緑の種子
北原白秋



緑の種子


種子たねはこれ感覚のすゐ

緑は金の陰影かげにして、幽かに泣くはわが心。


種子をかなしめ、よきひとよ、

冷たく、小さき芥子のたね、その一粒ひとつぶに心せよ、

歔欷すすりなけかし、日の光。


種子たねはこれ霊魂たましひの粋、

生ける宝石、「とき」の秒、金と緑の夜の秘密、

淫慾の芽の潜伏所かくればしよ

阿片オピウムの精。


種子をかなしめ、よきひとよ、

緑は色の粋にして、

智慧と不思議と生滅しやうめつの見えざる悲劇、

万華鏡ひやくめがね


消え去り難き幽霊の

芥子の緑に泣くごとく、

裏切したる歓会の醒めてかなしきわが心。


種子をかなしめ、よきひとよ、

歔欷すすりなけかし、日の光。

四十五年八月



棗の樹


映画フイルムの中に一本のなつめの樹あり。

以太利のまちなれば日の光黄色なりけり。

なつめには実ありき、その実いと赤かるべきも、

ただ黄にかがやきて影を落せり。


いそがしきシネマトグラフの中なれば、誰とわかねど突拍子とつぺしもなく現はれて気狂きちがひのごと

自転車乗の若紳士走り廻れり、

何時いつまでも何時までも銀の輪の走り廻れり。


うしろに宝石商の飾窻かざりまどあり、舗石しきいしあり、樹の反射あり。

黒く優しき貴夫人も過ぎゆきにけり。

棗はかがやく。その男走り廻れば

愚かや乗れるその車輪しやりんふるへつつちぢまりてゆく。


悲しくわかき男かな、ワイシヤツに鼻眼鏡して、

突き当り、ねころべども起き直り、走り廻れり。

尻振りざまのをかしさよ、そのペタル縮まりて玩弄品おもちやのごとく

今は早や踏むにも堪へね、ひたぶるに走り廻れり。


棗はかがやく。サンドウヰツチ売のおぢは驚く。

悪戯小僧いたづらこぞう栗鼠りすのごと木にかけのぼる。

銀の輪は走り廻れり──ありとある、頓狂におどけたれども、

ただにわが憂愁のそとにのみいそがしくまたたきにけり。


映画フイルムの中に一本の棗の樹あり、

以太利の街なればその実いと黄色なりけり、

棗は光りき、されども影の影なればある甲斐もなく

見る人の心に耀かゞやきて、また倏忽たちまちに消えせにけり。

大正元年九月



人食ふひと


こはそもいづくの空なるや、

はた何時いつなりや、誰なるや、

人食ふ人ら背もひく

ひそと声せず、身じろがず。


かがみてぐはなにごとか、

はた、なになれば眼も狭く

地の一点を凝視みつむらむ。

銀鐘のごと日は光る。


青き波紋の刺青いれずみ

あくまで黒き頬は青く、

裸のうでに一枚の

皆朱かいしゆぬのをひきかつぐ。


悪しき心の真昼時

印度当麻いんどたへまの香の中に

笑まず狂はず、しんしんと

ひもじきごとし、泣くごとし。


血の悦楽にたましひの

ふかきうめきを忍ぶにか、

かつ現身うつそみ悲哀かなしみ

かてと食むにか、さげすむか。


淫慾いんよくの肌うつくしく

時に緑蛇ぞ走りゆく、

息蒸すばかり恐ろしき

酷暑の光、葉の湿しめり。


悪しき神々しろしめす

印度当麻いんどたへまの真昼時、

すべて事なし、声もなく、

はたや、そよとの風もなし。

大正二年四月



ペンギン


見知らぬ海と空とに

鳴いてゐる、鳴いてゐる、ペンギン、

なにを鳴くのか、ペンギン、

光と陰影かげ申子まをしご


つめたい氷のうへから

歌ふてくるペンギン、

なにを慕ふのか、ペンギン、

寂しい空のこころに。


おそれもくいもないぶりで、

あるいてくる、ペンギン、

なにが楽しいのか、ペンギン、

大勢おほぜいあつまつて、のんきに。


紺と白との燕尾服えんびで、

ものおもふペンギン、

なにが悲しいのか、小意気な

わかい紳士のペンギン。


さらさら悲しい様子やうすも、

うれしさうにもない、ペンギン、

なにを慕ふのか、ペンギン、

幽かな空の光に。

四十五年五月



万年青


ほれ〴〵と空に小鳥をとりにがし、

君涙して悲めどそれもせんなや。

ひと鉢の万年青おもとすら、いまはその児に、

をのべてこそひ寄りし君がその児に、

人妻ひとづまよ、二人ふたりしてふかく秘めたる赤き実も

遂にられて、あまつさへ、もぎりとらるゝ。

四十五年四月



悲みの奥


白く悲しく、かずあまた

釣鐘の花咲きにけり。

緑こまかき神経の

悲しみのみち、園の奥、

金の光にわけ入れば

アスパロガスの葉のかげに

涙はしじにふりそそぎ、

小鳥来鳴かず、君見えず、

空もめしひし真昼時まひるどき

白く悲しく、かずあまた

釣鐘の花咲きにけり。

四十五年五月



夕とどろき


春が逝く。……廃果すたれはてたメトロポウルホテルに、

やはらかな日の光る五時半、

萎れた千鳥草と、石鹸しやぼんの泡のやうな

白い小さな花をつけた雑草のなかを、

やつと五歳いつつのタアシヤーが押されてゆく、乳母車に載つて、

ぎんだ、黄色だ、あかだ、緑だ、ようい………』


春がく。……暖かな外光のなかを、

軽い小児の夏帽が光つてゆく、河の見える方へ、

さうして、支那人の老婦ばあやうしろからだまつて、

のんびりと、その車を押してゆくと、遠くで

意味のない叫びがきこえる、なつかしい五月のもののが、

『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』


春がく。……幽かに汗ばんで来た棕梠の木と、

低くくすぶつた樫の木の間から、

鉄柵を透いて道路が見え、白い蒸汽の檣が見える。

大河に恍惚うつとりとゆく帆船、短艇ボウト、煙、水面、

それらがそろつて日にかげると、何といふことなしに、

ぎんだ、黄色だ、あかだ、緑だ、ようい………』


春がく。……夏が来てさへ、一人の旅客も

もうたづねて来る気色けしきもない寂しさ。

みんなめきつた窻硝子の

ところどころにあながあいて、屋根にはいつのまにか

草が生へた……車からいて下ろすと、

坊やのリンネルの薔薇ばらいろがかがやく。

『銀だ、黄色だ、あかだ、緑だ、ようい………』


春がく。……外廊ヴエランダの古びた円い石柱せきちゆうに、

その蔭に坐つてゐる、支那の老婦ばあや

黒い繻子の服の寂しさ……タアシヤーは地面ぢべた

雑草の花をつまんではむしる、さも無心に。

さうして春が暮れてゆく、月島の方から、何といふことなしに

『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』

四十五年五月



石竹


障子めても、石竹の

花は出窻にいと赤し、

障子閉めつつ、自堕落じだらく

二人ふたり並んで寝そべれど、

花はしみじみ、まだ赤し。

愚かなる花、さき石竹。

四十五年五月



屋根の風見


子をろ、子ろ、

鴻の巣の窻に

硝子が光る。

露西亜のサモワル、紅茶の息に

かつかと光る。

江戸橋、荒布橋。

青いく……向うの屋根に

株の風見かざみがくるくるまはる。

晴か、曇りか、霙か、雪か、

雲はあかるし、夕日は寒し、

七歳ななつたなの長松さへも

黒い前掛ちよいとしめて、

空を見上げちや真面目顔まじめがほ

真面目顔まじめがほ

四十四年十一月



初冬のわかれ


えてあかるき園のうち

ただに噴水ふきゐぞゆらぐなる。

夏の記憶のなほ白き

楕円の、菱の花畑はなばたけ

なべてすがれて日も入りぬ。


けふの小径こみちにわかるれば

べにさるびあの花けし、

あとにさもしく笑ふなり、

色情狂いろきちがひの前髪の

花かんざしを見るごとく。


枯れくさのに、夜のかげに

弱き児猫もひめぐる。

すべて死したる同胞はらから

耳のあたりに目をよせて

鳴くもさみしや、針芝に。


冷えてあかるき園のうち

空に噴水ふきゐぞゆらぐなる。

白雪のごと、玻璃のごと、

君が消えたる襟巻の

鳥のはねよりなほ白く。

四十四年十一月



黒ダリヤ


烏羽玉うばたまの黒きダリヤを胸にあて

加特力カトリコの尼はなにをかゆめむらむ。

角帽子つのぼうし雪かとばかりわななけど、

声さへ立てず、緑玉えめろうどいきをひそめし瞳こそ

精霊しやうれいの日本の秋の啜泣すゝりなきひ取る如し、泣く如し。

片恋かたこひの清きうれひに泣く人よ。

煩悩ぼんなうの塵うち払ひ、しづ〳〵と入日のかたに歩みつゝ、

冷やかにあまのごとくも涙せよ。

べにびろうどのいと黒き

つや〳〵と胸のあたりに光るとき。

四十四年十月



春を待つ間に


種子たねを蒔け種子を、

葡萄の種子を。

畑を耡け、畑を、

燕麦からすむぎの畑を。

生めよ、えよ、地に満てよ。

かなしきものは踊れよ。

新らしき子らの世継よつぎ

饗宴の春を待つ間に。

四十四年十一月

底本:「白秋全集 3」岩波書店

   1985(昭和60)年57日発行

底本の親本:「雪と花火」東雲堂書店

   1916(大正5)年71

初出:緑の種子「朱欒 2巻9号」

   1912(大正元)年91

   棗の樹「白樺 3巻10号」

   1912(大正元)年101

   人食ふひと「朱欒 3巻4号」

   1913(大正2)年41

   ペンギン「朱欒 2巻6号」

   1912(明治45)年61

   悲みの奥「朱欒 2巻6号」

   1912(明治45)年61

   夕とどろき「朱欒 2巻6号」

   1912(明治45)年61

   石竹「朱欒 2巻6号」

   1912(明治45)年61

   屋根の風見「朱欒 1巻2号」

   1911(明治44)年121

   初冬のわかれ「朱欒 1巻2号」

   1911(明治44)年121

   春を待つ間に「朱欒 1巻2号」

   1911(明治44)年121

※「緑の種子」の初出時の表題は「種子(ラムボオ)」です。

※「夕とどろき」の初出時の表題は「外光」です。

※「‥‥‥‥‥」は「………」で入力しました。

入力:岡村和彦

校正:フクポー

2017年43日作成

青空文庫作成ファイル:

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