日本名婦伝
静御前
吉川英治




 義経よしつねはもろ肌を脱いで、小冠者こかんじゃに、背なかのきゅうをすえさせていた。

 やや離れて、広縁をうしろにし、じっと、先刻さっきから手をつかえているのは、夫人おくがたしずかまえであった。

 八月の真昼である。

 六条室町むろまちの町中とは思えぬほど、やかたは木々に囲まれている。照り映える青葉の色と匂いに室内も染りそうだった。

 ──が、しずかにとって、気になるのは、二十九という良人の若い肉体まで、そのせいか翡翠ひすいけずったようにあおく見えることだった。

「…………」

 せみの声ばかりであった。小冠者は細心に、主君の肌へ火を点じていた。

 義経は、熱いともいわず、身もだえ一つしなかった。けれど、見ている静のほうが、その一火ひとひ一火ひとひに、骨のしんまでかれるようなこらえに締めつけられていた。

(──お熱くはないのかしら)

 と疑うように、小冠者はそっと、主君の肩ごしにその顔をのぞいてみた。

 やはり彼とて熱いには違いない。義経は、眼をふさぎ、奥歯をかんで、鼻腔びこうでつよい息をしていた。

 ──と。ふいに、義経は、

しずか

 と振向いて、さっきから返辞を待っている妻へ、こう云った。

「通せ、景季かげすえを。──会ってやろう」

「えっ……。では、お心を取直して」

「そなたにも、また家臣たちにも、そう心配かけてはすむまい。……今は何事もにんの一字が護符ごふよ。この九郎さえ忍びきればおことらの心も休まろう。──通せ、ここでよい。義経が仮病けびょうでないことも、景季の眼に見せてくりょう」



 宇治川の合戦に、名馬摺墨するすみに乗って聞えを取り、その後、頼朝よりともにもおおぼえのよい梶原景季かじわらかげすえであった。

 その頃は、義経の幕下であったが、今日は、鎌倉殿の権力を、背に負っている使者で来たのである。

な臭い……。これはまた、何のけむりか」

 景季は、そこへ坐るなり、天井を見まわして、訊ねた。義経は、脇息きょうそくに倚って、苦笑しながら、きゅうをやいていたところ故と答えると、

「そうそう、先頃から、何度訪ね申しても、御病中とのみで、追い返されたが──時に、御容態はいかがでござりますな」

「景季。おん身は、義経が会わぬのは、仮病ならんと、家人けにんへ云われたそうなが、とくと、この灸のあとを見られよ」

 と、えりをはだけて示し、

「兄頼朝へ、其方どものそうした邪推や偏見を、そのまま伝えてくるるなよ、先にも義経は、兄上のおひがみや誤解を解こうものと、病躯びょうくを押して下ったが、腰越こしごえにてはばめられ、遂に、鎌倉へ入るも許させ給わず、空しく京へ立ち戻って来たが……骨肉の兄と弟とが、かく心にもなくへだてられ、浅ましい相剋そうこくの火を散らすことよと、世間の眼にも見らるるつらさ。……景季かげすえ、おぬしら、臣下の者にも分ろうが」

 義経は、彼の姿を見ると、云わずにいられなかった。情熱に生き情熱に戦って来た彼は今──平家の旧勢力を一掃して、源氏という、また、鎌倉幕府という新しい組織の段階に入ってくると、もうその役割のすんだ無用の破壊者の如く扱われて、ことごとに、兄頼朝からはうとんぜられ、幕府の一部からは曲解をうけた。

 ──心外な!

 彼はまたそれを、情熱の焔につつんで深刻に悩むのだった。武人の働きや武略を必要とした世情は一転して──新しい段階では、政略家が舞台にのぼり、政治的な整理や工作が、何もかも無視して働いているのだ──というふうに冷然と見ていることができなかった。

 また、幕府をめぐる北条ばつや大江広元などの、いわゆる政治家肌な人たちの中では、義経が、戦時同様な威力をもって、京都守護の任にあることは、何かにつけ都合が悪かった。殊に、後白河法皇の御信任は日に厚く、九条兼実かねざねなども、義経を無二の者としている傾きがある。──頼朝の心もまた、それには穏やかであり得なかった。

「いや、お暑い折を、押してお目通りを願い、恐縮でした。幕府の使いとしてなれば、御ゆるしにあずかりたい」

 景季は、わざと、義経のことばをそらして、威儀いぎ作った。

「早速ですが、かねて頼朝よりとも公から、貴方へ御内命のあった一儀、何故の御延引かと、お怒りでござる。一体、いつお討果しになるお心か、しかと、その儀を伺いに参った。御返答を賜りたい」

新宮しんぐうのろう行家ゆきいえどのを、討てとの、仰せつけのことであるか」

「そうです」

「行家どのは、兄頼朝にとっても、この義経にも、叔父御おじごにあたるお人であろうが」

「おことばまでもありません」

「しかも、平家追討の折には、河内より兵を引っげられ、摂津せっつでは、軍船や粮米ろうまいを奉行せられ、勲功もあるお人」

「しかし、鎌倉殿には、忠誠でありません。頼朝公をおいあなどられ、根が、木曾殿の幕下にあったお方だけに」

「理窟は待て。兄上には、すでに、佐々木定綱に命じて、行家どのを討てとおいいつけなされたそうだが、義経は、情において、叔父御を討つに忍びない。──そういう兵馬は義経の旗下きかにはない」

「噂には、あなたが、行家殿をかくまっておられるとも聞きますが」

「知らぬ。あのお方とて、犬死はしとうあるまい。隠れるのは当り前じゃ」

「では、鎌倉殿の仇をかくまわれて、御命にそむかるるお考えか」

「たれが」

「あなた様が」

「ばかっ。──く、帰れっ」



 物蔭に聞いていた家臣はきもを冷やした。簾の蔭に案じていたしずかもハッとした。情熱の病人は、遂に、烈火のかたまりを、景季かげすえへ吐きつけてしまった。

 こんな結果になるなら、むしろ仮病と取られても、使者の景季にお会いさせなかったほうがましであったものをと、家臣たちは悔いたが、及ばなかった。憤然と立帰った景季は、即日、六条油小路の旅舎を引払って、鎌倉へ急ぎ帰って行ったという。

「さばさばした。これで、一夕立そそいで来れば、なお、清々すがすがしかろう。──静、雑色ぞうしきに命じて、庭木へ水を打たせい。灯ともしたらまた、そなたのつづみなど聞こうほどに」

 義経は、夕迫る縁に立って、崩れる雲の峰を見ていた。

「はい」

 彼の妻は、まだ十九だった。

 十五、神泉殿の舞楽の日に、初めて義経におもわれた。恋を知った十六の春と共に、眉を改めて、白拍子しらびょうしの群れから去り、その細いかいなで養って来た母のいそ禅師ぜんじと一緒に、このやかたへ移った静であった。

 晴れがましく輿入れした妻ではない。それだけに、妻たる女の真実を、彼女は、良人へも召使にも、無言の真心で示して来た。よしや鎌倉にある良人の兄君からは、まだ一片の便たよりにも「弟の妻」とゆるされたためしはなくても、彼女の心には、何の不足でもなかった。



 鎌倉に帰った梶原景季かじわらかげすえは、頼朝よりともへ、こう復命した。

判官ほうがん殿には、病中と仰せあって、なかなかお会い下さいません。遂に、って御威光を以て、お目通りしましたところ、きゅうなどすえておられ、御顔色も憔忰しょうすいの態に見うけられましたが、一日食わず、一夜眠らず、灸などすえれば、病態は作られまする。──行家ゆきいえ追討の御諚ごじょうについては、耳もかされず、く帰れとの御一言あったのみ、取りつく島もなく立戻りました」

 それからまた、都での風聞ふうぶんとして、義経の行装の豪奢、禁中の羽振り、日常の花奢かしゃなど、問われないことまで告げた。

「そんな態か」

 頼朝の顔いろは動いた。

仙洞せんとう御気色みけしきへつらい、武功に誇り、頼朝にも計らわず、五位のじょうに昇るなど、身のほどを忘れた振舞、肉親とて、捨ておいては、覇業のさわりになる。今のうちに、九郎冠者めを討って取れ」

 下知げちは、武府に伝えられた。

 和田、三浦、千葉、佐々木など、誰もその討手は辞退した。土佐房昌俊とさのぼうしょうしゅんに命が下った。昌俊は、部下の藍沢次郎あいざわじろう真門まかど太郎など八十余騎をひいて、京都へ馳せ上った。

(──鎌倉殿の討手が京へ急がれた)

 街道のうわさは、軍馬よりも先に、都へ聞えてきた。洛内の庶民は、もう家財を片づけ出した。義経はそれを、仙洞せんとう御所へ参院した戻り道に見て覚った。

「あわれ、彼等もみな、この義経が、兄に弓引く者と思うているのか。天下、誰あって、この義経の心を知ってくれる者もない」

 彼は、牛車くるまの中で嘆じた。──そう淋しく思う時、ただひとり彼の胸にはしずかのすがたがあった。



「京都守護の任にある義経を討たんとすれば、京都は当然兵火につつまれ、ひいては天下の大乱となろう。よろしく彼に先んじて、頼朝追討の院旨いんじを、義経へ下し給うべきである」

 大蔵卿泰経おおくらきょうやすつねは、九条兼実かねざねや左大臣経宗つねむねや、内大臣実定さねさだなどを説きまわった。後白河法皇のお心もそこに決しられてあるという。

 誰も、誰も、義経の心を知らないのだ。

「京へ、鎌倉の兵を入れるな。尾張美濃の境、墨股河すのまたがわせ下って、義経に、鎌倉討伐の第一せんを放たすがよい」

 同意は、多かった。

 法皇をめぐって、活溌な策動が初まっていた。──が、何たることか、その頃もう土佐房昌俊らの手勢は、変装して洛内に入りこんでいたのである。

 十月十七日の夜だった。

 堀川べりの六条室町むろまちやかたへ、どっとせて、いきなり火をけた軍勢がある。義経は、元より何の備えもしていなかったし、その夜、郎党たちは、他の所用に出払って、あらかた留守だった。

「殿っ。夜討ですっ」

 佐藤忠信と、四、五の家臣が、大声で広縁から呶鳴った。ばりばりと火のはぜる音がする。庭木へ螢のような火の粉が散っている。

「今参る」

 義経はもう身をよろっていた。静が、側にあって、太刀のかわよろいなど、結んでいた。

「忠信っ、忠信っ」

 呼び返して、義経は、早口に命じた。

「そちは、築土ついじを躍りこえて、御所へ急ぎ、火の手に、お案じあらぬよう、義経あらんかぎり、都は焦土とさせませぬと、お取次を以て、聞え上げて参れ。──その足で、出先の郎党どもを集合し、御所を守れ、また市中を警備せよ。義経は、京都守護の任にある者、私邸の火や、土佐房とさのぼうごとき小勢の襲撃は、何ものでもない。よいか、急げっ」

 云い終ると、しずかの手から長巻ながまきを受け取って、義経は、わずかの家臣と共に、表門へ斬って出た。静は、良人を送ると、母の磯の禅師の部屋へ、

母様かあさまっ──あっ母様、外へ出てはいけません」

 叫びながら馳けて行った。

 矢も、火の粉も、家のなかまで飛んで来た。凄まじい表の武者声に、彼女の母は、耳をふさいだまま、室の外にっ伏していた。



 外出していた郎党や、新宮十郎行家の兵などが、火の手を見て、馳けつけて来たため、土佐房昌俊しょうしゅんたちの襲撃隊は、かえってはさみ討ちとなってしまった。

 昌俊は、追われて、鞍馬くらまへ逃げこんだが、鞍馬の山僧に捕えられて、二十六日、都へ曳かれた。すぐ首斬られて、その首は、六条河原の秋風に黒ずむまでさらされていた。

 十一月、洛内の動揺は、もう制しきれないものになっていた。鎌倉の大軍が上ると聞えて来たのである。義経も必ず反撃するものと見てか、頼朝自身、黄瀬川のあたりまで、兵馬を進ませて来たともいう。

「……浅ましや」

 義経は、心で泣いた。

 夜も寝られない容子ようすであった。その良人へ、静は、どんなに心をこめてかしずいても、慰めきれない思いだった。──ては、共に手を取り合って、

「天下の兵を敵とするも、怖ろしくはないが、肉親の兄へ引く弓はない。およそこの身ほど、骨肉に薄命はくめいな者があろうか。襁褓むつきの中よりちち兄弟はらからにわかれ、七ツの頃、母の手からもぎ去られ、ようやく、兄君とも会って、平家を討ったと思うもつかの間、兄たる御方から兵をさし向けらるるとは」

「そのお心が、どうして、鎌倉へは通じないものでしょうか。わたくしが兄君様から、弟の妻と、許されているものならば、身を捨てても、鎌倉へ下って、あなた様のお胸のほどを、お訴えいたしましょうものを……」

 ふたりは身も心も一つにもだえ合って、もう大廂おおびさしに木の葉の雨も落ち尽した初冬の夜を泣き明かした。



 風評が風評を生み、今にも大乱と化すように、洛中の貴賤上下の騒ぎがくなれば濃くなるほど、義経の心は、誰にも分らなくなっていた。

 頼朝追討よりともついとう宣旨せんじは、もう朝議で決定していた。義経の手に下るばかりになっている。ここでも、彼の心を少しでも知ってくれる者は一人もなかった。

 叔父の行家さえ、その策動に、夢中になっていた。義経を押立てて、一合戦のもくろみである。堂上どうじょう、世上の人々が、まったく義経の本心を見失みうしなって、ただ血眼ちまなこに騒いでいるのもむりなかった。

最期さいごの日が近づいた。──静、そなただけは、しかと、わしの心を見ておろうな」

「仰せまでもございません」

 ふたりは、ひそかに誓っていた。犬死する気はないが、そうかと云って、戦う気もくまでなかった。その間に処す身支度だった。

 幸いにも、義経の望みは、法皇の御聴許となった。一先ず九州の地頭じとうとして、都を去ることになったのである。

 ──が、人々はなお、彼のそんな柔順を信じなかった。彼をよく知る九条兼実かねざねさえ、その日の日記に、

(如何ナル騒乱ニ立チ至ルラン。春日明神カスガミョウジンニ祈念シテ、何処イズコヘモ逃ゲズ、タダ運命ヲマカスノミ)

 としるしているほどであるから、京都の市民が、かつての平家が都落ちの時のように、また、木曾義仲きそよしなかが乱暴を働いたように、義経の兵も、存分な狼藉ろうぜきを働いて行くであろうと、怖れおののいていた。

 ところが、十一月のしもの朝、義経は、赤地錦あかじにしき直垂ひたたれに、萠黄縅もえぎおどしよろいをつけ、きょう西国へ下るとその邸を出て、妻の静、その老母、その他、足弱あしよわな者たちを、先へ立たせ、わずかの精兵を従えて、御所の門前に、しゅくとして整列した。

 御墻みかきごしに、院の御所を遙拝して、彼は大地へ両手をつかえた。

「義経、不徳のため、鎌倉どのの譴責けんせきをこうむり、今日、鎮西ちんぜいに落ちて参りまする。思えば、きょうまでの御鴻恩ごこうおんは海のごとく、微臣の奉公は一つぶの粟だにも足りません。今一度、龍顔を拝したくは存じますが、武装の甲胄かっちゅう、畏れ多く存じますれば、これにてお暇乞いとまごいをいたして立去りまする」

 従う人々には、佐藤忠信ただのぶ、堀弥太郎やたろう伊勢いせ三郎など二百余騎の家人けにん、みな義経にならって拝をした。そして、粛然しゅくぜんと、ちりも散らさず、都を後に去った。

 ──が、摂津せっつ、兵庫あたりには、早くも頼朝の軍令がまわっていた。諸国の地頭は、義経を討って、鎌倉殿の感賞にあずかろうものと争った。

 行路こうろの難は、そればかりでなかった。大物だいもつの浦から船に乗りこんだ夜、暴風あらしに襲われて、船は難破してしまった。郎党の多くは溺死し、義経は、こわれた船を引っ返したが、陸にはまた、しつこい敵が猛襲してきた。かくて味方とも散々ちりぢりにわかれて後、義経の足跡そくせきは、四天王寺までは見た者もあるが、そこを立退たちのいた先は、まったく踪跡そうせきくらましてしまった。

 伊豆左衛門有綱ありつなと、堀弥太郎景光かげみつという武士二人。

 それと、妻の静に、妻の母のいそ禅師ぜんじと、わずか四人を連れたきりであったと、四天王寺の僧は、後で、取調べをうけた鎌倉の武士へ語った。



 彼は奈良ならひそんでいる──といううわさがあるかと思うと、

(いや、多武とうみねで、それらしい落人おちゅうどを見た)

 とも聞え、

(十津川の筋へ逃げた)

 とか、その他、紀州だ、いや、京都の中に潜伏しているのと、彼の足跡をめぐって、神出鬼没なうわさばかり乱れ飛んだ。

 鎌倉勢は、その詮議せんぎに、手をやいた。翻弄ほんろうされているようだった。躍起やっきになって、探しぬいたが、手懸てがかりもない。

 その前後。北条時政の手勢は、何事か、確証をつかんだものらしく、雪ふる中を、吉野の峰へけ上って、何の前触れもせず、南院藤室なんいんふじむろの僧房を襲った。

「九ろう判官ほうがんが、これに潜んでおろう」

「存ぜぬ」

 白眉はくびの僧が、応答している間に、彼方の蔵王堂ざおうどうの方で、

「いたっ」

 という兵の声がした。

 僧の中で、密告した者がいたとみえる。どやどやとそこへ押入った武者輩むしゃばらの中に、その僧も立ち交じっていた。

「やっ……。女と老母のみではないか」

「これは、判官どのの愛妾あいしょうしずかどのと、その母御の禅師ぜんじです」

 兵をみちびき入れた僧は云った。

「あ。……しずかか」

 白拍子しらびょうしの頃から麗名は高い。舞の上手、またなき容色の持主と、誰も聞いている。わけて、九郎判官が、天下てんかに身をれる尺地せきちもなくなった後も、労苦を共にして、連れ歩いている麗人とは、いったいどんな女性かと、武者輩むしゃばらは、眼をぎたてて、まわりに立った。

 母子おやこ、ひしと抱き合っているので、一つの大きなまゆのように見えた。しずかのふところにわなないているのは老母だった。静は、まわりの刀や槍を、黒いひとみで、まろまろと見つめながら、母の体のうえにおおいかぶさっていた。

「静っ。──こらっ静っ。……義経はどこへ落ちた。申さぬと、先ず見せしめに、そのいぼれの首から斬り離すぞ」

「知りません。……良人の行先は、何も聞いておりません」

「うぬっ」

 雪まみれの土足を上げて、一人が蹴とばそうとすると、

「まあ待て、そうおびえさせては、口もきけまい」

 と、他の武者が押し止めて、なだすかしながら訊問した。

「これまでは、良人と共に、辛くも辿たどって参りましたが、深山みやまの雪、母の持病、足手まといと思し召してか、この蔵王堂に四、五日いよ、やがて馬を送りて、迎えをよこすまで──と申されまして、良人とここで別れたまま、先のお行方は存じませぬ」

 静のことばは明晰めいせきであった。その落着おちついた様を見すえて、

うそでもないらしい」

 と、武者たちは、ふもとの北条時政へ、使いをせて、処置の命を待った。

 馬のくらに縛りつけて、すぐ鎌倉へ追い下せとあった。静は、武者の手に引っ立てられる母へ、自分の上着うわぎを脱いで老いの肩をつつみ、その耳もとへ、熱い息してささやいた。

「ゆるして下さい。不孝をおゆるし下さいませ。わたくしが、世の常の白拍子しらびょうしのように、判官様へ無情つれなくあれば、年老いたあなたに、こんな艱苦かんくはおかけしないでもよいのに……私の婦道みさおのために……お母様までを、憂目うきめに追いやって」



 明けて文治ぶんじ二年の一月末には、静も母も、鎌倉幕府の罪人として、安達あだちしんろう清経きよつねやしきに預けられていた。

 氷のような吟味ぎんみの床に、静は、幾たびも、坐らせられた。

「義経の行方を云え」

 との厳問である。

 清経きよつねは、こう責めた。

「そちのように、じょうこまやかな者が、途中で義経と別れ去ったとはに落ちぬ。どこか、再会の場所を約しているのであろう」

 静は、余りに責められるので、幾分、しどろになって、

「いえいえ、一度は私も、お別れするにえかねて、みねの一の鳥居あたりまで、お後をしたって行きましたが、女人にょにん入峰にゅうぶは禁制とのことに、泣く泣く戻って参りました」

 吟味ぎんみの筆記が、やがて頼朝よりともの手もとへ上げられて来た。頼朝は、それを見て、

「先に、吉野の蔵王堂ざおうどうで、時政が調べ取ったことばと相違がある。いよいよ、きびしく折檻せっかんして、実をかせい」

 と、清経きよつねに対して、不機嫌を示した。

 清経は、恐懼きょうくして、さらに、静を辛辣しんらつに責めた。余りに長い時間を冷たい板床にひきえられていたせいか、静は、急に眉をひそめ、蒼白あおじろくなって苦しげにっ伏した。

 驚いて、医師を呼び、薬を求めると、医師は云った。

「病気ではない。この容体は陣痛じんつうじゃ」

「えっ。陣痛?」

「ひどくえこんだため、早めた容子ようすはあるが、はや八月やつきは越えている」

「さては、妊娠していたのか」

 清経は、息をんで、先頃から自分のした折檻せっかんが、ひそかに今は自分を責めた。

 何しても、騒ぎとなった。しかし、案外に産室へ入ってからは軽くすんだ。産れた子は、男であった。初産ういざんだし早目でもあったせいか、ふつうの嬰児あかごより小さかった。

「お母様、見てください。似ておいで遊ばすことを……。このお眼、このおくち

 彼女はこの邸が、獄舎ごくしゃであるのも忘れて、掻抱かきいだいては、よろこんだ。──お見せしたい、一目でも、かの君にと。

 木々のもふく春に向いて、嬰児あかごの手足は、日ごとにまろくなって行った。父の血をうけて、この子も意志強い容貌かおだちしていた。

「ああ、お目にかけたい。それにしても、わがつまは何処の野路を……?」

 思うにつけ、胸が傷む。すると怖ろしいほどすぐちちが止るのである。嬰児あかごは泣く。──せめてこのき声なと、良人の耳にとどくすべもないかと、また、涙におぼれてしまう。

「ちッ……。うるさい餓鬼がきだ」

 昼夜、室の外に、番をしている詰侍つめざむらいが、時々、聞えよがしに、舌打ち鳴らした。

 築地ついじの外の桜並木が、枝もたわむばかり咲き誇ってきた。夜も昼も、そこからチラチラ白いものが母子おやこの室へ散り迷って来た。

 嬰児あかごは、ひとみをうごかしぬく。もうお目が見えるそうなと、老母は、その生命いのちの育ちをむしろはかなげにつぶやいた。静は、花の散るのを見ると、吉野の雪の日が思い出されてならなかった。──別れた人のうしろ姿に、と雪ふぶきの吹いていたその日の別離を。──幾たびも振向ふりむいては去った彼の君のひとみを。遂には、雪の中へ泣き倒れて、雪に埋もれていた自分の姿を。



 四月の一日であった。

 もう桜も若葉だった。散り消えた花の影が、何か遠い過去であったような心地のする朝。

「折入って、静どのに」

 と、いつになく丁寧ていねいに、安達清経あだちきよつねがはなしに来た。

「ほかでもないが、この四日、頼朝公には夫人おくがた政子まさこの方と御一緒に、鶴ヶ岡に御参詣がある──」

 そう前提まえおきして、清経は、頼朝のめいとして、次のような事を伝えた。かねて頼朝にも、弟の内縁の静が、神泉殿の雨乞あまごいの舞楽に、九十九人の舞姫のうちでも優れた白拍子しらびょうしであったということは聞き及んでいるところから、

(四日はちょうど参詣のついで、ぜひ社殿のろうにおいてなと、隠れなき上手の舞をよそながら見たい)

 という熱望だというのである。

 とらわれて、鎌倉へ送られて来たその当座にも、早速のように、舞を見せろという頼朝の下命はあったのである。──が、しずかは、どうしても、かぶりを振ってかなかった。

 手を焼いた前例があるし、こんどは、頼朝のいいつけも、厳重であったから、清経は、この下話したばなしには、充分周到しゅうとうな要意を胸に持って、彼女を説いた。

「いちどお目にかかっておけば、おいかりの度もよほどなごもう。舞だに終ったなれば、老母をつれて、京へ帰るもさしつかえないとまで仰せられてある。御老母のためにも……ここしのぶべきところではないかな」

 母のために。

 そう云われると、いなむ言葉もなかった。また、良人の義経に対する鎌倉殿の感情が、すこしでも解けてくれたらと、しずかは、そうしたたのみも抱いて、

「まだ、良人の生死も聞えず、別離の涙もかわかぬ今、恥かしい身を、鎌倉殿のおん前にさらすのは耐えられぬここちがしますが、あわれわがつまへの、故なきお怒りが少しでもかれたなら、どんなにうれしゅうございましょう。恥を忍んで舞に上がりましょう」

 恥、うらみ、無念──あらゆる胸揺むなゆらをんで、きっと、決意をした唇から、静は、遂にそう答えた。


十一


 その日、清経きよつねともなわれて、静は、頼朝よりとも夫妻の前に出た。──初めて、実にきょう初めて、わが良人と血をわけている兄なる人と、あによめの君とを見たのであった。

 舞殿ぶでん東側ひがしわきの一段高い席に、頼朝と政子まさこ居並いならんで彼女を見た。夫妻は、物珍しいものでも見るように、静のしとやかな礼儀を見まもっていた。

「思ったよりは、やつれてもいない。なかなか気丈きじょうそうな女子ですこと。──何か、お言葉をかけておやりなさい」

 政子にささやかれて頼朝は初めて云った。

しずかというか」

「……はい」

「幾歳になった」

二十歳はたちになりました」

「二十歳……ほう」

 夫妻は、顔を見あわせた。何の品評しなさだめをしているのか、静には、その心がめなかった。

おろかよのう。まだ年ばえも二十歳を越えず、世に隠れない舞の手も持ちながら、何で、九ろう冠者かじゃのような、らちもない男を恋い慕うぞ。……はははは、酔狂すいきょうな女子よ」

 静は、水のように、冷やかな感情になった。この良人の肉親は、またその妻である人も、自分を、弟の妻とはまったくていないことがよく分った。飽くまで白拍子あがりの遊びぐうしているのである。

(なんで、こんな人にあわれをすがろうぞ)

 彼女は、くちをかんだ。あわれを乞う者と誤られるのも無念である。涙もこぼすまい。頭も下げまい。

 きっと、彼女は、胸を上げた。──そしてむしろあわれむべき二個の人形よ! と頼朝夫妻を、その情熱のたぎりを持つ黒いひとみで、じいっと、眼も外らさず見つめていた。

「舞え。──起て」

 頼朝は、いた。

「はい」

 静は、きりっと答えた。水色の水干すいかん真紅しんくの袴。──起って、頼朝の夫妻を、高くから見て微笑んだ。

「わたくしの、好きな歌舞でよろしゅうございますか」

「何なりと」

 夫妻は共にうなずいた。

 つづみの上手、工藤左衛門尉祐経くどうさえもんのじょうすけつねは、はや一拍子ひとびょうし入れて、此方こなたへ眼を向けた。銅拍子どびょうしは、畠山庄司重忠はたけやましょうじしげただ。──静のすがたを、祐経とはさみ合って、ゆかを取った。

 遠く──遠く──静はひとみをやって、なお、舞い出さなかった。恍惚うっとりと、鶴ヶ岡のここの高さから空を見ていた。行く雲を見ていた。

「さっ!」

 鼓、銅拍子、気を合せて、舞のきッかけをうながした。──と、空ゆく雲のそれのように、静の水干すいかんの袖が瑤々ゆらゆらとうごいた。美しい線を描いて舞い初めたのである。

よしの山 峰のしらゆき

ふみわけて

入りにし人の

あとぞ恋しき あとぞ恋しき

 眼にはいっぱいな紅涙があった。けれどまた、その眼には頼朝もない鎌倉幕府の権力けんりょくもない。

 元より上手に舞おうなどとは、みじん思ってもみなかった。ただ祈るのは、この舞が、良人の恥辱にならないことであった。義経の妻として世の物嗤ものわらいとなるまいとする懸命だけであった。

しずやしず

しずのおだまき くり返し

むかしを今に

なすよしもがな

──なすよしもがな

 歌い終るのと一しょであった。彼方かなたの頼朝夫妻の席で、って落したように、ばらりッと、れんが落ちた。──その簾中れんちゅうから洩れる怒りの声だった。

「八幡の御宝前ごほうぜん、しかも頼朝が前なるもはばからず、叛逆人はんぎゃくにんの義経を、明らさまに、恋い慕って舞い歌うとは。──ゆるせぬ女、を、余を、小馬鹿にした舞ではある!」

「あなたの御不興ごふきょうは、お身勝手というものです」

 そうたしなめているのは夫人であった。

「何が身勝手か」

流人るにんとして、伊豆の配所においで遊ばした頃のことを考えてごらんなされませ。私は、静の歌を聞いて、女子おなごはやはり女子よと、思わず眼がうるんで来ました。……私が、配所にあるあなた様をおしたいして、闇の夜、雨風の夜も、かようた頃の心を思いくらべると、かの女子おなごの今はさこそと察しやられます。このようなことに、席を蹴って、御不興のままお帰りなどなされたら、坂東ばんどう武者に、あなたのかなえ軽重けいちょうを問われましょうが」

 政子は、かえって、機嫌きげんよかった。静をさしまねいて、の花がさねの御衣おんぞを、きょうの纒頭はなむけぞと云って与えた。

 静は、舞が終るとすぐ、わき見もせず、清経きょつねの邸へ帰った。──そしてけこむように、を待つわが子の部屋へ這入ったが、わが子は見えなかった。

「……和子わこよ。和子よ」

 老母の答えもない。いや、灯火ともしびもない一室の隅に、いその禅師は、喪心したようにすすり泣いていた。

「和子は、どうなさいましたか。──お母様、わたしの和子は」

「…………」

 老母は、ただ泣いて、遠い海鳴うみなりのする夜空を指さすばかりだった。

「──げっ。では……では和子さまを」

「武者たちが、海のほうへ、引っさろうて行った。──鎌倉殿のおいいつけじゃと」


十二


 水と空のさかいだけが、ぼっと夜明けのように明るいだけだった。夜の海は、真っ暗にえすさんでいる。常でも浪の激しい由比ゆいヶ浜に、こよいは風がある。

「和子ようっ。──和子ようっ」

 痛む乳を抱きしめた水干すいかんの舞姫は、沖へ向って声をからしていた。浪にただよう木片やあくたを見ては馳けて行った。しぶきを浴びて、走り狂った。

 松明たいまつを振って追って来た人々の中に、安達清経あだちきよつねもいた。わが子の後を追って死のうとするしずかを抑えて、しゃ二連れ帰った。一夜に、せ衰えた舞姫は、その夜から囈言うわごとに、子と良人のことばかり云いつづけて、夏の中も病のとこから起てなかった。

 静が、気がついてみると、初秋はつあき八月の風が萩叢はぎむらにふいていた。かさと杖とが手にあった。老母と共に鎌倉を立つ日であった。

「良人は何処に?」

 生きるかぎり、彼女は思いつづけたであろう。また、てなき道を歩いたことでもあろう。──私たちが旅にふと見る、名知らぬ路傍の草の花叢はなむらは、そこが彼女の足が止った最期さいごの地であった墓標しるしかも知れない。

 彼女の咲かせた情操の姿は、野の花に見るあんなふうに、またなくじゅんで飾り気もない愛だったから──。

底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社

   1977(昭和52)年41日第1刷発行

初出:「主婦之友」

   1940(昭和15)年5月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:川山隆

校正:雪森

2014年87日作成

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