トリスタン・コルビエールを紹介す
中原中也



 トリスタン・コルビエールが、甞て我が国に於いて紹介されたことがあつたかどうか、私は知らない。コルビエールは、ヴルレーヌの有名な批評集、『生得の詩人達(Poètes maudits)』(五人の詩人が挙げられてゐる)にも出てゐて、仏蘭西では知れ渡つた詩人である。その『生得の詩人達』中の、コルビエールの篇は、四五年前、雑誌『社会及国家』に、私が訳載したのだが、文壇とは余り縁のない雑誌ゆゑ、大方は御存知ないことと思ふ。



 トリスタン・コルビエールは、千八百四十五年、七月十九日、午前八時、モルレーに於て汽船会社の社長の息子として生れ、千八百七十五年、三月一日午後十時同所で死んでゐるから三十年に足らぬ生涯であつた。

 コルビエールの全集が出てゐるかゐないか、私はまだ見たことがない。散文も少々あるやうだが、詩集アムール・ジョーヌは彼の主著である。

 以下該詩集に関するルネ・マルチノオ氏の論文の概要を記さうと思ふ。


 トリスタンの此の書は、彼の一生の物語である。此の書中の諸詩篇を、年代順に配列し直して読むならば、詩毎に、彼が駆廻つた短い道程、彼の旅行、彼の恋、彼の悲しい肉体を、熾な芸術家の申し分ない歎賞を以て、繰返す思ひがするのである。

 彼の苦い経験の全て、やさしい告白の全ては、アムール・ジョーヌの中にある。

 彼の生涯は、素描にしか過ぎなかつたし、彼は喜んで素描の外観を作品に賦与してゐる。尤も此の外観は真の詩からなつてをり、彼はそれを、全ての本物の芸術家の如く、天才の一撃で以てその暗い色と蒼白い色とを強調することに依つて獲得してゐる。そしてその暗い色と蒼白い色との衝突が、彼の詩の魅力と異様性とをなす所のものである。

 人々は長い間トリスタン・コルビエールは美的感情を欠いてをり、芸術に無智であると思つて来た。

 彼は自嘲の習慣を持つてゐたので、自分の作品しごとへの偽つた解釈をちよいちよいやつてゐる。或る時彼は書いてゐる


芸術は私を知らないし、私の方でも芸術を見知つてをらぬ


 又、或る時には、


彼はもう一寸で芸術家だつた

彼はもう少しのことで詩人であつた

その人間的な足跡そくせきのほかに……


 それに彼は修辞的な法則を無視してゐるので、人々は彼の自嘲をそのまゝ信じた。

 それを割引きして聞くべきだとジュル・ラフォルグは思つてゐたのだが、世間が漸く彼を認め出した時に当つて恐るべき一撃をコルビエールに加へたのであつた。曰く、

『詩もなければ韻文もない、辛うじて文学が……』ラフォルグはコルビエールの作品を愛してゐたが、部分的にしか了解してはゐなかつた。雑誌リュテースを編輯してゐたレオ・トレズニカは、アムール・ジョーヌと『歎き』(ラフォルグの詩集)の作者との明らかな類縁にかよりに驚いて、コルビエールに肩を持ちながら両者を比較してラフォルグを荒だてたのであつた。

 続いてラフォルグの弁駁が出たが、それには最初の同情の影だに見えず、不正な批評となり終つてゐる。

 此の頃ジュル・ラフォルグは、象徴派作家達の中で優勢な位置を占めてゐた。彼は其の派の典型的な作家の如く考へられてゐたので、人々は彼の言ふ所に口を挟まうとはしなかつたし又、第一人々はコルビエールを知つてもゐなかつた。ポール・カリグに手解てほどきされてゐたトレズニカ独り、良心を以てコルビエールを読んでゐたのである。

 コルビエールは遂に当時の趣味には合はなかつた。象徴派詩人達は殆んど女のやうな優雅さを持つてゐた。コルビエールは男であつた。彼はヴィロンの一族であつた。

 一韻文音楽家たるには余りに芸術家であつた彼は、その形式の中に、根本的に絵画の或る物を持つてゐた。それが又、かの音楽の微妙な物に影響されてゐた当時の詩人達とは別の形式を採らしめてゐた。ラフォルグ御自身はコルビエールを悉く了得する程に顫動的ではなかつた。彼は只コルビエールの敏捷性に驚嘆したばかりであつたので、『詩がない!!!』なぞと誤つた判断をさへ下したものであつた。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿によります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2015年525日作成

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