恐怖
谷崎潤一郎



私があの病気に取り憑かれたのは、何でも六月の初め、木屋町きやまちに宿泊して、毎日のように飲酒と夜更かしとを続けて居た前後であった。───尤も其の以前、東京に居る頃も一度ならず襲われた覚えはあるが、禁酒をしたり、冷水摩擦をしたり、健脳丸けんのうがんを呑んだりしてやっとこさと恢復し切って居たのだ。それが京都へ来てから、再び不秩序な生活に逆戻りした結果、知らず識らずブリ返して了ったのである。

友達のN───さんの話に依ると、私の此の病気───ほんとうに今想い出しても嫌な、不愉快な、そうして忌ま忌ましい、馬鹿々々しい此の病気は、Eisenbahnkrankheit(鉄道病)と名づける神経病の一種だろうと云う。鉄道病と云っても、私の取り憑かれた奴は、よく世間の婦人にあるような、ふねくるまえいとか眩暈めまいとか云うのとは、全く異なった苦悩と恐怖とを感ずるのである。汽車へ乗り込むや否や、ピーと汽笛が鳴って車輪ががたん、がたんと動き出すか出さないうちに、私のからだ中に瀰漫びまんして居る血管の脈搏みゃくはくは、さながら強烈なアルコールの刺戟を受けた時の如く、一挙に脳天へ向って奔騰し始め、冷汗がだくだくと肌に湧いて、手足が悪寒おかんに襲われたように顫えて来る。若し其の時に何等か応急の手あてを施さなければ、血が、体中の総ての血が、悉く頸から上の狭い堅い圓い部分───脳髄へ充満して来て、無理に息を吹き込んだ風船玉のように、いつ何時なんどき頭蓋骨が破裂しないとも限らない。そうなっても、汽車は一向平気で、素晴らしい活力を以て、鉄路の上を真ッしぐらに走って行く。───人間一人の命なんかどうなっても構わないと云うように、煙突から噴火山のような煤煙を爆発させ、轟々ごう〳〵と冷酷な豪胆な呻りを挙げて、真暗なトンネルをくゞったり、長い長い剣難けんのんな鉄橋を渡ったり、川を越え野をまたぎ森をめぐりながら、一刻の猶豫もなく走って行く。乗合いの客達も、至極のんきな風をして、新聞を読み、煙草を吹かし、うたゝ寝を貪り、又は珍らしそうに眼まぐるしく展開して行く室外の景色を眺めて居る。

「誰れか己を助けてくれエ! 己は今脳充血をおこして死にそうなんだ。」

私は蒼い顔をして、断末魔だんまつまのようなせわしない息遣いきづかいをしつゝ、心の中でこう叫んで見る。そうして、洗面所へ駈け込んで頭から冷水を浴びせるやら、窓枠にしがみ着いて地団太じだんだを蹈むやら、一生懸命に死に物狂いに暴れ廻る。

どうかすると、少しも早く汽車を逃れ出たい一心で、拳固から血の出るのも知らずに車室の羽目板をどんどん叩きつけ、牢獄へまれた罪人のように騒ぎ出す。果ては、アワヤ進行中の扉を開けて飛び降りをしそうになったり、夢中で非常報知器へ手をかけそうになったりする。それでも、どうにか斯うにか次ぎの停車場まで持ちこたえて、這々ほう〳〵ていでプラットフォームから改札口へ歩いて行く自分の姿の哀れさみじめさ。戸外へ出れば、おかしい程即座に動悸が静まって、不安の影が一枚一枚と剥がされて了う。

私の此の病気は、勿論汽車へ乗って居る時ばかりとは限らない。電車、自動車、劇場───凡て、物に驚き易くなった神経を脅迫するに足る刺戟の強い運動、色彩、雑沓に遭遇すれば、いついかなる処でも突発するのを常とした。しかし、電車だの劇場だのは、恐ろしくなるとすぐに戸外へ逃げ出す事が出来るだけ、それだけ汽車程自分を Madness の境界きょうがいへ導きはしなかった。

其の病気が、いつの間にか自分の体へブリ返して居る事を心付いたのは、六月の初め、京都の街の電車に揺られた時であった。私は当分、汽車へ乗る事を絶対に断念して、病気の自然に治癒する迄、東京へは帰れないとあきらめて了った。そうして、是非共此の夏中に受けなければならない徴兵検査ちょうへいけんさを、何処か京都の近在で、汽車へ乗らないでも済む所で受けたいものだと思った。

調べて見ると生憎あいにく京都の近所はみんな時期が遅れて間に合わなかったが、大阪の住友銀行の友人O君の盡力で、阪神電車の沿道にある一漁村へ、検査の二三日前迄に籍を移せば、其処で受けられる事になった。其の村の検査日は何でも六月の中旬であったと覚えて居る。

兵庫県下なら、汽車へ乗らずとも電車で行けるから、東京の原籍地へ戻るよりはいくらかしだと私は喜んだ。で、丁度月の十二日のひるごろ、日本橋の区役所から取り寄せた戸籍謄本と実印とをふところにして、五条の停車場へ行った。

真夏らしい日光がきらきらと、乾燥した、ほこりの多い京都の街の地面に反射し、晴れた空が毒々しく油切って、濃い藍色を湛えて居る日であった。俥へ乗って停車場へおもむく途中、お召の単衣ひとえの羽織を重ねて居る私は、髪の毛の長く伸びた揉み上げの辺から、べっとりした血のような汗が頬を流れ落ちて、襟の周囲へにじみ込むのを覚えた。五条の橋から遥に愛宕山あたごやまを望むと、恰も熔鉱炉の底から煽り上る熱気に似た陽炎かげろうが麓に打ち煙って、遠くの野や林はもやもやと霞に曇り、近い町々のいらかや石垣や加茂川の水は、正視するに忍びない程、クッキリした、強い色彩にそめられて、生々しいペンキ塗りの如く私の瞳孔を刺した。切符売場の前で梶棒かじぼうを据えられた時、私は俥から下りようとして、着物の裾が汗ばんだ両脛りょうはぎへ粘り着いた為めに、危く脚を縛られて倒れそうになった。

電車ならば大丈夫………こう信じて、無理やりに安心しようと努めて居た私の神経は、もう此の暑熱の威嚇いかくにさえ堪えられなくなって居たのであった。天満橋てんまばしまでの切符を買ったものゝ、兎に角七八分休息した上、神経の鎮静するのを待とうと思って、力なくベンチへ腰を掛けたまゝ、私はぼんやりと、乞食こじきのように大道を眺めて居た。

電車が、市街の其れよりはもっと頑丈な、猛獣を容れるおりの如く暗黒に分厚ぶあつに造られた電車が、何台も何台もぶうッ、ぶうッと警笛を鳴らしつゝ大阪の方から走って来て沢山の乗客を吐き出して、入れ代りに多勢の人数を積み込むと、再び大阪の方へ引き返して行く。二三分置きに次から次へと、幾回も発着する。私は勇をして何度も立ち上ったが、改札口の処まで行くと、恐ろしい運命に呪われた如く足がすくんで、動悸が激しくなって、又よろよろと元のベンチへ戻って来た。

「旦那、俥はいかゞでございます。」

「ナニいゝんだ。己は人を待ち合せて、大阪へ行くんだから。」

こんな事を云って、車夫を追拂いながら矢張りいつまでも腰を掛けて居た。「大阪へ行くんだから。」と答えたのが、自分には何だか、「もうじき死ぬんだから。」と云うように響いた。〝If any one should ask you, say I've gone to America!〟こう叫んで、言下に右の蟀谷こめかみへピストルをあてゝ自殺をした『罪と罰』の中の Svidrigailoff のように、「私は大阪へ行くんだから。」と云って、忽ち眼を舞わして此の場へ悶絶したら、あの車夫はどんなに吃驚びっくりするだろう。

時計を見ると彼れこれ一時である。村役場の引けるのは三時か四時か知らぬが、どうしても今日中に手続きを済まして置かなければ、検査を受ける訳に行かない。折角友人に奔走して貰った親切を無にしなければならない。私はふと一策を案じ出して近所の洋酒屋からスコッチ、ウイスキーのポケット入りの壜をった。そうして、ベンチへもたれながら、其れをグビリ、グビリと飲み始めた。

酒の力で神経を一時麻痺させれば、大概の恐怖は取り除かれると云う事を、私は此れ迄の自己の経験に依って、迷信的に信じて居た。一番ぐでん、ぐでんに酔拂よっぱらった揚句、前後不覚になって電車へ乗り込んだら、どうにかした拍子に気が紛れて大阪まで無事に行けるだろうと思ったのである。

不自然な、強制的なアルコールのえいが次第次第に肥え太った私の肉体へ浸潤して来た。じっと大人しく腰掛けて居ながら、気違いじみた酩酊が立派に魂を腐らせて行き、官能をしびれさせて行くのが、自分でもよく判るように感ぜられた。私はいつかとろんとした、ものうげな眼を見張って、賑かな、明るい往来の、種々雑多な音響と光線の動揺を凝視して居た。

五条橋の袂を、西東から行き交う人々の顔が、みんな汗にうじゃじゃけて、赤く火照ほてって、飴細工の如く溶けてくずれ出しそうに見えた。絽縮緬ろちりめんや、明石あかしや、いろいろの羅衣うすものいたわられて居る若い美しい女達のむくむくした肉が、一様にやるせない暑さを訴えて、豚の体のようにふやけて居るのを見た。汗………おびたゞしい人間の汗が、蒸し蒸しゝた空気の中へ絶えず発散して其処辺そこいら一面に漂い、到る所の壁だの板だのにべとべととこびり着いて居るらしかった。───「街には汗の靄が立って居る。」───と、誰か、デカダンの詩人が歌いそうだ。………

活動写真のカンバスへ皺が寄るように、時々、街路の光景が歪んだり、へこんだり、ぼやけたり、二重になったりして、瞳に映った。「もう己は何も判らない程酔って居るのだ。」と云う事が、自分の気を強くさせ、大胆にさせる唯一ゆいいつ手頼たよりであった。

私はいよ〳〵電車へ乗る可く決心して、途中で酔の覚めないようにもう一本ウイスキーをった。それから、萬一、萬々一例の恐怖に襲撃された時の要心に、頭を冷す為めの氷のブッカキを買って、其れをハンケチへ二重に包んだ。

こんなにして、上り降りの群衆に揉まれながら、からくも改札口まで押し出されて行った私は、切符に鋏を入れて貰らって、プラットフォームへ漕ぎ着けるや否や、再び其処に呪われた運命が待伏まちぶせして居たのを発見した。ぶうッ、ぶうッ、ぶうッ、物凄い鼻息をっかけて、傲然と出発の用意を整えて居る車台を見ると私の神経は、アルコールの酔を滅茶々々に蹈みにじり、針のような鋭敏な頭を擡げて顫えおのゝき出した。同時に居ても立っても溜らないような、一遍に魂を引裂いて発狂か卒倒の谷底へ突き落し兼ねないような、どえらい恐怖が五体に充満して来たので、私は思わずハッと躍り上った。

「君、君、僕は今切符を切って貰ったんだが、少し待ち合わせる人があるから、此のあとへ乗るんだ。」

掛りの男にこうことわると、例の氷包こおりづゝみを額へあてながら、私は遮二無二しゃにむに人ごみの流れに逆って、周章狼狽しゅうしょうろうばいして、悪魔に追わるゝ如く構外へ逃げ延びた。そうして、ベンチへどたりと崩れて、漸く胸を撫で下した。何処かで後指うしろゆびを差して自分の様子をゲラゲラわらって見て居る奴があるかも知れん。………

「こんな筈ではなかった。酔ってさえ居れば、何とか神経の眼を盗んで、そうッと胡魔化して行ける筈だのに、一体今日はどうしたんだろう。事に依ると、己の神経はモウ酒の力でも麻痺されないほど病的に興奮して来るのではあるまいか。」

とう〳〵二時になった。此の上一分でもグズグズして居たら、三時は愚か四時になっても、目的地へ到着出来そうもない。若し此の機会を逸して了えば、どうしても最近に原籍地の検査日までに、東京へ帰らなければならない。

「私は汽車へ乗ると、気違いになるか、死ぬかしますから、検査までにはとても東京へ行かれません。」

こんな理由を、区役所の兵事掛へいじがゝりへ書いて送ったら、どうするだろう。「死んでも、気違いになってもいゝから、是非検査までに帰って来い。」と云うだろうか。そうなれば、意地にも汽車へ乗って、気違いになって帰ってやりたいような気もする。

「そら御覧なさい、君達があんまり無理を云うもんだから、僕は此の通り気違いになったぜ。嘘じゃない、ほんとうに気が違っちまったんだ!」

こう云って、泣きッ面をして、検査の当日に暴れ込んでやりたい。

其の時、臨場の軍医は何と云うか知らん。

「いや、よく帰って来た。よく気違いになってまで帰って来た。お前は義務に忠実な、感心な人間だ。」

と、冷やかな弁舌で褒めてくれるだろうか。

私は尚もウイスキーをあおりながら、愚にもつかない連想の糸を手繰たぐって、其れから其れへと馬鹿々々しい考えを頭に浮べ、独りで笑ったり、怒ったり、ごうを煮やしたり、いまいましがったりした。

実際真面目に思案して見て、死ぬか、狂うか、当分東京へ戻らずに居るか、此の三つ以外に差しあたっての道はないようであった。死ぬのが嫌なら、狂うのが嫌なら、どうしても萬難を排して、即刻一瞬の猶豫もなく、大阪へ出発しなければならない。

けれども若し、大阪へ行かれないで、電車の中で卒倒するような事があったら………

「あゝ」

私は深い溜め息をついて、恨めしそうに電車の影を睨みながら、ベンチから立ち上った。一層いっその事、やぶれかぶれに先斗町ぽんとちょうへでも遊びに行こうか、それとも、もう少し此処に辛抱して、気分の静まる折を待って居ようか。だんだん日が暮れて、晩になって、夜が更け渡って、最終の電車が出て了うまで、つくねんと蹲踞うずくまった揚句やっぱり望みを達せずに、空しく木屋町へ戻る事になったら、却ってあきらめが着いてせいせいするだろう。

「や、Tさん、此れから孰方どちらへお出掛けです。」

声をかけられて振り返ると、其れは友人のK氏であった。面長おもながの冴え冴えした目鼻立めはなだちに、きれいな髪の毛を前の方だけきちんと分けて、パナマ帽を心持ち阿弥陀あみだに冠り、白足袋を穿き雪駄をつッかけて、なか〳〵軽快な服装をして居る。私は、何か犯罪が露顕した如くギョッとして、

「ちょいと大阪まで………」

と、口籠るように答えて、にやにやと変てこな笑い方をした。

「あ、そうですか、いつかお話しの徴兵の事で………」

K氏は直ぐに合点がてんして、

「わたくしも今日こんにち用事があって、伏見まで参ります。そりゃ丁度よい所でしたな。御一緒に中途までお供しましょう。」

「えゝ」

「Tさんに御紹介します。此れは私の友人のAさんで………」

と云いながら、K氏は委細構わず自分の伴れの男───色白の小太りに太った可愛らしい、八字鬚を生やした、三十二三のドクトルを紹介した。

「さあ、そろ〳〵乗ろうじゃありませんか。どうぞお先へ。」

「えゝ、ありがと」

私は依然煮え切らない挨拶をして、其の癖K氏に勧められるまゝずる〳〵と引き擦られるように、あの恐ろしい、物凄い、電車の傍へ近寄って行った。

「さあ、さあ、どうぞお先へ。」

K氏は何度もこう云って、両手で私の腰を煽るようにした。

「それでは、御免蒙ります。」

思い切って、眼を潰って、私はひらりと昇降口を跨いだ。そうして、室内へ入ると即座に吊り革へぶら下って、ウイスキーの喇叭ラッパ飲みをやった。(腰をかけて了うよりは、まだ吊り革にぶら下って居る方が、いくらか運命の手を弛められて居るように感じるのだ。)

「どうもお盛んですな。餘程御酒を召し上ると見えますな。」

と、Aさんが云った。

「ナニ僕は電車が嫌いですから、酒に酔ってゞも居ないと、気持が悪くなって仕様がないんです。」

私は、医者に話をするとしては、少し理窟が立たぬような弁解をした。

カオーッと笛が鳴って、電車がとう〳〵走り出した。

「いよ〳〵己は死ぬのかな。」

と、私は心の中で呟いた。断頭台へ載せられる死刑囚の気持も、此れと同じに違いないと思った。

「Aさんどうです、Tさんは検査に合格しますか知ら。」

K氏がこんな質問をする。

「そうですなあ。あなたは取られそうですなあ。何しろむくむく太って居て、立派な体格ですからなあ。」

左右の窓には、京都の市街が盡きて、郊外の青葉や、樹木や、往還や、丘陵がどんどん走って居た。ひょッとしたら、無事に大阪へ着けるかも知れないと云う安心が、其の時漸く私の胸に芽ざした。

底本:「潤一郎ラビリンス──初期短編集」中公文庫、中央公論社

   1998(平成10)年518日初版発行

底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第二巻」中央公論社

   1981(昭和56)年625

初出:「大阪毎日新聞」

   1913(大正2)年1

※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。

入力:砂場清隆

校正:門田裕志

2016年34日作成

青空文庫作成ファイル:

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