宮沢賢治の世界
中原中也



 人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があつて、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であつたと云ふことが出来る。

 その世界といふのは、誰しもが多かれ少かれ有してゐるものではあるが、未だ猶、十分に認識対象とされたことはないのであつた。私は今、その世界を聊かなりとも解明したいのであるが、当抵手に負へさうもないことであるから、仮りに、さういふ世界に恋著した宮沢賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあらう所の事を、かにかくにノート風に、左に書付けてみたいと思ふ。

一、「これは手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が感じてゐられゝばよい。

一、名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは、尠くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、「かせがねばならぬ」といふ、二次的意識に属する。

一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは云へない。

一、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い限りでは人は寧ろニガムシつぶした顔をする。やがてニツコリするのだが、ニガムシつぶした所が芸術で、ニツコリする所は既に生活であるといふやうなことが云へる。

一、人がもし無限に面白かつたら笑ふ暇はない。面白さが、一と先づ限界に達するから人は笑ふのだ。面白さが、その限界に達すること遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。

一、芸術を衰褪させるものは、固定観念である。誰もが芸術家にならなかつたといふわけは、云つてみれば誰もが固定観念を余りに抱いたといふことである。誰しも全然固定観念を抱かないわけには行かぬ。芸術家にあつては固定観念が謂はば条件反射的に抱かれてゐるのに反して、芸術家以外では無条件反射的に抱かれてゐると云ふことが出来る。

  芸術家にとつて世界は、即ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、其の他如何なるモディフィケーションを冠せられるべきものでもない。彼にとつて「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、即ち名辞するとしてA=Aであるだけの世界の内部に、彼の想像力は活動してゐるのである。従つて彼にあつては、「面白いから面白い」ことだけが、その仕事のモチーフとなる。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

底本の親本:「詩園」

   1939(昭和14)年8月号

初出:「詩園」

   1939(昭和14)年8月号

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2015年91日作成

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