深川の老漁夫
岡本綺堂



 T君は語る。


 この頃は年をとって、すっかり不精になってしまったが、若いときには釣道楽の一人で、春は寒いのに寒釣りにゆく。夏は梅雨に濡れながら鯉釣りやえび釣りにゆく。秋はうなぎやすずきの夜釣りにゆく。冬も寒いのに沙魚はぜの沖釣りにゆく。今から思えば、ばかばかしいほどに浮き身をやつしたものであったが、これもやはり降りつづく梅雨にぬれながら木場へ手長蝦を釣りに行ったときに、土地の人から聞かされた話の一つで、江戸末期から明治の初年にかけての世界であると思ってもらいたい。

 深川の猿江に近いところに重兵衛という男が住んでいて、彼は河童といい、狐という、二つの綽名あだなを所有していた。その本業は漁師であるが、少しく風変わりの男で、若いときに一度は女房を持ったが、なにか気に入らないというので離縁してしまって、それから後は五十を越すまで独身で押し通して来た。いや、それだけならば別に問題にもならないのであるが、重兵衛はこの二、三年来、自分自身はめったに網打ちに出たこともなければ、魚釣りに出かけたこともなく、ほとんどふところろ手で暮らしているのである。ときどきに小博奕ぐらい打つようであるが、それで遊んで暮らしていけるというほどでもない。さらに不思議なのは、前にもいう通りかれは碌々に商売に出ないのにも拘らず、いつも相当のさかなを魚籠びくや桶にたくわえて寝ていることである。漁師が魚を持っていれば、食うには困らない。そこで、彼は格別の働きもしないで、酒一合ぐらいには不自由なしに生きていられるのであった。

 しかし口のうるさい世間の人がそれをそのままに見逃がす筈がなかった。釣りにも網打ちにも出ない漁師が、いつも魚を絶やさないというには何かの子細がなければならない。ある者は彼が稲荷の信者であるのから付会して、重兵衛は狐を使うのであると言い出した。いや、狐ではない、河童を使うのだと言う者もあった。いずれにしても、重兵衛は狐や河童のたぐいを使役して、かれらに魚を捕らせるのではあるまいかと、近所の人たちに疑われていた。

 それについては、こういう話が伝えられた。ある夏の夜ふけに、近所の源吉という十八歳の若者が小名木おなぎ川の岸へ夜釣りにゆくと、七、八間ばかりはなれたところで突然に凄まじい水音がきこえた。魚の跳ねるのではない。もしや身投げではないかと危ぶんで、水音のひびいた方角へ駈けてゆくと、芦のあいだには一人の男があぐらをかいて煙草をのんでいた。それはかの重兵衛で、今ここへ駆けつけて来る足音を聞くと、かれはにわかに起ち上がって睨むように源吉を見た。

「おじさん、今の音はなんだろうね。」と源吉は訊いた。

「なんでもない。岸の石がころげ落ちたのだ。」と、重兵衛はしずかに言った。「おれの釣場へ来て荒らしちゃいけねえ。もっとあっちへ行け。」

 それがふだんとは様子が変わって、なんだか怖ろしいようにも思われたので、年のわかい源吉はそのまま素直に立ち去った。重兵衛はおれの釣場と言ったが、別に釣竿らしいものを持っているとも見えなかった。しかもその魚籠のなかには四、五匹の大きい魚が月明かりに光っていた。

 源吉はあくる日それを近所の人たちにささやいたので、重兵衛におおいかかる疑いはいよいよ深くなった。そればかりでなく、さらにこういう事実が発見された。重兵衛の魚には怪しい爪のあとがついているというのである。注意してみると、どの魚にも頭か背か腹かにきっと爪のあとが残っているので、それは網や釣り針にかかったものでなく、何かの動物に捕えられたものであることが確かめられた。問屋で詮議しても重兵衛はいつもあいまいな返事をしていた。深くそれを問いつめると、彼はしまいには腹を立てた。

「そんな面倒な詮議をするなら、ここへは持って来ねえ。おれは自分で売って来る。」

 彼は問屋の詮議をうるさがって、自分で魚を売りあるくようになった。その頃の深川辺には貧乏長屋が多かったので、そこらの長屋のおかみさん達は、値のやすいのに惚れて重兵衛の魚を買った。勿論、その魚を食って中毒したなどという者もなかった。そのうちに又こんな事件が出来した。

 かの源吉という若者が、秋の雨のそぼ降る夜に重兵衛の家の前を通りかかると、灯のひかりの薄く洩れる雨戸の内から軽い咳払いをするような声がきこえた。と思う間もなく、源吉の傘がにわかに重くなった。不思議に思って、その傘を持ちかえようとする途端に、傘の紙も骨も一度にばらばらと破れて、何物かが彼の顔をめちゃくちゃに掻きむしった。源吉は年こそ若けれ、浜育ちの頑丈な男であったが、不意の襲撃に面食らって、おめおめと相手を取り逃がしたばかりか、流れる血汐が眼にしみて、雨のなかにつまずいて倒れた。その騒ぎに近所の人たちも駈けつけたが、そこらに怪しい物の姿はもう見えなかった。源吉の話によると、かれを襲ったものは確かに獣である。傘の上に飛びあがって、その顔を引っ掻いたのをみると、あるいは狐ではないかというのであった。

 場所が重兵衛の家の前で、その怪物が狐であるとすれば、彼が狐を使うという噂もいよいよ嘘ではないらしく思われた。彼が狐を使ってひそかに魚を捕らせているところを源吉が偶然に見つけて、それを世間へ吹聴したので、その復讐のためにこんな目に逢わされたのではないかというのも、まんざら根拠のない想像説でもなかった。しかし本人の源吉が重兵衛にむかって正面から苦情を申し込むには、理由が何分にも薄弱であった。暗いなかの不意撃ちであるから、彼は勿論その正体を見とどけたわけでもなく、又その獣らしい物が重兵衛の家から出入りするところを見つけたというわけでもないのであるから、相手が知らないと言い切ればそれまでのことで、しょせんは水かけ論に終るのほかはないので、源吉も残念ながら泣き寝入りにしてしまった。他の者からは勿論なんとも言いようはなかった。

 こうして、表面は無事に済んでしまったが、諸人の疑惑はいよいよ深くなった。源吉の顔の疵は癒えても、重兵衛の噂は消えなかった。しかし源吉の先例があるので、諸人はその復讐を恐れて、直接に彼に対してどういう制裁を加えることも出来なかったが、自然の結果として彼を忌み嫌うようになった。陰では狐とか河童とかいう綽名を呼ばれ、一種の薄気味の悪い人間として世間から睨まれながらも、彼は直接になんの迫害を蒙ることもなく、相変わらず出所の怪しい魚を安く売りあるいて、裏長屋のおかみさん達に歓迎され、自分も独り者は気楽だよというような顔をして、一合か二合の寝酒を楽しんでいるらしかった。

 そのうちに世の中はひっくり返って、古い江戸の名は東京と変わったが、それは幸いに重兵衛やその周囲の人たちに大いなる影響をあたえなかった。明治二年の夏の終る頃である。重兵衛は蛤町の裏長屋からおせんという少女を連れて来た。おせんは十五、六歳で、色こそ浅黒いが目鼻立ちの整った可愛らしい娘であったが、不幸にして生まれつきの唖であった。父には去年死に別れて、母は二人の子供をかかえて細々に暮らしているのであるが、姉娘のおせんは唖という片輪者であるから、奉公に出すことも出来ないで困っているのを、重兵衛がどう掛け合ったのか、養女に貰うことにして自分の家へ連れて来たのである。片輪であるが容貌きりょうも悪くない、その上におとなしく素直に働くので、重兵衛はよい娘を貰いあてたと喜んで可愛がっていた。近所の人達もおせんの素姓をよく知っている上に、片輪の少女に対する一種の同情もまじって、その父を嫌うようにその娘を嫌いはしなかった。食うや食わずの実家にいるよりも、ここへ貰われて来た方がおせんのためにも仕合わせであるらしく思われた。

 それからふた月ばかりは無事に過ぎて、養父と養女とはいよいよ睦まじいように見えたが、ある朝おせんが家の前を掃いていると、その頬や頸筋になまなましい掻き疵のあるのを近所の人たちが発見した。疵のあとには血がにじんで、見るからむごたらしいのに驚かされて、手真似でその子細を聞きただしたが、何分にも要領を得なかった。しかしその疵のあとが、かの源吉の疵によく似ているので近所の人たちも大抵は想像した。

「可愛そうに、あの子もきっと重兵衛の狐にやられたのだ。」

 しかし源吉の場合とは違って、おせんは養父にも可愛がられ、自分もおとなしく働いているのに、なんでこんなむごたらしい復讐を受けたのか、その子細は判らなかった。もう一つ不思議なことは、その夜ふけに、重兵衛の家の奥で彼が小声で何者かを叱り罵るような声がきこえた。床の下かと思われるあたりで獣の唸るような奇怪な悲しげな声が洩れた。そうして、そのあくる日は重兵衛が久し振りで網打ちに出てゆく姿を見た。めずらしいことだと近所でも噂していると、彼はその後毎日網打ちに出て、ほかの漁師達とおなじように稼ぎはじめた。それでも決して夜網には出ないで、日の暮れる頃には必ず帰って来た。おせんの顔の疵も塗り薬などしてだんだんになおって来た。近所の人がその顔を指さして、そんなになっても実家へ帰りたくはないかと手真似で訊いたことがあるが、おせんはいやな顔もせず、さりとて笑いもせず、少しく顔を紅くして頭をふっていた。

 九月の末である。その頃はまだ旧暦の秋もおいおいに暮れかかって、深川には時雨しぐれめいた空が幾日もつづいた。その日も朝から陰って、貝殻を置いた屋根の上に折りおりは弱い日かげを落としていたが、午後から東南たつみの風がにわかにいで、陽気もうすら寒くなったかと思うと、三時過ぎる頃から冷たい霧が一面に降りて来て、それが次第に深くなった。重兵衛の軒さきに立っている一本の柳も、その痩せた姿が暗く包まれてしまった。

「これじゃあ沖はどうだろう。」

 ここらの人たちは沖を案じていたが、沖の霧は果たしておかよりも深かった。ここらの漁船はみな洲崎の沖に出ていたが、海の上は夜よりも暗い濃霧にとざされて、水に馴れている漁師たちも櫓やかいを働かせるすべを知らなかった。度胸をすえて落ちついているのもあれば、どうかして漕ぎ抜けようと迷いに迷っているのもあった。重兵衛もその一人で、かれは自分ひとりで小舟を漕ぎ出していたが、あせりにあせってこの霧の海から逃がれようと、一生懸命に漕いでゆくと、方角をあやまって芝浦の方へ進んでしまった。それに気がついた頃には、霧も少しくはげかかって来たのであった。

 おかの霧は海ほどではなかったが、それでも黒白あやめもわかぬというような不安の状態が一時間あまりも続いた。それがようやく薄れて来て、あたりが自然の夕暮れのけしきに戻ったとき、重兵衛の家の入口に倒れているおせんの姿が見いだされた。おせんは再び顔や手に無数の掻き疵を負って、髪をふり乱して横ざまに倒れていたが、さらによく見ると、その喉笛は何物にか無残に食い破られていた。誰が見ても、もう助ける方法はないとあきらめたが、素足で門口まで這い出して倒れているのから想像すると、おせんは暗い霧のなかで何物にか襲われて、恐怖のあまりに、探りながら門口まで逃げ出したが、遂にそこでいたましい生贄となったらしい。もちろん声を立てたかも知れないが、何分にも本人が唖であるのと、近所の人たちも霧を恐れて、厳重に雨戸をしめて閉じ籠っていたのとで、そこにそんな惨劇が演出されていようとは気がつかなかったのであった。

 沖の漁師達もだんだんに引き揚げて来た。重兵衛は飛んだ方角へ迷って行ったために、一番おくれて帰って来たので、その惨劇を知るのが最も遅かったが、それを知ると彼はしばらく喪神したように突っ立っていたが、やがて足ずりして、「畜生、畜生」と繰り返して罵った。


 おせんの葬式がすんでも、重兵衛は仕事に出なかった。十日とおかあまりは唯ぼんやりと暮らしていたらしかったが、その後ひる間は酒を飲んで寝て暮らして、夜になると小名木川のあたりへ釣りに出て行った。それが五、六日もつづいた後、かれは出たままで帰らなかった。

 あくる朝になって、その死体が芦の茂みから発見された。彼は両手で大きい河獺かわうその喉を締めつけながら死んでいたのである。重兵衛のからだには別に疵らしい痕も残っていなかったというのであるが、何分にもその時代のことで検視も十分に行き届かず、その死因も本当には判らずに終ったらしい。

 大きい河獺は年を経たもので、確かに「雌」であったそうであると、T君は最後に注を入れた。

底本:「綺堂随筆 江戸のことば」河出文庫、河出書房新社

   2003(平成15)年620日初版発行

底本の親本:「綺堂讀物集 六 異妖新編」日本小説文庫、春陽堂

   1933(昭和8)年228

初出:「文藝春秋 第五年 第四號」文藝春秋社

   1927(昭和2)年41日発行

入力:江村秀之

校正:noriko saito

2019年1028日作成

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