非文学的文士
中原中也



 我が国に文学がないとは云はないが、我が大衆に未だ文学がないとは云へるのだ。それかあらぬか文士と呼ばれる人種の中にも、文学でも何でもない、といつて文学に全然関係がなくもないから、つまり文学の爪だの垢くらゐには関係のあることを何かと云々して、それで以て自身は文学のつもりでゐる人が少しはゐる。数にすれば少しでも、文学に無関係な文士なぞといふものが在るのは何れにしろ奇現象であるから、事実上は決して少い感じがするどころではない。

 高等学校の文芸部か何かで我鬼大将になれた、といふやうなことが彼等の運の始まりで、適度にでしやばりで、適度に野暮ッたいといふ彼等のえてして持つてゐる性質が、偏狭で、自信のない文壇といふ小主観国にどうかしたはずみには顔を出すといふ運びとなるのである。

 今その典型的ともみえるのを紹介に及んでみる。

 今仮りにそれをA君といふことにすると、A君は云ふのだ。『文学なぞは早晩地上から跡を絶つに決つてゐるもので、今猶文学なぞに執心してゐる奴は愚物に限る』なぞ。そして文学のことは遂に一言もすることなく、つまり絶えず『文学は滅びるものだ』といふことを繰返すのである。たゞ或る時は僅かな経済学的知識を持出してその裏付けとなし、或る時は自分の感傷にまかせてダダを捏ねるのである。何の苦労もないから外見的には陽気でさへある。誰も心で尊敬するわけではないが、非常にジャーナリスチックな交遊をしたりするから、何か仲間の足溜りの役をなす。そこで御当人は益々元気で、『此の世が渡りにくいなぞとはみなこれ感傷の徒のこと』だなぞとも云ふ。で、さうかうしてゐるうちに一種の存在となる。『陽気な文学を!』なぞと云つたりもする。ナニ、当人は自分の交遊がスラスラ行きさへすれば好いのだ。たゞそれだけだとみせては職業の態がなくなるから、『陽気な交遊を!』といふ代りに『陽気な文学を!』といふだけなのである。以上は誇張でも何でもない。こんな馬鹿げた人間もゐることに何の不思議もないが、こんな人間が文士として通りもする社会といふものは、呆れたものだ。要するに妥協的な、薄弱な、謂はば実質なしに動いてゐる社会とでも云ふべきものだ。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿によります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2015年827日作成

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