝ小袖を剥ぎ取りました。それからほっと一と息して、さっき召使いが捨てゝ行った袋を拾って、やれ〳〵、これだけあったら女子供もさぞかしよろこぶことだろうと独りごとを云いながら、急いで我が家へ立ち帰って表の戸をたゝきますと、こんなに早く戻って来たのは今夜も仕事がなかったんですかと、中から妻が叱言を云いますので、なんでもよいから戸を開けろと申して袋を内へ投げ込んでやりましたら、おや、いつの間に稼いだんですと云い〳〵、袋の口をあけるのももどかしく連鎖つがり組緒くみおを引きちぎったところが、それは〳〵おびたゞしい異香が熏じて、出て来たのは十二単衣ひとえの御装束なのです。こうかりょくようのおん、くれないの袴、その一つ〳〵に満ち〳〵ている匂いと云うものは、小路を行く人もあやしんで立ち止り、隣りあたりの家までも花のようにかおったくらいで、女子供の喜びかたと云ったら、申すまでもありません。妻は勿体なくも、おん肌着などゝ云うものを見るのは生れてこのかた始めてゞすから、これほどの装束を召していらっしゃる方だったら、年もお若かったでしょう、いくつぐらいに見えましたかと尋ねますので、やはり女は女同士、私のような者の妻でもやさしい心根はあるものよと思って、夜目に見たのだからはっきりしないが、よもやまだ二十二三にはおなりになるまい、十八九ぐらいなかただったと申しますと、きっとそうですねと云ったなり物をも云わず飛び出して行くのです。何の用事で出かけたのかしら、と、そう思っていましたら、程へて帰って来まして、まあ、呆れた、そなたは大名の気でいるのですか、とても罪を作る程なら少しでもとくのあるようにと心がけて下さればよいものを、わたしは現在屍骸の傍へ行って髪を切り取って来たのです、こんなにふさ〳〵しているからかつら(註、こゝに云う鬘はかもじのこと)にひねったらどんなに見事になるでしょう、常日頃つねひごろから髪がうすくって困っていましたのに、ほんとうによいものが手に入りました、小袖どころではありませんと云って、茶碗に湯をうめてその髪に振りそゝぎ、竿にかけて乾したりして、踊り跳ねてうれしがるのでした。私はその女の有様をつく〴〵と見るにつけ、あゝ、浅ましい、前世に佛法の結縁けちえんがあればこそ人とも生れたのだろうが、たま〳〵人間を受けた時に佛の道を修行して善人とまではならなくとも、せめて世の中のなさけをでも知っていることか、こんな大悪人になって、夜晝よるひる思うことは人を殺し物を盗むたくみより外にはなく、ついには因果が廻って来て無間地獄へ堕ちるのは分っているのに、悪業を作っては露の命をつなぎ、夢を夢とも知らないと云うのは我が身ながらあいそが盡きる。そればかりでなく、妻なる女の心の中の無慈悲なことはどうであろう、こう云う女と枕を並べて契っていたかと思えば返す〴〵も口惜くちおしい、どれほど恐ろしい女の料簡かと気がつきましたら、あゝ、飛んだことをしてしまった、何しにあの上﨟を殺したのか、お痛わしいことをしたものだと、消えも入りたい心地でしたが、いや〳〵、たゞ歎いている場合ではない、これを菩提の善知識として髻を切り、あの上﨟のおん跡を弔おう、そして我が身の菩提をも願おうと、急に決心がつきましたので、その夜のうちに一条北小路へ行きまして玄惠法印げんえほういんの御弟子になり、名を玄竹と附けていたゞいて、間もなく此の御山へ上ったと云う訳なのです。

───さあ、一分始終は只今申し上げた通りですが、その僧ははんかいの方を向いて、さぞ無念に思し召すでしょう、いかようにも愚僧を殺して下さいまし、身をずた〳〵に斬って下すっても更にお恨みとは思いませぬ、たゞし愚僧をお斬りになったら、あの上﨟のおん為めには却って業因ごういんをお作りになるようなものかと思います、命が惜しくてかようなことを申すのではないことは、三宝も御覧になっていらっしゃるでしょう、兎に角申し上げてしまったからには、どうなりともお計らいにお任せします、と、そう云って衣の袖をしぼるのであった。その時糟屋の入道が云うのに、たとい尋常の発心であっても互にこう云う姿になって何の憎しみがありましょう、ましてあの人故の御発心と聞きましては、殊更おなつかしい気がいたします、今こそ思いあたりましたが、あの人は菩薩の化身けしんなのです、あゝ云う女人の姿に顕われて無縁のわれらを救って下さる大慈大悲の御方便かと思いましたら、ひとしおあの頃のことが忘れがたく覚えます、あんなことでもなかったらどうして私たちは浮世をいとい、無為の楽しみを享けるのは憂いの中のよろこびであると云う道理を悟ることが出来ましょう、今日より後はきっと御同心いたします、返す〴〵も嬉しゅう存じます、と、これもそう云って墨染の袖を濡らすのであった。

さてもう一人の僧を促して、発心ほっしんの由来を承りたいと云うと、やはり年老いた入道で、衣の破れたのに七条の袈裟けさをかけて看経かんきんしていたが、道行どうぎょうに痩せて顔の色は黒く、哀れなさまをしているものゝ、さすがに由緒ある人の果てなのであろう、まことの道者どうしゃらしい風采で、こくり〳〵居眠りをしていたのを、「今度はあなたにお願いします」と云って揺り起して責めると、かた〴〵の御発心の模様を伺いますのに、何とも申しようもありませぬ、前世の宿執かと思われます、私の遁世はそれ程の仔細がある訳ではなく、お話し申しても格別面白くもありませんが、二人のかたがお話しになったのに私一人が申し上げないのも失礼ですから、工夫くふうの暇が惜しいと思いますけれども、委細を聞いて戴きましょうと云いながら、しずかに下のように語り出した。───



わたしは河内の国の生れで、楠の家とは一族になります篠崎掃部助しのざきかもんのすけと申すものゝ一子、六郎左衛門と申すのです。親にあたっておりました者は正成のために随分と重く用いられて一大事の相談にもあずかり、萬事を取りしきっていましたので一門のあいだにも名を知られ、世間にも聞えていましたが、正成が討死しましたときに一所に腹を切りました。そのゝち正行が跡を継いで遺族のものを疎略なくあつかってくれましたから、私どもゝ大切に勤めておりますうち、その正行もやがて討死するようなことになりまして、四条縄手のたゝかいの折には私も一所に討たれましたけれども、どう云う訳か不思議に敵の眼に附かず、首を掻かれなかったので、少しの息の通っていましたのを知っている法師が見つけ出して、或る所へ担いで行って、看病をしてくれましたおかげで、死ぬ筈の命が助かったのです。さてそれから今の楠正儀まさのりが世継ぎをいたし、私の親をまさしげが扱ってくれたと同じように大事に扱ってくれまして、互に頼みに思いながら暮していましたが、世間の噂では、その正儀が足利殿へ降参をするとか、するらしいとか申しますので、以ての外のことだと思い、これ〳〵の噂がありますけれども、まさかほんとうではないのでしょうね、それともそう云うお考えがあるのですかと、楠に逢って尋ねますと、あまりにおかみのなされかたが恨めしいと思うことがある、それで実はそんな考えにもなったのだと申すのです。わたしはその言葉をきゝまして、君をお恨み申すのなら我が身を捨てゝ遁世なすったらよいでしょう、そうしてこそお恨みと云うことも道理にきこえますけれども、足利殿へ出仕をされて朝廷へ弓をお引きになるのでは、君の御運がお盡きになったのをお見限り申したのだ、身を立てるために降参をしたのだと世間の人は申すでしょうから、ゆめ〳〵そんなお考えは思い止まって下さい、いったい此れ程のことをおきめになるのだったら、お役に立たない迄も私と云う者がおりますのに、何のお話もなかったではありませんかと云いますと、それはそうだが、御分ごぶんに話したらどうせ気に入るまいと思って隠していたと申されますので、さあ、そこのことです、私に気に入らないことがお分りになるなら、諸人の嘲りと云うことにも気がおつきになるでしょう、一代ならず宮方のおんために討死をして名を後代に揚げようとはなさらず、御分ごぶんだいになって未練のふるまいをなさると云うのは、くちおしいではありませんか、ぜんたい何のお恨みがあると云うのです、今の拝領をどなたの御恩だとお思いになります、君、君たらずとも、臣を以て臣たりと云う古の人の言葉もあります、どうぞ考え直して下さいと云いましたけれども、その後とう〳〵上洛をされて、東寺で管領に対面されたと聞きましたので、もうこうなっては君の御運も盡きたのだ、私一人の力でははか〴〵しい働きも出来ないし、そうかと云って一所に降参をする気にもなれないし、これこそ善知識だと思って、その折遁世してしまいました。

それから河内の国篠崎の故郷ふるさとをあとに立ち出でましたとき、三つになります女の子一人と、男の子一人と、都合二人の子に、妻なる女がおりましたのを振り切って出ました折の心地は、さすがに多年のよしみと申し、名残おしさはどれほどか知れませんでしたけれども、きれいさっぱり世を捨てるのだと思いきわめて、やがて関東へと修行をこゝろざし、松島の寺に三年おりまして、次には北国を廻りましたが、とても、自分のような半出家の者は国々を歩いてどのようなとうとい知識にも逢い、結縁けちえんをも願い、そのあいだには名所舊跡を見て胸のうちを慰めよう、それにまた、どうせいつまでながらえられる憂き世の中ではないのだから、歩き倒れて死ぬところまで行ってみようと決心しまして、西国をさして上りますうちに、不思議な縁で河内の国を通りましたので、今頃ふるさとの篠崎はどんな有様になったであろうと、昔のやかたの堀のほとりへ立ち寄ってうかゞってみますと、築地ついじはあっても屋根は崩れておりますし、門はあっても扉ははずれておりますし、庭には草が深く繁って、家と云う家はあとかたもなく壊れてしまい、わずかにあやしい賤の庵が二つ三つ残っているだけで、それさえ雨風をしのげそうにも見えないのです。私はそゞろに眼もあてられない思いがして、涙を流して通り過ぎようとしましたが、ふとそのあたりにいやしい身なりをした一人のじょうが田を打っていますのを見て、これに聞いたら以前のことを知っているだろう、尋ねてみようと思いまして、もし、じょうどのよ、こゝは何と云う所ですかときゝますと、尉は着ていた日笠をぬいで、篠崎と申す所ですと答えるのです。では何と云う方の御領分ですかと、かさねてきゝますと、篠崎殿の御領分ですと云いますから、さては私の一族のことを知っているなと思いましたので、田のくろに腰を休めて、それとなく話しかけましたところが、尉も鍬を杖につきながら、こゝの御領分を持っていらしったお方と云うのは、もとは篠崎掃部助どのと申して何事にも人にすぐれていらしって、楠殿も大切に思し召し、御一族のうちでも取り分け頼みになすっていらしったのですが、その御子息の六郎左衛門どのと云うお方の代に、楠どのが京方へ降参なすったのをお恨みになって遁世なされたぎり、何処へおいでになったのやら今におん行くえも分りませぬ、当時は北国にいらっしゃるとも聞きますし、御他界なされたとも云いますけれども、これと申すたしかな便りがあった訳ではないのです、と、そう云って涙をながしますので、私も涙をおさえながら、そしておん身は身内の人ですか、それとも御領分の人ですかと云いますと、此の尉は年頃御領分の中に住んで百姓をしております者です、六郎左衛門殿が御遁世なされてからは、当所は荒れて、宮仕えをする者が一人もなくなってしまいましたから、わたくしなぞは数へも入らぬ詰らぬ身分ではありますけれども、御台みだいや御公達のおんありさまを拝みますにつけ、あまりおいたわしゅう存じますので、自分の仕事を打ち捨てゝ、此の五六年のあいだ御奉公をいたしております、六郎左衛門殿の御遁世の折、三つになっていらしった姫君や幼い若君を振り捨てゝお出ましになったので、二人のお子を、母御がとかく苦労をなすってお育てになっていらっしゃいましたが、此の上﨟さまもあかぬ別れの思いをなすって、そのおん歎きが積ったせいでもありましょうか、とう〳〵病人におなりになり、去年の春ごろからおわずらいになって此の程じゅうは食事を絶やしていらしったのが、あえなく御他界なされてから今日で三日になるのです、それにつけても御公達のおん悲しみはどれほどでしょうか、はたで見ておりますわたくしでさえ眼もくれ心も消えるばかりに思われます、あれ、あすこを御覧なさいまし、あれに見えるあの松の下にお埋め申してあるのですが、おさない方々かた〴〵は毎日お二人して泣く〳〵荼毘所だびしょへお参りになります、きょうもお供をいたしましょうと申しましたら、いや、きょうは供をしてくれずともよいと仰っしゃいましたので、こうして人なみに田を打っておりますものゝ、これとてもわたくしの身のためではありませぬ、御公達のおん行末を考えましたら、おいたわしくてなりませんので、あの方々のお世過ぎのために田を打っております、そんな訳で此の尉の事をお打ちお打ちとお呼びになって、お打ちでなければ夜も日も明けぬように頼りになさるものですから、わたくしもどんなに有難く勿体なく思っておりますことか、今日もお帰りがおそいのを案じてあの松の方ばかり見守っていますので、田を打つことも一向に身にしみませぬ、と、そう云ってさめ〴〵と泣くのでした。わたしはあまり不便ふびんに思い、こう云う賤しい男でもこれほどのなさけは知っているものを、自分は何と云う邪慳なことをしたのだろう、この私こそその六郎左衛門入道なのだと名のってやろうかと思いましたが、いや〳〵それでは長の年月としつきの修行が無駄になってしまうと考え直して、まあ、ほんとうに有難い事です、何処の世界に尉殿のような志の人があるでしょう、あゝ、お気の毒な、世の中にこんな哀れなことがあるでしょうか、そのいとけない人たちのおん歎きを思いやっては、何とも申しようもありませぬ、愚僧も実はそれほどの事迄はありませんけれども、それによく似た思いをしたことがあるのです、何より頑是ない人の父や母におくれたのほど悲しいものはありませぬと申して、ころもの袖を顔にあてゝ泣きますと、さてはお僧も昔そう云う思いをなさいましたのですかと、一所になって声も惜しまず泣くのです。暫くたってから私は、尉どのよ、此れから後もきっと見放さないようになさいよ、どんなに父御てゝごや母御が草葉の蔭でうれしく思っていらっしゃるか知れない、いずれは尉殿の子息に報いて来て、末は必ずめでたいことがあるに違いありませぬ、かえす〴〵もそのおさない人達をいとおしんで上げたら、佛神三宝も尉殿をお守りになるでしょう、ではもう日も暮れますから、これでお暇しますと云って、立って行きますと、はる〴〵と送って来て、ねんごろに語りつゞけたりしまして、何につけても泣いてばかりいますので、私も涙をせきあえずに、尉どのよ、もうよいほどに帰って下さいと申したら、よう〳〵戻って行くのでした。それから少し歩いてみますと、成る程とある松の木の下に人を荼毘した所がありますので、じっとこらえて一旦は通り過ぎましたものゝ、又心を返して思いますのに、発心をして家を出た時こそ妻子を振り捨てゝ行ったけれども、今は死んでから三日にあたっている、その荼毘所を見ながら行き過ぎてしまうと云うのは無道ではないか、知らなければ仕方がないが、たま〳〵法師の身となって通りかゝったのに、陀羅尼だらにの一遍も回向えこうしないのは邪慳と云うものだ、その上佛の利益りやくにも背き、亡者の恨みもあるであろう、これは帰った方がよいと悟って、戻って来て見ましたら、木かげに二人の幼い者がうずくまっているではありませんか。あれこそ我が子よと思いながら、上﨟たちはどうしてこんな所にいらっしゃるのですかと尋ねますと、その返事はしないで、あゝ嬉しいこと、今日はお母さまがお亡くなりになって三日目になるものですから、今わたしたちはこゝでお骨を拾っていましたら、ちょうど折よく御僧がお通りになったのです、ほんとうに嬉しゅうございます、恐れながら、お経を遊ばして下さいますなら御利益でございますがと、掻き口説きますので、その時の思いはさらに夢ともうつゝとも、たとえようもありませなんだが、からくも気を取り直してその幼い者たちをつく〴〵と見ますのに、姉は九つ、弟は六つになっていまして、さすがに下﨟の子供には似ず、すがたかたちもいたいけなさまをしております。親子恩愛の道ですから、すぐにも抱きついて父よと名のろうと思う心は百たび千たびも起りましたけれども、いや〳〵、そんな弱いことでは今までの難行苦行が無になってしまい、佛道に入ることも出来なくなろうと、怺えていましたつらさを、どうぞ思いやって下さいまし。さて子供たちのすることを見ていましたら、玉の手箱の蓋の方を姉が持ち、懸子かけごの方を弟が持って、誰が教えたのか、竹と木の箸で骨を拾っております様子に、なおさら言葉のかけようもなくてたゞ泣かされてしまいましたが、はる〴〵時がたってから、上﨟たちはまだ幼くていらっしゃるのに御自分たちで骨を拾っておいでになるのは、大人のかたがいらっしゃらないのですかと云いますと、わたしたちのお父さまは遁世をなされてお行くえが分らず、そのゝちは下男のじいやが一人で世話をしてくれるのですけれど、今日は供にも連れて参りませんでしたと云って、それきりあとは物をも云わずに涙を咽んでいるのです。わたしは陀羅尼を読もうにも声さえ出ず、なまじ故郷ふるさとへ立ち寄ったのがくやしくなって我が身を恨めしく思いましたが、そうしていましては果てしがないので、よう〳〵読み終った時でした。時雨がさっと降って来まして、木の葉の露が涙のように落ちましたのを、姉が見ながら、わらわに物を教えて下すった方と云うのは京のお人で、つね〴〵申されましたのには、和歌の道はどんな恐ろしい鬼神をも和げ、なさけに疎い人をも動かし、佛も受納して下さる、女の身として和歌のたしなみがなかったら浅ましいことだと仰っしゃいましたので、わらわも七つになりました歳から、型のような文字を連ねます、それで只今も此のようなのを一首思いつきましたと云って、

草木までわれを哀れとおもひてや

   涙に似たるつゆを見すらん

と、口ずさむではありませんか。それを聞いては強い覚悟も失せ果てゝ、露霜ならばとうに消えてもしまいそうな心地がしまして、もう〳〵今は包み隠していられようか、私こそはそなたの父の六郎左衛門入道だよと云おうとしたものゝ、なか〳〵、此処が大事なところだ、折角年ごろ思い立って世を捨てた身の、今日と云う今日、子と云う首枷くびかせを担ってなるものか、そんな料簡を起すと云うのは腑甲斐ないにも程があると、自分で自分の心を耻じしめて、それから申しますようは、よくもお詠みになりました、まことにお道理至極の歌です、神や佛もさぞかし哀れと思し召すでしょうし、お父さまやお母さまも草葉のかげでどんなに感心なさるでしょう、わたくしのような卑しいものでも涙がとめどなく誘われて来るくらいですから、やがて心ある人がお聞きになってお胸の中を思いやらずにおりましょうか、只今此処を通り合わせてこんなお痛わしいところを見ますのも、思えばさきの世の約束かも知れませぬ、それにつけてもお別れしにくう存じますけれど、いっそお暇申しますと云って立ち上りますと、仰っしゃる通り、一樹の蔭に宿りますのも、一河の流れを酌みますのも、皆他生の縁と聞いております、又いつの世にお目にかゝることが出来ましょうやら、かえす〴〵もお名残惜しゅう存じます。殊更お経を遊ばして下さいましたのは何とお礼を申してよいか言葉にも盡されませぬと、姉がそう云って袂を顔に押しあてゝ泣きますので、弟の方も、まだ聞き分ける歳頃ではないのですが、姉に取りすがって身もだえしながら泣くのです。その時ひとしお心も消え、眼もあてられない思いがしましたのを、これしきの事は腹を切るのも同じことだと観念しまして、歩き出しますと、いつ迄も此方を見送っております様子に、私の方でも振り返り〳〵行きましたところが、子供は母の骨を箱の蓋に入れて、それを持ったまゝ我が家の方へは帰ろうとせずに違った方角へ行くものですから、又気にかゝって戻って来まして、そなたゝちは何処へおいでになるのですと聞いてみましたら、これからほうにん寺と申す御寺へ参ります、そこの御寺に都から尊い上人がお下りになっていらしって、七日の御説法がありまして、今日はもう五日になります、みんながお詣りに行きますから、わたくしたちもお詣りをして、御聴聞申し、此のお骨を納めようと存じます、と、そう云いますので、さても〳〵、幼いのによくお気が附かれます、母御が彼の世でどれほどおよろこびになるでしょう、そしてほうにん寺と申すのは此処からどのくらいあるのですか。どのくらいあるのか、まだ行ったことはありませんが、大勢の人のあとについて参ろうと思います。それならどうしてお供の人を連れておいでにならないのです、あまり無用心ではありませぬか、明日あすでもじいやをお連れになってお詣りなさったらよろしいのにと云いますと、姉が答えて、此のあいだじいやに連れて行っておくれと申しましたら、いとけない方がそんなことをなさらずともようございますと叱られましたものですから、今日までお詣りが出来ませんでしたと云いますので、そう云う訳ならわたくしがおともない申しましょう、そして上人をも拝み、結縁をも願いましょうと、一所について行きますと、その道すがらも姉はいろ〳〵と物語りしまして、お父さまが生きていらっしゃればちょうど御僧と同じお年頃なのですが、どう云う罪の報いであろうか、浅ましいことに、お父さまには生きながら別れ、お母さまには死に別れてしまいました、せめてもう少し成人してからのことならば、おん面影が身に添うて淋しい時の心の友になりましたろうに、恨めしいお父さまのなされ方ですと、又しても泣きながら口説きますのを、弟が聞いて、お父さまは佛におなりなさったのだといつもお母さまが仰っしゃったではありませんか、そんなにお泣きになるものではありませんと、いじらしいことを申しますものですから、それを聞かされる私の心は後先あとさきも分らぬ闇にとざゝれ、行く手の道も眼に見えぬような気がしました。そのうちにだん〳〵御寺が近くなりますと、なるほど大勢の参詣人が後から〳〵とつゞいて来るのです。それと申すのは、何でもその御寺は聖徳太子の御建立で元弘建武の動乱の折に所領も何も失ってしまい、お堂もすたれていましたのを、今度楠の世になりまして所領を元の通りに返し、破れたお堂を修理した上に、京都から妙法上人に来ていたゞいて供養をすることになりましたので、その噂を聞き伝えて諸所方々から集って来る貴賤の人が袖をつらね、道俗男女が市をなすばかり。御寺の境内は申す迄もなく、近所の木の下かやの下までもおびたゞしい人数が充ちあふれて、輿、ちりとり、鞍を置いた馬などが幾千萬と云う数を知らず、凡そ其の日の群衆と云ったら、此のあたりの三箇国の人々が寄って来たのだと申すことでした。そう云う混雑の折柄ですから容易に子供たちは中へ這入れそうにもありませんので、どうするだろうと見ておりますと、お頼み申します、これは上人にお目にかゝりに参った者ですと、声をかけながら人ごみの間を押し分けて進んで行くのですが、諸神諸佛も憐れみを垂れて下さるのか、不思議なことに、その子供たちの通るところは自然と人波が左右に分れて道を開いて行くのです。それからなおも見ていましたら、二三人ばかり人を隔てたあたり迄来まして、姉が手箱の蓋を、上人の御前にさしおいて、三度礼をして、掌を合わせてうずくまりますのを、上人はしげ〳〵と御覧になって、そこにおいでの幼い人は何処のお方ですかとお尋ねになります。はい、これは楠の一門の、篠崎六郎左衛門の子供でございますが、父になります者は、わらわが三歳の時、楠殿と仲違いをしまして、世を遁れて、今に行くえが知れないのでございます、此の程はお母さま一人に添いながら、浮世を明かし暮らしておりましたのに、有為無常のならいの悲しさは、そのお母さまにさえ先立たれて、今日で最早や三日になります、お骨を拾う人もございませんものですから、弟と二人で拾いまして、此の箱の中に入れましたけれど、何処へお納めしてよいのやら分りませんから、上人にお願い申そうために此れまで持って参りました、どうぞいかなる所へでもお納めなされて、お母さまが早く浄土へ行かれますように回向をなされて下さいましたら、ひとえに御利益に存じます、と、そう述べる言葉を黙って聞いていらしって、暫く上人は物も仰せられずに、限りなく御落涙なされるので、聴聞の人までが、遠くにいる者も近くにいる者も、一度に袖を濡らすのでした。すると姉はまた袂から一つの巻物を取り出して御前へ置きます。それを上人がお取り上げになって声高らかにお読みになります。その文句に耳を傾けていますと、それ人間のさかいを聞けば、閻浮えんぶの衆生は命不定みょうふじょうなりとは申せども、成人するまで親に添う人の子多く候ものを、如何なる宿執の報いに依って、我等三歳の時父には生きての別れ、母には死しての別れとなりぬらん、今は早や頼む方なくなり果てゝ迷いの心は晴るゝ日もなく、思いの煙は胸を焦がし、悲しみの涙乾く間もなし、我が身のようなる人しあらば、憂いの道を語り慰むすべもあるべきに、まどろむ隙もなき程に夢にだにも逢い奉らず、身に添うものはあるかなきかのかげろうばかり、僅か三日を過したるだに思いは千年萬年を暮らすに似たり、ましてや行く末の悲しきことはいかばかりぞや、露の命、幾秋をか保つべきとも覚え候わず、かように孤児となり果てんよりは、たゞ願わくは、我等二人をあわれみ給い母諸共に一つ蓮のうてなに迎え給え、と、そう書いてある後に、こざかしくも年号や日附までも記して、奥に下のような歌が添えてあるのです。

見るたびに涙ぞまさる玉手箱

   ふたおや共になしと思へば

玉手箱蓋と懸子かけごの黒髪を

   いふ方もなき身をいかゞせん

これを上人は読みも終らずに、衣の袖を顔に押しあてゝお泣きになりました。道場の内に一杯になっている聴衆が、貴賤、上下、道俗、男女の分ちなく、袂を絞らない者はありませんでした。これを聞いたり、見たりしまして、その場で髻を切って刀と一所に御前へ差出して、早速御弟子になる者もあります。そうかと思うと、又此方では一人の女性にょしょうが笠の下から髪を切って、上人に参らせて発心をする者もあります。その外われも〳〵と遁世をする人の数はどのくらいあったことでしょうか。その時の私の胸の中はたゞもう察していたゞくより外はありませぬ。折角こゝまで来たものですから御説法をも聴聞したいのは山々でしたが、こうしていては今にきずなに繋がれる、これはあぶないところだと、はっと気がつきますと眼をつぶって心を鬼にして、合戦のにわに千騎萬騎の中へ斬り入り一命を捨てるのもこんなではないかと思いながら、急いでそこを立ち去った其の折の覚悟の程と申すものは、六年前に始めて篠崎を出ましたよりももっと一生懸命でした。それからはる〴〵と逃げて来まして、とある木の下に休みながら考えましたのは、座禅をしても悟を開くのはなか〳〵むずかしい、所詮高野山は弘法大師の入定なされた所だし、諸佛群集の霊地だから、あの御山に勝る所は此の世にあるまい、これはあの御山へ上るに限る、そして奥の院のほとりにでも柴の庵を結んで一大事の修行をしようと、そう思案を定めまして、その心をたよりに此の御山へ参りましたが、そのゝちは更に他念がなく、我をも知らず、人をも知らず、まして故郷ふるさとの事をも知らず、寝ても覚めても念佛三まいに月日を送っていましたので、あなたがたにお目にかゝるのも今日が始めてのような訳なのです。そう云えば今年の春のころ、河内の国から此の御山へ参った人がうわさをするのを聞きましたら、子供たちの身の上を楠が知って不便ふびんに思い、あの時六つになっていました男の子を取り立てゝ、篠崎の跡を継がせるそうです。姉の方は比丘尼になったと申しますから、これも心安うございます。

───二人の僧は此の話を聞いて、まことに有難い御発心です、殊勝に存じますと云って貰い泣きをしたが、互に法名を名のり合って見ると、今の僧は玄梅と云い、樊噲入道はげん松と云い、荒五郎入道はげん竹と云うのである。そこで三人は一同に手を打って云った、これは不思議な御縁です、三人ながら名前の上に玄の字の附いている修行者なのです、のみならず下の字までが松、竹、梅になっています。そうしてみるとわたしたちは今の世ばかりの契りではなかったのでしょう、たとい同じ知識から名前を授けていたゞいてもこう云うことはめったにありませぬ、ほんとうに珍しい運り合わせではありませんか、長いあいだ此の山にいながら、そうとも知らずに過していたのはくちおしゅう存じます、これから後は心を一つに持ちたいものです。樊噲どのも、あの女房に逢われなかったら、どうして発心なさることが出来ましたか、いずれも〳〵色こそ変れ思いも寄らないはずみから道心を催すのです、あながちに悪をも嫌ってはなりませぬ、悪は善の裏なのです、恋をも厭ってはなりませぬ、恋は心の細かいところから起るのです、かの一大事は心の細かい人でなければ思い立つことは叶いませぬ、と、そう云って語り合うのであった。

底本:「聞書抄」中公文庫、中央公論新社

   1984(昭和59)年710日初版発行

   2005(平成17)年925日改版発行

底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十二巻」中央公論社

   1982(昭和57)年425

初出:「中央公論」

   1929(昭和4)年10月号~11月号

※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。

入力:kompass

校正:酒井裕二

2016年34日作成

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