聖三稜玻璃
聖ぷりずみすとに與ふ
室生犀星



 尊兄の詩篇に鋭角な玻璃状韻律を發見したのは極めて最近である。其あるものに至つては手足を切るやうな刄物を持つてゐる。それは曾ての日本の詩人に比例なき新鮮なる景情を創つた。たとへば湧き上るリズムをも尊兄はその氣禀をもつて中途で斬つてしまふ。又多く尊兄に依つて馳驅される詩句のごときもまつたく尊兄の創造になるものである。寒嚴なる冬の日の朝、眼に飛行機を痛み、又、遠い砂山の上に人間の指一本を現實するは必ずしも幻惑ではない。尊兄にとつては女人の胴體のみが卓上に輝いてゐることを常に不審としないところである。他人が見て奇蹟呼ばはりするものも尊兄にはふだんの事だ。尊兄の愉樂はもはや官能や感覺上の遊技ではない。まことに恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道である。玻璃、貴金屬に及ぶ愛は直ちに樹木昆蟲に亘り、人類の上に擴がつてゐる。尊兄は曾て昆蟲に眼をあたへてからもう久しくなつた。今、尊兄は怪しき金屬の内部にある最も緻密な幽暗な光と相對してゐる。今、尊兄は癲癇三角形の上に登つてゐる。まことに尊兄の見るところに依れば珈琲茶碗はへし曲り、テエブルは歪んでゐる。



 眞に嚴肅なるものは永遠の瞬間である。尊兄は自然人間に對して充分に嚴格なまなこを持つてゐる。その氣禀の餘りに熾烈なるために物象を睨んで終ることがある。おどかして見やうとする心は正しき心ではない。私は尊兄の詩品におどかしを見るときほど不愉快なことがない。そのとき尊兄に憂鬱が腐れかかつてゐる。態度のみで終るのだ。



 尊兄の藝術について難解であるといふのは定評である。寡聞な私でさえ數多い手紙を未知既知の人から貰つた。ことごとく難解で、むづかしくて、ひとりよがりではないかといふ呌びである。ひとしきり私でさえ世評に動かされて、尊兄を不快におもつた。しかし私には言へないことを尊兄は言つてゐる。私には見えないものを尊兄は見てゐる。私の所持しないものを尊兄はもつてゐる。そこが私とは異つてゐるところだ。それだけ私とは偉いところの在る證左である。



 私は思つてゐる。尊兄の詩が愈々苦しくなり、難解になり、尊兄ひとりのみが知る詩篇になることを祈つてゐる。解らなくなればなるほど解るのだといふ尊兄の立場を私は尊敬してゐる。誰にも解つて貰ふな。尊兄はその夏の夜に起る惱ましい情慾に似た淫心を磨いて光を與へることである。尊兄の理解者が一人でも殖えるのは尊兄の侮辱とまで極端に考えてもよいのだ。すくなくとも其位の態度で居ればよいのだ。解らなければ默つれ居れ。この言葉を尊兄のまわりに呟くものに與へてやりたく思ふ。


千九百十五年六月、故郷にて
室生犀星

底本:「聖三稜玻璃」にんぎよ詩社

   1915(大正4)年1210日発行

※副題は底本では、「聖ぷりずみすとに與ふ」となっています。

入力:枯葉

校正:きりんの手紙

2018年1224日作成

2018年130日修正

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