予が出版事業
柳田国男



 人を笑わせるつもりで私はこの見出しを付ける。さて素人にしてふいと本を出して見たくなる者は幾らもあるが、私のは業と名づけてもよい程に出版道楽が年久しく、又悔いるということを知らない。そうして世間ではあまり構い付けぬのだから、自伝を書く価値があると思う。尤も西には正宗敦夫君という巨頭が居ることは承知だが、彼は同時に印刷に興味をもち職工も大抵は自分一人きりだったらしいが、とにかくに虫眼鏡で見出すほどの工場は一つ持って居た。之に対して小生は純なる Publisher であった。大よそ此名で呼ばれて居る人たちの味うべき夢と憂いと満足とは皆味って居る。其上に年もやや多いから御先に失礼して談らせてもらう。


竹馬余事


 小さな時から紙さえあれば帳面を綴じて、其上に標題を付けることが好きであった。いらぬ事ばかり書いてあるので反故になってしまったが、其中にたった一つ、五十年後になって発見せられたものがある。明治二十年の九月、東京へ遊学する間際にこしらえて残して来たもので、標題は亡父の筆だから、多分相談をして付けたのかと思う。半紙半分の横綴五、六十枚のもので、竹馬奔走の傍書き溜めた文章や漢詩などが並べ載せてある。間も無く死んだら無論限定出版ものだったろうが、幸いなことに其必要が無くてすんだ。しかし今になるとやっぱり棄てられない。天下一品の著者自筆本だからである。東京へ出てからも此癖は止まなかった。多くは表紙ばかりが本らしくて、中味は三分二以上も白紙だったから、却ってそこいらに散って残って居る。無論何れも皆永遠の「近刊」である。


萩の古枝


 明治三十七年の戦役なかばに、田山花袋君と協力して此本を出した。是は我々の歌道の師松浦萩坪先生の歌の集で、還暦の記念として門下一同に買わせたものである。部数は確か五百で、其一部分が近年まで残って居た。此本ではうんと私は苦労をした。体裁組方等は殆ど皆自分の考案で、表紙の萩の絵は弟の松岡映丘に描かせ、序文は盲蛇に私一人で書いた。それを先生にも見せずに刷ってしまったと謂って、後でうんと叱られ、又少しも誉められなかった事を憶えて居る。併し今取出して見ても、本の形などは決して悪くない。只どうしたわけか少しも古本街には顔を出さない。

 この一年前の明治三十六年にも、私はなお山路の菊という本を出版している。是は外祖母の安東菊子の歌集で、同時に出費者も其おばあ様であった。歌も格別おもしろく無いので、私は之を自分の仕事の中には入れて居ない。


後狩詞記


 この本は現在むやみに景気がいいが、実は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書写、それに或旧家の猟の伝書を添えて、やや長い序文だけを私が書いたもの、出したのは明治四十一年の冬だが、当の作者がまだ高齢で彼地に生きて居る。ただ此書を珍本にした技術に至っては、或は私のものということが出来るかも知れぬ。この年の五月の末に、私は東京を発して九州の南半を一巡し、広島まで還って来てから電命で又土佐へ渡り、百余日をかさねてへとへとに疲れて戻って来た。そうして病床に就いて退屈な日を送って居た際、気がついて見ると旅費が二十何円があまって居る。是であれを本にしてやれと思って、積らせて見たところが丁度五十部だけ出来るという。本に番号を打つということはあの頃としては大きな気取であった。終りの数冊だけはつまらなく散らしたが、其他は悉く行先を控えて著者関係者、及び其当時自分の尊奉する限りの先輩へ、多くは手紙まで添えて拝呈したのであった。あんな百二十頁のちっぽけな本に、徳冨山路等の一流文士の批評が出て、其時から既に好事家に狙われて居たのである。中に書いてある事実が当時としては皆耳新らしく、其上に序文と頭註で、是は将来研究しなければならぬ問題だといい、実際又少しずつ、我々の学問も之を明かにする方へ向いて行ったので、次第に客観的にも重要になって来たのである。岩波といったような大出版者には経験の無いことだろうが、自分にはこの発行総数の半分までは所在が判って居る。中には二度三度主を替えて、まだ系統の辿られるものさえあるのである。しかも滑稽なことにはこの書の題名を、正しく読んでくれる人も半分しか居ない。私は実は多賀豊後守の狩詞記を読んで居て、斯ういう名の本が出して見たくなったのである。この興味が無かったなら、或は出版はまだ延期せられたかも知れない。


遠野物語


 是も精確には私の著書ということが出来ない。再版になってから便宜のために、そういう語を掲げた者があるというのみである。少なくとも始めてこれを世に出した時に、私以上に満悦して居た人があるのである。しかもこの人のうれしがるという外に、私の心の中には出版者心理が働いて居た。西南の生活を写した後狩詞記が出たからには、東北でも亦一つは出してよい。三百数十里を隔てた両地の人々に、互いに希風殊俗というものは無いということを、心付かせたいというような望みもあった。幸いにこの比較研究法は、是が端緒となって段々と発達して居る。それから今一つは前々年の経験、味をしめたと謂っては下品にも聴えるが、人には斯ういう報告にも耳を傾ける能力があるということは、あの時代としては一つの発見であった。現にそれから後、急に美人や風景や名物の土産品以外に、若い人たちの知りたがる地方事実が増加したのである。此本の出版はたしかに企業であった。信用はあったけれども私に資本は無かった。損をしたら填めようという内々の心構えをして、恐る恐る五十銭という定価を付けて見た。知友に頒つのは二百部でも十分なのを思い切って三百五十刷らせて見た。印刷所の支配人が書店を兼ねて居て、よく面倒を見てくれた。半歳ほどしてから番号順の購読者名簿と、三十何円かの現金を届けてくれる。是は何かと問うと遠野物語の純益だと答える。是は大成功と得意になって見たものの、御蔭で将来いつまでも素人本屋を続けなければならぬ運命を括り付けられたわけである。

 此序に一言したいのは石神問答のことである。是も同じ親切な出版所の作業に成ったものだが、此方は全く向うの出版であった。ただ経験の少ない新店であっただけに、著者の注文はすべて受け入れられ、本の恰好から絵の入れ方、表紙は映丘に扉の文字は岡山君という書家に書かせるなど、一切が設計の通りで丸でこちらの出版のようであった。自分ならああはしないのにと思った点はほんの一つ、広告もしたのだがこの本が一向に売れて居ない。暫くしてから欲しいという人が多くなったのに、何処を捜させても一冊も無い。たしか千五百刷った筈で、印を捺したのが九百だ。あとは印無しでよいから製本するようにと云って遣ると、やがて店の者がいいわけに来た。実はもう売れぬとあきらめて包紙に使った云々。なるほど引きの強い良い紙だったから、包装用にはもって来いだったろう。


郷土研究


 遠野物語の出た頃から、高木敏雄君と墾意になった。先生も金は無いのだが、私の真似をして伝説集の自費出版をする。それから昂奮を経験して、今度は月刊雑誌の計画を私に持掛けて来た。私は是に答えて、好い仕事だが何れ損をすることであろう。ともかくも自分として一年十二回分の印刷費だけを用意しよう。損が半分ですめば是で二年、三分の二の回収が可能だったら三年だけ、続けて止めることにしようと謂って始めたのが大正二年、是が今でも多勢の人に読まれて居る「郷土研究」という雑誌で、郷土研究社という素人らしい出版屋は此時に出来たのである。ところが一年と二箇月で高木君は気が変って退いてしまい、資金はまだ少し残って居た。意地も手伝って私が一人で之を支えたのだが、どうやら四年間は中でたった一月、御大礼のあった月を休んだばかりで、発行日も一週間とおくれると、腹が立って睡られぬほど騒いだ。人には内々だったが官舎の二階で校正もすれば発送の宛名をさえ書いた。時には原稿に手を入れて行数の勘定がしにくいので、大部分を我手で書き写したこともある。天性が発行事務というものに向いて居なかったら、幾ら学問に熱心でも斯んなことまでは出来なかったろう。御蔭で人の書いた報告まで自分の仕事のようになって、今でも何処に何が在ったかをよく覚えて居る。しかも評判があまりに高く問題になりそうなので、口実を設けて中止することにした。実は財政の方でもとっくに予算を超えて、可なり心もと無い状態に陥って居たのである。この雑誌は中間十年ばかりを隔てて、五巻以下を再興しかかったことがある。それには全く自分は携わらなかったが、最初の編輯方針がなお若干は踏襲せられて居り、今取出して見るとこれも共々に懐しく感じられる。


甲寅叢書


「郷土研究」を出して居た片手間に、私は又一つの叢書を計画した。是は内閣の文庫を整理して居て、始めて気が付いたことであったが、丁度三十七、八年の戦役を境目として、日本の出版文化は面貌を一変して居たのである。何がこの大きな変革の原因かと考えると、先ず書籍の広告費というものが、此頃から急に激増して居る。次には所謂印税の制度、発行の部数に応じて著者の収入が累加するという組織が一般化して来た。この二つは関聯して居るかと思うが、とにかくに多く売れる本が次第に著述を職業たらしめた。以前印刷費に菜大根と同じほどの口銭を掛けて、沢山並べて居た小冊子というものが、徐々として影を鎮めてしまった。五銭や八銭の新刊は、今のように何万と出る見込は無いのだから、とても宣伝費を背負う力が無く、従ってどんな降らぬものでも体裁をつけ分量を大きくする。本が此頃から著しく高くなり、同時に無名氏の論策や研究によって世に認められようという機会は遮断せられた。今日は専門の雑誌があってやや長い論文でも出してくれるが、そんなのはまだ殆ど一つも無かった。昔の和本でいうなら三巻か五巻、今の四百字原稿で百枚から百五十枚ほどの、ちょうど頃合の新著というものが、よほどえらい人の書いたのでも、日の目を見ることが出来なくなって居た。単純なる自分は愚書の世に溢れて居る原因を、専らここに在る如くに解して居たのである。或日同僚の西園寺という貴公子に、慨然としてこの不満を洩すと、至って容易に共鳴して援助を約してくれた。二、三日してから倶楽部仲間の赤星という実業家と相談したと言って、両人の名前で相応な金額を届けてくれた。私の責任は忽ちにして重いものになった。それで早速六人の友人を説きまわって、甲寅叢書というものの計画を立てた。甲寅は即ち大正三年である。此時の檄文は私が突嗟の間に筆を執ったもので、今日では人に読まれても顔を赤めるほどの高調子なものだったが、本の後に麗々と載って居るのだから致し方が無い。発起人は参加の順序でいうと三浦新村長谷川石橋、他の二人はもう故人になって居る。

 何よりも大切な原則は自薦の原稿を警戒すること、しかもじっとして居ては有っても知ることが出来ないので、自分が主とし馳け廻って、よい著述を持つ人を見つけて勧説し、それを又同人に告げて承認してもらった。自分等ばかりは何でも最も力の籠ったものを一つずつ、出そうということまで約束したのだが、さてそれが中に出て来ない。始めは催促し中頃はやや様子を窺い、終りには又厳しく談じたのだが、結局誰も書かぬので少しうんざりした。第六編の『王朝時代の陰陽道』などは、今日は大へん人望ある好著となって居るが、実は原則を緩めて頼まれて遺稿を出すことにしたのである。山島民譚集だけは巻二以下もちゃんと出来て居たのだが、自分のものを出すのはいさぎよくないからさし控えた。さし控えてよいことをしたと思って居る。要するにこの元気のよい企ては頓挫したのである。今時珍らしい話だが金だけが剰って、それを使ってくれる人が無くて私は大いに弱ったのである。


        ○


 さて此話も案外に長くなって、十枚ばかりという約束をこれだけでもう越えてしまった。この先まだちょっと珍らしい話があるのだが又頼まれた時迄取って置くにしよう。

〔一九三九年十一月〕

底本:「エッセイの贈りもの 1」岩波書店

   1999(平成11)年35日第1刷発行

底本の親本:「図書 第47号」岩波書店

   1939(昭和14)年11

初出:「図書 第47号」岩波書店

   1939(昭和14)年11

入力:川山隆

校正:岡村和彦

2013年619日作成

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