花桐
室生犀星



 女が年上であるということが、女を悲しがらせ遠慮がちにならせる。時にはどういう男の無理も通させるようにするものである。花桐が年上であるだけに持彦もちひこは一層打ちこみ方が夢中であったし、女に対するあらゆる若い慾望のまとも、花桐にあった。甘えて見たり無理無体をいって見たり、ときにはすすり泣きの声を聞くまで理由のないことで責めたりする、それは愛情がかゆいところに手のとどかないような気のするときとか、愛情の過剰がそういう現われに変ったりするのである。花桐はそういう持彦のくせをよく知っていた。そのときの感情のあらわれで気持をはかっては見ているものの、持彦が年上の自分にたいしては母であったり姉であったりするさまざまのものを、どう避けようもなく、また、それが当然母のいない持彦のもとめるものであることも、しだいに分っていた。だが、しじゅう、ほとんど付き切りでいることや、少しの休みもなく愛情のあらわれにかわきを見ることには、花桐も自分の気持のあらわしようのないことを知ったのである。あまりに執拗しつような愛情というものは女の愛情をついに封じこめてしまうものであった。つまり、どういうすべも施しようもなくなってしまうのである。

 宮司みやつかさの女の房に入りびたしにいる持彦には、はじめは他の女たちも避けて見ぬふうをよそおうていたが、きょうも控えの一隅いちぐうに、用もなく花桐の下がりを待つ持彦の姿を見ては、またかという気持がしだいにけわしくなって行った。若い持彦にはそんな他の女の心にどう自分がうつろうが、構うひまもないふうだった。つまり一刻のあいだにも花桐を失うている時間というものは、持彦には存在してはならぬものだったのだ。

 花桐は殿中から下がって来る長い渡殿わたどのの歩みのあいだに、胸がみだれてくることを感じ、歩みも、せかせかと悲しく不意につまづきさえしていた。あんなにされては困るが、困っても持彦が来なくなるということは、一層困るし生きられぬものに思われた。いやで厭でならぬものと、好きでそのため身を滅ぼしても構わないものとが、入り乱れて、彼女に心を整理させるひまも与えないのである。きょうこそ思いきって房に待たぬようにいい、中三日くらい置きにうように言わねばならぬと、殿中から下がりながら決心していても、持彦の顔を見るともう言えなくなり、乱れてしとどになっていた。そんなひまさえないくらい、引っきりなしに持彦の愛情にあおられていなければならぬのだ。彼女は美しくやつれさえしていてその窶れのえもいわれぬところに、持彦自身もやつれを深くして行ったのだ。そして二人のいるあいだに、いかに、時というものが速やかに経ってゆくかに驚くほどであった。日はすぐ暮れる。すこし話したりまた話が途絶えたりしているひまに、時間というものはまるで駈けてはすぎる、一刻ひととき二刻ふたときのちがいではない、高い日はあっても、それはすぐ秋のようにすげなく落ちた。かれらは、いつも暮れきった夕方に二人の白い顔をうかべ、驚いて日のくれたことを身におぼえるのである。かれらには、全くおちついて話をするような時間にすらも、見放されたようなものであった。

 さめざめとして花桐は或る夕方、持彦にしだれていった。

「あなた様のようにそんなに事繁ことしげくお通いでは、もはや、わたくしも勤めようもございませぬ。殿中のおごそかな有難いつとめの手前もありますのに、そしてよそ人の眼づかいのただ中にでも、あなた様は気のふれた方のように少しもあたりをお構いにならずに、日がな夜がなお待ちうけになることだけは、何とかしておつつしみくださらないでしょうか、もはや他の房の方がたは、わたくしが通りますると指さして、耳打ちをなされ、わたくしは面伏おもふせてとおることには慣れてまいりましたものの、殿方すらも何彼なにかとおうわさなされはじめました。あなた様が思いこめてくださることは身をくだいても足りぬうれしさではありますが、それにも引きかえ、もう、勤めも一日ずつ辛くなりましては、身の破滅に近づいているとおなじでございます。このままであなた様もつつがなくお勤めが成就できるとお思いでしょうか、あなた様のお考えも承っておかねばなりませぬ。」

 持彦自身もこう事繁く通うては、諸々の勤めもとうていまっとう出来ないこと、何とか足を抜き人目を避けなければならぬと考え、きょう一日だけ通い、明日は控えようという心に誓っても、その明日が来れば、またきょう一日くらいはいいだろうと、もはや、自分をせぎ止めることすら出来なかった。或るときはうつらうつらと通い、或る日はわき目もふらずに通って房の戸のそとに立っていた。きょうは止そう、きょうこそ通うことは止そうと、いまのいままで考えていながら身はすでに房の内に、花桐の衣裳のはこのかげに坐っていた。辛辣な花桐の朋輩ほうばいらも、しまいに持彦も官を免ぜられて浪々の身となってしまうであろう、そして花桐も殿中の勤めを辞めなければならぬようになる、しかも持彦の人もなげな逢引あいびきは夜に限らず、ま昼にすら男を引きよせているではないか、主殿寮とのもりょうの人びとも見るに見兼ねて、持彦にそれとなく忠言しても、そんな事に耳もさぬ若者の勢いは、奥のわたどのにくつ投げ入れてその夜も宿直とのいのように体裁つくろうていては、もう、何の尽すすべもなかった。かれらのこういう噂を耳にしては持彦もじっとしていられなかったが、夜がくれば花桐の顔がかがやくように匂い、宿直していても一人寝の枕にしたしめなかった。彼女も一人寝していることを渡殿わたどののあなたに思いえがいては、とうてい殿中近くにすだくあまたの虫のこえを聞いて、夜をおくることは出来なかった。そして翌朝帰って来ると、きのう自分で投げ入れたくつをはき、何くわぬ顔付で出仕して行ったが、それも行き詰って自分で自分を何とか片づけなければ、どうにも、殿中人でんちゅうびとの眼と耳とをおおうことができなかった。もはや官を退くより方法はないが、そうならそれでもっと逢いもっと物語ったあとでも、おそくはないという半ばは稟身うまれつきの悲しみを越えた気持は、ただ、いやがうえに逢いたさの迫るばかりであった。

「お身にあうごとにお身の額にきざまれるものを見て、はっとするが、しかし自分で一人いることはこれまでの経験でも、とうてい耐えられるものではない、そして何時いつの間にか花桐のそばに来てしまうのだ、そのたびにお身の心労は額に深くきざまれてゆくようで、あうごとに気が気ではない、きょうこそは一人で寝ようとしても、夜は静かであるしお身の寝息がわたどののあたりで聞える、髪もにおうて来る、お身の話す言葉がながい列になって頭にうかんで来る、そうなると一人でいることが莫迦莫迦ばかばかしくなり、今宵一夜のためにはどういう生涯が間違って出来上っても、そんなことは、どうでもよくなって終うのだ。まして有象無象うぞうむぞうのかげぐちなぞが、生涯をたたきつけて賭けている人間にとって、何の益がありさまたげがあろう、お逢いして目もくらやみ、心もつかれはてた境に早々に行きつきたいだけでござる。すべてはお身の胸にあってそしてわたくしの胸にもある。何もいわずに今宵だけをおくるためにお身はいられないのか、お身のくるしみは分る、そのあとに何がくるかも分る、お身は里方にわたくしに黙って下がって行きはすまいか、お身のみちはその外にはない、お身はそれをとうに覚悟をしているのだ、お身はまだはずかしいことを知っているし、その羞かしいもののつぐないを世の人におくる善良さを持って、それを挨拶あいさつとして殿中と別れようとしていられる、しかしわたくしははずかしさをつぐなうことも出来ず、また、それをしようとも考えていない、わたくしには何ももうしろに退けてしまった、あるものはお身だけだ。殿中では唯一人わたくしの友というもの、同僚というものがいなくなった、けぶたげな顔付でみな横向きになってわたくしをり過して置いて、かげぐちをたたく、それが何でしょう。お身にあうことができれば流罪だってわたくしはあえて辞する者ではない。」

「けれども持彦様、わたくしがを去れば、あなた様はほかの姫たちをおえらびになることができましょうに、わたくしごときにその生涯をお投げうちになることは、よくよくお考えあそばせ。」

「お身が去ればお身の落ちつきさきに行くだけだ、お身の里の蝙蝠こうもりはわがおもてをかすめてささやいて過ぐるであろう、そしてお身もわたくしも草の匂いのするところで、一夜じゅう虫のを聞いていることになるだろう。」

「まあ里方までお越しのおつもりでございますか。」

「里方にまいっては何故なぜわるいことになるのです。」

「里方には父も母もみないられます。父の眼をのがれることは出来ませぬ。わたくしは里方に下がりますればもはやお目にかからぬつもりにおりまする。」

 花桐はきっぱりといった。

「お身はひとりでいられるがいい、しかしわたくしはお身を一人で置かぬ。」

「いいえ、一人を守りつづけるつもりでございます。」

 花桐は心にもないことを言うことで、一層混乱した悲しいものに邂逅かいこうした。それは毎時いつも彼女の胸をとおり過ぎる不可思議な或るいじらしい反抗であった。

「お身が逢ってくれなければ一晩じゅう、お身の屋敷のまわりをうろ付く。」

「あなた様はそのようなことをなされて、恥かしいとはお思いになりませぬか。」

 花桐は一切を放棄した持彦が、きっと、夜じゅう、彼女の名を呼びつづけることに疑いをもたなかった。

「眼中に何物も見えてはいないのだ、見えるものはお身のきらきら光っている瞳があるだけだ。」

「このような瞳がいったい何になるのでしょうか。」

「お身はお身のひとみを見たことがあるまい、お身の瞳を見つづけて来た人間には、しばらくでも、その瞳からはなれていることが出来ないのだ。お身の瞳はもうわたくしの眼の中にはいっている。」

 さすがの花桐も、またも持彦の言葉のなかにしだれ込まれなければならない、是非もないものが感じられた。どうにでも、こういう境をさばく聡明があったら、それに裁いてもらいたかったが、彼女にはそういう聡明らしいものすら、遠くに去っていることを知っただけであった。

「持彦さま、どうぞご存分にあそばせ、わたくしはあなた様の前では、心をまもることもこばまれているとしか思われませぬ。」

「どんなにあがいても我々は二人の間からいずれも退けることが出来ないようになっているのだ。」

 彼女は熟々つくづく持彦の顔を見ながら、半ば恍惚こうこつとした半ばは感銘ただならぬふうに、あきれたようにいった。

「男というものにほだされると、こんなになるものとは思いませなんだ。こんなにも、女の生涯までも持ってゆくものだとは、まるでぞんじませんでした。」

 彼女はさめざめと持彦にもたれてすすり泣いた。それは愛情が極まったくやしさもあれば、もう何処どこにも行かない、あなた様のおそばよりほかに行くところがないというあかしでもあった。そして女という運命がみなこんなものであったかという発見も伴うていた。

「お身は時々自分にかえって二人の間を考えているが、わたくしはそれを考えるひまもなかった。無理無体だとは知っていたが、もう自分をおさえるちからも、なくなってしまったのだ。ありのままで我々の生活を続けるより外はない、迷うということは我々にはもうなくなっているのだ。」

「わたくしは迷うことのたのしさをおぼえています。あなた様のなかにわたくしのみちは、迷いつづけているような気がいたします。抜けみちも、出るところも見失っているのでございますもの。」

「それはわたくしからも言える。お身がわたくしに抜けみちがないといふより、もっと、みちは紆曲うきょくしていてまるで行き先さえ分らない、これはわたくしだけではなく、誰でも女の中に生きるみちを見付けた人間は、みなが行き止りになっていることを知るようになるのだ。もどるにも、戻るみちはふさがれている、先へすすむだけしかない、すすめば進んだだけの元きた道はふさがれてしまうのです。おそらくそこで大抵の人間はみな命を落してしまうのだ。一度はいれば、命までなくなるみちなのだ、これを知ると知らざるとにかかわらず、たしかに命をおとすことだけはたしかだ。お身の命はわたくしの中に、わたくしはお身のからだの中に恐らく愉しそうにお互の命をまもりながら生きているのではないか。」

 持彦はやっとうまく言い当てるところに行き着いて、自分の言ったことに間違いのないことを感じた。同時にそれは花桐の考えているものと一致していた。

「そこまでまいりますと、こわいような気がいたします。」

じっと見つめていると恋愛より恐ろしいものはない、これは処刑であると同時にあらゆる人間のくるしみがそこで試されているようなものだ。そとで見ているような生優しいものではない。ここにおよそ苦痛とか快楽とかの種数かずかずをかぞえて見たら、ないものは一つもないくらいだ。」

 花桐と持彦はかくて人目も恥じずに、逢いつづけた。これは余りにも大胆だと思っても、花桐は引きずられるままに引きられて行くより外に、つくしようもなかった。


 花桐の里方の母がみやこに上って来て、花桐を説き伏せ、尋常じんじょうでは改めさせる事ができないので、或る日形容できないような一人の奇怪な男を連れて来た。異様な眼光をもった背中のかがんだこの男は、花桐を見ると、石上に坐らせて、父母のかわりだというて決して反抗してはならぬといった。

「あなたは以後男とおあいになるかどうかを判然はっきりと言ってもらいたい。」

 しかし花桐は半ばわらいながらいった。

「あなたは一たい誰方どなたでございます。」

「母上殿から頼まれた陰陽師おんみょうじだ、あなたのなかにある男を封じるためです。」

 そばに彼らと連れ立った二人の神巫かんなぎは、もう、花桐のそばにくると、指を反らせ、呪文のようなものをとなえはじめた。陰陽師は再び花桐にこれから後にも、男と逢引あいびきするかどうかを尋ねた。

「お逢いいたしまするとすれば、いかが、なされます。」

「先ずその男を不具者にする、眼とか、手足とかに、まじないをかけて利かなくするのだ。つまりその男は官に勤めていれば、もはやその官職を免ぜられてしまう、そしてその男は自然に女をも顧みなくなるのだ、我々の呪文や祈祷きとうによって女が女であるもののすべてが封ぜられるのだ。」

「そんな無体な祈祷がこの世にあるものとは思われませぬ、もしあったとしても、わたくしの身心がそれにゆだねられるとは思いませぬ。」

「それは我々の数限りない経験から一つとして功をおさめざるはなかったのだ、或る者は秋の夕をして町の遠くを乞食こじきのように歩いていたし、或る者は永く片一方の手だけしかはたらけなかった。すべては罰せられ罪せられざるはなかったのだ、あなたもそむけばそうなるのだ。」

「わたくしはまだ神の罰せられた不幸な人間をこの眼で見たことがございませぬ。神に罰せられた人間がいないのを見ても、あなた方がいつも作りごとをなされていられることが分るのです。」

「作りごととは何だ。こういう我々の額から何がながれているかをとくと、見なさるがいい。」

 実際、陰陽師の額からは冷たい汗がだらだら、気味わるくながれていた。しかし、花桐の答えは不敵な、彼らの胸をつんざくものがあった。

「あなた様は先刻そこの清水でそっと額をぬらして、いらっしゃいました。おかしなことをなさると思っていますと、ただいまのようなうそをおっしゃいます。あなた様は嘘ばかりおおせになります。」

 陰陽師はあかく耳までほてらせた。かれがこれほどにき込まれていわれたことが、ほとんどためしがなかった。

「額の汗はこころから他の人間を説くときにほとばしる汗なのだ、いよいよ、我々の説くことにお従いにならないなら、あなたも男も、二度と見られない悲しい不具者になることを覚悟されるがよい。」

 花桐は笑ってもう対手あいてにならなかった。こういう神巫や陰陽師のまじないの子供くさいことを信じる母も母なら、石の上に坐ってしばらくでも、かれらの思わくの中にはいった自分が可笑おかしくてならなかった。彼女は立ち上ると、神巫と陰陽師にむかって、かっとした大声をあげて呼んだ。

「用事はございませんでしたら、どうかおかえり下さいまし。」

「母上様のおおせによって我々はまかり越したのだ。かえれとは何事です。」

「母上はお考えちがいにあらせられたのでしょう、どうぞおかえりを──」

 彼女はそういうと、彼らのそばをはなれた。こういう人事を尽すということも花桐には愚昧ぐまいの極みに思われた。もしこういう陰陽師や神巫によって女の心をほぐすことが出来るようだったら、人間の愛情というものがこの世に存在しないであろう。

 同じ日の同じ時刻に、上の官人かんにん発企ほっきによって持彦は加茂の川原に連れ出されていた。そして彼は秋おそいみそぎの水を浴びなければならないように、四囲の事情が迫っていた。それは、みそぎをすることによって神々に誓う女禁の界に立つことだった。一旦いったん、それを誓えばこれを破ることが出来ない、破れば彼の運命が逆転して死を招くか、不具者になるかの境であった。しかし、持彦は悠然ゆうぜんとして水をあび、そしてみそぎの行いをすましたのである。それを見澄みすました上の官人は小気味宜こきみよげにわらっていった。

「そちはこれで二度と女にあえなくなるだろう、そちが逢おうとしても、女の方で逃げ出すか避けるかするであろう。」

 持彦は笑った。

「これしきのことで心のかわるような女は、やつがれ知り申さぬ。」

「神の式をこれしきのこととは、たわけも程にされい。」

「水につかることが厳かな御式なら、やつがれ毎日這入はいり申そう。」

「もしこたび女を呼ばうようなことがあれば、そちは免官になり女も倉住居くらずまいをせねばならぬのだ、神をおそれぬそちは、間もなく神の名で足なえか、眼しいになってくいをのこすだろうに。」

「足なえ結構、眼しいも結構、存分に神罰というものがどんなものだか、受けて見たいものだ。」

性懲しょうこりのないやからよ、早くを去るがよい。」

「そして今宵も彼女におあい中して、もろもろの神の式をわらおう。」

 上の官人は怒って彼を打とうとしたが、別の一人はその手をささえた。そして持彦は悠然と加茂の土手をつたい、おそ秋の日ざしをあびながら、人間の心にあるものを神の形式によってあらためることの莫迦莫迦ばかばかしさを笑って行った。

 花桐はきょう陰陽師と神巫の祈祷によって、試されたことを告げ、そしてそれらはすべて嘘の式であり形であるといった。どのようにしてもあなた様のおそばをはなれることが出来ないのに、上の官人もするに事欠いて人を試すことの可笑おかしさを述べた。

 持彦も強いられたみそぎが、何のためにもならないことを笑った。人は形式をつくりすぎる、そんな形式や神式の何物かが、人の生活をあらためさせたためしがあろうか、人はその人自身によって何事もあらためるものをあらためてこそいいが、式や形でそれをつかさどることは無理であるといった。とりわけ、お身とわたくしのことでは、心とからだに我々はそむくことが出来ないといった。

「しかし花桐、もう、我々も辿たどり来てみると、どうやら、行き止まりに出ているらしいではないか、きょう、みそぎをしながら深くそれを感じた。」

 こういう持彦はいつにない、あらたまった言葉づかいであった。

「わたくしもう行くところがなく、里下がりが命じられそうな気がいたします。わたくしたちは我儘わがままな思うままの二人を世間に見せびらかしていたようなものでございますもの。」

「流罪でも何でももはや辞する者ではない、もう覚悟は出来ているのだ。」

 持彦は冷然として或る末路を迎えるような、しかも、それには恐れぬ気持を見せていった。


 間もなく花桐は里下がりを命ぜられ、殿中を退いて草深い里に去った。同時に、持彦も官を免ぜられ京を去らねばならなかった。花桐の里方では、彼女を倉の中に閉じ込め、謹しみと罪科とによって庭にも逍遥しょうようできぬようにした。倉の中の一室は秋深くうすら寒くすらあって、来る日も彼女は一つの窓から外を眺めた。持彦との愛情の行衛ゆくえはこうなるより外に、なりようがなかった。それにしても、倉にこもってから持彦という一人の男が、どれだけ深く花桐の体内にはいりこんでいたかが、しだいに彼女に男というものがこうも恋しいものであるかに、胸をいためた。或る日の彼女は男の言葉をつぎからつぎへと思い出して、それを頭の中でつづりあわせて見ていた。どの言葉にもうそはなく、そしてそれはいつも、ぎりぎりのところで口火を切っていた。或る言葉は言葉ではなくて一つの行為でもあり苛責かしゃくでもあった。美しいつねるような苛責だった。さらに彼女は男というものの肉体の不思議さを思いえがいた。その不思議さは彼女にとって行くほど複雑な、さまざまの心理と行為の奇蹟きせきのようなものであった。たとえば男というものの腕だけの世界でも、それがちょっとでも、女のからだにさわると、かつて知ることのできなかった頼母たのもしい信頼しきった腕力が感じられ、それにもたれていることだけで、何もいらないような一切を放棄した信条が花桐の心にいた。「ああいう立派な殿中の勤めさえ捨てさせた男というものは、全く女にとっては何ももいらないように仕向けて来るものだ。女にとって男というものは神仏なぞとくらべられない、きつけるちからを持っているものだ。」と、彼女は感じた。かつて持彦の放埒ほうらつおびえた彼女は、もう慄えることがなくなっていた。何と男とあっている間じゅう、花桐はふしぎなふるえをかんじていたことだろう、指がちょっとさわっても顫え、話をしているだけでも顫えた彼女に、それらの総てのおののきがなくなったいまは、その顫えが心の奥ふかくはいりこんで、肉体のなかでこまかく顫えているのだ、そしてその顫えはしだいに持彦の名を呼びつづけているようなものだ。しかも、彼に逢って物語ることによって、彼女のふしぎな顫えはとまり、落ちつけるのであった。何という変りはてた自分であったろう。

 この窓で見る夕方から夜のあかりは、庭のうえでは、いつも、ぼやけた美しい毎夜の落月であった。花桐はその遠くの道のはてに一人の男のすがたを見付け、それが持彦であることを疑わなかった。かの女は薄葉うすようをこまかく裂いてそれを継ぎ合せ、窓わくに下げて風の過ぎるのを待った。風は紙きれの尾を吹いて宙に舞わせ、遠くからでも、その動きの見えるようにはかった。第一夜第二夜はすぎ、そして第三夜にはとくに大きい紙片を折からのはげしい風になびかせた。花桐はその紙きれにみちびかれて来る人のかげを、道の近くに見付けた。

 かげを持つ人は間もなく花桐の屋敷の土の塀を乗り越え、かがむようにして樹木のあいだをくぐって来た。花桐は紙きれをたたんで、ひとすじの帯を窓からさげると、その端をしっかりと倉の柱に結び付けた。それは彼女の手ではとうてい男一人を支えきれないためであった。

 持彦は倉の下に近づくと、その帯のはしをつかんでいった。

「花桐どの、誰か見ておらぬか、気をつけられい。」

唯今ただいまはもう就寝にございますゆえ、誰もしとみのそばには出てはおられませぬ。いまのうちに早く。」

「登り申すぞ。」

「心置きなく気をつけて?」

 持彦にとっては帯につかまり、足を板わくに置いてのぼることは、何の苦にもならなかった。半ば登りかけたときに、持彦がくつをわすれたことを花桐は知った。夜まわりが廻って来ると、すぐ沓がわかる位置におかれてあったからだ。

「持彦さま、お沓を……」

「これは慮外りょがいであった。」

 持彦はふたたび下りると、沓を帯に結びつけた。それを上からするするとたぐり上げた。持彦は一瞬のうちに倉の階上におしあがった。

「暗うございますが眼がなれてまいりますと、何もも針も見えるように相成ります。」

「悲しい目にあわせ申した。我らも流罪の監視でよう出られ申さぬ。しかし、それが何のさまたげがござろう。も、そっと近くに。」

「はい。」

「ようようお身の顔が見え申して来た。夜が明けかかるようにしだいにはっきりしてまいる。」

 この薄ぐらい倉の中では、花桐の顔の白さだけがあかるい明りだった。その顔明りはふしぎにあたりの机の上にも、上敷にも、そして窓の外の薄月のひかりさえ誘いいれているようなものだった。

「たとえばお身の顔が右にうごけば右の方が明るくなる、左にうごけば階段の方が見えてくるではござらぬか、人の顔に明りのあることを初めて知り申した。」

「あなた様のお顔にも明りがあって、よくあたりが見えるようになりました。あかりはつけてもいいのでございますけれど、わたくしはあなた様のお越しの日を見越していて、わざと燭ははぶいておりました。いつも、くらく致しておけば父も母もたずねてまいることがございませぬゆえ。」

「お身は寒くはないか、こよいもふるえておられるではないか。」

こわいやらうれしいやらで手も足もふるえておりまする。持彦さま、しかと手をおにぎり置きくだされませ。」

「これでよろしきや。」

「はい、間もなく顫えが止りましょう、ごろうじませ、ほら、だいぶしずまってまいりました。」

「ふしぎでござる。」

「ほら、もはや何事もないように顫えが止って来ました。」

「うむ。」

「これは心がえがく妙な絵のようなものでございます、一つらなりの顫えが或るときは鶴のつばさをえがくように、まんまるく大きく顫え、そして次の顫えがちいさく、足や尾をえがいてゆくように思われます。それをじっと感じていると、ときには、わだつみの波のようにもおぼえられまいります。」

「お身はいつも和歌のように何事も感じている。なるほど、もはや倉の中は暗くなくなり申した。」

 階段も棚も、おびただしい荷物のはこまでが、はっきり分るようになって来た。

「わたくしでほんの小さいかげろうの姿までが、見えるようになれてまいりました。燭のない方が何もも美しく匂うように見えてまいります。」

「しかもこの暗さはしたしい暗さだ。手ですくえるような藍玉あいだまのつらなりを見るような気がする。」

「窓の方から見ませ、山も、野も見えまする。そして地上ではどういう小さい物でも、少しでも動いているもので見分けられないものとてもありませぬ。」

「山野にも眠りがあるような気がするではないか、夜の葉が眠っているなら、それらの夜の葉をあつめた山にも、ひとときの眠りがあるわけだ。」

「山は人の眼に見えなくなったときに、そういう眠りを眠っていることが言えるのでしょう。」

 彼らの物語は尽きなかった。そして彼らの生きていることも、尽きるものではない、その夜から持彦は再びかよい続けた。燭をともさない倉の中に、何の話声もれず、外部からは人の気はいすら感じられなかった。毎夜のような薄い月夜が倉にある二つの窓にさしながら、そこらのものを、さらに朦朧もうろうとけぶるように見せていた。

底本:「犀星王朝小品集」岩波文庫、岩波書店

   1984(昭和59)年316日第1刷発行

   2001(平成13)年116日第6刷発行

底本の親本:「室生犀星全王朝物語 下」作品社

   1982(昭和57)年6

初出:「PHP」

   1947(昭和22)年4月創刊号

※表題は底本では、「花桐はなぎり」となっています。

入力:日根敏晶

校正:門田裕志

2015年71日作成

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