白南風
北原白秋





 白南風は送梅の風なり。白光にして雲霧昂騰し、時によりて些か小雨を雑ゆ。鬱すれども而も既に輝き、陰湿漸くに霽れて、愈〻に孟夏の青空を望む。その薫蒸するところ暑く、その蕩揺するところ、日に新にして流る。かの白栄と言ひ、白映と作すところのもの是也。蓋し又、此の白映の候に中りて、茲に我が歌興の煙霞と籠るところ多きを以て、採つて題名とす。もとより本集の歌品秋冬に尠く、春夏に多きもその故なり。


 我が短歌に念持するところのもの、即ち古来の定型にして、他奇なし。ただ僅かに我が歌調を這箇の中に築かむとするのみ。その自然の観照に於ては、必ずしも名山大沢に之を索めず、居に従ひて選ぶ平々凡々の四囲に過ぎず。又、その生活感情の本とするところに於て、あながちに一時の世相に関せず、社会機構とも強ひて連工する無し。而も又、孤高を潔しとし、流行を斥くるにもあらず。ただ専ら短歌を短歌とし、自然を自然とし、我を亦我とするのみ。本分は我自ら知るべきなり。


 惟ふに風騒いやしくもすべからず。かの光明に参じ、虚実交〻にして荘厳の秘密を識る、畢竟は此の我を観、我を識るなり。一なる生命の根源に貫徹すべきのみ。乃ち、心地清明にして万象おのづからに透映し、品格整斉して気韻おのづからに生動せむ。純情にして簡朴なる、幽玄にして富贍なる、情意臻つて詞華之に順じ、境涯極に入つて象徴の香気一に鐘る。一首は遂に一首にして亦生死の道なり。質実にして強靱ならされば得べからず。


 又、惟ふに、神工にして成るものは稀なり。我が如きは、ただに玄微に玄微を捜ね、一音に一音を積み、而も鈍根にして未だ全く達するところを知らず。ただ好むところに殉じ、時に随ひて行ふのみ。苦楽もと一なり。霊感は安易にして俟つべきにあらず。ただ日常にありて忘れざるべきを思ふ。精錬の道にして、初めて成就すべき業ならむか。恭謙ならざれば到り難し。

『白南風』一巻、もとより屑々の歌集にして、何らの気に負ふべきものなし。日光・月色・風塵・草卉・魚・鳥の諸相、季節と生活、単にただ一々の歌品を以て、偶ま同好にして渾厚の士の清鑒に供へむとするのみ。言説すべきにあらず。


昭和九年四月
砧村の雲と鉄塔の下にて
白秋識

天王寺墓畔吟

大正十五年の、谷中天王寺墓畔に於ける生活に由る。新旧作合せて、短歌二百五拾弐首、長歌一篇。墓畔吟なれども必ずしも哀傷せず、世は楽しければなり。

・朴はひらく


新居


移り来てまだ住みつかず白藤のこの垂り房もみじかかりけり


厨戸くりやどのとのもの小米花こごめけにけりころも干したり子らがさごろも


春昼


春まひる真正面まともの塔の照りしらむ廻縁ゆか高うしてしづかなる土


あららぎや五重の端反はぞりうつくしき春昼しゆんちうにしてうかぶ白雲


珠数工


音きざむ珠数屋が窻の板びさし椎の古葉ふるはのつみて久しき


春まひる隣に聴きてひそけさよ珠数みがく子らが息吹いぶきためつつ


木蘭もくれんは花の立枝たちえの影濃くておもてにほへりいちじろき照り


木蘭もくれんの花立ちひらく春日すらひめもすや人のたま磨きする


さしなみの隣につづる珠の緒のうつつなりけに春はかそけさ


墓地前


春過ぎて夏来にけりとおもほゆる大藤棚おほふぢだなのながき藤浪


墓地前は石屋が軒をうづみてし白雲木はくうんぼくの花もをはりぬ


鷺・鶴・珠鶏


動物園所見



白鷺はくちばしくろしうつぶくとうしろしみみにそよぐ冠毛かむりげ


まきもやや光る葉がひをちて青鷺の群のなにかけうとさ



鶴の巣と松の根方に敷く藁は今朝けささやさやしあら麦稈むぎから


松の花あかる日竝ひなみを巣に群れて丹頂の雛は早やあらはなり


珠鶏


脊に負ひて霰小紋のもろつばさほろほろてうは声ふくむとり


珠鶏たまどりの瘤赤し片寄りにみな横向くとただほろほろに


ほろほろと啼く珠鶏たまどりのこゑきけば夕日ごもりになりにたらしも


夕かげの砂掻きあますくくみごゑほろほろてうの連れうごき来る


門庭


前廂ふかきこの家を門庭かどにはは日の照りあかり若葉かへるで


石のつま湿しめらふ見れば藍微塵まゆみの花のちりて時あり


内庭


若葉して日射明れどこの空や朝よりすすのきらひふりつつ


根府川石ねぶかはやいまは日ざしも夏まけて板屋かへでの若葉映ろふ


いはにむらがる羽蟻音立てては時ちし春蘭しゆんらんの花


庭石にささとむらがるひとときはやはき羽蟻もいきほひにけり


うちあがり羽蟻かがよふ若葉木の暮合くれあひの空をいつくしみをる


門前


靄ごめに萠えてうづまくむらわかば墓地のそらこそ照りあかりたれ


日はすでに照りかがやかし若葉木や東に塔のつまぞりたる


墓地の扇骨木


瑞若葉みづわかばあけ扇骨木かなめは日の照りを躑躅まじらひ花かとも見ゆ


かく吹きてうつら添ひる荷かつぎの夕ごゑながし扇骨木かなめ生垣いけがき


父母と


父と母ゆふ安らけく附かすなり扇骨木かなめもえたつ墓地の霞を


仏にはかかるなぎをとらせこそなどかかなしき光る若葉


若葉陰しみみにまとふ蟆子ぶよの羽の眼にかゆきからわれは掻くなり


椎はもえくすけゆく若葉森この日移りのしづかなれこそ


石のべの躑躅のしべは長けれどえつつ垂りぬ日の光沁み


桐の花曇


義の叔母村上氏、齢七十にも垂んとして、何故にか我が叔父と離別して、今は流浪の身を、この同じ谷中のさる寺に養ふやに伝ふ。ほのかの便なれば、その寺の名すら知るに由なし。幼少の恩愛忘れがたく、暇ある毎にたづねありく。乃ちその歌。


寺おほき山はこの空寺ごとに桐の花咲きて匂ふこの空


花ふかむ桐の木群こむらのとのぐもりこもれる君が空もわかなく


山川とをさなかりける我さへやまさしく老いぬ人は知らずも


とのぐもり紫こもる桐のはな暮合くれあひの空にけふもなりぬる


童と花


朝早やも咲きぬ咲きぬと掻きためて子がかかへ来る花筒の花


たわらはよこは朝かげの花ならず夕かげにはふりみ墓べの花


いづれよし花はすがしよ朝花と咲きも咲かずも露しげき花


新墓


朝なさなめてつつしむ墓の原に新埴土あらはにつちのいろのつゆけさ


あさみどり若葉映らふこの墓やはにのぬめりの何ぞつやめく


我はつゑは曳きつつ新墓あらはかの日にゆるすら朝眼楽しむ


新土あらつちに草の香ながれ風はやし何思ふ我のうつくしみ


朝東風に


朝東風あさこちの吹きひるがへすほほの葉は葉おもてひろくすがしかりけり


吹きはらふ風さきさやにこの朝や靄は霽れゆきて天王寺の塔


この道や朝は葉づたふしづくのしづけかりけり石にひびきて


若葉洩る朝の光は父われの麦稈帽に沁みて子が手に


子を連れて墓地は若葉の日のひかりしみじみと思ふすこやけき息


むなしかり死にしかすけき為すなかり我は世に生きてしじに喜ぶ


吹きちらふ物みな涼し朝東風あさこちや石塔うへの藍微塵あゐみぢんの花


石のべは三角柏みつのがしはの葉ごもりに蚊の声ほそし立ちてゐにけり


よく遇ふ人


くと墓地をとめぐる朝涼は力張るらし草分きにけり


草間くさま来て荒く息づくつらがまへブルドツグはやり手綱張り引く


青春


若葉どき雲形定規かきいだき学生は行く燃ゆるその眼眸まみ


若葉森早や鳴ききほふ春蝉の若やぐ子らは思なけむか


朴はひらく


ほほの花白くむらがる夜明がたひむがしの空にらいはとどろく


ひむがしに群れてかがよふしろき花ほほ喬木たかぎぞ木立してけれ


生けらくは生くるにしかず朴の木も木高こだかく群れて花ひらくなり


現身うつしみは生きて朝間あさまぞすずしけれ愚かなりけり死にてむなしさ


しそのすがしさはかぎりなしほほ木高こだかく白き花群はなむら


鳥声


はととんび雀うぐひす矮雞ちやぼとりこの朝けばいろいろの鳥


朝霧にほろこほろこと啼くこゑはここの御寺みてらの鳩にかもなも

・月光佇立


梅雨前と


日にくろあけ扇骨木かなめ梅雨前つゆまへと刈りそめにけり朝涼夕涼


朴の花落つ


何の木か秀枝ほづえしづもる夜目にしてしろくはさらと落つるその花


短夜みじかよはいまだ暗きに小嵐さあらしほほの木のうれを揺りぬまさしく


下葉うちたたと石うつすがし花ほほの木の花の一夜落ちつつ


墓石にほほ散花ちりばな日を経ればへり朽ちにけり一弁ひとひら一弁ひとひら


直土ひたつちえつつ黄ばむほほの花昼は仔犬が掻きてゐにけり


石のほほ散花ちりばな数ふえて梅雨つゆの日癖の雨期に入りにし


樫の花季


墓原は小雨こさめしめやぐ夜に嗅ぎて吾が堪へがてぬ大葉樫の花


花樫の香に立つきけばけんぽなし若葉ふきあかる山恋ひにけり


姥目樫うばめがしかをす雨夜はつれなくてかしこかりけり墓地を抜けをり


にはずむ樫のぐれは夜ごもりに苦木にがきの花もふけにつらむか


花季はなどきは樫のぐれを行きありく餓鬼もこそをれ真夜ふけにけり


椎かしはむせぶここらの雨夜月あまよづき卵塔はわびし照りもかへさず


動物園近し


樫いとどにほふ真闇となりにけり夜ふけくるひたつとりけもののこゑ


浅宵


声呼ばふ墓地のかかりの夕餉ゆふげどき遊びあかねば子らはかなしも


昼のごと青葉かがよふのおもて墓地のはひりもここだすずしさ


陸橋にく見れば夜靄立ち鶯谷の春もぬめり


電柱の影うちかしぐ夕月夜切通きりどほし上のあらくさのはな


塔のつま月明らけしひらら飛ぶ二つ蝙蝠が金の羽の裏


月夜の墓畔


墓地前の花屋が花のなかあかるみづみづしの月の夜に見ゆ


月夜風しろうはばだつ墓地わきを影はずみ来る母と子らはも


椎若葉けむる月夜のうつつにもとぼす窻か珠数かがりつつ


くまだちて家廂やびさしふかき月の夜もおもての墓地は照りまさりつつ


探海燈夜空薙ぎゆく墓地の森や女のこゑも月に立ち来る


深夜の墓地


うしみつと夜のふけゆけば草木みなにしづむらしまして墓原


月よあはれ立ち蔽ふ雲のいやはてを蛍火のごとも光りけるかなや


我のみや命ありと思ふ人なべて常久とこひさに生くるものにあらなくに


わづかのみあか木膚こはだのさるすべり夜は深うして笑ひけらしも


黒南風くろはえの雲れにけりこの夜ふけ月ほそく光り鷺と鶴のこゑ


梧桐の花落つ


真夜中といよよしづもる夜の空の梧桐あをぎりのはなちりそめにけり


ほそくのみ月の見え来る短夜みじかよをまだ最中さなかなり落ちしきるもの


朴と弦月


吾が観るは幽世かくりよならず朴の葉に月出で方の黄の火立ほだちなり


ほそき月夜ふけて光るひむがしは雲黒くしてあらはえの風


昼貌


草いきれあつき日なかに汗はり無縁の墓のうつら昼貌


日ざかりはだしうつしきもののつやほの肉色の昼貌のはな


そよろと風過ぎしとき日中ひなかの昼貌の花ぞ内ら見せたる


或る真昼


石だたみ墓地の十字路じふじの日のけに音とめにけり落つるの実


大仏


うしろ肩大き仏ぞいましける月の光のながれたるかも


暮れにけり露仏の螺髪らはつくろぐろと月あかりしてうづだかき肩


月光人のごとし


墓原の木立の奥所おくが夜はふかし月の光のたたずみにけり


物の風かに立ち来らし木の間洩る月の光のわななきにけり


白秋の墓


我と同じ名の白秋といふ人の墓あり。若目田氏たり。明治十九年没、勤王の志士なり。容貌性格我によく似たるものあるが如し。その嬬人菊池氏、吾が妻はまた菊子なり。因縁浅からず、ひとごとならず思へば、時をりに行きては墓を清め、花などをささげて、我と亦自ら慰む。


墓の座に鉄砲百合の粉は触れて日の照はげし我はぬかづく


命かよふ我かとも思ふ朝じめりこの墓庭の青苔のいろ


青苔にみうつくしき斑照はだらでりこの木洩れ日は幾時あらむ


この墓に日ざししづけくなりにけりきのふも来り永くりにき


日のうち


蒸しつつもうつつならぬかこの墓地の日ざかりを靄の立ちてあはれさ


日のうちはなにかつやめく物のこゑ墓原ごもりひびきゐるなり


蝶影


墓原や昼の霞の中あがる紋白蝶もんしろの翅のちらと輝りたる


眼はあげて吾が附く道のけどほさよ白南風しらはえの空をひとつ飛ぶ蝶


双蝶


にふかき蝶のむつみや誰知らぬ墓うらの照りのすでに久しさ


紙のごとひらひらとこそありにけれ蝶のふたつぞ照りへりける


或る新墓


朝は見て息もつきあへずあら墓や力張りきる鉄砲百合の花


新土あらつちは朝にいつくし雨名残いとどしくすがし鉄砲百合もよし


祭の夜


接待の泡盛は琉球の大甕なり


吾がかどの向ひの墓の夕月夜水うたせたるおしろいのはな


気色けしきだち神輿みこし練りるゆふぐれは茅蜩かなかなのこゑも墓地にとほれり


水うちて月の門辺かどべとなりにけり泡盛のかめに柄杓添へ置く


市中いちなかは残る暑さを樫の森や月あかうして向ひ墓原


墓原や石の角目かどめに照る月の光うち蒼み夜ただしづく


蕚の花


がくのいろ雨に浮きたり。呼びそめぬ、ラヂオのニユース、フラン落ち、巴里暴動す、ポアンカレーまた世に出でむ。子らよよし、冷麦ひやむぎ食べむ、実山椒はやつこにつけむ、月待ちがてら。

・こほろぎの髄


残暑


墓原の木立に暑き蝉のこゑじんじんときこえ今日も久しき


この暑さまだし堪ふべし色褪せてがくあぢさゐはほろほろの花


日のほてりはげしけれどもいはや細葉のつつじ株さびにけり


羽虫


墓地の十字路にて


夜目よめながら老木おいきえのき洩る月のしろがねの網に狂ふものあり


百日紅咲く


展望


百日紅ひやくじつこう花いち早し眼はやりて向ひの墓地の今朝はすずしさ


風かよふ百日紅ひやくじつこうの花見れば立秋のけはひ既にうごけり


中垣


むかひ葉の枝のごとのあかき花百日紅ひやくじつこうのちらら咲き


門庭かどにはをこなたへ咲きて中垣に影ちらつかす百日紅さるすべりの花


つくつくはふしひとつ来てゐる夕つかた袖垣のうへの百日紅さるすべりの花


墓地


百日紅さるすべり咲きつぐ道は吾が行きて利玄分骨の墓も涼しさ


百日紅さるすべり下照る道の石だたみ子とひろひつつ蚊のこゑ暑し


百日紅さるすべりなめ木肌こはだのこぼれ日は花咲き足らひいとどしき揺れ


花あかき百日紅ひやくじつこうの下にして子が立ちとまる影のみじかさ


白秋の墓にて


この墓をすがしとへば差出さしで咲く向ひの墓の百日紅さるすべりのはな


もとごころさびしき時はここに来てしじ聴きにけりつくつくはふしのこゑ


彼岸前夜


花つみて一荷ひとにはのぼる馬ぐるま寛永寺坂に月は照りつつ


この月に佇む馬の尻向けて花屋が前は露しとどなり


入り広き墓地のまともの宵月夜風とほじろし早き葉はちり


墓むらや月の光のながるればこちごちの石の濡れてはろけさ


月昼のごとし


本阿弥の露地出でて来れば狭霧立ち月昼のごとし墓の草原


のぎの穂に小寥ひるがほをみなへし遊びありかな月夜よろしみ


秋雨の朝


雨のあし秋づきぬらし椎の葉の前には見えてここだみじかき


塗りづくゑ今朝ひえびえしペン軸に蟷螂かまきりの眼はたたかれにけり


秋の夜書斎にて


すね立ててこほろぎあゆむ畳には砂糖のこなもに光り沁む


秋の夜は前の書棚の素硝子に煙草火赤し我が映るなり


塔影


目に黒く木末こずゑかがよふ星月夜御院殿坂をひたぶるのぼる


雨たもつ椎の木ずゑの土用芽のかすかに星に光るならむか


小夜中は五重の塔のはしばしに影澄みにけり小糠こぬか星屑ほしくづ


金輪際こんりんざい夜闇やあん根生ねおふ姿なり五重の塔は立てりけるかも


立てりけり星屑ほしくづたぎる夜のくだち五重の塔は影くきやかに


さをのつまあけの五重のあららぎの今真闇まやみなり鷺のしき啼き


星月夜九輪の塔の空たかくうち透かし見ればかよふすぢ雲


朝露


朝顔にまじるみどりのかもじぐさここらの墓のかげもうれしき


このあした露おびただしむきむきを穂に掻き垂れてゆらら犬蓼


この墓やゑのころぐさの穂は濡れてえんまこほろぎも露まみれなり


秋ぐさ


花に遊ぶ


うゑまぜてしをりよろしき秋ぐさの花のさかりを見て遊ぶなり


曼珠沙華了る


曼珠沙華まんじゆしやげ茎立くきだちしろくなりにけりこの花むらも久しかりにし


彼岸ばな今はおどろと巻鬚まきひげしゆもしらけたり長雨ながめふりにし


月夜の庭


よちよちと立ちあゆむ子が白の帽月のひかりを揺りこぼしつつ


木蘭もくれんの濃き影見れば良夜あたらよや月のひかりは庭にあかりぬ


竹柏なぎの葉と木蘭もくれんの葉の影交し月は隣のの上に来ぬ


家竝いへなみの高きアンテナ月の夜は光りまさりぬ濡れにけらしも


照る月の夜空にまよふあるかなき薄翅うすばかげろふの尾は引きにけり


深更月夜


板縁は月夜ふけつつ玻璃のかげ引きてゐにけり光る幾線いくすぢ


総玻璃のとのもの月夜ふけにけりしろくかびろく庭石は見ゆ


いはに月の光はえはてて音ひとつ無しただにその影


月夜ふかし光しづもる木々のに羽虫かと思ふ影のちらつく


裏うがつ月の光となりにけりくろき茂みのゆづり葉の垂り


櫨紅葉


一木櫨ひときはじいよよ照葉てりはのことごとに来にけり櫨はその葉に


観つつあれば櫨の紅葉の一ひらちりまた二葉ちりぬ日の照る石に


石のべの櫨の落葉はよく掃きてまた眺め居り散りてたまるを


櫨紅葉下照る土はしめやぎて帚目ははきめ正しちる二葉三葉


はらら散る櫨は落葉ぞおもしろきおもて火のごとく裏べびたる


石のべに櫨の落葉を吹きためてはららきし風も止みゐたりける


紅葉に籠る


立襖は金泥をちらし、桔梗・薄・女郎花などを肉筆にて描きたり。


立襖たてぶすまもみぢにあかるゆふを籠らふふかき日ざしなりける

・冬と緑青


初冬の庭


色鳥


菩提樹の落つる葉早し尾を曳きてめづらにつどふ色鳥の影


刈りこみて


吾庭はみ冬ちかきに刈りこみて躑躅のほそり目に立ちにけり


空寒し今は葉も無き菩提樹の木膚こはだかぐろく伐口きりくちのいろ


落葉のあと


ひえびえし冬の日ざしとなりにける土に落葉の光れる見れば


かへるでの枝こまごまとありにけり葉なみふるひて今はしづけさ


冬の椎


まれまれに椎の葉にもつたまりも照りはかへさずえまさるらし


椎の葉に冬の日のあるほどほどはうれしき珠数のたまも磨るなり


氷雨の頃


錦木の時雨紅葉となりにけりふりみふらずみ日にくすみつつ


冬青もちの葉に走る氷雨ひさめの音聴けば日のくれぐれはよくはじくなり


冬に入る菊


目にたちて菊は白けど置く霜のむらさきのみ光こもれり


菊の香のこもりてぬくき冬日向蒲団の綿はゆたにうちつつ


冬日向


墓原の空地あきちに繁きゑのこぐさ子ら踏み荒らし地膚ぢはだすら


墓地裏もつどふ子供の影さむき冬の薄日うすびの照りとなりにき


墓地裏に騒ぐ子供のこゑきけばおほにをどめり霙かも来む


冬木


朝しぐれ塔の庇のあをあをと木立はづれに見えて寒けさ


向う墓地冬木したしくなりにけりこちごちの靄は落葉焚くなり


上光うはひかるけだし榎の乾葉ひばならむこまごまと溝をふりうづめたる


凍土いてつちになにか落葉の二葉三葉朝早き風にそそ走りつつ


冬の夜の雨


冬の雨の石にひびかふ墓地の闇母と来る子は歩みとどめず


墓原を帰り来る子のこゑきけば氷雨ひさめすさまじくふり乱るらし


をさな児は軍歌うたひていさぎよし外套に靴に氷雨ひさめはじき来る


寒月


枯枝に白銀しろがねかがる月の夜は光ほそうしてえにけるかな


霜の庭隈


霜のみいたもきびしき土のうへに南天の紅葉はらら散りたる


榊の実くろずむ観れば袖垣のひ目もみぬ霜のに立ち


霜と南天


墓原の花すてどころ霜ふかしつくづくと今朝は我もきびしき


霜ふかき花すてどころ目につきて南天の実は鈴の赤玉


山茶花咲く


山茶花の最寄りの日向しづけくてたまたま来れば子らつどひけり


わらべどち足踏しつつまださし山茶花あかく咲きにけるかな


朴の実凝る


たかだかと冬木の朱実あけみ垂りにけりきびしくもむか向ひ墓原


寒の靄


暮の靄子が背嚢の毛にみてしろく粒だつかん到りけり


冬木原ふゆきばらかんの靄ごもり行き消ゆる人あし見れば暮せまりつつ


暮れぎはのかんの靄かかる冬木原ふゆきばら外套あかき子もきたるなり


冬すでに頬のみ燃え立つ雄の雉子の駈け走る見れば日もつまりけり


縁先


石のべの紫蘭のさやに来て光る蜻蛉あきつはねさうなりにけり


白秋の墓にて二首


この墓にみつつ白き山茶花のしべあざやけきかんは来りぬ


墓原の遅き月夜の石だたみ山茶花ちらし止む旋風つむじあり


或る朝


今朝も見る閼伽あかの氷のさやけくて子はたたきゆく墓石ごとに


山茶花は末もつぼめど濃きあけ上凍うはじみくろしつひに開かず



もんもりと雪ふりつもる朝まだき知音ちおんの墓はめて親しさ


雪は観て早き朝餐あさげをたおたおと木ぶりをかしく揺りしづけさ


薄墨とけぶる低めの空にしてよにしづけきは百日紅さるすべりの雪


人踏みし雪の窪みに声はしてなにかひもじき雀入りをり


さるすべり枝のぬめりにつむ雪の時しづれする声のみしろし


雪に


むらさきのこもりしたしくなりにけり見てのみか居らむ薄き障子を


雪あかり早やすべしなし張りつよき白き障子には向けてあらむ


霜とラヂオ


大君の御悩ごなうのニユースきこえぬ絶えて音なき霜夜しづもり


霜のり堪へてこの夜もすわりたりラヂオのニユース声せまりたり


霜くだる今宵こよひのラヂオおぎろなし心とどろくひと時きに


霜の夜のラヂオのニユースはてにけりあかうしていたくしづけさ


縁の戸にひびく霜夜の玻璃のひゞひたなげきいねず御宝我は


大君は神にしませばこの霜のとほる夜ふけは聴きておはさむ


大正天皇を悼み奉る歌


えとほるほどろの霜や冬青もちの葉の垂り葉の光ゆらぎみたる


現神天皇あきつかみすめらみことにましましてなほし常無くすがかしこさ


あらたまの年立ちかへる日は見えて神あがりましぬ霜のしろきに


すこやけく常はさずも大御命おほみいのち長くせよと仰ぎしものを


ほがらけきたかきたふとき大御業おほみわざつがせたまひき短かかりにき


いはにいやさむざむと日はかげりたづき知らずも生ける蟻匐ふ


冬木の根にむ土の張り乾きかうかうと響く道を行くなり


梅もどき


天王寺歌会即興、録二首


梅もどき籠に挿しつつ用は無し来馴れし人の来れば待つなり


吾妹子わぎもこが挿してうれしき落霜紅うめもどきオンスコツプのくちばしよしも


或る母と子


寒夜、日暮里駅のベンチに相抱きて暁に発つ汽車を待つ母と十一二の女の児ありき。子は雛妓の見習に上京中、肺患のため母の迎ひを受け帰郷せんとするなり。あはれなれば家に伴ひ一夜を送らしむ。後その子死にたる由の報知来る。


母と子のおもざし見れば寒きにすべなしばたたきよく似たりけり


吹きさらしひびく霜夜にかきいだき母と子はありきぬくみとるとて


女童めわらべしじき入る寒き夜を小糠こぬか小星こぼしも風に冱えにき


ただにありき炉の火かきおこし寒むからむぬくもりてよく寝よとのみわれは


死にせりと母が書きし文見ればその子がゑまひ力なかりし


墓原に風は吼えながら朝わたる月夜なりしかしらみそめにき


子にくるむふすまそだたき一夜ひとよいねずたづきなかりけむか人の親母は


失火多し


この夜ごろ火に立ち騒ぎ止むなしかぎりなく寒く人はまづしさ


すさまじき夜の火なりしか墓地ぬけて暁の霜に身ぶるふ今は


霜いたり空は濃青こあをき夜の明けに筑波の山はくきやかに見つ


冬晴


柿のへた黒くこごれる枝見ればみ冬はいたも晴つづくらし


春曇籠居


深廂ふかびさし昼もをぐらき家の内にはとぼしつつ春を待つわれは


とのぐもりすすふかく立ち舞へば咽喉のどゑごくして春もくるしさ


春ひらく


何か花にほふ雨間あままのくれを妻としありくゆゑはしらずも

緑ヶ丘新唱

昭和二年の晩春より同三年の初夏に至る馬込緑ヶ丘の生活に由る。新らしき文化住宅地緑ヶ丘の突端にある此の馬込の新居は、明朗にして簡素、月・霧・燈火の夜景は亦九十九谷の名にそむかず、少くとも近代詩趣の一年なり。

・ウィンネッケ出現


新居


吾がかど通草あけび咲きつぎ質素なり日にけにとほわらべらがこゑ


厨戸くりやどは夏いち早し水かけて雫したたる蝦蛄しやこのひと籠


玄関


この小さき鐘と撞木は前の主人の遺し置けるものなり


さき鐘撞木しゆもくとりそへつるしたりこののはひりすがしとも見よ


さき鐘掛けてすがしきこのはひり戸はしにけりそよぐ木の影


風そよぐヒマラヤ杉の二三本ふたみもとはひりの庭は今朝もすずしさ


吾がわらべ鐘にとどかず脚立きやたつよりのびあがりうつかほ仰向あふむけて


小閑


こほしかる昼は待てどもうつ鐘のまたわづらはし人にこそよれ


誰待つと家居るならずおなじくも憂ふる人のよとふのみ


まれびとかあるは来けらし軒鐘や音のさやかにふたつ鳴りたり


あやめ咲く


家垣の築土ついぢのあやめ咲きにけりわらべな手折り通りすがりを


あやめ咲く築土ついぢに添へば鴨跖草つゆくさや隣もすずしふり乱る露


夕凪


蟆子ぶよたち口にかゆきか吾がわらべ夕ばえの頃は声はずむめり


月はあれど夕立つ雲のに見えてなにかれたる蒸しかへしなり


昼貌


日にくる草の香げばこの崖や昼貌の咲く色もまじれり


昼貌は昼もあはれや容貌みめ清きをさなどちゐて草に坐りぬ


出現


二人の子供は隆太郎と篁子なり


草生くさぶには出で入る子らが二人ゐて昼ふかきかなや大き星見ゆ


月のごと大き星昼の空にありウィンネッケよあはれ人は貧しさ


木の花咲く


うち開くわがは高しゆりの木のほづえに花も現れにけり


大き鳶たわたわと来てぎるとき穂にあざやけき丹波栗の花


隆太郎


大き窻今朝うちひらき朗らなり芝の刈生かりふに子は飛びりる


白き柵をどり越え来てわが太郎窻這ひあがるこの朝づく日



梅雨つゆふかし薄ごもりに生みためてかけの卵の光沢つやせぬる


卵ひとつ生まずあはれと見つつゐし生みてありけりかけは草生に


送梅


半夏生はんげしやう早や近からし桐の葉に今朝ひびく雨を二階にて聴く


しやしやと来て篠懸すずかけの葉をひるがへす青水無月の雨ぞ此の雨


断層


断層の青萱見れば吹きなびく風竝かざなみしるしかがやきにけり


やや黄なる風景


梧桐あをぎりのふふめる花の穂に立てば二階も暑し窻はけ置く


日はなり靄たちこむる向う空にカキ色の気球熱しきりたる


ひるの坂黄なるドレスののぼりゐて電柱の影がゆがみたり見ゆ


架橋風景


憤怒いきどほり堪へつつのぼる我が歩み陸橋にかかり夏の富士見ゆ


陽炎の揺りあふる見ればしゆの桁や鉄橋はいまだ架け了へずけり


かうかうと鉄の鋲うつ子ら見ればしゆの鉄橋は雲に響けり


蒸す雲の立雲たちぐもへば息の緒に息こらへ立つ憤怒いきどほりの神


こまごまと茱萸ぐみ鈴花すずばな砂利に散りあはれなるかなや照りのはげしさ


吾家の坂


日は暑しのぼりけはしき坂なかば築石垣つきいしがきのこほろぎのこゑ


白栄しらはえの暑き日でりの竹煮ぐさ粉にふきいでていきれぬるかも


盆地の蛙


馬込まごめ盆地の暑き小峡をかひにうちひびきかはづは啼けり草いきれ立ち


あはす草田のかはづ昼けてを啼きしぶれ深むものあり


千樫


末つひに人の命は長からじ眼にはみつつ肩喘ぎけり


水さしに水はあらぬをほそぼそと吸ひほけにけり透きとほるもの


かくしつつ人の命は過ぎなむやちかぢかと眼を寄せて見むとす


眼力まなぢからかくのごとくば真夏さらずあはれほそぼそと人は死にせむ


山なすここだくのふみほこりつもり暑き日なかを息継げり君は


生きざらむ命思はず仰ぎ寝て手はみにけり敢て息


下冷したひえてひたひににじむ薄ら汗おもほえばしじに君も生きにき


二階に咳ひびきけりかいかがみ今はすべしなし靴の紐むすぶ


おもての光くわうくわうと流れたり強ひてまともに眼は向けて


いたいたし脚のほそりの眼をさらず我は踏みありく光る直土ひたつち


真夏過ぎすだれうごかす廂合ひあはひの朝のすずかぜを君はたのめぬ


百合木と猫


うちそよぎ風吹きかよふゆりの葉に朝は朝日の透きてすずしさ


広き葉のなかばは黄なるもとに早や風涼しうちかがむ猫


夏野


ひとすぢに夏野よこぎる道しろしおのづからなる歩みつづけむ


道のべの車前草おほばこかたくなりにけり真日まひあかうして群るる子鴉


風に観る


風ひびく葉広はびろ篠懸すずかけ諸枝もろえ立ちあざやけきさ火立ほだちあがれり


ポプラ葉のかがよふ見れば涼風立ちさながらに日の光るさざなみ


吹く風の幅は揉みぬく栗の葉の葉あひに青くいがの群れたる


永瀬夫人を弔す


夕かげのおもてに移る合歓の花ほのかに君もねむりたまひぬ


赤松


いとどしき残暑の照りとなりにける繁立しみたちほそきその赤松に


赤松の直立すぐたつ見ればあきらけく正面まともの西日木膚こはだ照らせり


夕かげはにほひこめつつ靄ごめに畳みよろしき松が枝の笠


赤松の一木ひときたをる向う丘夕かげの中に風の吹きしく


ゆふ早く風にさはめく赤松の林のほそみ見るがすずしさ


洗足の池


み寺には百日紅のしづかなり洗足の池の夏も過ぎたる


池のべのやなぎそひに咲きあかるうるしの花はまだあはれなり


現世うつしようるしの花のひと木立臈たくしろき月空にあり


みなぎらふ夏の光も過ぎにけりわがむかふ池の薄らさざなみ


残暑の日ざしるさざら波ただひとりなる舟はるなり


九月中旬の或る朝


竹煮草今は穂に垂りしづかなり鶸茶ひわちやさやしゆのいろの液


隣りびと W. Timacus のくりやには窻はうち開きフライパンが見ゆ


露つけて今朝すばらしく真青まさをなりうしのしつぺいの放射線ののぎ


露草は朝露しげし今朝咲きて涼しかるらし黄の小蕊をしべ立ち


松の木間こま栗の花ぶさ返り咲き日光室に日の光る見ゆ


朝霧


朝めざめさやにすがしき戸はけてヒマラヤ杉は大粒の霧


吾が起きてただに瞰下みおろかどの戸を濃霧しづもり谷地やちはこもりぬ


森と言へば叢立むらだつ霧のこちごちに気高けだかく厚くとりで立てたる


朝月夜あさづくよいまだも夜霧とどこほりひむがしの丘に日あし立ちたる


高き屋に光射し満つ我が丘を明暗あけぐれの谷のまちぞとどろく


月とヒマラヤ杉


窻ちかきヒマラヤ杉のは揺れて光り来にけり月出づる方


わがかどはヒマラヤ杉の朝月夜影がそよげり鋪石しきいしのうへに

・月・霧・燈火


谷の馬込


馬込まごめは谷おほき里、とりよろふ丘の岬々さきざき、朝に夜に狭霧立ち立つ。高窻や東に開き、西をあけ、南もあけて、うち透かす賑ふあかり山中やまなかのみ湯のさまかも、月さへも紫明る。霧はおもしろ。


篁子


女童めわらべ眶毛まつげにやどる露のたま月のありかは雲のにして


木の間洩る谷地やちあしのすぢ引きてかはづが啼けば子はぬるもの


月に佇つもの


ひとり行く


ひとり行く歩みとどめて眺めけり水芋の葉に月の宿れる


おのづから歩みはとまる道すがら芋の立葉たちはのことごとの露


美童に遇ふ


月をす幼児ゆゑにあはれとはいみじかりけることを言ひつる


たまごと露の立葉たちはに月は照り清きわらべおもあげて


犬のほえ近き月夜の野路のぢの霧誰かころろと歩みかへしつ


清らけき母を思へば月のに微塵の氷吹きつくる影


白鷺の月に見えつつ飛ぶ影は正眼まさめながらに霧しまきつつ


夜、風に思ふ


母を思ふうつつの声や夜風の硝子戸たたき消ゆる疾足はやあし


秋ちかき


秋ちかき月の夜ごろは雲と言へばしろく流れて片明りつつ


涼しさははてなかるらし真木山や隣る月夜のの葉にして


庭隈


影いくつ涼し月夜や古木の梅つつじ藤錦木ほそき孟宗


梨の棚あをきすはえに照る月の光しづもり鳥屋とやの戸も見ゆ


或る月の夜


草ごもるかけろ探すと子らは出て月にわけをり薄き月夜に


掻きわけて涼しきものはすずや月の夜ごろの山いもの花


すずの葉に月の光は遊べども吾が利心とごころよいまだなごまず


咲くものはつひにあはれよ月夜照つくよでり山いもの蔓にそよぐ涼風


おもしろの月の夜ごろや草に居て眼に入る物の風そよぐなり


夕月映


かぎろひの夕月映ゆふつくばえの下びにはすでに暮れたる木の群が見ゆ


月の照り匂だちる雲ながら木原が上は色のさむけさ


月のはえこもりてしろき夜の靄に煙かと思ふ色ぞうごける


遠じろくうごくけむりのふたながれ月の光も渡りつつあり


ひと時は夕月映にめづらしき遠近をちこちの谷の早き燈火ともしび


紫の月


馬込は霧多ければ円月もまた紫に見ゆることあり、光悦の屏風と思ひ合せて


中明なかあかる紫の月丘にあり秋ぐさの花の乱れたるかも


桔梗きちかうの月にさやけき松が根はひとりかがむにしくものぞなき


遅き夜二景


洩れいづる月の斜光となりにけり雨は盆地のをたたきつつ


匂だち湿しめらふ雲の影見れば小夜ふけと月もふけてぎなむ


月のあなた


はるばるとわたる月夜のうろこ雲うつしき母の子をかかへ


月夜よし遠き梢にり畳む白木綿雲しらゆふぐもは雪のごと見ゆ


月夜俯瞰


月高し谷地やちの夜霧にとがて急勾配の濃小豆こあづきの屋根


しゆうしゆうと夜霧ながれてありにけり月に光るは玻璃の屋根のみ


月夜静坐


二階の和室にて


硝子窻月に開きて坐りけりつくゑにうつる壺と筆の影


筆立のとりどりの影しづかなり月夜ふけつつひとり坐るに


塵ひとつ月に留めじと思ふなり黝朱うるみぬりさや文机ふづくゑ


ふけつくし月の騒ぎも過ぎにけり梧桐あをぎりの葉に今は澄みたる


つくづくと観る月ならし夜の遅き光に妻がおもて向けたる


さる楽人


目はひてゑまひかすかにおはすなり月のひかりの照らす面白おもじろ

・剥製の栗鼠


草の穂


秋さびしもののともしさひと本の野稗の垂穂瓶にさしたり  千樫

秋の空ふかみゆくらし瓶にさす草稗の穂のさびたる見れば  同


秋ふけぬ物の葉ずゑに立つ蟆子ぶよのかそけき光ただに思はむ


稗草の穂向ほむきにちらふ蟆子ぶよのかげ驚きて思ふうらさびにけり


さびさびて今は光らぬ野稗の穂親しかりにし人も死にせり


野稗の穂かめにさしつつうらさぶしかくのごとくや人の坐りし


吾がかどは電柱の根に夕日さしうらがれぐさの穂がうつるなり


    §


草の穂に移ろひはやき日のあたりこのごろはわれも病みやすくして


観艦式の日


家にこもりて


皇礼砲とどろと響き雨間あままなり柿のもみぢがうつくしく見ゆ


航空船黄にうかび来てとどろけりなにかはさむき日の曇りなり


はらら飛ぶ小禽ことりあはれと観つつゐて霜の葉おほき木々に驚く


とのぐもり羽ばたきとよむ飛行機は向ふ時雨に今は列竝つらな



吾が庭は白き小菊の銭菊のただにあかりて朝の濃き霜


菊の花酢にひたしつつうらさぶしかくしつつこそ秋も過ぎなむ


白菊の青みる夜の寒さ百燭のあかり近く寄せ置く


子を呼ぶ


御会式の万燈あかく山を去りきゆける太郎この夜帰らず


子を呼べばまばたきすもよこの夜さり谷地やちあしが眶毛まつげなし見ゆ


父われの大き靴はきわらべなり万燈にきていづち向き行く


わが聴くは小さき足音ひとつのみ夜は暗くして群の足音


は多しもとも大きくみづみづし紫のしよくは映画館ならむ


錦木の秋


吾が庭は若木錦木もみぢして椎の根方も照りとほり見ゆ


時雨のころ


光無き冬の入日のしゆのおぼろ西の曇りのあやにしづけさ


神無月合歓ねむ老木おいきのもみぢ葉のすでにわびしく濡れわたるめり


朝にけに時雨なづさふ雑木立最寄もよりの丘もみて来にける


短日


十方に放つ黄金こがねの日あしなり欅の寒き冬の木のうへ


群禽むらどり木末こずゑにきほふひとなだれとほのながめもびあまりけり


み冬づく丘の家居いへゐに立つけぶり湯気おほけれやあたたかく見ゆ


目にたのむ寒きの赤屋根も煙見せつついつか暮れたり


暮れにけり師走の谷地やちびさしにこごりて白き寒靄かんあいのいろ


落葉の庭


こまかた銀杏いてふ散葉ちりはえてその向き向きを霜のよろしさ


土にみて今朝の落葉はおびただし木履サボオつつかけそこら掃きゐる


黄なる葉と褐色かちいろの葉とちりにけり黄なる銀杏いてふがまれにこまかさ


枯れつつし色に目だたぬ雑木やま向ひは霜の晴れにたるらし


立ちほそり寒き木ゆゑに裸木はだかぎ霜朝しもあさの空に末光るなり


坂下


冬の日の光えたつ浅葱あさつきは添ひゆく子らのに映るらし


ほろほろと行くにくづるるがけの土こごりきびしき霜ぞ立ちたる


霜ばしら


わらべ父の杖とりひしとうつ霜柱しろし此の霜ばしら


こごり立ちしづけかりしかひた乾く地膚ぢはだはららかし踏む霜ばしら


砧村


隆太郎を砧村の成城学園に入学せしむべく、先づ行きて参観す。


濃き霜のみてさやけき冬菜畑に朝の響の来つつしづけさ


霜いたる冬の玉菜は藁しべにきびしくひぬその株ごとに


朝凍あさじみの大野の霜となりにけり早やあざやかに冬菜積みたる


清々さわさわに根引く冬菜は野に積みて置き足らはしぬ横山のごと


水のべに洗ふ大根おほねをさわさわに見つつわが行くしろき大根おほね


み冬づくくぬぎ林に子らと来て落葉踏みたつる音のひもじさ


くぬぎ原ぬけつつとほる貸家の庭霜くづれ黒し落葉まじり踏む


子を負ひて切通しゆく影寒しこのあたり低き雑木ひと山


妹の家


風後かざあとの冬の日あしにありにけり通草あけび散葉ちりはいまだ青きに


このとぼそ昼もしつつ寒けさよ日は光りつつ一木ひとき白樺


風すさぶ一木ひとき白樺月夜には影いさぎよし葉竝ふるひぬ


牧舎


草くづと土糞どふんきつぐこの日ぐれ五六頭は居らし牛の立ちつつ


寒夜


かんの月響く夜空となりにけりしろき梢のつ仰げば


冬木照る月夜すがらやまれまれは山片附きて走る雹あり


白き野菜


白くのみ月にかがやくひと束は紫うすき根のはちすらし


白菜はくさいはみながら白し月の夜と霜の光にうづだかく積む


白き菜と紫うすき根のはちす冬はさやかに厨戸にあり



唐画風


白菜はくさいの霜にかがよふ夜明け方ありありきて鳩は眼聡めざと


寒暁


しらしらと朝行く鷺の影見れば高くは飛ばず寒き水の田


り尽す一夜ひとよの霜やこのあけをほろんちょちょちょと澄む鳥のこゑ


水禽


かげ寒き池の水面みのもやつれづれと家鴨あひるおよげり鴛鴦をしどりを前に


尻あげて水にみゆく水禽みづどりのちらら後掻あとかくふりの寒けさ


冬の道路


畑なぞへ冬の砂利道行きのぼる柚子色の帽は悲しきごとし


夕凍ゆふじみにむらさきしきぶかず光り電線は切れて橋に垂れたり


冬の土


冬の道くだりてのぼる木原山射的の音がひどく確かさ


冬の土ひた乾くから小胸をむね張りかうかうと行く小学生なり


剥製の栗鼠


とまり木にからみてあかき鳥瓜毛は荒しもよ剥製の栗鼠


頤ひげをくひらしつつ愚かなり剥製の栗鼠を氷雨ひさめにぞ置く


冬ちかき一望のさびうつりゐる剥製の栗鼠の大き眼の玻璃


寂しくも遊ぶいとまは無き我を剥製の栗鼠はしづけくあるらし


秋冬を心むなしき夕ながめ剥製の栗鼠は眼の光るあはれ


寒空


いつまでか長き日あしぞ炎ち冬木にたぎる寒空のいろ


かんの土にちつくしつつかそけさよ冬は蛍も飛ばぬものをよ


冬に立つもの


末ほそく下枝しづえ引き張るたけ高きヒマラヤ杉は冬によき杉


さんさんとヒマラヤ杉を洩る月の後夜ごやたちにけり冬に立つ影


椿咲く


わらべどち憎むさかひ切崖きりがけは陸橋がかかり椿花むら


花深くあか椿つばき下枝しづえさへ光るばかりを上にも上にも


小学生ら声はふりあげて行きにけり椿の花がひたあかきなり


花ふかき椿はすごしつらつらと出て来てはくぐる子らが足竝


老椿下照る道の春の泥洗足の池はけだしこの奥


雪の夜


雪つもる窻のうちらのゆふつかた火映ひうつり親し誰か炉に


雪しづりけはひかすけき夜のにも紅毛びとは火にか楽しむ


マントルピース火立ほだち華やぐかたへには金髪のふさとほりゆらげり


おだしきゑまひなるかも片頬照り炉に寄る母の何か言ひつる


老びとのあか上衣うはぎはをさなくてにものがなし毛糸編みをる


春日展望


咲きあかる花かあらしも木原山松の木のまのしろきを見れば


桜咲き馬込の谷もしづかなり霞むかぎりがしろくのみ見ゆ


向丘むかをかの木のまに見ゆる赤がはら家古風にして春日おだやか


本門寺の裏山道ののぼりおり松の木のまの山ざくら花


花曇源蔵原の夕影にみづみづしのひかりいでたる


女童


九歳にて変質の子なり。ひそかに訪れてやまず。


をさなきはをさなかれよと数花かずばな通草あけびかどに立たせつるかな


女童めわらべは心くるへり崖ののほのかにしなふ昼貌の花


昼貌やここだかなしき女童めわらべを日ざかりのかどに隔てさぶしき


うち見にはわらべなれども女子をみなごやまさなきことも美しみ


つきほなくかなしかるかなかがなべて年のへだたりは三十みそあまりいつ


言ふことはねびてきこゆれ女童めわらべや母を離れてなどか死にせむ


夏衣なつぎぬ生絹すずしが裾の高踵たかかがとなんぞわらべが少女さびする


女童めわらべは水にそばゆるしろがねのうろくづのごとかなしかりけり


草上昼餉


昼餉ひるげには庭の芝生にぢかに坐りわが眼先まなさきのかきつばたの花


飯粒いひつぶに沁みつつ白き日のひかり子らみあまし父われが


短夜追憶


消え易き花火思へば短夜みじかよは玉とうちあげる青ききぬがさ


水のや夏は花火の宵々にひかる投網とあみをかいひろげ


短夜みじかよの馬込なりしか梟と木菟みみづくのこゑのかたみにはして


砧村へ移る


子鴉は嘴黄なり車前草おほばこや穂に立つ道のほこり踏みつつ


馬込緑ヶ丘


五年の後


馬込緑ヶ丘、このかどのヒマラヤ杉、来て見れば木高こだかくなりぬ。夜寒にもはとぼりをり。人や来て住みつきたらし、わがごとやこもり息づく。星月夜ほしづくよ、狭霧立ち立つ、この家の、鐘と撞木がいよなつかしも。


    §


に揺れていよよ木高こだかき影見れば下枝しづえもふかく曳きにけるかな


たけ高きヒマラヤ杉の星月夜二階の窻にのうごく見ゆ


    §


門庭よ冬の夜寒もは洩れて住みつきたらし人香ひとがこもれり


この門よまき通草あけびも目立たずてすがしかりしか雨つづりつつ

世田ヶ谷風塵抄

昭和三年初夏より同じく六年の同じ季節に至る、四年間の、世田ヶ谷若林の生活に由る。尤も三年には歌作乏し。家は街道にのぞみ、囂音と塵埃と筆硯の繋鎖とに苦しめらる。しかれども邸内広く、花木多く、奥の庭やや古風にして四時眼を楽ましむ。日常之に添ひ、風韻幽かに成る。

・月に飛ぶ雪


言祝


大君、日の本の若き大君、かんながら朗らけき現人神あらひとがみ。青空やかぎりなき、国土くにつちやゆるぎなき。万づ世の皇統みすまる皇孫すめみまや天津日継。ああ我が天皇すめらみこと。大君、道の大君、大稜威。今こそは依り立たせ、けふこそは照り立たせ。高御座たかみくら輝き満つ、日の御座みくらただ照り満つ。御剣や御光添ひ、御璽みしるしやいや栄えに、数多かずさはの御鏡や勾玉や、さやさやし御茵みしとねや、照り足らはせ。大君、我が大君、あきかみ、神ゆゑに、雲のの照る日の光、りてますかも。


反歌


黄櫨染くわうろせん大御衣おほんぞあかく照り立たしいやさやさやに若き大君


楓紅葉


かくばかりかへでありとは知らざりきぎて染む秋を驚く


この庭に一木ひとき二木ふたきと照らひたるかへるで紅葉時了りけり


背戸


鶏頭はつぶさに黒き種子たねながら鶏冠とさかあけよ燃えつきずけり


わが背戸は食用菊の黄の花の残りとぼしく霜のりつつ


冬朝


石庭せきていに冬の日のさしあらはなりまだみきらぬ青苔のいろ


庭苔に木の根影ひく朝のは冬もかすかに美しくして


のま洩る冬の朝日のすがしくて時ならぬ土のかをり息づく


うすうすと朝日さし来る椎の根に心寄せつつ冬はこもれり


檜葉垣のそととほりゆく影ながら早や親しもよ冬は透き見ゆ


木槲の冬


木槲もつこく一木ひときおもてけにけりみ冬ながらに日ざしもちつつ


木槲もつこくの葉洩れ日見つつ思ふなり濡石に出でてありく蟻ゐず


短日


向ひ見る冬の梢となりにけり細みつくして眺めまさりぬ


昼餉ひるげ過ぎいくらたぬを木群こむらには早やしろじろとかかる夕霧


軍馬


この日ごろ近き空地あきちに来てさやぐ軍馬ありけり風の夜寒よさむ


軍馬の群この夜とどとし来て居りと思ふだによしを千葉聯隊の馬


観兵式の予行演習に朝出でて夜はに還る軍馬の群らし


    §


山茶花や井の水むとる兵のバケツ音立てぬその凍土いてつち


兵士来て井の水汲むと我が太郎眼もまじろがず山茶花の午後を


    §


夕凍ゆふじみを子らと見にるとなり原軍馬は群れて還りゐにけり


夜に還り朝つ馬の草床は風吹きぬけて置く屋根も無し


濃霜置き軍馬入り臥す隣原夜はふかくしてさやぎぬるかも


霜は満ち軍馬のたむろしづもらず糠星のかずのただにきらめく


夜のほどろさやぎ立ちゆく音すなり観兵式につらなる馬なり


大君のけふみそなはす軍馬なれひづめの音もさやかにつべし


    §


めて兵還り来ず代々木よりただち本隊へ駈けにたるらし


隣の原またさわぐなし風のみぞ夜どほし寒き空に地にきこゆ


夜はしげく軍馬に来し草の原馬臭き肌のこもりかなしも


ねがてぬ軍馬なりしか夜に聴きてなにか心に触るるものありき


その後の夜


常ならず物のかそけくきこえゐて今宵の雲はみこごるなり


ある冬の日


日おもては雑木ざふきにこもる霜のの照りあたたかし春めきしかも


輝かでにほふ垣内かきつの芝生には冬の日ざしぞぎたまりたる


水辺早春


青鷺にしら鷺まじりあはれなり氷のひびの水に薄きを


いりもやや角ぐむ葦のさの芽に電球がひとつ流れ寄りつつ


書斎と月


たたなはる木群こむらのうしろ明るめり月の光の立ちそめにけり


硝子戸にのぼりて黄なる円き月瑜伽師地論を読みつぐ我は


青葡萄の頃


れはててむなしき鳥屋とやの葡萄棚葡萄の房は垂りそめにけり


むべの棚いまだ青けどひえびえと日ざしとほりて風うごくなり


九月


もちの葉の葉越しに見ゆるわくら葉は桜なるらしよくそよぎつつ


木のうれにふけつつ澱む夜の曇り甜瓜メロンのごとき月黄ばみ在り


夏をこもる


高々とのうぜんかづら咲きにけりただにあはれと観つつ籠らむ


家垣のひともと木槿むくげし開くただちを土埃つちほこり


もちの木は葉につむほこりいちじるしじりじりと照る真日の光を


街道の地響ぢひびきしげき日のさかり鏡にうごく木はちすの花 書斎


窻のに垂りつつそよぐ蔦かづら涼風たちて実の綴り


萩のくさぐさを


吾が宿の萩の中垣荒れはてぬいきれて暑き男ぐさの花


青萱の野萱にまじるさざれ萩この朝涼をすでに綴れり


颱風のれつつしげきあふり雨白萩の花のしとど濡れたる


夕ほてりこのごろつづく芝生には木の椅子がふたつ猫萩のはな


日時計の夕かげ長くなりにけり宮城野萩の叢咲むらざきの花


高野槙


からかさもみ、一名高野槙、或は金松


雨のふり観のかそけくて真深まぶかなりからかさもみのしだり緒の笠


高野槙雨こまかなり秋もややけしきだちつつえまさるらし


芝庭の小宴


田中智学、高村光雲両翁、竝びに国醇会の人々を迎へて


芝庭の日向最寄りにくむ酒のおいよろしもよ小春過ぎの雲


日向べは木々の紅葉の過ぎぬれどまだあたたかしむしろ敷き


蔦紅葉


わが家は煙突のへきの蔦かづら日ましに染みて煙立てにけり


わが窻は日向のかべの鍵の手を常春藤きづたもみでて照りかへしつつ 書斎


郁子と通草


わが家はポウチの棚の郁子むべの実のこよなく熟れて冬来りける


とりめばさねは多けど歯にしみてすがすがしかも郁子むべの実のつゆ


こもごもに郁子むべ通草あけびをとりみて郁子むべがよしちふこの子があはれ


郁子むべむとひたぶるの子らやうちすすりしじにさね吐き眼もまじろがず


おほかたに遊び足りたり夜ふけたり子らよいねなむまた明日もあらむ


寒き日


多摩川に砂利あぐる音の風向かざむきをひと日きこえてかんあけずいまだ


日につのる寒さもちこたへもろの葉のかがやける見れば椎よ冬の葉


思ひしぬくき日あたり出て見ればかへるでの根に雪ぞ光れる


かがみゐて寒き日向や下心したふかくあなづる子らにひま与へけり


淡々あはあはと火の見のあしたちにけりすぐろにほそき木のこずゑより


霜に聴く


1.十一月五日深更、「赤い鳥童謡集」序成る


思ひぎ長きはしがきへにけり夜ふけかすかに吠ゆるものあり


かんとうちて半鐘の音とめにけり火の消え方は夜もみるらむ


霜の空透きとほり青しこのあけや月は落ちつつ松二木ふたき見ゆ


2.十二月十三日夜より十四日払暁に至る


夜ふけて寒くひびかふ音ながら沿線に住めばけだしよろしき


ひそかに吾が本質をうたがはず大禅寺柿にすかとあてぬ


ゐろり火に蛇経を読めばおもしろく身うちゆるがして走るリズムあり


夜はふけぬしゆんしゆんとして煮こごれる林檎のつゆのあか酢醤すびしほ


野砲隊とほりしがとどろきやまずいづべの霜にけにつつあらむ


しみしみと澄みて来にけりまさしくもしづかに霜に聴くべかるらし


絹笠に黒く粒だつ蠅ながらオスラムの熱冬を光れり


冬の夜は物の正しき影すらやただにすさまじくあかるのみ


幼さびかくて我あれやつゆだにもわらべごころはけだしとほらず


冬の蠅そこら遊びし小夜ふけて居るものは無しみて来らしも


あかし大蔵経のうしろゆく鼠の尻尾影うごくなり


常ながらおもて通るは夜発よだちして多摩よりのぼる牛車ぎうしやかもあはれ


あけがたはいとどしづもる野の霜をひたすらや赤き電気炉の息


遊行ゆぎやうしてさやり無してふ日はあらずただになづみぬうちこもりつつ


武蔵野に紫つづる蘇枋のわが縛著ばくちやくは子ゆゑきびしき


東声


前の夫人と別れたる頃のこと、及び挽歌


椎が根に素焼の鉢の三つ二つ見に寄るべくも花はあらざりき


家廂やびさしに及ぶ椎が枝そこらくを明りたのめて伐りし椎が


縁のに日ざし頼めて見やる眼も力なかりけむか土をのみ君は


庭土にちりて久しき椎の花なげきこまかに君も堪へにき


窻さきのちひさ篠の子篠の子のにのぼり露は光りき


夜のほどろいつか寝入れるその頬には涙ながれて薄き髪の毛 塩原の一夜


いついつとえはあきらめずありけらしなばぬかに末はなんぬる


木原山日暮れて寒き人あしの中のひとつの音絶えにけり 挽歌


少年騎馬隊


十二三頭馬乗り入れて来りけりこのだくを見よと少年騎馬隊


木槲もつこくは冬によろしき門庭を馬糞まぐそ火気ほけ立ち騎馬は足踏む


息しろく凛々しかるかも少年騎馬隊馬上敬礼の眼を向けにけり


夕凍ゆふじみかど出づる子ら馬上なり早や疾駈はやがけに駈けつつゆくらし


門庭に馬糞まぐそ火気ほけ立ち日は寒しすべなあはれとわれは掃きをり


月に飛ぶ雪


この月を葉叢はむらに影さして飛びちらふ見れば雪はおもしろ


寝帽ナイトキヤツプつけてまだ読む月の午後ごやしきり粉雪のけはひさらめく


楽しみと


三月五日夜


楽しみと心こめゆく夜のさなか出で入るふかき息づきを吾れは


ほれぼれとおのれ遊ぶとたのたのと磨る墨のいろはひとり吾がもの


磨る墨やにじむ光の粒だちのにほひこまやかにのりて来るもの


楽しみとひとりれつつ磨る墨はむべこまやかにとろりとあるべし


草仮名は心ゆくなりほそがきの面相めんさうに書けばなほとおもしろ


薄暮雪


落ちてけりあはれよと見るその棚の通草あけびとどとして積む雪とともに


雪のいろみなぎる見れば日の暮は下沈みつつよく積みにけり


雪片


寝室にて


玻璃の窻桟のすき吹き吹きたまる雪片せつぺんしろし小夜ふけてける


夜はふかし隙間すきま吹き入る雪の粉の今は小床をどこに飛び乱れ積む


夜のふけの鏡にうつり幽かなり雪片は白しつもりつつ澄む


寒鴨


水の手にさけぶ野鴨の数きけばねもごろならず月夜きびしき

・春の銃眼


篠むら


吾がかどのおもての細き美篶原みすずはらみすずは寒しよくしをりつつ


美篶原みすずはら風のそばえのよく見えて春早き朝の日のあたりなり


目にしげき風のそばえは寒けれど美篶みすずが原よ春は来にけり


美篶みすず吹きしの吹く風の朝東風あさこちは目もすまにして音のさやけさ


春と言へどいまだすす吹く風さきにやなぎは枯れて影あらはなり


風の夜


風の吼え聴きつつくだつこの夜さり玻璃戸にうつり吾が顔は見ゆ


風の夜は暗くおぎろなし降るがごとき赤き棗を幻覚すわれは


しばしばも息吹きやすむ風息かざいきのこのけぶかさはえかへるなり


夜の風の息づきのり沈む蘭鋳らんちゆうの尾鰭ひらきゆるがず


風の音すさぶこの夜の篠藪をほそくとほりて真澄むこゑ何


うち向ふ春なりながら美篶みすず吹き夜をしきり吹く風のするどさ


家垣を一夜ひとよあらしの吹き落す椿のあかき花もあらむあはれ


庭の木々にすさぶ夜風はさりながら咲きつつやあらむそのあるものは


この闇の木々吹きひらく夜風には少くもあかを向けてあらむ


オスラム電球ひたと見つめてゐたりけり何ぞ夜風の息のみじかさ


しじはじく椿のしんの粉のひかりそとの嵐には動くらし


夜にちてはげしけれども物の芽に息つめて吹く風のうれしさ


息つめてかへえきる夜の風間かざま継ぎ吹く風はいまだ起らず


のもとに眼はひた向ふ妻とゐて何かあと引く暗き野の吼え


玻璃の戸をがりりとかじる夜の風の白き歯すごし我は見むとす


ぬか星にたける嵐の吹きあふる照葉てりはの椎のき光なり


黒松の葉がひに光る小糠星こぬかぼし風のおらびをは消えにける


風のさきまたくしづもる小夜ふけて軋む夜声の時をしむなり


風はよるはさだまりにけりうつ雨のはらはらと来てそれも止みたる


しきりなく自動車とほる夜のおもてどほになれば黎明しののめ近し


春雨


菊子中耳炎を病む


耳いたむ妻とこもりて夜はふかし物のこまかにはじく雨あり


この夜ふけ聴けばこまかにきこえゐる小雨こざめにしあれやそそぐ春雨


寝室の朝


二階、北と東の窻


北の風吹きは入れどもこの窻のひまあかりつつ菜のあをく見ゆ


百日紅さるすべりぬめりあかるき春さきは眼もぬくむなりその枝この枝


桜を思ふ


桜小学校に桜の校歌成りにけり子ら歌ふ頃は花の咲かむぞ


襤褸市ぼろいちに冬は貧しき道のしも桜小学に通ふ子らはも


春意動く


移るべき家をさがすと春早し土耳古の帽をかぶりつつ


野の方にしろき煙の行く見ればおろそかならず春はうごけり


春もやや芽立めだち張り来る木々のまに瓦の屋根がうちかすみつつ


風道かざみちにひかりてしろき花ひと木しきりにさびし何の花ぞも


この空の湿しめりにあかる日の在処ありど梢はすでにあかみ張りたる


山ゆけばしみみにこほし日のさして黒木に萌ゆる色のやさしさ


春まさにねぶたの芽ぶきいちじるしちよろろながるる水もおもしろ


つくばひ


つくばひの日あたりに見て春あさき土賊とくさは硬し叢立むらだちにけり


つくばひの水に映ろふ赤松の木はだなりけり雲うすら行き


つくばひの上清うはずむ水の底にして垢かぶりけり椎二葉三葉


風空


春と言へば日ましに乾く畑土の火山灰飛ばす錆いろの風


つちふらし嵐吹き立つ春さきは代々木野かけてあけ風空かざぞら


風面かざおもてあけに吹き立つ春真昼ゑぐきほこりじきいとふなり


かき濁りつちふる春やおぼほしく光無きに家さがしつつ


月のごと白き夕日やつちふらしをどむ真西のあけのしづけさ


春雨を待つ


まだ寒く硝子の障子めてたまるほこりの黄に濁りつつ


鶯やまれにあづさ下枝したえだ傍目わきめすれども鳴く音しめらず


築山の菫咲く


土のはだ乾く日向の薄ら影すみれの花はあてにやさしさ


築山の笹の根かたの日のあたりそよぐ菫は見れば幽けさ


家垣


家垣の椎の諸木もろぎの鏡葉の裏葉入り揉む雪おろしの風


風隠かざかげのぬくき垣内かきつの高野槙これの一木ひときの春のしづけさ


春の蚊立つ


椎のまにかへで嫩芽わかめのあざやけき吾が家垣をでてこもらふ


春の蚊の立ちそめにけり芽楓めかへでの下照りあかりしづけき土に


    §


四阿屋あづまやに虎斑の竹の葉は落ちていささめながら雨ふれりけり


風竹ふうちく万古ばんこの狸立てりけり春の日暮は愚かなるらし


    §


うち沈みいは蒼しかへるでの若葉明りに蚊のちらひをる


若葉していくらたぬをかへるでの葉べりはあかくすずしさ


春朝細雨


階上の東の窻より


春は朝ほのぼのいる吾が窻を小雨のり来るとべらの木見ゆ


石のべや若葉かへでとよくうつる春日燈籠に雨ふりにけり


築山の天満宮に雨はふり春雨にあれやふたもと赤松


笠の松たゆらたゆらにありにける風ありとしも見えぬ春雨


おもしろの春雨やとぞ人の言ひにけるその雨ふれりさくらの花に


春雨のあと


中垣をこなたへあかる山吹の八重咲きの花は雨ふかき花


ここの庭ひろびろと雨のりにけり朝出でて見る山吹の花


春昼落花


木槲もつこくのしづけき空へちりかけて桜はしろし光る花びら


木槲の一木ひときが陰の行潦にはたづみさくらの花は漂ひにけり


春じめり散りたる花は滑岩ぬめいはひらりつきいとどしき白


    §


庭土に花びらしろき春真昼つぶさに観れば風あるかなき


風たまゆら土にしづけき花びらのひとつ舞ひ立ちはらら皆立つ


春まひる土移りする花びらの光りつつとまりあとはしづけさ


いはが根にともすれば寄る花のべん風無かりけり動きつつ


新樹の頃


世田ヶ谷は欅竝木けやきなみきの若芽どき牛車ぎうしやつづきて騎兵隊がまた


欅木群けやきこむら寒けかりしか夏向ふ今いちじるし若芽萌え立つ


欅の木の芽立こそこまかなれ寝室の窻は朝け放つ


    §


曇天どんてんに萌えつつひかる樫若葉浮びてしろき浄水池の塔


あさみどりぶくくぬぎの木々の間に桜は乏しちらひそめつつ


日にけに雑木ざふきもえのかがやけば身はかいだるし胚芽米食ふ


若葉風揉みきたる見ればおそらくは田にはかはづの眼も光るらし


    §


木のま透き花遠じろく見えにける若葉がくりになりにけるかな


木の芽ぶきいつかしづけくなりにけり葉に出づるものは葉に出たるらし


砲車タンク驀進


とみにあをむ芽ぶき楊やかどいでて砲車とどろ来る音感じをる


春惜むこのゆするは日のけて砲車つづき来る永き地響ぢひびき


タンクの無限軋道の地響ぢひびきなり一台が行きてまた続き来る


タンクの銃眼にすわる大きなるまなこかがやけば春ふかむなり


木々若葉し日は照りかがやくおもてをしひしぎ行くタンクの歯ぐるま


砲車トラツク装甲車機関銃隊日毎とどろかす地響ぢひびきを吾れは


重砲隊とどろ圧し来る地響ぢひびきに叫びこたふる鵞鳥早や


春宵


起床喇叭吹きならしゆく木の芽どき月夜にはよき夏向ふなり


春今宵喇叭吹きさしわがかどを青年団ならむ何か言ひをる


二方ふたかたに喇叭吹き合ふ寄るのおぼろ田にもかはづの啼きしたしさ


通草と雨


棚にして見のすがしきは雨あとの通草あけびが綴る蔓の葉のもえ


ぬかさめのちららにむすぶ雌雄めをのはな通草あけびはすがししじみいろの花


蜆花しじみばな通草あけびちりしきおびただし時に揺りこぼす棚の上の雨


雨落あまおち通草あけびの花はちりきてなか流れをり清きむらさき


雨たもつわか葉の通草あけびすがすがし棚ぬけてそよぐことごとの蔓


風二三日


この硝子戸の日の照りにわが見るは風の吹きまくる八重ざくらのみ


風の今朝八重のさくらはほたほたと吹きもぎられて色のさやけさ


柏槙


石のべに緑沁み嫩芽立わかめだちはひびやくしんの春のすがしさ


すがしくも今朝ふる雨や新葉にひは立つ矮檜そなれのいろの石に映ろふ


兵卒


肩章の三つ星を見よと来りけり手をあげにけり背は低き兵


汗ふくと軍帽をとり息づけりひたひのみしろき上等兵あはれ


此処に来し安けきかどかとあぐらゐて誉まさぐる兵卒あはれ


むかひゐて兵卒はにほひはげしけれ街道に遇ふ縦隊のにほひ


兵卒はくるしからむとこの照りを病ふなきかとただに見てわれは


椿朽つ


踏処ふみどなく見ゆる椿もおほかたは早や朽ちかけぬあかきは三つ四つ


落ちかさみくる椿やその花のひとつあかきに蟻のぼりをる


吾が門


吾がかど築土ついぢはた白薔薇しろうばらおもてへは向かずこなたへと咲く


眺めゐてくぐりの白き花うばらつはひりする子らがよろしさ


五月


わが庭の薔薇うばらのとぼそ春過ぎてくれなゐ久し夏はくるしき


山吹の花ちりがたとなりぬれば蘇枋すはうは染めぬ紫の枝


転居の日近づきて


家移やうつると今あらためて見るものにこの家垣の椎よ芽楓めかへで


咲く花はのち住む人の楽しみとのこしたらなむその草花は


雪つもる通草あけびの棚は飯食いひはむと朝夜よろしみ茶の間より見し


をはりの夜


ここに聴く遠き蛙の幼なごゑころころと聴けばころころときこゆ

砧村雑唱

昭和六年初夏より同八年の冬に至る、砧村の生活に由る。此の篇年次に章を分つ。此の砧村大蔵の野に於ける鉄塔と雲との風景は快適、日月ともに明らかにして、季節の推移亦おのづからなる玄理にかなふ。自然随順の三年なり。

・白南風


初夏の代々木


明治神宮


若葉樫しきりかがよひひるちかし明治神宮の春蝉のこゑ


御庇みひさしの檜皮の黒み夏まけて映る若葉のさやにまばゆさ


赤松の木群こむらしづけきここの宮椎の若葉の時いたりけり


夏向ふ五百枝いほえ厳橿いづがし葉広橿日にきらきらし若葉厳橿いづがし


雨は今朝ふりながしけむ若葉橿や神苑の森は塵もとどめず


ここの宮光る若葉の葉ごもりに一羽雉子きぎすの声ひらくなり


同じく西参道


明治神宮西参道の昼けて清きひと照りの風ぞ過ぎたる


昼の林泉しま光る若葉の靄ごめにまじりて黝き松のしづけさ


とほる広き芝生のまゐは玉敷きならし目もすまの照り


神の苑木立おもての真日照りをあり雉子きぎすの一羽たふとさ


眼は向ふ芝生なだりの日のおもて宝物殿にうかぶ白雲


ほのぼのと真昼はこもる靄ゆゑに一木ひときのしろき花のめでたさ


お池にはいづくにも見る影ながら亀の子が揺る水際みぎはさざなみ


代々木練兵場


代々木練兵場朗らけくあかし若葉どき上下八方にとどろく物音


代々木の空若葉盛りあがる色見れば青あり緑あり時くるあり


赤土に伏せのかまへの兵ふたり照りあきらけし見ざるべからず


砲車隊はしる夏野の日のさかり遠ざかり遠ざかり立つ後埃あとぼこり


新居前景


朝眼には若木桜の葉ざくらの梢葉うれはあけの裏そよぎつつ


夏向ふ霞にあかる若葉木の木群こむらのみどり盛りかさむなり


田のをちは若葉かがやく日ざかりを往還の埃吹きつけはしれり


桐の花ふふむこなたの日おもては蛙が鳴きて水田さざなみ


白南風の頃


白南風しらはえ光葉てりはの野薔薇過ぎにけりかはづのこゑも田にしめりつつ


大葉栗夏はこずゑの房花ふさばなのさやかにあかり田毎しろ掻く


水口みなくちのえごのひと木の群花むらばなは田を植ゑそめていよよすがしさ


刈りしほと


かりしほと麦は刈られぬ。刈麦の穂麦は伏せて、畝竝うねなみにさららと置きぬ。麦刈ればそよぐさみどり、うねにすでに伸びつる陸稲をかぼならしも。


    §


刈りしほと麦は刈られしこちごちをこのごろしろし馬鈴薯の花


熟麦うれむぎの穂麦刈りとる畝間うねまには早やつやつやし茄子の若笛


茄子畑は穂のみ刈りそぐ立茎たちぐきしがらみあかし麦のしがらみ


農村月夜


西山野


月の夜はいとどかぐろきの森を田には狭霧さぎりの引きわたるめり


狭霧さぎり立つ月の夜さりは村方むらかたの野よかうばしく麦こがし


東山野


月魄つきしろのしろき夜さりの離れ雲麦たたく音の村にさびしさ


水の田ちかく


朝なさな我がかどいでて見るものにしみじみとよし植ゑし水の田


竹山のうすきみどりの朝じめり水の田ちかく見るがすずしさ


竹若葉


竹若葉みどりこまかき山方やまかたのひといろのなびき朝目にも見よ


わせ竹の若葉にらふ夏がすみ何か日中ひなかの音くるなり


前の植田


植ゑめてみどりすずしき下の田を畷もあぜも見のあをみつつ


田の水に茅萱うつりゐしづかなりこのすがしさの真昼ちたる


田のあぜをこなたかがみに叉手さでつかふ人かげ見れば梅雨つゆあがりけり


田は植ゑてうつりよろしき秦皮とねりこの若葉も過ぎぬ五四本いつよもとづつ


畦竝木あぜなみき遅き若葉もふきたちて青葉がうれのまたあかるなり


青一色


朝目覚さやにすがしきこのごろは田面たづらも畑もあをよひと色


あさみどりしきり揺れ合ふ竹群たかむらは若竹のと風にすずしさ


夕べの青田


さしあかり夕かげあをき竝田なづきだにそよそよとある時化後しけあとの風


の田に沁みつつひびく蝉のこゑ夕づきにけりうつくしき晴


梅雨長し


梅雨つゆ過ぎてなほも降りつぐ日癖雨ひぐせあめこのごろ見ねば庭も荒れたり


梅雨つゆのまも桃の繁り葉末葉うれは立ちまた掻き垂れぬ夏檜葉のうへ


梅雨あけの庭


梅雨つゆあけの葉かげに照らふつぶら玉豊後梅はあかし花のごと見ゆ


コスモスの立茎たちぐきあかき梅の根はこぼれ日つよし地靄立ちつつ


空のむた蒸しつつしろき日は暑し草いらふ手にひかる汗はや


土ほてりけつつもあるか日のさかり爪立ちてしろき猫はかまへぬ


に出して昼は果敢なき鉢ながら瓢箪の花の夜は咲きにけり


月と水田


かはづ鳴くくらき水田の夕澱ゆふをどみ電柱に添ひて月のぼる見ゆ


円けくもだし光らぬあけの月ひむがしの塵の澱みにぞ見ゆ


ゆらぎたちややに照り来る月の出を田には蛙のこゑしきるなり


短夜みじかよの月のおもてとなりにけりかはづ鳴く田がただあかうして


月の道いつか南へりぬらし光は涼し田にひたりつつ


雨夜月


雨夜にも裏ゆく月のしろじろと空あかりしてくるものあり


棚曇かげ遠じろき月の夜は狭田さだの水田も沢のごと見ゆ


雨夜月かげはもてどもうすうすに田の水あかりかはづ音立つ


水の田の遅き月夜の時あかり泳ぐかはづのくろくしづけさ



闇を来てわれはいきづく小夜ふかく蛍の光田の移ろふ


月の出や稲葉爽立さわたつ夜嵐に蛍あふられ田の立ち消ゆ


月夜風あふる田づらを消ゆと見し蛍は高くまた光るあはれ


新月


うち蒼み暮れては無き西の手に早やあはあはしほそき新月しんげつ


門畑やそよぐ陸稲をかぼの夜に入れば月ほそく見ゆ黒きのうへ


唐黍咲く


もろこしは花つけそめし上の穂に緑蜆蝶みどりしじみはねひらきつつ


唐黍や立穂たちほわかぶさに照りつくるしろき旱雲ひでりぐもなれ


日ざかり


たぼたぼとかはづふ日のさかり田岸は白き虎の尾のはな


日ざかりの田中のくろきひとつ松夏はけはひにけにつつあり


日のさかり暑さ堪へゆく田のへりは桑の実黒く忍冬の花


唐辛子花咲く頃やほのぼのと炎天えんてんうねひずむ人かげ


白小雲しろこぐもかがよふ野良の末にして鉄塔のよき間隔かんかくは見ゆ


竹煑草


竹煑ぐさ朝行く月のわづかのみ穂には明りて風騒ぐめり


竹煑ぐさ夕立つ雨の乱るれば風さへすさび心神こころども無し


暑き日


身のほとり暑き日なかや眼につきて畳に猫の毛はつまみをる


蝉しぐれしづかにかよふ昼けて子と組み立つる名古屋城の型


蝉時雨


蝉しぐれしづけき山に行き向ふ真昼はあかし我があるきつつ


蝉時雨ながらふ聴けば母の手のつめたき手触たふみにおもほゆ


蝉のこゑしづもる山の昼けて光る黒檜くろびの土用芽は見ゆ


茅蜩を聴く


東山野ひがしさんやこのはじめてきく声の茅蜩かなかなのこゑは竹にとほれり


ある月の夜


月すでにのぼりてあはき黄のしめり茅蜩かなかなのこゑぞ森にとほれる


紫は茄子の月夜のかげながらわきゆく水のよく光るなり


月夜空高ゆく夏の薄雲は消えつつしあれど涼しかるらし


夜雨近し


雨夜雲あまよぐも移ろふ月のつぎつぎとさきあかりつつすでに露けさ


月の晩景


猪子雲ゐのこぐも照りる月の傍雲わきぐもに引く見ればあかね細雲ほそぐも


青き田


かけりけり狭田さたの青田のひと色にきようきようとしていち早き百舌


青き田の見はらしどころここにゐて二階は涼し風そよぐ見ゆ


目に移るさの稲田のそよろ風夕かげのいろと満ちてすずしさ


秋夕


うち向ふ竹の林の夕じめりひぐらしのこゑをひとり聴きゐる


気色けしきには匂のみなる夕霧の竹の端山にありてしづけさ


庭園の晩餐


天蛾


天蛾すずめがはねあげて来るゆふべには夕顔の大き花もこそ咲け


われは言にうちあげず月の出を大き天蛾すずめがはねりる見る


葡萄と月


一方ひとかたかはづ啼く田のはるけくて月わたる下び雲堤引く


照る月におもてふりむけわがかざす葡萄の房のつぶら実の玉


房ながらまろき葡萄は仰向あふむきて月の光にうちかざし


雛鳥の咽喉のんどあけたる子が口に葡萄つぶら玉入れてをりわれは


暁闇


木群こむらには早やも湧きたつ蝉のこゑまだあかつきの道はくらきを


蝉のこゑ湧きはたてどもこの朝やなにかきほひにおとろへにけり


門前の影


朝ひらく白き木槿むくげかどながら夕さりさぶし花はつづかず


電柱の片側かたがはくらき月夜り石ころにかやに露ぞ満ちたる


巻積雲


白魚の移ろふ群のひとながれ初秋の雲の空にすずしさ


流れけり鱗だちつつ正眼まさめにもすずしくしろくみなぎらふ雲


初秋月夜


月あかり水脈みを引く雲の波だちて夜空はすずし水のごと見ゆ


月に見て水脈みをだつ雲の風道かざみちは薄らにしろきものにぞありける


夕映の田


みのの夕映すごき乾田ひだひぢうち絶えて鳴かずかはづひさしく


秋の田の穂向きに移る夕雲ゆふぐもの影迅くしてあとぞ焼けたる


秋冷


葉鶏頭かまつか火立ほだちにそよぐなるこびえ日はとほりつつ色の涼しさ


颱風あらし過ぎいたも冷えたるみのになにか蛙の時ならず鳴く


月の夜の庭


月夜よし二つふくべ青瓢あをふくべあらへうふらへうと見つつおもしろ


ぬばたまの夜にして開く白き花大き夕顔の開ききりたる


檜葉の間


檜葉のまを移ろふ月のかげ洩れて涼しかりしか庭にて飲み


檜葉のまに光る蜘蛛ゐき月夜には揺れにたりしか糸もとどめず


秋日向


日の光みてすずしきむらぐさによき虫のこゑのほそく立ちたる


帚草株立かぶだちあかくなりぬれば日射すずしか猫もつくばふ


何か猫草にとりみつくづくと舌なめずりぬけだし日は秋


秋雨ほそし


軒の端や青きふくべにふる雨の雨あしほそくうちしぶきつつ


渡り鳥の道


その電線は庭のまなさきに見ゆ。


野分のわきだちかけりつぎ来る秋鳥のきそふ鋭声とごゑ朝明あさけまされり


群れわたる鳥かげ見れば秋空やただにひとすぢの道通るらし


つぎつぎと来て立つ見れば電線はりがねやこの空ぞ渡る秋鳥の道


秋分


よきかげよ向ひの松の木ぶりにも秋分の日射しづかにし見ゆ


秋祭


畷ゆきもみつつはやる樽みこし夕かげに見えて稲は穂の波


たるみこし山のすそ田の夕かげに出てはずむなり霧な棚引き


この道


草堤夕かげ永し誰ならず我があゆむなりかく思ひあゆむ


秋のいろただにあはれと道芝の小砂利まじりに夕焼くる蹈む


秋山


なぐはしき山とふならね雑木立ただにしたしき秋ふかき山


雑木山朝に見あるき夕べにも見てめぐるなり足の向くまま


遠足の帰りを


朝出でて帰り来る子とあひにけり歩みつつ聴くその秋山を


相模の阿分利の山の秋山のなにの紅葉かもとも染めたる



日ににほふしづかなる戸や門竝かどなみの秋ふかうして黄菊咲きつぐ


秋まひる隣にふかむ菊の香のいつかこなたへうち匂ひつつ


月と霧


吾が門にさし入る月のかげ見れば昨夜よべのあらしは激しかりにし


観るものに月の光は流るれど山櫨やまはじの葉にさらにすずしき


秋はいまさなかとぞ思ふ向つ岡月あかうしてこの夜十六夜いざよひ


狭霧立ちゆる夜頃や先駆さきかけて月に向く子が髪毛かがよふ


月夜風しろくかがよふ穂すすきの旗手は長しなびかひにけり


    §


架線橋つづきてらふ空ながら線路は涼し月明う照り 小田急線


ひと村に白くかぶさる乳房雲月の光のりにけるかも


もちの田はいまださ青し夜霧立ち香に立つ稲のその葉さやらふ


ここの田の穂の垂り見れば月の夜やただに夜霧のむすびつつあり


十六夜いざよひや月夜高きを濃き霧の煙幕の幅引きにつつあり


    §


蓆戸むしろどやしまく夜霧をありありとは赤くけて芝居うつ子ら


ひといろの松虫の音とぞなりにける夜霧ふりくだりここは松山


月に行く新懇道にひばりみちもたどたどし夜霧たちなびき伐りのこりの松


霧ふかく月もとどかぬわが前を影あやしかもあるきてぞをれ


この月をアンゴラ兎飼ふ家は霧ふかくとざし早や夜中なり


月明


草くづに見えて啼き澄む虫のひげ月のひかりは水のごとあり


床下ゆかしたに月の光は射し入れり球根が見ゆ数あかる蟻

・氷の鱗


水上


いはばしる水のかかりの音立てて紫やき竜胆りんだうのはな


日のうちも狭霧こもらふ水上みなかみは紅葉さしやき岩室いはむろ


枯山


雲間洩る寒き日すぢとなりにけり遠々とほどほに見る雑木々ざふきぎたち


冬山の枯山からやま来ればいさぎよしかんにひびきて何かる音


枯山からやまにはらら飛びふ小さき蝶黄翅きはねせせりの影ぞ生きたる


この道の朽葉下凍したじみかそけさよあたる日射のそれも寒けさ


寂びつくししかも明るき端山木はやまぎや時にはららき日ざしかがよふ


    §


冬まひる雑木端山ざふきはやまの日あたりを吹きあふる風の音のわびしさ


雑木山とよもす昼のこがらしはかうかうと寒し空へ吹きぬく


冬の土


庭の土風にひびだつ冬のれ鼠小走りただち隠れぬ


目もすまにみつつくろき冬の土玻璃の欠片かけすら光りかへさず


冬の土こごりきびしくなりにけり球根を埋めてにじむもの待つ


冬の土しみみ掻きたる種床たねどこにひとりさやけさや白き猫ゐる


種床にうづくむ猫の今朝はゐて時ならぬ白き華ぞ咲きたる



野にあればときのうつりのしづかなり霜は明らかに人はすなほさ


三冬月谷地やちの畠のとりどりに霜置き足らし我ぞ歎ける


霜畳さやにましろき萱の枯れ我が起き起きの心きびしさ


霜と言へば雑木ざふきの竝木みつくす田川の岸も目にしまるなり


霜は今はいたりつくしてしづかなりあぜつたひ来る庭鳥のこゑ


歳の暮に


形ばかりかどに小松はうちつけてただに来向ふ春を待つわれは


篁を松をこのに常に見てわが足れりけりなにぞ今さら


竹山


竹山はおもての小舎こやの蓆戸に日のあたりゐて寒き物音


篁のに積む稲は乏しけど唐辛子赤く掛けつらね干す


冬の水


えちぎり洗ふ大根おほねをその葉さへかん素水さみづにわれは見つくす


冬はいましろくさやけき蓮の根の紫ひかる切口のあな


うち沈む飯粒いひつぶ見れば冬の田のあとゆく水もえとほりけり


常無きはいよよ清明さやけしさらさらに冬の淡水まみづもながれ来にけり


冬の水いさら小川の日に透きて影うごく見れば流れつつあり


冬の田


裏の戸


群鶏むらどりの白きかけゐる背戸ながら田にはけざむき影ばかり見ゆ


昼のも冬の田の面はけざむくて何かみつつ影のかぐろさ


氷雨ふる


冬の田の門田のひぢにふる雨のこの氷雨ひさめの音立てにける


朝の田に澄みつつあかる水のいろ昨夜よべ氷雨ひさめかふりたまりたる


冬の田よしきり光れど日のうちもおほにかぐろくさむき稲茎いなぐき


冬眠するもの


冬の田のこごれるひぢにすむ魚の蛙の蛇のこゑもせなくに


土ふかく蛇はひそむととろほろと眼もつぶるらむべはせなくに


声は無しただに月夜の田のひぢにおのれ身がくり冬眠るもの


足跡


冬の田の足跡見れば入り乱り氷雨ひさめたまれり深き水の田


氷の鱗


冬の田は稲ぐき黒き列竝つらなみに鱗だちたりき氷張り


冬の田に月の光の来るとき稲茎いなぐきは見ゆさざら薄氷うすらひ


冬の田の深田ふけだの氷びわれて月の夜頃はよく光るなり


冬夜


ふすまには猫の物む大きかげ夜寒よさむひそかに吾れもみをる


白き猫しみ身動みじろぐ毛のつやのしづかを霜はにくだるらし


怪しくしづけかりしか夜明がたたちまちを霜の大いに到れり


眼を病みて


冬の夜のストーブれば我が行きし沙漠をぞおもふ駱駝の足音


夜は深しただにしづけくゐるわれをストーブのほてり痛む眼に来る


時ならず寒き夜ふけにとどろくは軍需品はこぶ貨車にかもあらむ


聴くものにはらつく冬の雨ながら月夜なりけり眼鏡拭きをる


雨と雪と


雨まじり雪かふるらし夜のふけをには立ちつつ眼には白かり


うすうすと夜目にも雪ぞつもりけるあたりはいまだ雨の音して


早春月夜


うちあがり月はまどけき向う岡木の立寒しまだしきさらぎ


浅夜にはかすむ月夜も夜ふけにはただにわたりぬえかへりつつ


早春の水田


前の田は乾き乾かぬ稲茎に日のあたるのみいまだ冬の田


田の水につづる氷の薄らひび春の日ざしは照りそめにける


    §


水の田に薄氷うすひただよふ春さきはひえびえとよし映る雲行くもゆき


刈かぶやくろき稲茎水ひかずひたりつくして冬もをはりぬ


春すでに刈田に黒きひぢのふくらみやはしうちにほひつつ


うちはずみにほふ青みや兵ふたりのそろひをり田に映るかげ


長かりし冬のねぶりよ土いでて蛙は水にまだもとろみぬ


田の水光る


楉山しもとやまぐむ春日を水田にはまだひえびえと風のさざなみ


田の水に来寄るさざなみ刈株の列竝つらなみのまに光るさざなみ


寂しき春


寒くのみいまだけぶらふ雑木原ざふきばらあゐむらさきに照る日かげりぬ


うちをどみ春は病ましも水の田に映る曇の日を透かしつつ


蝌蚪


猫やなぎ花はぜそめて田川には蛙子かへるごれぬしみみかへる子


揺り泳ぐ蛙子かへるご見ればくろぐろとひたり水漬みづきぬ底に群るるは


雨つづみ


あまづつみ薄き田の面の上清うはずみにおたまじやくしはよく泳ぐなり


かへる子はしじに濁せど道つけて薄ら水のる春の田のどろ


あまづつみにほへる見れば紫雲英田げんげだや春の日永はよくふりにけり


春の田


春の田にうつら啼きる蟇のこゑえごの木の芽もひらきたるらし


萠えいでてやはき木の芽の或るうれは白うかがやけり花かともあはれ


庭つ鳥あそぶ田の面に咲く花は野芹げんげん馬のあしがた


かけまじりあそぶ野鴨の埒なさよ水には入らず紫雲英田げんげだにゐる


春の田にしじにけゆく芹の花しろき鵞鳥の頸根うなね伏せたる


春茱萸やけむる嫩芽を田川には鶩ひとりが行き戻りつつ


田のいりは映るしもと叢嫩芽むらわかめこのしづけさをいまだきたる


光なき空


つちふらす春の嵐はとよもさず雉子きぎす鳴き立つ声ぞとよもす


つちふらすかざあし見れば吹き乱りひと日濁れり光なき空


初蛙


吾が門よ夜ふけにきけば春早やもかはづのこゑの立ちてゐにける


初蛙はつかはづ鳴くやいづらと窓あけて耳とめてをり月ののぼるに


    §


春じめり馬頭めづ観音の小夜ふけて立ちそめにけり田蛙たかはづのこゑ


くくと啼きころころと継ぐかはづのこゑほそき月夜のものとし聴きゐる


鉄兜


菜の花に眼のみうかがふ鉄兜童なりけり敵はあらぬに


爆弾三勇士を憶ふ


廟行鎮はきさらぎさむき薄月夜おどろしく三人みたりぜにたるはや


汲みかはす水尽きにけりいざとこそ立ちたりけむ思ひきはめぬ


鉄条網にいたりすなわちぜ死なむ命なりひたひたとそろふ足音


ますらをや命あると口火り爆薬の筒はいたはりぬらむ


きつくす口火みじかしひた駈けにぜて砕けて果てぬべき兵


ますらをはかねてしたれ行きいたり火とぜにけり還る思はず


筑紫の我が不知火のおぎろなき気性このごとし爆破しんぬ


突撃路あへてひらくと爆薬筒いだきぜにき粉雪ちる


薄月夜とどろ火のつたちまちをおのれぜ飛び兵微塵なり


兵士つはものはしかく死すべししかれども煙はれつつその影も無し


麻布第三聯隊


七年春、麻布第三聯隊の隊歌作成につきて、秩父宮殿下に再三拝謁し、歌詞成る。作曲は山田耕筰氏なり。軍歌としての新声騰り、光栄身にあまる。その時の歌。


賜謁の日


秩父宮召したまふなりあなかしこ麻布第三聯隊にゐのぼる我は


早や早やと召したまふとよ我が足ども踏処ふみどさだまらず営門を今は


わが君は直立すぐだちおはし御眼鏡にほほゑましけり此方こなた見まして


最敬礼して眼がしらあつくなりにけりすがすがしとも若やかに


麻布第三聯隊春まだ浅しうやうやと心ひきしまり高きにのぼる 屋上展望


隊歌発表式の日


五月十六日、隊歌発表式あり。偶ま犬養首相の兇変の翌日なり。この日参向、営内の道場にて撃剣の試合あり。我が椅子は一段と高きところにしつらへあり、中隊長宮に隣りまゐらせたり。あまりの畏こさに御後べに退りて扈従しまつる。


兵士つはものはうやまひあつし竹刀しなひとりお前にとうと声とほり撃つ


激しくうちあふ竹刀しなひ眼には入れこのかしこさに面も小手もわかず


営庭にて三聯隊の兵全部凹形に整列し、隊歌を合唱す。宮殿下もその列中にあらせらる。聯隊長と、作歌作曲の両者は北面す。風やや強し、聯隊長の訓示の後、合唱の声大いに騰る。


営庭の老木おいきの桜過ぎにけりわれは立ちつくす光る真土まつち


立ち待つと心澄みゐる昼さなか兵あらはれて来り列竝つらな


わが前に歩兵第三聯隊竝び立ち隊歌うたふと声大いにあがる


葉ざくらは風やや強し耳とめて宮の御声を聴きまつらくは


夜宴あり。将校一同列席。メーン・テーブルの中央に殿下おはし、我が席は殿下に対ひまゐらす。畏れ多きことかぎりなし。聯隊長には上海よりの凱旋将校対座し、山田耕筰氏その左に在り。わが作るところの隊歌、民謡「歩三の春」数次合唱され、少壮将校たちの気焔亦当るべからず。この夜、無礼講とて御手づから御酒賜ることしきりなれば、初めはひたに恐懼しまつりたれども、後には陶然として、わが歌謡など御耳に入れ奉りぬ。


瓶子へいじとらせ御酒みきはたぶなり御さかづき持つ手ふるへて泣きをりわれは


あなかしこ宮のお前に頸根うなねつきなんぞほのりと酒の乗り来る


この御酒みきおみもささげて酔ひにけりゆるしたばりて歌ひけりのどに


春の夜はけにたらしもみさぶらひ遊ぶ今宵もけにたらしも


我が歌


うちつけにただに胸うつ歌ならず心ひそめて我が歌は観よ


命なりありのままなる観のながめ秘密荘厳ひみつしやうごんすがたしぞ思ふ

・夕莢雲


苺咲く


いささかは庭の芝生のふちどりと苺のしろき早咲きの花


初夏の畑


麦のに植ゑて肥やる茄子のうね麦は穂に立ち茄子の花はまだ


蚕豆の裏吹く白き昼の風ものの気遠けどほく夏はさみしさ


夏すでに穂麦にからむ昼貌の莟よぢれて花二つ三つ


玄土


このあたり田植おそし、馬は印旛沼地方の事果ててより借りて来るなり。この夏ことに遅れたり。


玄土くろつちは光とほらず物の根の下凍したじみふかし春来るなし


玄土くろつちのなじまぬ土の畑つものとき遅れたり白南風しらばえを而も


玄土くろつち真土まつちならねば水入れて深くぬめるなし早稲田わさだ根づかず


蛙鳴く草田のいきれたがやさず梅雨つゆは向へど馬も借り来ず


玄土くろつちの小田よ十代田としろだの栗の穂の光しらけてやをら代掻しろか


代掻しろかきの真夏来れり出でよ出でよとみに見えたり玄土くろつちのほけ


耕田遅る


まだ鋤かず狭田さだの田岸の鴨萱の根を泳ぎつつ蛙らはゐる


青日射あをひざししげきはぐさの下草には立ちにけり早き虫の音


夏の田やいまだ鋤かねどぬめり田のむらさきのどろ光りまされり


草ごみに荒く切りゆく田の土はすき刃型はがたの紫のくれ


夜々、蛙を聴く


藁床に起きてなげけば蚊のこゑも立ちてゐにけりころろ夜蛙よかはづ


楽しみとかはづ聴く夜の水口みなくちは水も遊ぶか音ちよろろゆく


庭前小景


青梅の幹掻き立つる母の猫仔猫は飛べる蝶を見あげぬ


野茨のいばらはいとどしろきにかさ厚き薔薇さうびは濡れて肉いろの花


鉄鈷雲


黄金こがね鉄鈷雲かなとこぐもおほき雲ただに押しあがり昼は久しさ


入日蔽ふ鉄鈷雲かなとこぐもは雨雲の下ふらしたりすごく焼けつつ


    §


真東まひがしやただにり立つおほきなる鉄鈷雲かなとこぐもは一つ根の雲


日のさかり鉄鈷雲かなとこぐもわきあがる神立雲かんだちぐものおどろ三つ峯


深大寺


立雲たちぐもいかづちこもる傍空かたへぞら風前かぜさきしるしここのまつかぜ


黒南風くろはえにかがよふ群の青杉は嫩芽わかめふきたつ深大寺じんだいじの森


夏すでにくろむ青葉を揉みあふる梅雨つゆの風ふかし押し移る雲


この庭や後ろふかきに日はさして枇杷の喬木たかぎの明き実のかず


しづかなるいほりやと観て仰ぐ眼にまろまろとよしあかる枇杷の実 庭に小亭あり


庭苔の強き日射ひざしを時かず散らひ舞ひ来る細き葉や何


花よりはこれの一木ひときの鏡葉の照りかへし日を白しとを見る 泰山木に花ひとつ残れり


やきここのお池のとちかがみ眺め足らはむ肘枕して


深大寺松風ひさしこのこも黒南風くろはえはくらしけだし夜に入らむ


大葉栗しろくなだるる花群はなむらは深大寺出でて布田ふだへ行く道


鳥居には一木ひとき栗の木花さはに穂に咲き垂れて代掻しろかきの馬


梅雨にこもる


梅雨の靄おほに蒸し立つ日ざかりはくるしかりけり野にこもりつつ


けけと啼く夕闇ゆふやみかはづ家垣の檜葉のしづくか食らふなるべし


食用蝦蟇


洗足池のほとり食用蛙を釣る浮浪者殖えたり、一匹の値五円なりといふ。


池のしも茅萱うちひたす出水には食用蝦蟇がまか夜ただ吼ゆらむ


池尻に食用蝦蟇を釣ると来てあはれあはれ空し人かがみをる


老蛙子蛙


老蛙子の蛙とし鳴くならし夏めきにけれやにほふ闇の田


老蛙田簑て鳴く梅雨の田を子の蛙らは泳ぎすらむか


或る門前


むくろじは花ちりしける白土しろつちに雀鳴き立つ梅雨あけの照り


梅雨つゆあがり代掻しろかきをへし水の田に新麦藁あらむぎわらの鳰が映れり


宵月


無線塔とわたる月のこなたには蛙が鳴きて植田すず風


敷藁や月夜清きに南瓜かんぼちやの黄なる花さへ照り白く見ゆ


地靄立つ蒼き月夜の草堤ひとりは行かず子ら二人ゆく


夜声


梅雨霽つゆばれのあをき月夜の白小雲遠く犬の声のうつくしく


吾が窓よ月に開けば刈りしほの穂麦の矢羽根風そよぐなり


代掻しろかきて水も足らふや夜はかはづころろ楽しめり玉ふくむこゑ


雷雲


黒南風くろはえの風さき見れば雨雲にらいこもりつつ青き田のいろ


夏真昼とどろ閃めき押し移る雷雲らいうんさう踑居あぐらゐて観む


雨雲にやまずひびかふ物の音夜はまだふけず赤く濁る月


路上の照り


前歩む子らが頸根より落つる玉の汗見ればよくけにけり


揺りひびきしづけき山はよく聴けば分きしぐれつつみんみん蝉のこゑ


夕雲二景


あやに飛ぶ雲のうへ引くすぢ雲は夕光ゆふかげにしてさらに気遠けどほ


かぎろひの夕莢雲ゆふさやぐもかなかなの啼くも早しつつあり


紫芋


めて群立むらだつ芋の高茎はくれなゐすがし下透かしつつ


茎高くきだかの芋のひとつ葉風吹きてひるがへる見ればすべる白露


秋の風さわたる見れば高畑や幾畑となく芋の葉の群


芋茎やさや立葉たちは風傍かざわきも早や色づきぬ早穂田さほだ粳稲うるしね


朝曇うすらすずし水の辺はずゐき積みたりあかき芋茎



日おもてにひた黒の牛立てりけり深くうなぶし見るとなき目見まみ


道の幅俯居うつゐる牛のわきよけて歩み来にけりひた堪へむとす


    §


風を見る牛のまなこのしづけさよ秋づきにけりうつくしき稲


ただに射す夕日や牛の横臥してまぶた蒼蠅さばへしばたたきつつ


大黒おほぐろの雄牛の尻毛巻きにけり夕風乱りほそぼそと見ゆ


艶黒つやぐろおだしき雄牛うなじ垂り日の夕かげは曳かれけるかも


この道に静けき牛のありしかと還りゐにけりほそき月の夜


夜は起きて


ここの谷地やちえはなはだしは起きて月夜すがらに雲のゆき見ゆ


夜に起り荒く息づく風音かざおとはまがふべきなし耳を放たず


月の前おのれ消えつつ飛ぶ雲の後来あときたるの空のすずしさ


山蝉かけだし魂ぎる雲いでてただち梢にひた明る月


はやし月に逆らふしばしばも後夜ごやはあはれに裏あかりして


大森区


本門寺


扁額は大虚庵光悦の書なりといふ


おほらかに本門寺とぞ読まれたる日のくれぐれを仰ぎゐる我は


本門寺日の暮れかかる真正面まおもてはひろびろとあり寒き石段いしきだ


赤松はけだししづけしつれづれと惣門を来てはひるこの庭


本門寺裏の切通しをどらいぶして松おほき山の寒きに向ふ


洗足の池


まかがやく日の位置低し空は観て西かともへど南とも見ゆ


わが来り片附く水は池尻の築石垣のさむき夕波


ぶよのむれ夕日にきほふしまらくは赤松の幹も暮れがたみあり


冬晴の夕日に照らふさざら波洗足の池は木のまより見む


池の面に沁みて光るは丘の家の硝子戸の冬の日の反射ならむ


ひたおもて水にかぎろふ夕光ゆふかげのひと幅の動き我にとぞ来る


み冬日や黒くあらはに短艇ボート漕ぐ影二つありてかぎろふ夕波


この池や広く明きに我は見てなにをかも憎む漕ぎゐる憎む


軍鶏


若冲の画を観て、心神相通ずるものあり、乃ち我も亦、


この軍鶏しやもきほへる見れば頸毛くびげさへ逆羽さかばはららげり風に立つ軍鶏しやも


軍鶏しやもたけいさぎよし肩痩せて立ちそびえたり光る眼のかど


冬のつちに昂然として立つ軍鶏しやも鶏冠とさか火のごとし流るる頸羽根


一羽ゐれば胸高軍鶏むなだかしやもかけあと向けりけりはらめく尾の羽根


軍鶏しやもたちしづかよと見れ蹈むただち蹴爪くひ入る霜ばしらの土

・父母の冬


鶉飼


わが父はつれづれのおきなうづらひひめもす飽かず、鶉籠とさし寄せ、行き通へよくつがへとぞ、いすわると、膝に肘張り、眼を凝らし、ただにおはせり。真白髯かき垂るおいの、この姿ひと日もおちず、生めよえよよく番へとぞ、日あたりを冬はよろしみ、端居はしゐますかも。


同じく


摺餌掻きただにみ冬を家ごもりつがふ鶉を見てらすなり


ま寂しき父とはめや日あたりを鶉見守みまもりひたぶるに


み冬日はかなし鶉ものどならず行きはかよへどよくはつがはず


とまり木の捲毛まきげカナリヤ声揺らず冬をこごえて眼はあけてをり


おもほえず父の薄眼うすめのたどたどに日月も知らずなりまさむとき


信心


わが父は信心の翁、み目ざめはあかつき闇、口嗽ぎただちをろがみ、珠数かぞへ南無妙法蓮華経、かがなべて朝に五千、ひる過ぎて夕かけて三千、湯を浴み、御燈明みあかしけ、残りの二千、一万遍唱へつづけて、真正まただしくひと日もおちず、国のため、祖先みおやのため、その子らがため、わけても子らの子がため、ただ唱へ南無妙法蓮華経、いとほしと口にはらね、いつかしさまたただならね、ひたぶるのこの親ごころ、その子我、仰ぎまつりて泣かざらめやも。



同じく


日をひと日よるみひたごころらす我等が父ここに


愛児まなご我などかたゆまむこの父の夜もおちず通ふ御声とほれり


わが歌はわがものならず祖先神みおやがみくだしさきは言霊ことだまの揺り


父のこゑ澄みぬるきはやうつばりの塵ひとつだに聴きものがさず


魂むすび父とその子の相合へばことには揺らねただにかなしさ


ほのぼのとおはしませばか尊くてこの頃父のおいのよろしさ


宵寝


わが父は八十やそちかきをぢ、国いでてすでに二十はたとせ、この頃は夢に立ちと、き友の夜ごと寄りと、楽しよとひと夜もおちず、よく寝むとふすまかつぎて、今宵はもの誰か来む、早や待つと、すぐに寝ましぬ、友無しにして。


たけ高き母


わが母はたけ高き母、まさやけくさびしき母。おもてだち学びまさねど、偽らず、正しくましけり。み眼清くきれ長くます。やさしきはつまにのみかは、その子らに、その子の子らに、なべてかなしく白髪しらがづく母。


わが母


わが母はシゲ子、石井氏、肥後南関はその里なり。


母の国墨磨川の水上みなかみの山の井近くしだるゆづり葉


わが母や学びまさねど山水やまみづのおのづからにし響きたまへり


わが母はこころ隈なしまさやかに御眼みめ明らけくきれ長くます


わが母はあてに清明さやけし山の井の塵ひとつだにとどめたまはず


わが母はよにいさぎよし高山とたとへて言はば雪割の花


手習ひ


わが母はつれづれのおうな、永き日を子らが名書くと、手習らふと、たどたどし筆と墨や、その文字は父に習ひて、隆吉・鉄雄・家子・義雄と、その子らが名。かなし母この母へば、赤石の硯の海のふかさこほしも。


老の賀宴


昭和七年十一月五日、父の喜寿と、母との金婚式を祝ひて、一門その膝下に集る。



かがなべておいの齢のたふとさよ七十路ななそぢあまりいよよ七歳ななとせ


よき翁父の寂びたる老楽おいらく市中いちなかながら山の手の松


こきなでてゆたけき父のましろ髯いや掻き垂らせその膝までに


おもほゆれ相者さうじやならずも我が父のみ命は長くゆたびつつ



金婚の父と母とを言祝ことほぐと子ら挙り来てつどふよろこび


金屏の灯映ひうつり見れば父と母竝びおはしていよよたふとさ


父に添ふ母の今宵の影見れば永くも添ひてり来ましけり


よきおきなよきおうなとしうち竝びますこの夜のあてにをさなさ


父と母竝びいましてしづけさよ七十路越えて二柱なほも


うちそろひて老づく子らを父と母世にますことのありがたく泣かゆ


わらべより四十路五十路と父母を仰ぎ来しもの正眼まさめかなしく


わが母のいまだあえかにましまして父のみもとのぼんたんの花 庭にありき


嘖ばえて


わが父はさびしきひと、富み富みて失ひしひと、傲りかに育ちふるまひ、五十路過ぎよ、くにを離れて、年老ゆと、心弱ると、すべなみと子らにらしぬ。この父ぞこの日を、子の我と酒めせばか、る荒み霊。思はぬにうちきほころばしにけり。いつかしき昔の父、おもかげに今し立ち、いさぎよしわが父やげに、昭和八年一月元旦、父の子は我は、ころばえて涙しながる。


    §


わらべぞとまだおぼせれか一声にとぞころばす白き髯の父


こと過ぎてころばえにけり何ぞかく父の尊のおそろしきや我に


ころばえてまかり還ると夜は寒しこの元日の星の照りはも


ころばえて父と思へばいさぎよしよくこそ強く生きたまひけれ


老楽


父と母さが合はず、さびしくましき。若きより悲しかりにき。今老いて、七十路過ぎて、さらさらに何の事なし。頼りなく頼りますかも、まさびしくしづけかるかも。朝に夜に、茶のけむりほのぼのと立てて、在りむかす、これの老楽おいらく


冬の日


老らくのながき朝夜のわびごころただにむかはし寒きこの頃


父と母冬は南の日あたりをただによろしみ常二階うへ

・月の魚眼


霜に行く


上乾くもろき地膚ちはだや立つ霜の光る柱はさくりさくり踏む


朝北風あさぎたを帽ひきかぶり出あるくと松原越えて寒しいよいよ


卓上燈


反射燈更けにけり我と在る球面の影の冬はきびしさ


煙筒に風の吹き入る音きけば雪解ゆきげはいたも騒がしくあり


梅に寄せて


昭和八年二月二十七日の夜、与謝野寛先生の還暦祝賀会を東京会館に開く。その折、梅に因みて献げたる歌十首、但し各人同題なり。


たたごとうち挙げむよはまのあたり今日をさやけき白梅の花


久地梅林の梅に


君がため未明まだきに起きて梅のはな見に来りけりまさやけき花


来り見て涙しづかなり梅のはなかくはこもらふ靄にこの花


白くのみ光こもらふ梅のはな松の木群ぞうちかすみたれ


昼の靄うちへだて見れば梅のはな紫ふかき枝に照り交ふ


咲きにほふ老木の梅こぼれ日は花おほきからにうつくしき影


再び梅に寄せて


よき人の道のあゆみはとどまらず白梅はくばいの陰を入りて出たまふ


梅の花にほふ南のゆふがすみほのかにおいにいたりたまへり


ぬくみ


日のあたりなにとなけれど春もやや立枯草たちがれぐさ叢根むらねかがよふ


ほのぬくみあか真土まつちや追ひぬけて鼠見はなち猫のころぶす


水辺早春


葦かびの角ぐむ見ればあさみどりいまだかなしき宇麻志阿斯訶備比古遅神うましあしかびひこぢのかみ


春はまだ寒き水曲みわたを行きありく白鷺の脚のほそくかしこさ


蛙子の生るる頃


春早き田の面の水皺みじわ風吹けば流るるがごとく動きつつ見ゆ


春いまだひきのたまごも田川には水泥みどろかぶりぬ揺りうごく紐


紐解くるひきのたまごにくろぐろと今はしみみにはずむものあり


ほかならぬ子らを思へばかへる子もしじにれつつ水に


かへる子ぞしじれたれこの水を親のかへるの影ひとつ無し


初蛙


四月五日夜、ラヂオのニユースは米国の大航空船アクロン号の墜落を報ず。


雷とどろき裂くるすなはち天翔あまがけるアクロン号はほろびたりけり


アクロン号とどろほろぶとも夜に聴きてころろうつくしき田蛙たかはづのこゑ


さとき子らかなやあはれ夜に聴きてかはづ啼くころろと啼くよと聴きをる


木の芽立めだちかをす雨間あままの夜ごもりにかはづは啼きぬまだくくみつつ


冬を眠り春は起きる田のむろのぬめりかはづか覚めつつあるらし


遅日


田川にもひきの子満ちぬいざ子供卯月八日やうかの花菜摘み来な


このゆふべたとへしもなくしづかなり日は明らかに月を照らしぬ


春朝


ある朝、縁側の姿見の卓に花瓶を置きて海棠を挿したるに、鶯の来てとまりたれば


春はいまけむる小雨こさめのものならし鏡にこもるうぐひすのこゑ


湿り田


湿しめよ春は田の下萌したもえに油ながれて日ぞ光りたる


投げ棄てをかぶら花咲くここの田の見のあたたかやまろき根蕪ねかぶら


麦秋の頃


蟇のこゑ野天のてんにひびくひるちかくこげいろの風も麦あふり吹く


熟麦うれむぎの大麦の穂を照りつくる六月の日射ひざしくらきがごとし


刈しほの濃きはうすきは大麦と小麦にかあらむ裸麦もあらむ


焦いろの盆地の麦に立つ靄の夕あかりながく蒸しにけるかな


かざおもていとどかぎろふここの野は麦ほこり立ちて言ふばかりなし


    §


白南風しらはえの軍用道路はてもなし竝び押し来るカキ色の兵


麦の秋目もましかもとどろ来る戦車かぎろひ砲つづく見ゆ


乱れ立つ電柱見れば黄の麦や段畑の上にあがる白雲


立雲よ野外教練の子ら行くとつつはかつぎて足乱れ踏む


熟麦うれむぎや月夜ひさしき砂利路をもそろ這ひ入る大き蝦蟇がまあり


草堤にて


人ゆかぬ荒玉あらたま水道草ふかしけにけり隣田のひき


あさみどりしめゆひそめし早苗田の苗間なえまの田水のりにけるかな


蛙を聴く


草ごみに鋤きしばかりをのる水のかはづにはよき雨ふりにけり


地にひびきしげき蛙を夜ごもりに触りてゐにけり耳に蛙を


田の蛙しくしづもる時たちて音とほりけり深き夜の地震なゐ


田に満ちてしげき蛙はよく聴けば子らが小床をどこに呼び鳴くごとし


草堤子らとありきてこちごちに聴ける蛙か夜もすがら鳴く


くくみ鳴くひきのこゑきけば草ごもり夜の眼光らす田の水が見ゆ


ひとつゐる濁声蛙だみごゑかはづひぢのうすら上水うはみづも夜ふけつらむか


ナチスは書をきにけりかはづ聴くこの夜深よぶかにしひびかふものあり


竹若葉のころ


あさみどりよにもすずしき一色は竹の若葉のひらきかけの頃


幾群いくむらと竹の若葉は萌えそめてこなたなぞへの馬鈴薯の花


草堤白日吟


草堤空梅雨からつゆひさし子らと行き妻と行きつつせつなくおもほゆ


篁子や黒き女童めわらべ草間ゆくかひなすねもよくけにけり


青萱原尿いばり放つとこの父と竝ぶか早やいさぎよし


爆音密雲にとどろけりあはれあはれ草いきれしるき中より仰ぐ


息ごもり風は流れずこの妻と夜に見し草の深きに見入る


雲は蒸す


夏霞おほに蒸し立つ野平のだひらをふきあがる雲ぞ低くかがやく


白光びやくくわうの蒸しつつこもる空にして雲の奥渡るくろき鳥あり


白きひだけぶかき雲をいやに雲はきあがりまかがやくへり


    §


蒸しにけり白き南風みなみを月かとも気球うかびて夕あかり空


六月七日浅宵


川端千枝女史告別式の夕、通知入手遅れ不参。


円けくて肉いろの月おぼろなり白南風しらはえあけの茅蜩かなかなのこゑ


身をつくす炎なりけむか老いつつあはれ激しくぞ恋したりてふ


夕かげを月は光らず眼前まなさきや電線の張りをはなれつつあり


村藪はまだ暮れがてぬ靄ながら月高くのぼりけんけら棒の音


無線塔相むかひ立ち夕凪なり暮れやらぬかなや月ものぼるに


雨夜雲き出づる月のかど見えて鋭かりけりかなしき光


    §


藤の棚に雨の音しげくなりにけり光りたりしかさきほどの月は


積乱雲


積乱雲とどろき立つ日のさかり人参の花に我は思はむ


真平またひらと根に湧きあがるおほき雲鉄鈷雲かなとこぐもぞ吹き乱れたる


庭前小情


七月二日


電柱と支柱が近き真日照りは諸葉もろはしなへてすゆき豊後梅


立雲たちぐもしくかがやく日のさなか蟷螂かまきりが番ひめすをす


下草を而も日照ひでりに眼を射るは山百合のしろき裂長きれながの花


よく光る百合の花弁や一茎に花は二つひらき照り合ふその影


頸長くびながの鉄砲百合は日に向くと鉢ごとに白く突きすがしさ


立茎のしろくこなふく竹煮ぐさ広葉わき立ち穂には数花かずばな


山椒の葉摘みつくしける庭に出て空梅雨からつゆのあけをしみじみ感ず


藤の棚蔽ひあまれる藤の葉のそよぐ影見れば照り透く葉もあり


七月八日夜、即興


大きタオル黒き裸身らしんに巻きつけ来る女童めわらべ篁子そだたきやらむ


母をしひたぐるこのよしつくづくと父ははばかるをこの子は成しぬ


夜明けに白馬ヶ嶽へ出で向ふこの子とへばうやうやし母と


驟雨、即興


葉洩れ日をただにすずしと下草に見つめゐにけりそよぐ光を


張つよき山百合の蕾うちたたく驟雨なりただち霧たちのぼる


深き酒せちにつつしむこの頃は脾腹にひびくなにものもなし


すばらしき雨あしの長さ岡の上の林より盆地の青田へ走る


豪雨とみにおとろへて金蓮花の濡色あかし蟹のごとうごく


吾が子らを心にへば神立雲かんだちぐも光り閃めきぬはたためくはのち


よくやしてやき麦酒はたたき走る驟雨のあとに一気に飲むべし


たちまちにして歌成るこのよろこびを妻に言挙げて我がくちつけぬ


或る朝涼


共産主義者転向すと聞くこのあした白鷺ら飛べり青き水田のうへ


晩夏小情


照りつづく夏もいぬるか肉厚く雲うかびいでて今日も蒸したる


ひだふかく光こもらふ黄金雲こがねぐも蒸すからにおほふたつ牡丹花


いまだ夏布団の綿は日に干して雲よりも白く光りたりけり


日のひかり強きさなかを黄の泡のほのぼのと立つをみなへしの花


切石にうづくむ猫のねちねちと腋毛わきげつくろふをみなへしの花


ひたむきにしづけかりけり日の方や向日葵ひまはりしんけつくしたる


花いろのなにかうち透く雲ゆゑに立つ秋風もうすら涼しさ


向日葵ひまはりや葉裏にさがる紋白蝶もんしろの夜はばたかず宿りたりけり


庭前立秋


風前かざさきに朝居るしろき積雲つみぐもの下空あをみ今朝はすずしさ


無線塔うつろふ雲の騒立さやだてば眼にとめて涼し秋来りけり


る蝉の鋭声とごゑしじながら立秋を今日を涼しくおもほゆ


垣くぐる尾長の猫の子を連れてほそり目に立つ桔梗きちかうの花


互生葉かたみばあふち瑞枝みづえ風立ちてその涼しさはかぎりなく見ゆ


藤の葉にとほる日ざしのすずしきはあふちの葉分く風そよぐなり


ひらひらと風に吹かるる黄の揚羽蝶あげは立秋も今日は二日過ぎたり


電柱に裏吹かれゐる蝉のの飛び立つと見れば鋭声とごゑれたり


白緑


昼さなか駈足の兵続きゐてキヤベツ畠の白緑しろみどりの風


白みどりよく植ゑめし葱の蜻蛉あきつは飛べりはやきそのはね


或る夕光


角畑すみばたや茗荷にあかる西の日の黄にかなしければ我は観るなり


木下道こしたみち夕日さし入り流れたり乱れ立つ蝶の何に驚く


向日葵童子


わが庭の向日葵つひに伸びず、一列にして小さし。童子のごときそのさまや。


たけひくき向日葵ひまはり童子どうじうちならびただす日におもあげて


日に向ふ向日葵ひまはり童子どうじ前なるがいといとさしおもてただにあげぬ


ある午


日のさかり草堤来る声はしてよく聴きてゐれば我が名しをる


我が言ふ行きずり人の声高こわだかをひそみゐにけり暑き日なかを


十六夜


照りいづる月は魚眼ぎよがんのごとくなり吹きながす雲よしろき水脈立みをだち


照り強し月のおもてつ雲の眼には裏べを立ちのぼりつつ


月夜なり低くかぐろき丘の脊をふきあがる雲ぞ絶えずかがやく


芋の葉の聚落を見れば月夜にはおもて照りあかり人ら立つかに


草土手や月にそがひてゆく我の影がひとりなり袖をふりをる


垂りくらき孟宗のに在る月の十六夜いざよひの光風にはららく


ちよろろと光る水あり草深に田をめぐり来て月の夜かなし 旱天にて田は植ゑ
ずじまひになりぬ


地下水の響くをきけば月かげや鋼管の蓋にあつまり光れり


風道かざみちの光すがしき鴨萱は月前げつぜんに見てぶべかりけり


狭霧立つ窪田のわきの草土手も月夜ふけたり竹煑草の花


うちかがむ毛のにこものの黒きかげ葱はかがよふ月夜つきよ落窪おちくぼ


十七夜


照りつよく孟宗の上に立つ光十七夜の月にわれは正面まと向く


十七夜の月かすめ飛ぶ雲さへや立つ秋風としじにし白し


稲びかりしきりひらめく棚雲の上の空晴れて秋は来にけり


旱天ひでりぞら夜も火気ほけだちていちじるき横雲の上に蠍座さそりざが見ゆ


十七夜の月惜みをればおどろしくしろきおほき雲の乱れ立ち蔽ふ


八月浅宵


藤の蔓網戸の外にうちそよぎかげ緑なり夜は透かしつつ


蝗麿網戸にとまり涼しさよあかりさしむけて我ら夕餉ゆふげ


宵のを網戸にたかる虫のの螺鈿きらきらしちりばめにけり


をちらして網戸にうつ天蛾すずめが肉厚ししあつき胴のくろ褐色かちいろ


にあかるみどりの網戸男童をわらべが虫を採る顔のそとに凛々しさ


黄金虫


野に向ふ我が家の網戸けばさうさうとして羽虫来襲きおそ


黄金虫うなり飛び来るこの夜ごろ雲は蒸しかへし夕凪暑し


黄金虫網戸うちたたく音きけばすさまじきかなやに狂ひける


黄金虫銃丸つつだまと来て乱れふりこの朝見ればなべて死ににけり


黄金虫朝なさな掃き亡骸なきがらつやふかきからびんにつめつつ


昼寝覚


昼寝ひるいざめ日の照る方にうち見やる往還のほこりとほくひもじさ


昼寝ひるいざめまだうつつなしながめゐてしらしら照りのをとこへしの花


晩夏白雨


いつしかと夏もぬらしこの真昼雨はげしけれど遠空あをし


白雨しらさめの霧立ちのぼるゆふつかた孟宗むらは燈火ともしび早し


白日観雲


我が家はながらにして観る雲の空広らなり野のかぎり見ゆ


ながらに雲のゆき観る昼つかたみんなみの空にかかる鷺あり


押し移りうしろ風もつ綿雲のおのれ薄れていつかむなしさ


吹くからにつぎつぎと来る白雲のおのづからゆたに移る風向かざむき


風向かざむきに移ろふ雲のまろがりは光厚うしてしろき二塊ふたくれ


さきの雲いづら行きけむ今見ればさまかはる雲の高う積みたる


仰向あふむきに眠る顔だち胸高く押し流れ行く雲もありにけり


楽しみと雲は眺むる夕かげを茅蜩ひぐらしのこゑの乱れ立ちつつ


曇り日


曇り空日暮もよほす雨のまを茅蜩ひぐらしのこゑの立ちきそふめり


雨ふり雲立ち蔽ふ森のこなた野良家組いへぐあかししきり音立つ


寝室の初秋


二階よりに照らしみる向日葵ひまはりの花さうして数無かりけり


硝子戸に白き寝台の影うつりもうつるなり子らが初秋


蚊帳を吊る妻が袂は寝たる子の直向ただむかふ顔に触りにつつあり


水のごと白き寝台の下冷えていのざるらし子らがつぶ


虫の音のほそきこの夜と思ふにぞあはれ一杯ひとつきの水すすりをる


秋旱


真昼ひとり歩み来にける砂利の道に夏枯れの田の風を見わたす


秋旱あきひでり防空演習しきりなりれつくしけるひえの雉子いろ


何に立つ水の音ならむ思はぬを旱はげしき真昼にきこゆ


木犀


夜のくだち小雨しづみてにほひ来る金木犀にうらなづみゐる


遠じろき夜


月の夜は雲遠じろし野平のだひらを多摩川あたり森低み見ゆ


月夜いまなにか明りて来る声の隣びとらし通り過ぎをり


我家を


昼の野に子らと出て来てかへり見る我家わがやにしあれや白木槿しろむくげの花


野に見つつしづかなりける我家わがいへや上のてすりに毛布干したる


秋の日


秋の田の早稲田わさだくろをゆくわらべふたり見えつつ彼方あなたしをる


事もなき秋の真昼や穂に垂りて早穂田さほだ美稲をしね色づきにけり


眺めつつしづけかるかな夏過ぎておほかたの色は秋に入りたり


田のあなた新墾道にひばりみちの砂利道もしづけかりけりあき正午まひる過ぎ


穂のすすき光るあたりに眼は向けて何かをさなき声も聴きをり


根くづ焚く


根くづ焚く火は燃えながら掻きほけて土ばかりなる何も無き畑


根くづたく畠の火立ほだち色見えてうちいぶる末はしろく棚曳く


床の間


きちかうのおもて見せたる花ふたつ薄とりそへ妻がたしなみ


赤人のゆたに坐らす像見ればほれぼれとよし眺めたまへり


ピアノ


月払ひ二十ヶ月とよ。このピアノ中古ちゆうぶるぞとよ。塗りみがき、うつくし黒し、大きなりしつにそびやぐ。かうがうしこのピアノ、立ち添ひて、かがみ見て、蓋をひらき、鍵たたき見て、見も飽かず終日ひねもすありける。貧しかる我やとも、えは求め得ず、常こがれ果敢なみしもの、子らが為め、五十路いそぢ近く、やうやうと手に入りにけり。月払ひ二十ヶ月とよ。中古の独逸製とよ、眼がしらのあつくなり来る。


    §


父われはピアノのかげにかき坐りこともだしをり子らぞたたける


在るべくて在るべかりにしこのピアノやうやうにして室に光りぬ


演習の秋


秋まひる野には火花のつ見えて機関銃の音のたたたとひびけり


赤き旗稗の穂向にしきり振りとどとかなしも駈けきたる兵


秋の日の空気ほがらに駈けのぼる兵あらはなり浄水場の道


仮想敵ひたにし昼をこもらべば孟宗むらもかなしかるべし


うちとほり休戦喇叭鳴れりけりこちごちの野も吹きつぎてあはれ


庭前秋雨


すはえ立つ古木こぼくの梅にふる雨のあかつきの雨の寒くしぶけり


朝寒と小雨ながらふこの空や立枝たちえすはえに見えつつ


いち早く諸葉もろはふるひし梅が枝に雀がとまり雨のコスモス


黄の粟のいとど蒸したる女郎花をみなへしも時過ぎにけり雨しげくふり


朝ぐもりラヂオの塔のさきわたる小鳥かぎりなしなだれ落ちゆく


或る夜の雨


誘蛾燈しろくかかぐるのあたり秋雨の中になにか狂へる


りんの草堤来る夜の雨間あままをあかくつけて胸とどろる 何の号外ぞや


燈火管制の夜


ラヂオ研究所を消しにけりうしろ立つ照明はやく鉄塔は見ゆ


大蔵おほくらの原目にただひとつ頼むの明かりしかば遂に消しにけり


常の夜も谷地やちは暗きにを消して物のこごしくいよよけぶかさ


ここのやとかげまたく無し消し棄てにふたたびとけずいねにたるらし


砧村燈火管制の時過ぎて月明らけし高槻がうへに


くまふかくがふ夜霧を照る月のいよよさやかに高しらしつつ


ふかき霧しきりむらだつ夜あけがた月は黒檜くろひのあたま照らしぬ


早や早やとあかつきの闇にしぐれゐる蝉のこゑごゑもをはりに近し


山茶花咲く


書斎より観て


玻璃戸透き山茶花あかく見えにけり咲きにけるかと眺めつつ今朝は


株まろき細葉つつじの霜凍しもじみにここだくづれしさざんくわの花


葉牡丹の庭


ある朝、妻と出てあるくに、とある畠に、葉牡丹の植ゑはなしになりたるが、数多ければ殊にあはれなりき。一株はいかほどと訊けば十銭にてよからむと言ふ。さば買はむとて三十株ほどあがなふ。冬は花も無く、色も無き庭なればすべてよろしく移し植ゑて楽しむ。かほどの喜びまたとあらむや。我は足るなり。


葉牡丹よ大き葉牡丹、葉牡丹を一株植ゑ、二株植ゑ、移し植ゑ七株八株、また更に十よここだく。畠より根こじあがなひ、リヤカーに山ほども積みもて来さしつ。はじのあさみどりなる、内あかく紫くろき、かさ厚く七重八重なる、葉牡丹は大いにうれし。牡丹とも見ずや葉牡丹、やすきその株ながら、株立つとこの庭もに、豊かなり乏しともなし。我が植ゑて霜に傲れり。いかならむ雪の日や将た。この富よこれの葉牡丹、子らとこそ見め。


    §


葉牡丹の冬によろしき株立かぶだちは紫ふかし葉をかさねつつ


妻よ子よわれら富みたり置き足らふ葉牡丹の霜にわれら富みたり


野鴨


さる人より贈られたる野鴨の一夜にして二羽ともあへなくなりぬ。その歌。


灯映ひうつりや家の夜寒をつくづくとうづくむ鴨の竝びみじろぐ


三和土たたきいてきびしかも夫鳥つまどりの雄鴨死にせり雌の鴨もいづれ


わらべ言ふ雌鴨かなしもこれをかも長々し夜をひとりかも寝む


朝明あさけ待たず終夜ひとようづくみ死鳥しにどりの雄鴨がそばに雌鴨斃れぬ


下総や千葉の水沼みぬまになげかひしかなし野鴨を家に死なしつ


霜晴


大野良の一夜の霜のいたり見る眼まばゆき冬は菜のいろ


大霜のひと朝のいろを我は見て夜をとほし来し今ぞおどろく


宵早く寝ねにたりける今朝起きて子らが駈けいづる畠の大霜


かけのこゑうらめづらしとあらなくに大霜の今朝の野は澄みにける


日の出前霜はふかきをくろぐろと人立てり見ゆ浄水池の土手


霜晴をおほに燃え立つ丘の靄ひむがしの空は日ののぼるなり


    §


霜晴の靄のに立つくぬぎ原ひるちかき日の今はあたりぬ


日あたりの枯葉のくぬぎはららかず霜晴のひるの靄のしづけさ


にびねずみ雑木のすがれうちけぶる霜のにして昼はあたたか


靄の奥ふかくかがよふむらがりは櫟枯葉か乾ききりたる


しづけさたとふべきなしくぬぎ原にあはれかがやかし一葉ちりをる


赤松の木群こむらしづけくありにけり日のあたるところ影を落して


日あたりの枯野よこぎる道あらし思はぬにしろきバスの揺れ来る


思ふことみなしづかなり妻とゐて冬の日向の靄にこもらふ


冬雑木ふゆざふきの靄あたたかき遠ながめ鉾杉のも群れてこもれり


霜晴の日あたりぬくむ野の南ラヂオの塔はうちむかひ見ゆ


日の大皇子


皇太子御生誕を寿き奉る歌


その前日


冬の晴無線の塔のいただきに水晶のごと光るものあり


御生れの日


霜晴のひむがしの空光立ちゆららにあかき大き日のめん


皇子みこぞ今御生みあれましたれ日の出くサイレンはつづくまさに大皇子おほみこ


国をこぞり極まる涙しづかなりかかるよき日を待ちまけまつりき


むと言絶えにける国民のいかなるきはか涙ならざらむ


何ごともかしこかりけりこの朝や大きみ光に息づく思へば


皇神すめがみ見霽みはるかします青雲を今朝ぞうち開く此の産御声うぶみこゑ


産御声玉ととほらす此の国や早やうら安しきほひこそ


その後


ラヂオの我が祝歌ほぎうたはいち早し子らが歌ふこゑのひびきここに


畏きあたりを


朝光あさかげの貴くあか御産殿みうぶやに国母はさめ御眼みめなごやかに


あきつ神我が大君は朝に夜に通ひわたらすと皇子みこますと


大君の御笑みゑまへば朝ぼらけ日はさしのぼりとよの旗雲


再び、大皇子を


れましてたぐひなくす此の皇子みこの我が大皇子ぞただち日嗣の宮


朝よ夜よ肥立ひだちましまし我等が皇子あてにをさなくますとふはや


継宮明らにゆたにせりとぞ畏みて聞けば御息みいきづかひまで


月と星


昭和八年十二月廿日夜、上弦の月を中心に金星と土星と潜入す。数万年に一度の歓会なりといふ。金星潜入、タツチ午後四時三分四十八秒、完全潜入四時四分八秒、出現雲のために不明。土星潜入、タツチ午後六時三分十六秒。完全潜入六時三分三十六秒、同出現七時一分、完全出現七時一分廿秒。


上弦をまろかげの月夜空は青しえかへりつつ


纎月せんげつふちどる黒き円球は我がつちかげうつるらし


うつしくもいたもかなしきこの浅夜月にふたつの星くぐり入る


金星は下くぐりつつ月の上に土星は明し光りつつ入る


月面げつめんをゑぐりてくらき色見れば裏ゆく星のありとへなくに


母と子らちてながむる西のかた月も二つの星を抱きぬ

巻末記



 本集『白南風』は、我が第六の歌集たるべきものである。

 第一は『桐の花』、第二は『雲母集』、第三は『雀の卵』であるが、第四、第五たるべき歌集は未整理の儘に、此の第六の集を刊行することになつた。で、此の『白南風』は大正十年の『雀の卵』以来、約十三年ぶりの出版であるが、順位としては、間に二巻のエアポケツトがあり、直後の歌風ではない。

 尤も、その間に、詩集としては長歌の多くを収めた『観想の秋』、長歌の綜合集『篁』及び短歌の選集『花樫』或は現代短歌全集中の『北原白秋集』等の刊行があり、『白秋全集』の歌集第二にも新作の一部は編入されてあるが、何れも単行の新作集でなかつた。これは別編たるべきものである。


『雀の卵』以来、現在に到る、わたくしの短歌作品は約四千首にのぼり、長歌は六十に余るであらう。若し分冊整理するとすれば、左の四巻となる。


第四。大正十一年より同十五年に至る作品中、小田原山荘生活を中心としたる短歌及長歌、加之、同傾向の若干の覊旅歌。及増補新作。

第五。大正十二年より昭和二年に至る作品の中、覊旅を主としたる印旛沼、北信、塩原、樺太、北海等の短歌・長歌・口語歌。及新作増補。

第六。大正十五年より昭和八年に至る作品の中、天王寺墓畔、馬込緑ヶ丘、世田ヶ谷若林、砧村、此の四ヶ所に於ける、東京転住以来の生活を主としたる短歌及長歌。

第七。昭和二年より同八年に至る作品の中、木曾川、北越、奈良、北九州、満洲、浜名、富士五湖等の覊旅、飛行等の短歌・長歌及増補。加之、今後の新作覊旅歌。


 而して、本集『白南風』はその第六に該当する。なほ、此の外に時事歌として、昭和八年度に『成城学園を思ふ歌』百四十四首及び二三の長歌があるが、之等は他の機会に何かの集に編入されるであらう。

 以上の四巻は、その製作順によらず、各冊各自の風懐と香色とを個々に収攬しようとするものである。で、製作の年代は交々に錯綜してゐる。

 之等の内、第六を先にした理由は、最近作が多く、整理に就き易かつたからである。第四、第五の如きは、その推敲が十三年に亘つて、而も完成し得ぬ作の夥多があり、一首の中、僅かに一二音の為に難渋する若干もあつて、之等の整理は容易ではないのである。その当初、まだ生れてもゐなかつた長男が、既に小学を卒へて中学へ進む現在に於て、つくづくと感慨の深いものがある。その間、一冊の単行歌集をも完全に整理し得なかつたわたくしであつた。ただに切抜の誌面やノートが真黒になるばかりであつた。


         §


 本集『白南風』の作品数は左の通りである。

天王寺墓畔吟   短歌弐百五拾弐首・長歌壱篇

緑ヶ丘新唱    短歌弐百弐拾壱首・長歌弐篇

世田ヶ谷風塵抄  短歌弐百弐拾五首・長歌壱篇

砧村雑唱     短歌六百弐拾壱首・長歌拾篇

   総計    短歌 壱千参百拾九首

         長歌     拾四篇


 生活年代は大正十五年暮春より昭和八年の年末に至り、製作年代は、大正十五年七月より昭和九年二月に至る、約七ヶ年半に及んでゐる。

 編纂に就いては、その製作の年代順によらず、生活の次第に順じた。乃ち居の移るに従つて四章に分類し、之に応じてそれぞれに秩序を正した。前後するに必ずしも作の新旧を問はなかつた。此の際、増補すべきは加へた。一貫した整理を欲したのと、更に新なる感興を得て、意外の多作を見たのである。

 本集の編纂を思ひ立つたのは、昭和八年の初頭であつたが、その後、曾つての生活に於ける歌材の整理に於ける熱意が、わたくしをして六百首に庶い新作を得せしめ、またノートに探し索めて、未成の物をも訂正、採録せしめるに到つた。予定以上の尨大なる歌集となつたのは此の故である。

 又、その作品の収録に就いても、本集は先例に反して極めて寛選である。嘗つての発表作の中、殆どは棄てず、先に述べた如く新作以外のノートの分までも加へた。ただ一首一首には丹念した。

 整理を了したのは、昨八年の十一月であつた。初校のゲラ刷りが直ちに出た。而も最後の下版は本年の二月にかかつてからであつた。此の間、訂正に訂正が重ねられた。下版後紙型にまで、わたくしの不満が夥しい象眼や組み替を強行せしめることになつた。冷汗を覚えるぐらゐではなかつた。この難行には脊骨もひしがれる思がするが、推敲の苦も決して矜るべきではないのである。ただ徹すべきは飽迄も徹しなければならぬ。いい加減のところで放擲すべきではない。


 その当時の作に対し、増補した新作の割合は、『天王寺墓畔吟』に於て、三・六倍、『緑ヶ丘新唱』に於て、四・五倍、『世田ヶ谷風塵抄』に於て一・八倍、『砧村雑唱』に於て、〇・二倍となつてゐる。

 此の内、最も旧い作は『天王寺墓畔吟』中の巻頭、「新居」の一、「白藤」の歌であり、最も新らしい作は『砧村雑唱』中の「・父母の冬」の一聯である。

 他の全篇に亘る一々の作の新旧、製作の年代に就いては、事あまりに繁瑣に亘るので茲には冗説せぬ。確実なる年表その他は後日に譲ることにする。


         §


 本集には四つの風景がある。時に応じて、それぞれにわたくしの生活の環境が移つてゐる。四つの章の冐頭に、簡単な解説は試みたが、更に多少の加筆が必要に思ふ。


天王寺墓畔

 大正十五年五月に、わたくしは小田原の山荘から、その谷中の天王寺墓畔に移つた。河口慧海師の紹介で借りたその家は石井久太郎氏の有であつて、元は天王寺の坊中の隠居所の一つであつたらしい。廂が深く、昼もなほ仄暗いほどであつた。門は東に面し、道路を距てて直ちに石塔と向ひ、隣は左に彫刻家朝倉文夫氏のアトリヱがあり、右には珠数工の板廂が門庭の木蓮の上に見えた。その門庭には楓や百日紅、竹柏、檀、厨近くには藤、小米花、友待の空には八重の桜も咲いた。中門から古風な奥庭へ入ると、椎垣に添つて冬青やゆづり葉が繁り、菩提樹や楓、茶室の隔ての袖垣、幾つかの大きい石、厠近くには一本の櫨が秋は深い夕日に照り輝き、裏には柿の枯枝が冬は黒い蔕をこびりつかしてゐた。石井氏は明治天皇の臨御になつた三条公の邸宅を買つて白鬚橋畔に之を奉安し、自もまた傍に住んだが、この家の後ろ横にも、その土蔵を移した。この土蔵が雑誌『近代風景』の編輯室となつた。

 此処の生活は約一年間であつたが、朝夕の墓地の逍遥は、わたくしをして却つて明るい楽しいものに心身を悦ばせた。ただ煤煙の深いのには陰鬱にされた。

 詩集『海豹と雲』の中の第六章「珠数工の夜」の中の十六篇が、此の『天王寺墓畔吟』と照応する。詩文には、「谷中の秋」「白秋の墓」「庭を眺めて」「白く耀くもの」がある。之等は『白秋全集』の〓(ローマ数字13「詩文集第二」に収めてある。


馬込緑ヶ丘

 この近代的風景は、『白秋全集』〓(ローマ数字13の詩文「緑ヶ丘風景」「緑ヶ丘の秋」「緑ヶ丘にて」「剥製の栗鼠」等に委曲が尽されてゐる。

「この緑ヶ丘は赤と緑と青の屋根の、種々雑多な建築様式の所謂文化住宅の波濤の中に突出した一つの岬である。」

 曾つて、芥川龍之介君が、仰いで「これは白秋城」だと言つたこの家は、ヒマラヤ杉をあしらつて赤い瓦の屋根を尖らしてゐた。急坂に添つた石垣の上の芝土手(築地と歌には言つたが、日本風のそれではなく、洋風の芝の土手である。)を鍵の手に曲ると質素な丸木の門があり、通草が絡み、また芝土手と上の生垣が続いた。この家は或る建築師が自分の住居として設計したものであつた。簡素で贅が無く、しかも明朗で、如何にもその頭脳のよさを思はせた。庭の芝生や立木や、盆地を隔てた向うの丘、方々の丘の赤松、霧と燈火の九十九谷その他は、歌にある通りである。

 その丘の、後ろが切通しになり、蒲田から大井へ通ずる貨物線が敷かれた。洗足池方面へ向ふ途次の陸橋からは、南に富士が仰がれた。そのあたりにも異人館の三四が竝んでゐた。

 その昭和二年暮春から翌三年の初夏に至るわたくしの生活は谷中時代とは全く相違した環境が至極快適であつた。わたくしは主として洋風の生活をし、支那服を着け、或は仕事着の豊かなガウンを着けた。芝生へはトラピスト製の素木のサボウをつつかけて下りた。風景も東洋の水墨でなく、清新な油画のタツチであつた。歌の上の色彩も之に関連しない筈はない。ただ和室は二階に一間しかなかつた。その家に、夜ふけて月に開く窓は閑かであつた。その時折は坐つて古きを温むるわたくしであつた。

 詩としては、『海豹と雲』に収めた「月光の谿」の中の「緑ヶ丘夜景」等の七八篇、「童話と月」の中の「月と美童」がある。此の『緑ヶ丘新唱』と流通する。


世田ヶ谷若林

 馬込から越したのは、子供たちの成城への通学の便宜を思つたからである。昭和三年初夏のことであつた。その家は赤瓦の洋館で、ポーチの上には郁子の棚が日陰を作つてゐた。邸内は広く、離家は数寄な和風であり、石の多い幽雅な奥庭もあつた。築山の小さな祠や鳥居、赤松や木槲、楓、柏槙、箱根笹、つくばひのそばの土賊、春日燈籠、通草の棚、すべて歌にある。中の生垣を隔てて、広い芝生があり、周辺には四阿屋、竹に万古焼の狸、鞦韆。桜、楓、椎、梧桐等の立木。此の集の挿画にある庚申薔薇の中門には真萩や山吹がしだれかかり、その中門から門庭へ出入りができ、そこにはまた木槲の植込があり、応接室の窓には八つ手や松ヶ枝が透かして見えた。自動車小舎は空になつて、二階には或る巡査の家族が住つてゐた。裏手には葡萄棚や壊れかけの鶏舎があり、井戸があり、金魚の池があり、白鵞鳥があさり、また山茶花や椿が咲き、小さな畠には柿が落葉し、食用菊が霜に痛んだ。

 書斎は郁子の棚上の表の階上にあつたが、秋は鍵の手の壁から蔦紅葉が実に明るく反射した。電線や所在の巨きい木立や、浄水池の白塔が見えた。

 かう書いてくると、当時のわたくしの生活は極めて豪奢なやうであるが、その家は郷里の先輩で貴族院議員であつた吉原正隆氏の死後の邸宅を、留守番代りに頼まれて、廉く借りてゐたのである。巡査氏は居附の管理人として遺してあつたのである。わたくしは容易く誤解される者の苦痛をしばしば味つたが、その為に善良で貧しいその一家族との邸内同居を断る心にはなれなかつた。

 風塵のはげしさは非常であつた。三軒茶屋から登戸への街道に面し、牛車、タンク、砲車隊等の轣音、囂音、火山灰の旋風は堪へがたかつた。近くには陸軍の自動車学校もあつた。襤褸市で有名な世田ヶ谷の本場であつた。此処での生活は六年の初夏まで続いた。

 詩文には「新居より」「殲くして長久なるもの」がある。『白秋全集』〓(ローマ数字13


砧村

 今も、わたくしは、この砧村の大蔵の西山野にゐる。移つたのは六年の初夏である。此処に来てこの風景を散文に書いたことは曾つて無い。すべてを歌に托した。作歌にしみじみとうち涵つたのもこの砧村である。日常が作家生活であつたため、改めて新作を増補することも尠い。往時を追想して芸術表現に歌材を索る要も亦尠く、直に観て朝夕に磨いた。

 この家は簡素で風致があり、和にして洋、何か虔ましくて、まことに田園の住居と思へる。庭は狭いが、ささやかでも芝生があり、掌ほどでも苺の畝があり、花壇もある。古木の梅、樗の若木、藤の棚、檜葉垣の向ふは植木屋の植込があり、坐ながらにして南の空に雲の去来が仰がれ、野の涯、夜の星座までが広々と眼界にはひつて来る。門傍の薄、萩、茶の木垣の横の電柱、白木槿、或は左の書斎の前の山茶花、躑躅、沈丁、月桂樹、小さな祠。門前の道路、畠、田川、狭い田の竝び、萱原、色とりどりの畑の向うには竹山に高槻。東南には本村の火の見、ラヂオ研究所の対の無線塔。このあたりの盆地景情は、四時、わたくしをいかばかり楽しましてくれることか。


 わたくしは本来光明の子であらうか。かうした自然の光耀の直下には、如何なる人生の悲痛も一瞬にして忘れ得る性情が抑もの本質であるらしい。自然と一枚になる時こそわたくしの最高の歓びを自身に忝しとする。(昭和九年四月八日、釈迦仏誕日の夜記)

底本:「白秋全集 10」岩波書店

   1986(昭和61)年47日発行

底本の親本:「白南風」アルス

   1934(昭和9)年420日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「黒檜」に対するルビの「くろび」と「くろひ」、茅蜩に対するルビの「かなかな」と「ひぐらし」、「坐」に対するルビの「ま」と「すわ」の混在は、底本通りです。

※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。

※「中垣 世田ヶ谷時代」の素描画は山本鼎(1882年1024日~1946年108日)作です。

入力:光森裕樹

校正:岡村和彦

2014年1215日作成

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