山間秘話
中原中也



 牝狐と牡兎


 春であつた。牡兎の血の環りはよくなつてゐた。勇ましくはないまでも、しやきしやきしてゐた。一日兎は森に這入つて行つた、牝狐を訪ねる算段で。彼が森の径を巡つてゐる時、牝狐は家で囲炉裡にあたつてゐた。仔狐達は窓の近くで遊んでゐた。牡兎が森の方からやつてくるのを見付けると牝狐は、急いで子供達に云つた、「何時ものあれが来たらば、私は家にゐないとお云ひ。あれは私をおびき出す悪魔なんだからね! あのお馬鹿に来て欲しかつたのはもうずつと前のことだよ。今ではどうにかして殺してやりたいくらゐなんだから。」さう云つて彼女は家の奥に匿れた。牡兎はやつて来て扉を叩く。「どなたです? と仔狐達は云ふ。──私ですよ、と訪問客が答へる、おはやう! おつ母さんはお家かね?──いいえ、ゐません!──困つたな! 私は用事があつて来たのに……ゐないなんて!」そこで牡兎が再び森の方に跳び返つた。

 牝狐は一伍一什を聞いてゐた。「ああ! 犬つころの悪魔の杓子野郎が、と彼女はわめいた。もう一寸待つがいい、この図々しい奴、おまへの恥知らずに意趣返しせずになんぞゐられるものか!」彼女は囲炉裡の所から扉の陰に行つて、そこで見張りをしはじめた、兎はもう一ぺん引返すだらうと思ひながら。事実兎は遅からず引返して来た。「おはやう、坊達、おつ母さんはお家かね? すると仔狐達は──いいえ、ゐません!──困つたものだ、と兎は答へる、何時ものやうに、私はおつ母さんに御馳走しようと思つて来たんだが!」その時牝狐は顔を出した、「今日は、親愛な方!」牡兎は跳んで逃げた、泥をはねかしながら息の切れる程走つて去つた。牝狐は跡を追つた。「悪魔の杓子野郎つたら、逃がしはしないから!」彼女は今にも追ッ付きさうだ。牡兎はポンと跳んで、すれずれに立つてゐる二本の白樺の間を摺り抜けた。牝狐は今にも彼を捕へさうだつたのだが、白樺の間に挟まつてしまつて、進むことも退くことも叶はなくなつた。彼女はただただジタバタしてゐた。杓子野郎は振返つてみるとこの有様なので、──ここぞとばかり彼は思つて、直ちに跳んで返した。それから……牝狐を慰めてやつた。「かういふのが我輩の嗜好だ、かういふ流儀こそ我輩のものだ」なぞと彼は繰返してゐた。だが、彼は彼女と十分の歓を取るや、急いで帰途につくのだつた。

 間もなく彼は炭焼場の傍を通りかゝつた。其処で一人の百姓が火を燃してゐた。牡兎はその黒い埃の中をころがり廻つた、すると彼は修道僧の風体になつてしまつた。それから彼は耳を垂れて、黙々と道を続けた。その間に牝狐の方では胸が清々してきて、もう一度牡兎を探す気になつてゐた。ところで牡兎を見付けるや彼女は彼を修道僧だと思ひ込んだ。「おはやうございます、神父様、と彼女は云つた。あなたはあの杓子の牡兎にお遇ひなりはしませんでしたか?」「とお仰ると……先刻あなたにお会ひした兎のことですか?」牝狐は赤面して、大急ぎで巣の方へ走つた。「悪魔奴が! と彼女は云つた、奴はもうあのことを修道院の中に云ひふらしてゐる!」なんて狡い牝狐だらう! 牡兎は彼女に勝つたわけだ。


 牡雀と牝馬


 百姓の家の中庭に、雀の一族郎党が集つた。中の一人が皆の者に向つて自慢をしはじめた。「あの灰色の牝馬は、俺に気があるんだよ。あいつは何時も俺に流眄ながしめばかり遣つてる。ところで今日此の席で俺があいつに接唇してみせようが、皆の意見はどうだね。」「よからう!」と一同は答へた。例の牡雀は早速灰色の馬の方に飛んで行つた、「おはやう、親愛な牝馬さん。」「おはやう、唄うたひさん、私に何か用事でもあつて?」「ほかでもないが、おまへさんに会ひたかつたもんでね……」「いいとも」と牝馬は答へる。「尤も私達の所では、男の人が娘に取入らうとする時には、先づ最初に贈物をするのが普通だね、くるみか香料入りのパンか何か買つて来るのが。ところであんたは私に何を呉れる気なの?」「何でも欲しいものを言ひさへすれあ買つてやるよ。」「さう! ぢや燕麦を十リットルばかり持つて来て頂戴。そしたらあんたの言ふことをきくよ。」

 牡雀は調達にかかつた。大した骨折をした揚句、ともあれ十リットルの燕麦を運んだ。それから彼は牝馬の所に駆付けた。「さあ、燕麦の用意はいいよ。」これだけのことを云ふのに、雀はもうイライラしてゐた。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿によります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2015年217日作成

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