海辺の窓
三好達治



破風をもる煙かすかに

水をくむ音はをりふし

この庵に人はすめども

日もすがら窓をとざせり


 自らかう歌つた私の家の海にむかつた窓はその前に藤棚のたふれたのがいつまでもたふれたままで、それが新らしく芽をふき蔓をのばし、白き花房が気ままに咲き乱れる時分になつても、めつたに雨戸を繰つて開け放たれたことがない。けれどもこの庵にも人は住んでゐるので、庵の主じは終日籠居して、時にしばしば、人に語るすべもない物思ひに耽つてゐることが多い。終日書を読み渋茶をすすり、物思ひに耽つてゐる初老の男は、夜もまたぽつねんとして、灯下の下で墨など磨つてゐるのである。それは十二月も暮れにせまつた、ある月のないまつ暗な夜半のことであつた。その時分のこととて、海はしつきりなしに激しい怒濤のこゑを、窓下の海、やや弓なりに入江になつて折れこんだそこの岩礁の上いつぱいに、百雷の轟くやうに、寸時のやすみもなしに叫びつづけてゐた。私のいつもいふ、まるで急行列車がトンネルに走入つたやうな、その騒音は、夜の夜中、反つてそれをききなれた私の耳には、はげしい刺戟といふよりも一つの平和な常態で、その騒音は、私の耳には、いはばある安定感の保証のやうなものでもあつた。ところが、その夜はふと、その耳を聾しつづけて鳴りひびいてゐる騒音、疾風怒濤の中に、ふつとかすかに人の叫び声のやうなものがきこえた。夜半に墨など磨つてゐる孤独な男といふものは、そんな騒音の中でも、外界のもの音には意外に敏感なものである。私は耳をそばだてた。その叫び声は、しばらくの間合をおいて、私の推量が途方をうしなつて、自分の耳をうたがひはじめる時分にまたふとかすかに、遠い闇の中に、方角もきはめて曖昧に、まぼろしのやうに、ながく尾をひく呼び声となつてきこえてきた。それはそんな風に二三度もくりかへした。その叫びごゑには、何か哀切な、きぬをさくやうな、さしせまつた、異常な恐怖を訴へる、誰れにともない救急の呼びごゑのやうな節も感ぜられたし、かと思ふと、そこの入江にのぞんで建つてゐる料亭の広間で、したたかに酔つ払つたひと組の連中が、何かしら胴間ごゑを張り上げてふざけ散らしてゐる、意味もないたは言のやうにもききなされる節があつた。何しろ季節風の烈風が、絶えず雨戸をがたぴしさせてゐる上に、例の急行列車がトンネルに駆けこんだのべつ幕なしの怒濤の声の轟きつづけてゐる中で、まどほな合間をおいてきこえるその声は、何のことやら、私の耳にはさだかに推測のつく訳もなかつた。時間はもう、十二時をすぎて一時にも近い時分だつた。

 朝になると、崖下の渚には時ならぬ人出の気配がして、私はまた改めて不安な気持に襲はれた。遠方から通ひでやつてくる女中が来たので聞いてみると、昨夜河口で若者が四人も溺死をした、いわし船が転覆したのである、あいにく灯台の灯は消えてゐた、それでその時刻に河を下つて港を出ようとした、この方は噸数のある機帆船と、獲物の鰯を満載して帰つてきた四人乗りの小船とが、またあいにく、つい多寡をくくつて双方とも灯火をつけてゐなかつたので、防波堤をすぎたばかりの河口で衝突をした、といふのである。不幸な豊漁で、無闇と獲物を満載してゐた小船の方は、見る見る水にのまれてしまつた。甲板から抛りだされて流れに漂つてゐたらしい人物の影も、そこは瀬の悪いところで、やがて視界の外に消えて、救ひを求める呼び声も、波にのまれ闇に没してとだえてしまつた。相手の機帆船は、とつさに小まはりの利かない船体なので、みすみす無惨な結果をまねいて、手を下すすべはなかつた、といふ。

 ききながら、私はまことに名状しがたい感にうたれた。昨夜私が、墨を磨りながら耳をそばだてた、あの疾風怒濤中のかすれ声は、或は波の上に抛りだされて漂流しつつ、不運な漁夫が必死に叫びつづけた、その呼びごゑではなかつただらうか、或はさうではなくて、相手の機帆船から、闇の中に罹災者をさがしたづねて、声のかぎり呼びつづけたその呼びごゑであつただらうか。それはいづれとも今朝となつては判定しがたい。けれども私の主観では、ふと、最初に私がその声をききとめた瞬間の、かすかなあの胸をさすやうな印象、何とも形容のしやうのないさしせまつた感じ、帛をさくやうなあの哀切な余韻、それはどうも、前者であつて恐らく後者ではなかつたやうに思はれてならない。さうしてさう思ふと、それをききながら、心にいくらか不安を抱きながらも、さて何をしようとするでもなく、机の前で墨を磨りつづけてゐた私が、思はず不仁を犯したやうで、わけもなく気のとがめる感じをしばらくは如何ともすることができなかつた。それからまた二三日して、かういふ話をきいた。

 何がしといふ若者は、その日おそくなつてから強ひて仲間を語らつてあのいわし船を仕立てて沖へ出かけたのだつた。出発が時間はづれだつた上に、その日の漁は思はぬ大漁だつたので、帰りの時間がまた時刻はづれになつた。それがえんぱと月のない闇夜だつたのに加へてまんが悪く灯台の灯が消えてゐた。それでいづれが定めの水路を犯したものかあの椿事を仕出かすことになつた、といふのである。そのやうにして、不幸な事情が重なり合つてあの悲惨事をひき起したのであつたが、もともとそんな時間はづれにいわし船を仕立てることになつた、その理由がまたもう一つ先に在つて、それがきいてみるとまことにあはれである。

 何がしといふ若者の宅では、その日の昼頃母ぢやが庭の隅の物置小屋に、多分昼食の仕度のためででもあつたらう、冬場の貯へに仕こんでおいたいわしの糠漬けを出しにいつた。いつてみると糠漬の樽はいつの間にやら何者かに盗まれて影も形もとどめない始末。あての外れた母ぢやは年よりらしくくどくどとくやしまぎれかき口説いた。日頃孝心な若者は、慰め顔にそんならこれからわたしが船を仕立てて明日ともいはずいますぐ、いわしは幾らでも沖からとつてきて上げませう、盗みたい奴にはせいぜい盗ましとくがいい、何もさうくどくどと嘆きなさるにも及ばないことぢやありませんか、お母さん。快活な若者はさういつて、昼すぎになつてからあわただしく船を仕立てて沖に出た。それがあんな始末になつたといふのである。ほんのふとした小さな理由、何ものか隣近所の恥知らずの為にものを盗まれたといふ小さな災難が孝心な若者を促して大きな椿事を惹き起す不吉な発端となつたのだといふ、この噂さ話はまた、私の先夜の記憶をまざまざとよみがへらして、私の耳にはまぼろしのやうにかぎりなく悲痛にひびいた。

底本:「日本の名随筆79 港」作品社

   1989(平成元)年525日第1刷発行

底本の親本:「三好達治全集 第一〇巻」筑摩書房

   1964(昭和39)年12

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2015年116日作成

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