一つの境涯
──世の母びと達に捧ぐ──
中原中也



普通に人々が、この景色は佳いだのあの景色は悪いだのと云ふ、そんなことは殆んど意味もないことだ。人の心の奥底を動かすものは、却て人が毎日いやといふ程見てゐるもの、恐らくは人々称んで退屈となす所のものの中にあるのだ。
筆者不詳


 寒い、乾燥した砂混りの風が吹いてゐる。湾も、港市──その家々も、たゞ一様にドス黒く見えてゐる。沖は、あまりに稀薄に見える、其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方こちらと思はれるあたりに、海の中からマストがのぞいてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、──黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。

「その時はまだ、閉塞隊の沈めた船のマストが、海の上にのぞいてをつた」と、貧血した母の顔が、遠くの物でも見てゐるやうに、それでもそんな時にはなにか生々と、後年私の生後七ヶ月の頃のことを語つて呉れるたびに、私は何時も決つて右のやうな風景を心に思ひ浮べるのである。つまり私は当時猶赤坊であつた。私の此の眼も、慥かに一度は、そのマストを映したことであつたらうが、もとより記臆してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチツと決つた風景が浮ぶところをみれば、或ひは潜在記臆とでもいふものがあつて、それが然らしめるのではないかと、埒もないことを思つてみてゐるのである。

「岡宮さん、あゝ、岡宮さん──岡宮さんはほんとにあんたを可愛がつたものだ。患者の暇々には日に何べんとなくやつて来て、そしてはあんたを抱いたものだ。看護衣のまゝで抱かれるのは少しいやでもあつたけれど、心底可愛さうに抱いてるのにそんなことも云へなかつた……」と、母の話はマストの次には岡宮さんである。すると私は白い糊の付いた看護衣の、長い四角い顔の、スリッパを穿いた男を想ひ出すのである。その男が私を抱いて、なんだか枯れかけた松林のやうな庭のやうな所を、そぞろに歩いてゐる古いフィルムでも見るやうに光景を、想ひ出すのである。

「それから少し歩けるやうになると、一寸油断すればあんたは病院に出掛ける。病院は庭続きだつたもんだから。それから眼科の室にも覗けば内科の室にも覗く、一つ一つ丁寧に部屋を覗いてニコニコツと笑つてはまた次の部屋を覗く。医者も患者も面白がつて、病院中の人気者だつた。」

 翌年の春になつて暖かくなると、忠魂塔の下に遊びに行つたものださうだ。今は亡き祖母に連れられて。行くみち々に牛の糞の乾いたやつがあるたびに、それを拾つて口に入れようとするのには閉口したと、よく祖母は話してゐた。忠魂塔といへば忠魂塔の鉄で出来た模型を父は持つてゐた。後年郷里に住むやうになつてから、その模型は庭の躑躅ツツジの蔭の平たい石の上に置かれてゐた。それはその後何時どうしたものか失くなつたが、忠魂塔の周囲の棚が鉛で出来てゐて、それを私や私の弟は、えらく骨折つて抜取つたりしたこともあつたものだ。その庭といふのはその後数回築き直されたにも拘らず、その忠魂塔の台石となつた石だけは殆んどその位置を変へず、そしてその忠魂塔も、私が後に出郷してからも、帰省した時には見掛けたやうに思ふが、七八年前帰省した頃から、それは姿を消した。平たい石には今もその忠魂塔の鉄銹があるやうに、雨が降ればその銹は流れ出すやうにさへ思ふのだが、それはその後もずつと肉親を離れて東京にゐる、孤独な男の妙な幻想だけのものなのかも知れぬ。とまれ私は今書きながらフトその忠魂塔の模型をだつて思ひ出したのだが、それが現に在つたといふことは非常に慥かなのだが、また却つて夢のやうでさへある。それの周囲の棚だつた鉛の棒を共に抜取つた弟さへ、今は既に亡き数に入つたのである。たつたそれつぽつちのものが無暗に異様に思ひ出されて、その後それはどうなつたか、今でも物置小屋の隅でも探せば抛り込んであるのではないか、さしあたり今度帰省した時には、母にでも訊いてみようと、突嗟には思つたりする、──が、なに、それほど殊勝でもなんでもない。

 扨、話は前に戻る。

「あんよが出来出す一寸前頃は、一寸の油断もならないので、行李の蓋底におしめを沢山敷いて、その中に入れといたものだが、するとそのおしめを一枚々々、行李の外へ出して、それを全部出し終ると、今度はまたそれを一枚々々、行李の中へ入れたものだよ。」──さう云はれてみれば今でも自分のそんな癖はあつて、なにかそれは exchange といふことの面白さだと思ふのだが、それは今私も子供を持つて、やつと誕生を迎へたばかりのその子供が、硝子のこちらでバアといつて母親を見て、直ぐ次には硝子のあちら側からバアといつて笑ひ興ずる、そのことにも思ひ合されて自分には面白いことなのだが、それは何か化学的といふよりも物理的な気質の或物を現はしてはゐまいか。その後四つ五つとなると、私は大概の玩具よりも遥かに釘だの戸車とぐるまだの卦算ケサンだのを愛するやうになるのだが、それは何かうまく云へないまでも大変我乍ら好もしいことのやうに思はれてならない。何かそれは、現実的な理想家気質──とでもいふやうなものではないのか。


 陳述、私は明治四十年四月の末に生れ、その年十一月三日に郷里を母と母方の祖母と三人で立ち、四日乗船、六日大連着、そこで父に出迎へられ、(その父も今は亡き数、──安らかなれかし!)、終列車にて父の任地なる旅順に赴いたのださうである。「門司の旅館で船を待つ間、船の汽笛が鳴るたびに、火のつくやうに泣き出すのには閉口させられた。あの日はそれにまた、吹く降るの日で、──」とはまた母の話である。その頃の船は小さかつたであらうし、船はまた非常に揺れて、母も吐き出したのださうだが、不思議に祖母が元気で助かつたのださうである。

 その後三十年、思へば「私の青春は嵐に過ぎなかつた、時々其処此処に陽の光のちらついた」、うたさながらではなかつたか。さても私の境涯の、その最初の門出は「門司の旅館で船を待つ間、船の汽笛が鳴るたびに火のつくやうに泣き出」したのであり、「その日はそれに、吹く降るの日で」あつたのである。


しののめの、

よるの海にて

汽笛鳴る──


心よ、起きよ

目を覚ませ。


しののめの、

よるの海にて

汽笛鳴る。


 扨、茲で私はその旅順時代を終らう。まだ書くことはいくらでもあるのであるが、なにさま記臆のない時のことであるから、あんまり書いて筆力の覚束ないところを出してもなるまい。いつそ嬰児時代のことなぞ省いてしまはうかと思ふのだが、何分自分の事といふものは、何から何までいとしいもので、笑はれるとは知りつゝも、まづまづ右の分量くらゐは省きも出来ない、──然しま、あんまりお笑ひ下さるな。拙い所を引ッ込めようとして、好い所まで引ッ込んぢまふやうなことも有り勝なこと、殊に文学や絵画に於てそのことは有り勝だらう……


左を苦境時代のはじめに用ふ事


ほんとに悲しい日を持つた人々は、その日のことが語れない。語りたくないのではない、語らうにもどうにも手の附けやうがないから、遂には語りたくなくなりもするのである。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿によります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2016年34日作成

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