老獣医
伊藤左千夫




 糟谷獣医かすやじゅういは、去年のしつまってから、この外手町そとでまちしてきた。入り口は黒板くろいたべいの一部をりあけ、かたちばかりという門がまえだ。引きちがいに立てた格子戸こうしどまいは、新しいけれど、いかにも、できの安物やすものらしく立てつけがはなはだわるい。むかって右手みぎて門柱もんちゅう看板かんばんがかけてある。板も手ごしらえであろう、字ももちろん自分で書いたものらしい、しろうとくさい幼稚ようちな字だ。

家畜診察所かちくしんさつじょ

とある大字のわきに小さく「病畜びょうちく入院にゅういんもとめにおうそうろう」と書いてある。板の新しいだけ、なおさらやすっぽく、尾羽おはらした、糟谷かすやの心のすさみがありありとまれる。

 あがり口のあさ土間どまにあるげたばこが、門外もんがい往来おうらいから見えてる。家はずいぶん古いけれど、根継ねつぎをしたばかりであるから、ともかくも敷居しきい鴨居かもいくるいはなさそうだ。

 入り口の障子しょうじをあけると、二つぼほどないたがある。そこが病畜診察所びょうちくしんさつじょけん薬局やっきょくらしい。さらに入院家畜にゅういんかちく病室びょうしつでもあろう、犬のはこねこの箱などが三つ四つ、すみにかさねあげてある。

 ほかに六じょう二間ふたま台所だいどころつき二じょう一間ひとまある。これで家賃やちんが十円とは、おどろくほど家賃も高くなったものだ。それでも他区たくにくらべると、まだたいへん安いといって、糟谷かすやはよろこんでしてきたのである。

 糟谷かすや次男じなん芳輔よしすけじょれい親子おやこ四人の家族かぞくであるが、その四人の生活が、いまの糟谷かすやはたらきでは、なかなかほねがおれるのであった。

 平顔の目の小さいくちびるのあつい、見たとおりの好人物こうじんぶつ、人と話をするにかならず、にこにことわらっている人だ。なにほど心配なことがあっても、心配ということを知っていそうなふうのない人である。

 細君さいくんはそれと正反対せいはんたいに、色の青白あおじろい、細面ほそおもてなさびしい顔で、用談ようだんのほかはあまり口はきかぬ。声をたてて笑うようなことはめったにない。そうかといって、つんとすましているというでもない。

 それは、前途ぜんとにおおくの希望きぼうを持った、わか時代じだいには、ずいぶんいやにすました人だといわれたこともあった。実際じっさい気位きぐらい高くふるまっていたこともあった。しかしながらいまのこの人には、そんな内心ないしんにいくぶん自負じふしているというような、気力きりょくかげもとどめてはいない。きどってだまっていた、むかしのおもかげがただそのかたちばかりに残ってるのだ。

 天性てんせい陰気いんきなこの人は、人の目にたつほど、愚痴ぐちやみもいわなかったものの、内心ないしんにはじつに長いあいだの、苦悶くもん悔恨かいこんとをつづけてきたのである。いまは苦悶くもんの力もつきはてて、目に気張きばりの色も消えてしまった。

 まれが生まれだけにどことなし、人柄ひとがらなところがあって、さびしいおもざしがいっそうあわれに見える。もうもう我が世はだめだとふかくあきらめて、なるままに身をも心をもまかせてしまったというふうである。それでもさすがに、ここへうつってきた夜は、だれにいうとはなく、

すたびに家が小さくなる」

とひとりごとをくりかえしておった。

 糟谷かすやはあければ五十七才になる。細君さいくんはそれより十一の年下とかいった。糟谷は本所ほんじょしてきて、生活の道が確立かくりつしたかというに、まだそうはいかぬらしい。

 糟谷が上京以来じょうきょういらいたえず同情どうじょうせて、ねんごろまじわってきた、当区とうく畜産家ちくさんか西田にしだという人が、糟谷の現状げんじょうを見るにしのびないで、ついに自分の手近てぢかさしたのであるが、糟谷が十年んでおった、新小川町のとにかく中流ちゅうりゅう住宅じゅうたくをいでて、家賃やちん十円といういまの家へうつってきたについては、一じょう悲劇ひげきがあった結果けっかである。



 糟谷かすやは明治十五年ごろから、足け十二年のあいだ、下総種畜場しもうさしゅちくじょう技師ぎしであった。そのころ種畜場は農商務省のうしょうむしょう所管しょかんであった。糟谷かすやは三十になったばかり、若手わかて高等官こうとうかんとして、周囲しゅういから多大ただい希望きぼうせられていた。

 新しい学問をした獣医じゅういはまだすくない時代であるから、糟谷は獣医じゅういとしても当時とうじ秀才しゅうさいであった。快活かいかつ情愛じょうあいがあって、すこしも官吏かんりふうをせぬところから、場中じょうちゅう気受きうけも近郷きんごう評判ひょうばんもすこぶるよろしかった。近郷きんごう農民のうみんはひいきの欲目よくめから、糟谷は遠からずきっと場長じょうちょうになると信じておった。

 糟谷かすや西洋葉巻せいようはまきを口からはなさないのと、へたの横好よこずきにを打つくらいが道楽どうらくであるから、老人側ろうじんがわにも若い人のがわにもほめられる。時間のゆるすかぎり、糟谷かすや近郷きんごうの人の依頼いらいおうじて家蓄かちく疾病しっぺいを見てやっていた。職務しょくむ忠実ちゅうじつな考えからばかりではないのだ。無邪気むじゃきな農民から、糟谷さん糟谷さんともてはやされるのが、単調子たんちょうしひとよしの糟谷にはうれしかったからである。

 うめはなはなののどかな村むらを、粟毛くりげ額白ぬかじろの馬をのりまわした糟谷は、当時とうじわかい男女の注視ちゅうし焦点しょうてんであった。糟谷は種畜場しゅちくじょうにおって、公務こうむをとるよりは、村落そんらくへでて農民を相手に働くのが、いつも愉快ゆかいに思われてきた。そうしてこういうことが、自己じこ天職てんしょくからみてもかえってとうといのじゃないかなど考えながら、ますますになって農民にしたしむことをつとめた。

 糟谷かすやはでるたびにいくさきざきで、村の青年らをあつめ、農耕改良のうこうかいりょうはかならず畜産ちくさん発達はったつにともなうべき理由りゆうなどをき、文明の農業は耕牧兼行こうぼくけんこうでなければならぬということなどをしきりにかせ、養鶏ようけいをやれ、養豚ようとんをやれ、牛はかならず洋牛ようぎゅうえとすすめた。人望じんぼうのあった糟谷の話であるから、近郷きんごうの農民はきそうて家畜かちくうた。

 糟谷はこのあいだに、三里塚りづかの一富農ふのうの長女と結婚けっこんした。いまの細君さいくんがそれである。細君の里方さとかたでは、糟谷をえらい人と思いこみ、なお出世しゅっせする人と信じて、この結婚を名誉めいよと感じてむすめをとつがし、糟谷のほうでもただ良家りょうけの女ということがありがたくて、むぞうさにこの結婚は成立せいりつした。それで男も女も恋愛れんあいかんする趣味しゅみにはなんらの自覚じかくもなかった。

 精神上せいしんじょうからみると、まことに無意味むいみ浅薄せんぱくな結婚であったけれど、世間せけんの目から羨望せんぼうの中心となり、一近郷の話題わだいの花であった。そして糟谷夫婦かすやふうふもたわいもないゆめうておった。



 過渡期かときの時代はあまり長くはなかった。糟谷かすや眼前がんぜん咫尺しせき光景こうけいにうつつをぬかしているまに、背後はいごの時代はようしゃなく推移すいいしておった。

 札幌農学校さっぽろのうがっこう駒場農学校こまばのうがっこうあたりから、ぞくぞくとして農学上のうがくじょう獣医学上じゅういがくじょう新秀才しんしゅうさいがでてくる。勝島獣医学博士かつしまじゅういがくはくし駒場農学校こまばのうがっこうのまさに卒業そつぎょうせんとする数十名の生徒せいとをひきいて種畜場しゅちくじょう参観さんかんにこられたときは、教師きょうしはもちろん生徒にいたるまで糟谷かすやのごときほとんど眼中がんちゅうになかった。

 糟谷かすやが自分の周囲しゅうい寂寥せきりょうに心づいたときはもはやおそかった。糟谷ははるかに時代の推移すいいからのこされておった。場長じょうちょう位置いちのぞむなどじつに思いもよらぬことと思われてきた。いまの現在げんざい位置いちすらも、そろそろゆれだしたような気がする。ものに屈託くったくするなどいうことはとんと知らなかった糟谷も、にわかに悔恨かいこんねんきんじがたく、しばしばられない夜もあった。糟谷はある夜またれいのごとく、心細い思案しあんにせめられてられない。

 なるほど自分はうかつであった。国家のためということを考えて働いた。畜産界ちくさんかいのためということも考えて働いた。人民じんみんのためということも考えて働いた。けれどもただ自分のためということは、ほとんど胸中きょうちゅうになく働いておった。なんといううかつであったろう。もうまにあわない、なにもかもまにあわない。

 糟谷かすやはこう考えながら、自分には子どもがふたりあるということをつよく感じて、心持ちよくねむっている妻子さいしをかえりみた。長男義一ぎいちはふとってつやつやしい赤い顔を、ふとんからとしてすやすやねむっている。つまは三つになる次男じなんを、さもかわいらしそうにむねきよせ子どものもじゃもじゃしたかみに、白くふっくらした髪をひつけてなんのもない面持おももちに眠っている。糟谷はいよいよさびしくてたまらなくなった。

 自分になんらの悪気わるぎはなかったものの、妻が自分にとつぐについては自分に多大ただいのぞみをしょくしてきたことは承知しょうちしていたのだ。そうことばのにでたときにも、自分は調子ちょうしにのって気休きやすめをいうたこともあったのだ。

 結婚当時けっこんとうじからのことをいろいろ回想かいそうしてみると、つまたいしての気のどくな心持こころもち、しゅうとしゅうとめに対して面目めんぼくない心持ち、いちいち自分をくるしめるのである。かれらが失望しつぼう落胆らくたんすべき必然ひつぜん時期じきはもはや目のまえにせまっていると思うと、はらわたがえかえってちぎれる心持ちがする。自分はなんらおかしたつみはないと考えても、それがために苦痛くつう事実じじつかるくなるとは思えないのだ。

 糟谷かすやはまた自分の結婚けっこんするについてもその当時とうじあまりに思慮しりょのなかったことをいまさらのごとくいた。家とか位置いちとかいうことを、たがいに目安めやすにせず、いわば人と人との結婚であったならば、自分の位置いち失望的しつぼうてき変遷へんせんがあったにしろ、ともにあいあわれんで、夫婦ふうふというものの情合じょうあいによって、失望しつぼうなぐさむところがあるにちがいないだろうが、それがいまの自分にはほとんどのぞみがないばかりでなく、かえって夫婦間ふうふかんにおこるべきいやな、いうにいわれない苦痛くつうのために、時代にてらるるさびしさがいっそう苦しいのである。それもこれも考えればみな自分のうかつからもとめたことでまぬがれようのない、いわゆるみずからつくれるわざわいだ……。

 恋愛れんあいなどということただただばかげてるとばかり思っていたが、恋愛のとぼしい結婚はじつにばかげておった。ばかげているというよりも、いまはそのあさはかな結婚のために、たまらないいやなくるしみをせねばならぬことになった。

 こう思って糟谷かすやはまたつまや子の寝姿ねすがたを見やった。なにかおもいものでしっかりおさえていられるようにつまや子どもは寝入ねいっている。

 いよいよ自分も非職ひしょくとなり、出世しゅっせの道がたえたときまったら、妻はどうするか、かれの両親はどういう態度たいどをするか、こういうときに夫婦ふうふ関係かんけいはどうなるものかしら。いっそのことわかれてしまえばかえって気は安いが、やはり男の子ふたりのかすがいが不本意ふほんいに夫婦をつないでおくのだろう。

「しようがないから」「どうすることもできないから」「よんどころないからあきらめている」というような心持ちで、いかにもつまらないひややかな家庭を作っていねばならないのか、ああ考えるのもいやだ……。

 うっかりして過渡期かときの時代におったというのが、つまり思慮しりょがたらなかったのだ……。ここをやめたからとて、妻子さいしをやしなってゆくくらいにこまりもせまいが、しかたがない、どうなるものかえきのない考えはよそう。

 考えにつかれた糟谷かすやは、われしらずああ、ああと嘆声たんせいをもらした。下女げじょがおきるなと思ってから、糟谷はわずかに眠った。



 翌朝よくちょうはようやく出勤しゅっきん時間にまにあうばかりにおきた。よほど顔色かおいろがわるかったか、

「どうかなさいましたか」

細君さいくんがとがめる。糟谷かすやはうんにゃといったまま井戸端いどばたへでた。食事もいそいで出勤しゅっきんのしたくにかかると、ふたりの子どもは右から左から父にまつわる。

「おとうさん、おとうさん」

「とんちゃん、とんちゃん」

 糟谷かすやはきょうにかぎって、それがうるさくてたまらないけれど、子煩悩こぼんのうな自分が、毎朝かならず出勤しゅっきんのまえに、こうして子どもを寵愛ちょうあいしてきたのであるから、無心むしんな子どもはれいのごとく父にかわいがられようとするのを、どうもしかりとばすこともできない。

「きょうはおそいからいそぐだ」

とすこしむずかしい顔をしても子どもは聞き入れそうもしない。糟谷かすやはますますむしゃくしゃして、手をだす気にもならない。

「ねいあなたちょっといてやってくださいな、ほんのすこし、ねいあなたちょっと」

 細君さいくんから手移てうつしにしつけられて、糟谷かすやはしょうことなしに笑って、しょうことなしに芳輔よしすけいた。それですぐまた細君さいくんかえした。糟谷かすやはこのあいだにも細君の目をそらして、これら無心むしんの母子をぬすみ見たのである。そうしてさびしいはかない苦痛くつうが、むねにこみあげてくるのである。心臓しんぞう動悸どうきが息のつまるほどはげしく、自分で自分の身がささえていられないようになった。糟谷は、

「もうおそいっ」

とおちつかないそぶりをことばにまぎらかしてそとへでた。外へでるがいなや糟谷はなみだをほろほろととした。いますこしのところでつまなみだを見られるところであったと、糟谷は心で思った。

 糟谷は事務所じむしょの入り口で小使こづかいを見た。小使はいつもていねいにあいさつするのだが、けさはすぐわきをとおりながらあいさつもせずにいってしまった。糟谷かすやはいやな気持ちがした。事務所へはいってみると、場長じょうちょうはじめ同僚どうりょうまでに一しゅの目で自分は見られるような気がする。いつもは、

糟谷かすやさんこうしてください」とか、

「これはこれしておきましょうかね」

とか、うちとけてむぞうさにいうところも、みょうにあらたまって命令的めいれいてき事務じむの話をするのである。糟谷はもうおちついて事務がとれない。

 あるいは非職ひしょく辞令じれいが場長の手許てもとまできてでもいやせぬかとも考える。まさかにそんなに早くやめられるようなこともあるまいと思いなおしてみる。糟谷はへいきで仕事をしてるようなふうをよそおうて、つくえにむかっているときにはわかりきってることをわざわざ立っていって同僚どうりょうに聞いたりしている。

 場長じょうちょう同僚どうりょうと話をしているのに、声がひくくてよく聞きとれないと、胸騒むなさわぎがする。そのかんにも昨夜さくや考えたことをきれぎれに思いださずにはいられない。人びとがおのおのもくして仕事しごとをしてるのを見ると、自分はのけものにされてるのじゃないかという考えをきんずることができない。

 場長がなにか声高こわだかに近くの人に話すのを聞くと、来月らいげつにはいるとそうそうに、駒場農学校こまばのうがっこう卒業生そつぎょうせいのひとり技手ぎしゅとして当場とうじょうへくるとの話であった。糟谷かすやはおぼえずひやりとする。それから千葉県ちばけんそれがし埼玉県さいたまけんそれがし非職ひしょくになったという話をしている。それはみな糟谷と同出身どうしゅっしん獣医じゅういで糟谷の知人ちじんであった。糟谷はいまの場長の話は遠まわしに自分にふうするのじゃないかと思った。

 糟谷かすやはつくづくと、自分が過渡期かとき中間ちゅうかん入用にゅうようざいとなって、仮小屋的任務かりごやてきにんむにあたったことをやんだ。なみだがいつのまにかまぶたをうるおしていた。

 糟谷かすやがぼんやりしていると、場長はじめおおくの事務員じむいんは、みんな書類しょるいをかたづけて退場たいじょうの用意をする。そのわけがわからなかったから、糟谷はうろたえてきょろきょろしている。ようやくのこと人びとの口気こうきできょうの土曜日どようびというに気づいた。糟谷はいまがいままできょうの土曜日ということをわすれておったのだ。

 糟谷は土曜と知って目がさめたようにたちあがった。なるほどそうであったな、すっかりわすれていた、とにかく都合つごうがえい、それではきょうさっそく上京じょうきょうして、あの人に相談そうだんしてみよう、時重ときしげ先生が心配してくれ、きっとどうにかなる、東京にいることになれば位置いちが低くても勉強ができる、なるべく非職ひしょくなどいう辞令じれいを受け取らずに、転任てんにんしたいものだ、めしくってすぐとでかけよう。

 糟谷かすやはこう考えがきまると、よろめく足をふみこたえたように、からだのすわりがついた。ふみだす足にも力がはいって、おおいに元気づいて家に帰ってきた。

「とんちゃんとんちゃん」

という声も、いつものごとくにかわいかった。

 糟谷かすや芳輔よしすけいておくへあがるとざる碁仲間ごなかまの老人がすわりこんでいる。

「きょうは先生、ぜひとも先日せんじつ復讐ふくしゅうをするつもりでやってきました。こうすこしぽかぽかあたたかくなってきますと、どうも家にばかりおられませんから」

 老人は糟谷かすやかない顔などにはいっこう気もつかず、かってに自分のいいたいことをいっている。糟谷は役所着やくしょぎのままで東京へいくつもりであるから、洋服ようふくをぬごうともせず、子どもをいたまま老人と対座たいざした。

「これはせっかくのご出陣しゅつじんですが、じつはそのちょっと東京へいってくるつもりで……はなはだ残念ざんねんだが……」

「いやそりゃ残念ですな、日帰りですか」

今夜こんやは帰れません」

「それじゃきょうじゅうに東京へいけばえい。二、三せき勝負しょうぶしてからでかけてもおそくはない。うまくいってげようたってそうはいかない」

 農家の楽隠居らくいんきょに、糟谷かすやがいまのはらのわかるはずがない。糟谷かすやはくるしく思うけれど、平生へいぜい心おきなくまじわった老人であるから、そうきびしくことわれない、かつまたあまりにわかにわった態度たいどをして、いまの自分の不安心ふあんしんをけどられやせまいかというような、あさはかなみえもあった。

 とうとう二、三ばんつことにした。人間も糟谷かすやのような境遇きょうぐうつるとどっちへむいても苦痛くつうにばかり出会であうのである。

 糟谷かすやはその夕刻ゆうこく上京して、先輩せんぱい時重博士ときしげはくしをたずねて希望きぼう依頼いらいした。

「うむ、いますこし勉強するにはそりゃもちろん東京へくるほうが得策とくさくだ、位置いちのぞまないというならば、どうとかなるだろう、しかしきみたちのように、まにあわせの学問をした人はみなこまってるらしい、いますこし勉強するのはもっとも必要ひつようだね」

 糟谷かすやはがらにないおじょうずをいったり、自分ながらひやあせのでるような、軽薄けいはくなものいいをしたりして、なにぶんたのむを数十ぺんくりかえしてした。

「これでも高等官こうとうかんかい」

 糟谷かすやは自分で自分をあなどって、時重博士ときしげはくしの門をかえりみた。なに時重さんくらいと思ったときもあったに、いまは時重と自分とのあいだに、よほどな距離きょりがあることを思わないわけにいかなかった。妻子さいしてて、奮然ふんぜん学問のしなおしをやってみようかしら、そんならばたしかに人をおどろかすにたるな。やってみようか、おもしろいな奮然ふんぜんやってみようか。ふたりの子どもをつまのやつがれて三里塚りづかへいってくれると都合つごうがえいが、承知しょうちしないかな。独身どくしんになっていま一学問がくもんがやってみたいなあ。子どもはひとりだけだなあ。ひとりのほうはつまがつれていくにきまってる。いちばん奮然ふんぜんとしてやってみようかな。

 糟谷かすやはくるしまぎれに、そんなかんがえをおこしてみたものの、それも長くはつづかず、すぐまたぐったりとなって、時重博士ときしげはくしがいってくれた「どうとかなるだろう」をたよりにわずかに安心するほかはなかった。

 よくよく糟谷かすや苦悶くもんにつかれた。とおいさきのことはとにかく、なにかすこしのなぐさめをて、わずかのあいだなりとも、このつかれのくるしみをわすれる娯楽ごらくを取らねば、とてもたえられなくなった。酒好さけずきならばこんなときにはすぐさけに走るところだが、糟谷かすやは酒はすこしもいけない。

 糟谷かすやはとうとう神楽坂かぐらざかしたしい友人をたずねた。そうしてつとめて、自分が苦労してる問題にはなれた話にきょうを求め、ことさらにたわいもないことをさわいで、一ばんざるをたのしんだ。翌日よくじつもざるをたのしんだ。

 糟谷はその日曜にちようたびにかならず上京じょうきょうしておった。かくべつ用がなくても上京しておった。種畜場しゅちくじょう近郷きんごうの農家から、牛がすこしわるいからきてくれの、碁会ごかいをやるからきてくれのとしきりにいうてきたけれど、いっさい村落そんらくへでなかった。土曜日日曜日をうかがって、あそびにくるものがあってもたいていはけてわないようにした。

 胸中きょうちゅう深刻しんこくいたみをおぼえてから、気楽きらく悠長ゆうちょうな農民を相手あいてにして遊ぶにたえられなくなったのである。

 糟谷かすやはついに東京に位置いちられないうちに、四月上旬じょうじゅん非職ひしょく辞令じれいった。



 農商務省のうしょうむしょうにもでた、警視庁けいしちょうへもでた。いずれもあまりに位置いちひくいので二年とはいられずやめてしまった。そのうち府下ふか牛乳搾取業者ぎゅうにゅうさくしゅぎょうしゃの一しゅとなって、畜産衛生会ちくさんえいせいかいというものができた。ちょうど糟谷かすやが遊んでおったをさいわいに、その主任獣医しゅにんじゅういとなった。糟谷は以来栄達えいたつのぞみをたち、ろくろくたる生活にやすんじてしまった。愛想あいそよくいつもにこにこして、葉巻はまきのたばこを横にくわえ、ざるをうって不平ふへいもぐちもなかった。

 ただ一細君さいくんに対しては、もはや自分は大きいのぞみのないことをさらけだし、いまの自分に不足ふそくがあるならばどうなりともおまえのままにしてくれというた。その後は細君さいくんから不満ふまんをうったえられても相手あいてにならず、ひややかな気まずいそぶりをされても、へいきに見流みながしておった。そうして新小川町に十余年よねんおった。

 糟谷かすやはいよいよ平凡へいぼんな一獣医じゅうい估券こけんさだまってみると、どうしてもむねがおさまりかねたは細君であった。どうしてもこんなはずではなかった。三里塚りづか界隈かいわいでの富豪ふごうの長女が、なんだってただの一獣医じゅういつまとなったか、たとい種畜場しゅちくじょうはやめても東京へでたらば高等官こうとうかんのはしくれぐらいにはなっておれることと思っておった。ただの町獣医まちじゅういつまでは親類しんるいわせる顔もないと思うから、どう考えてもあきらめられない。それであけてもれてもうつうつたのしまない。

 なにかといっては月のうちに一も二里方さとかた相談そうだんにいく。なんぼ相談をくりかえしても、三人の子持ちとなった女はもはや動きはとれない。いつもいつも父母兄弟からあいわらぬ気休めをいわれて帰ってくる。

 うんがわるいのだ、まがわるいのだ。若くてぬ人もいくらもある世の中だ。あきらめねばなるまい。あきらめるよりほかに道はない。こう百度も千度もくりかえして、われと自分をいさめてみても、なかなかその日がおもしろいという気になれないのだ。

 糟谷かすや細君さいくんがどういうことをしようといやな顔もしないから、さすがに細君もときには自分のわがままを気づいて、

「わたしがなにぶん性分しょうぶんがわるいものですから、わたしも自分の性分しょうぶんがわるいことは心得こころえていますけれども、どうもその今日こんにちをおもしろくらすという気になれませんで、始終しじゅうあなたに失礼しつれいばかりしておりますけれども」

 などととおまわしにわびごとをいうことさえあるのである。

 種畜場以来しゅちくじょういらいこの人を知ってる人の話を聞くと、糟谷かすやおくさんは、種畜場にいた時分じぶんとはほとんど別人べつじんのようにおもざしがわってしまった、以前いぜんはあんなさびしい人ではなかったというている。

 こればかりは親の力にもおよばないとはいうものの、むすめが苦悶くもんのためにおもざしまでわったのを見ては、じつの親として心配せぬわけにはゆかない。結局けっきょく両親は自分たちの隠居金いんきょがね全部ぜんぶむすめにあたえて、

「ふたりの男の子をせい一ぱい教育きょういくしなさい、そうしてわがをあきらめて、ふたりの子の出世しゅっせをたのしめ」

とさとしたのである。糟谷かすやつまもやっと前途ぜんとに一どうの光をみとめて、わずかに胸のおさまりがついた。長らくのくもりもようやくうすらいで、糟谷かすやの家庭にわずかな光とぬくまりとができた。家畜衛生会かちくえいせいかいのほうもそうとうに収入しゅうにゅうがある。ただ近隣きんりんから、

糟谷かすやおくさんは陰気いんきな人ねい」

といわれるくらいのことで六、七年間はうすあたたかい平穏へいおんな月日を経過けいかした。

 長男義一ぎいちは十六才になって、いよいよ学問はだめだときまりがついた。北海道に走って牧夫ぼくふをしている。三里塚りづかの両親もあいついで世をった。跡取あととりの弟は糟谷かすやをばかにして、東京へきても用でもなければらぬということもわかった。細君の顔はよりはなはだしく青くなった。



 十一月もすえであった。こがらしがしずかになったと思うと、ねずみ色をした雲が低く空をとじて雪でもるのかしらと思われる不快ふかいであった。

 糟谷かすやは机にむかったなり目をくうにしてぼうぜん考えている。細君はななめにおっとたいし、両手をそでに入れたままそれを胸にわせ、口をかたくとじて、ほとんど人形にんぎょうのようにすわっている。この人をモデルにして不満足ふまんぞくというだいなり彫刻ちょうこくなり作ったならばと思われる。ふたりはしばらくのあいだ口もきかなかった。

 三女の礼子れいこが帰ってきて、

「おとうさんただいま、おかあさんただいま」

とにこにこしておじぎをしても、父も母もはいともいわない。礼子は両親りょうしんの顔をちらと見たままつぎのへでてしまった。つづいて芳輔よしすけが帰ってきた。両親のところへはこないで、台所だいどころへはいって、なにかくどくど下女げじょにからかってる。

芳輔よしすけのやつかえったな、芳輔よしすけ……芳輔」

「きょうはほんとに、なまやさしいことではあなたいけませんよ」

「こら芳輔」

 父の声はいつになくあらかった、芳輔は上目うわめ使いに両親の顔をぬすみ見しながら、からだをもじりもじり座敷ざしきのすみへすわった。すわったかとするともうよそ見をしてる。母なる人は無言むごんにたって、芳輔よしすけの手をとらえて父の近くへせた。

芳輔よしすけ……おまえはいま家へきしなに小川さんにったろ」

「知りません」

「そうか、小川さんはおまえの保証人ほしょうにんだぞ、学校からおまえのことについて、二も三度も話があったというて、きょうはおまえのことについていろいろの話をしていかれた。いま帰ったばかりだがきさまといき会うはずだが、いやそりゃどうでもよいが、きさまはいくつになる」

 芳輔はこういわれてすこし父をあなどるような冷笑れいしょうを目にかべる。

「自分の子の年を人に聞かねたって……」

「こら芳輔よしすけ、そりゃなんのことです。おとうさんにたいして失礼しつれいな」

「だっておとうさんはつまらないことを聞くから……」

「だまれこの野郎やろう……」

 両親はもう手もふるえ、くちびるもふるえてすぐにはつぎのことばがでない。母はまたたきもせずわがの顔を見つめている。

芳輔よしすけ、きさまはなにもかもおぼえがあるだろう。きょう小川さんの話を聞くと、小川さんはおまえのために三も学校へよばれたそうだぞ。きのうは校長まででてきて、いま一芳輔の両親にも話し、本人にもさとしてくれ。こんど不都合ふつごうがあればすぐ退校たいこうめいずるからという話であったそうな。どんな不都合ふつごうを働いた。儀一ぎいちはあのとおりものにならない。あとはきさまひとりをたよりに思ってれば、この始末しまつだ、警察けいさつからまで、きさまのためには注意ちゅういけてる。夜遊よあそびといえばなにほどいってもやめない。朝は五へんも六ぺんもおこされる。学校の成績せいせきがわるいのもあたりまえのことだ。十五になったら十六になったらと思ってみてれば、年をとるほどわるくなる。おかあさんを見ろ、きさまのことを心配してあのとおりやせてるわ。もうそのくらいの年になったらば、両親りょうしん苦心くしんもすこしはわかりそうなものだ」

「おかあさんはもとからやせてら……」

 母はこのぞんざいな芳輔よしすけのことばを聞くやいなやひいと声をたててきふした。父も顔青ざめて言句ごんくがでない。

「おとうさん、わたしすこし用がありますから錦町にしきちょうまでいってきます」

 そういって芳輔よしすけは立ちかける。なにごとにも思いきったことのできない糟谷かすやも、あまりに無神経むしんけい芳輔よしすけのものいいにかっとのぼせてしまった。

「この野郎やろうふざけた野郎だ……」

 猛然もうぜん立ちあがった糟谷はわが子を足もとへたおし、ところきらわずげんこつを打ちおろした。芳輔はほとんど他人たにんとけんかするごとき語気ごき態度たいど反抗はんこうした。手足をわなわなさして見ておったかれの母は、力のこもった決心けっしんのある声をひそめて、あなたころしてしまいなさい。殺してしまいなさい。つみはわたしがしょいます。ころしてしまってください。もうきがいのないわたし、あなたが殺されなけりゃわたしが殺す……。こうさけんで母は奥座敷おくざしきへとびった。……礼子れいこ下女げじょごえあげてそとへでた。糟谷かすやころすの一ごんを耳にして思わず手をゆるめる。芳輔よしすけは殺せ殺せとさけんで転倒てんとうしながらも、しんに殺さんと覚悟かくごした母の血相けっそうを見ては、たちまち色をえてげだしてしまった。

 礼子れいこは外からみさまに母に泣きすがった。いっしょけんめいに泣きすがってはなれない。糟谷かすやにつきながら励声れいせいつませいした。隣家りんか夫婦ふうふんできてようやく座はおさまる。

 糟谷はまだ手をぶるぶるさしてる。礼子はただがたがたふるえて母を見守みまもっている。母はほとんど正気しょうきうしなってものすさまじく、ただハアハア、ハアハアといきをはずませてる。はっきりと口をきくものもない。

 ようやくのこと糟谷は、

増山ますやまさん(となりの主人)いやはやまことに面目めんぼくもないしだいで、なんとももうしあげようもありません」

「いやおさっし申しあげます、いかにもそりゃ……まことにおのどくな、しかし糟谷さんあまり無分別むふんべつなことをやってしまってはりかえしがつきませんよ、奥さんはよほど興奮こうふんしていらっしゃるから、しばらくおかしもうしたがよろしいでしょう」

「どうも面目めんぼくありません」

 ほとんど人のみさかいもないように見えた細君さいくんも、礼子れいこ下女げじょ増山ますやま家内かないから、いろいろなぐさめられていうがままにとこについた。やがて増山夫婦ますやまふうふも帰った。あとへ深川の牛乳屋ぎゅうにゅうやそれがしがくる、子宮脱しきゅうだつができたからというので車でむかえにきたのである。家のありさまには気がつかず、さあさあといそぎたてるのである。糟谷かすやはとつおいつ、あいさつのしようにもきゅうして、いたりたったりしていた。

 子宮脱しきゅうだつはかれこれ六時間以上いじょうになるという。いちばん高い牛だから、気が気でないという。糟谷かすやはいかれないともいえず、危険きけん意味いみあるつま下女げじょと子どもとにまかせてでるのはいかにも不安ふあんだし、糟谷かすやはとほうにれてしまった。おりよくもそこへ西田にしだがひょっこりはいってきた。深川の乳屋ちちやも知ってる人と見え、やあとあいさつして遠慮えんりょもなくあがってきた。

「うちでしたな、えいあんばいであった。じつはころあいのうちが見つかったもんですからな」

 西田の声がして家のなかの空気は見るまにわってしまった。陰欝いんうつな空気が見るまにうすらぐような気がした。糟谷は手短てみじかにきょうのできごとから目の前の窮状きゅうじょうを西田にかたった。

「うん、きみもかわいそうな人だな、なるほど奥さんも無理むりはない。ああ奥さんもかわいそうだ」

 なみだもろい西田にしだは、もう目をうるおした。礼子れいこもでてきてだまってお辞儀じぎをする。西田はたちながら、

子宮脱しきゅうだつならなるたけ早いほうがえいでしょう。糟谷かすやくん職務しょくむはだいじだ。ぼくが留守るすをしてあげるから、すぐと深川へでかけたまえ」

 西田はこういいてて、細君の寝間ねまへはいった。細君も同情どうじょう深い西田の声を聞いてから、夢からさめたように正気しょうきづいた。そうしてはいってきた西田におきて礼儀れいぎをした。

「いま糟谷くんからかいつまんで聞きましたが、もうひとすじに思いつめんがようございますよ」

 細君は、

「ありがとうございます」

と細い声でいってさんさんとくのである。

「それじゃ西田にしださんちょっといってくるからたのむ」

糟谷かすや唐紙からかみの外から声をかけてでてしまった。

 西田は細君さいくんに対し、外手そとで町に家のあったこと、本所ほんじょしてからの業務ぎょうむ方法ほうほう、そのほかここの家賃やちんのとどこおりまで弁済べんさいしてあげるということまで話して、細君をなぐさめた。

 子どもをりっぱにして自分がしあわせをしようと思うても、それはあてにならないから、なんでも人間のしあわせということは、自分にできることの上に求めねばならぬ。とかく無理むり希望きぼうってると、自分のすることにも無理むりができるから、無理とくるしみを求めるようになるなどと話されて、細君もひたすら西田にしだ好意こういに感じて胸がひらいた。

 あかしのつくころに糟谷かすやは帰ってきた。西田は帰ってしまうにしのびないで、まって話しすることにする。夜になって礼子や下女の笑い声ももれた。細君もおきて酒肴しゅこう用意ようい手伝てつだった。

 糟谷は飲めない口で西田の相手をしながら、いまいってきた某氏ぼうしの家の惨状さんじょうを語った。

 ひとりむすこによめをとって、まごがひとりできたらよめは死んだ。まもなくむすこも病気になった。ちょうどきょう某博士ぼうはくしというのがきた。病気は胃癌いがんだといわれて、いえじゅうきの涙でいた。牛のほうはぞうさないけれど、むすこは助かる見込みこみがない。おふくろが前掛まえかけでなみだをふきながら茶をだしたが、どこにもよいことばかりはないと、しみじみ糟谷かすや嘆息たんそくした。

 西田はあいさつのしようがなく、

「ぼくのような友人があるのをしあわせと思ってるさ」

げだすようにいう。

「ほんとにそうでございます」

と細君はいかにもことばに力を入れていった。芳輔よしすけは、十時ごろに台所だいどころからあがってこっそり自分のへやへはいった。パチリパチリとの音は十二時すぎまでこえた。

底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社

   1964(昭和39)年10月1刷

   1984(昭和59)年1044

初出:「中央公論」反省社

   1909(明治42)年31

※表題は底本では、「老獣医ろうじゅうい」となっています。

※三女に対する「礼」と「礼子」、長男に対する「義一」と「儀一」の混在は、底本通りです。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:高瀬竜一

校正:岡村和彦

2016年610日作成

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