日本橋附近
田山花袋




 日本橋附近は変ってしまったものだ。もはやあのあたりには昔のさまは見出せない。江戸時代はおろか明治時代の面影をもそこにはっきりと思い浮べることは困難だ。

 あのさびた掘割の水にももはやあの並蔵の白さはうつらなかった。あれがあるために、あのきたない水も詩になったり絵になったりしたのに……。それでも去年の暮だったか、あの橋の上を歩いていると、かしましく電車や自動車の通っているのを余所よそに、一艘いっそう伝馬てんまがねぎの束ねたのや、大根の白いのや、漬菜の青いなどをせて、小刻みに小さなを押しながら静かに漕いで行くのを眼にしたことがあった。私はたまらなくなつかしい気がした。じっとその野菜舟の動いていくのを見詰めた。

 その掘割の水は例によってわるくさびていたけれども、それでもそこにその野菜や船頭の影が落ちて、それがしわをたたんださざ波の底にかすかながらもそれと指さされるのだった、私は遠い昔の面影をそこに発見したような気がした。何もかも移り変って行ってしまっている中に──ことに震災以後は時には廃址になったかとすら思われるくらいに零砕れいさい摧残さいざんされている光景の中にそうした遠い昔の静けさが味わわれるということは、私に取っては何ともいえないことだった。ことに、その日は冬の霧のどんよりとした空にどこからともなく薄日がさし添って来ているような日で、午前十時過ぎの静けさが統一しないバラックの屋根やら物干やら不恰好なヴェランダやらを一面におおい包んでいた。物干の上には後向になった女の赤い帯などが見えていた。

 それにしても魚河岸の移転がどんなにこのあたりを荒凉たるものにしてしまったろう。それは或はその荒凉という二字は、今でも賑かであるそのあたりを形容するのに余り相応ふさわしくないというのもあるかも知れないが、しかもそこにはもはやその昔の空気が巴渦うずを巻いていないことだけは確かであった。どこにあの昔の活発さがあるだろう。またどこにあの勇ましさがあるだろう。それは食物店の屋台はある。昔のままの橋寄りの大きな店はある。やっぱり同じように海産物が並べられ、走りの野菜が並べられている。屋台のすしを客が寄って行って食っている。しかし今ではそれを食ったり買ったりするものが半分以上変って行ってしまっているではないか。江戸の真中の人達というよりも、山の手の旦那や細君が主なる得意客になっているではないか。従って盛り沢山な、奇麗な単に人の目を引くだけのものの様な折詰の料理がだらしなくそこに並べられてあったりするではないか。三越が田舎者を相手にするように、ここ等の昔の空気も全くそうした客の蹂躙じゅうりんするのに任せてしまっているではないか。それが私にはさびしかった。あたりがバラックになったと同じように、また並蔵の白さが永久に水にうつらなくなったと同じように、洗濯物を干した物干が大通りからそれと浅くかされて見えるように。



 ある日私は大通りからそっちの方へと入って行って見た。

 私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などを発見した。二条三条ある横の通りを縦に小さな巷路こうじの貫ぬいているのを発見した。新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのを発見した。しかもところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴ざくろか何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見した。これが魚河岸だろうか。かつてはこの大都会の胃であり腸であった魚河岸の内部だろうか。それは私とて今までに一度だってその内部に入って見たことがあるのではなかった。それはその内部に知っている人でもあって、それが案内でもしてくれたなら、入って見ることも出来たであろうが、あの雑踏ざっとうでは外から来たものが内部まで入って見ることはとても不可能であったのであった。私は書生時代にいつも橋のこっちのたもとから四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。まごまごしていれば、(何だ! この小僧、邪魔なところにいるな!)といわぬばかりに突き飛ばされた。従って魚河岸は東京でも一番活発なところ、また一番わかりにくいところとして常にその頃の私の頭に印象されて残っていた。それだけに廃址という感じが一層はっきりと私の頭に来た。

 私は川に近い通り──大きな魚問屋があって、鮭だのたらだの一杯に昔並べられてあったところ今はさびしく荒凉とした通りになっているところを通って、四日市の通り近くまで行って、そしてまた細い巷路に右に入って行って見た。昔のままの大きな蒲鉾屋かまぼこやがただ一軒そこに残っていたりなどした。バラックであるせいもあろうが、あたりが何となくがらんとして、昔は厚く塗りかためた土蔵づくりの家並ばかりだったので、さし入りたくも容易にさし入れなかった午後四時過ぎの日影が、そこにもここにも、格子の窓にも、家と家との間にある細い路地にも、シタミの横のところにも、共同の水道の口からほとばしり出している水にも、そこに立っている女の横顔にもまた通りを昔と違った幅で歩いている赤ぶちの大きな犬の尾にも、昔の伊達気分などはもはや少しも持っていないだろうと思われるような小料理屋の招牌かんばんにも、自由自在にさし入って来て、至るところにその静けさとさびしさとをひろげているのだった。私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩いた。

 かん茂の半ぺん、弁松のあなご、そういうものにも長く長く親しんで来たが、今ではもはやそれを本当に味わうことは出来ないなどと思いながら、また、そういうものがあたりの変遷と共にみんな亡びて無くなって行くことなどを悲しみながら、私は長い間その界わいを彷徨ほうこうした。

 私は震災の時のことなどをくり返した。このあたりでも逃げおくれて屍になって水に浮んだものの多かったこと、舟に一ぱい乗るには乗っても、両岸の火で熱くってとてもたまらなかったということなどをくり返した。巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店のあるのなどを眼にした。



 私は、今から四十五、六年前の日本橋をここに描いて見ようと思う。丁度私が生れて九年十ヶ月という時である。年号でいえば明治十四年の春から秋にかけてである。私はその頃京橋の南伝馬町の有隣堂という農業の書などを主として出版する本屋に、無邪気な可愛い小僧として住みこんでいたのであった。

 私はんな日でも京橋と日本橋とを渡らない日はなかったことを思い起した。私は重い本をしょったり、又は至るところの本屋の店にこっちで入用な本を書いた帳面を持って行って見せたりなどした。それにしても遠い昔だ。今通って見て、それが同じ大通りだとは夢にも思えない。雨が降ると泥濘が波を揚げるという都会。家並が大抵土蔵造りだったので、京橋の向うの銀座の新しい煉瓦れんがの街に比べてわるく陰気な大通。その中をあのラッパを鳴らした円太郎馬車が泥を蹴立てて走って行くという有様だった。それにしてもあの日本橋から少しこっちに来た右側に──今の黒江屋か塩瀬あたりのところに、須原屋と山城屋との二軒の大きな本屋が二、三軒間を置いて並んでいて、例の江戸時代の本の絵に出ているあの大きな四角な招牌(?)がいかにも権威ある老舗しにせらしくそこに出されてあったものだった。それにしても何という淋しい陰気な本屋だったろう。ただ角帯をしめた番頭が二、三人そこここに、退屈そうに座っているだけで、ついぞ客など入って本を買っているのを見たことはなかった。それから比べると、あの三越の前身の越後屋の角店は大したものだった。でそれは今でもうかすると古い絵などに出ておるが、一階建ての長い廊下のような店で、オウイ、オウイという声が絶えずあたりに賑かにきこえたものだった。そして客という客は皆な並んでそこに腰をかけた。つまり番頭が小僧にあれを出せこれを出せという声がそういう風に一つの節となってあたりに響きわたってきこえたのであった。これは越後屋ばかりではない、あの本町通を浅草橋の方へ行く路の角には、それよりももっと大きいあの大丸の店があって、そこでも、そのオウイ、オウイをやっていたのである。

 日本橋から浅草の方へ行くのには、今は本石町が主路になっているけれども、その時分には、本町通──すなわち今の山口銀行のあるところから入る路がその主路になっていて、電車になる前の鉄道馬車はかなり後までそこを通っていたのである。私は当時の流行唄であった『ほっぺたおっつけ、合乗ほろかけ、てけれつのば、てけれつのば』などを唄いながら小走りに、よくそこ等を走って通って行ったものであった。

 その時分では、銀座は新式のいわゆる煉瓦町であったが、京橋から日本橋、目鏡橋めがねばし(万世橋)にかけては、ほとんど洋館という洋館はなかった。ただずっとこちらに来て、あのもと二六新報社のあったあたりに朝日屋という大きな洋風な建物があったのを記憶している。そこではどんなものか知らないが、ケレイ酒というものを売っていた。その宏壮な建築も(今なら高が知れていようが)当時の人目をそばだたしめたものだった。



 数年前に北京に行って、あの正陽門外の混雑──いろ〳〵な店やら屋台やらが一杯に並んで、路傍で人が平気で物を食っていたりするを見て、明治の初年の文化にほうふつとしているのを思い出したが、実際、その時分には、日本橋の橋畔あたりの賑いもそれと少しも違うところはなかったのである。そこには種々な食物の屋台が、汁粉とか、団子とか、金つば焼とか、ちょっと一杯立寄ってやる屋台とか、おでんかん酒とか、そういうものがわずかなすき間もないばかりに一面に並んでつらなっていたのである。否、そうした沢山な食物店は、においやかたちや色彩で往来の人々の食欲を刺激したばかりではなく、さま〴〵な呼び声で『ちょうど今出来たてのほや〳〵だ!」とか、『それ、うまい、うまい団子だ!』とか叫んで、そして一人でも余計にそこに客を引きつけようとしていたのである。私は今でも大きな傘の下で江戸時代でなければ見られないというような鼻の大きなおやじが小僧相手に安ずしを握っては並べ握っては並べていたさまをはっきりと想い起す。また江戸橋のほとりに、でろれん祭文の興行場があって、そこで一人の小男がそのまわりに大勢黒山のように客を集めていたことを想い起す。菓物くだものなども沢山に屋台の上に並べてあって、あの西瓜の弦月形に切ったやつを通りかかりの小僧が上からかぶりつくようにして食っていたことを想い起す。恐らくその時分に日本にやって来た外国人の眼には、今の私が北京の正陽門外の雑踏に対したと同じようにおびただしく非文化にうつったに相違ないのである。たしか、ピエル・ロチの書いたものの中にもそうした一つの描写があったように私は記憶している。

 続いてそうしたうまそうな食物の屋台にまだ十歳になったばかりの私が忽ち引き寄せられて行ったさまを想い起す。ありもせぬ銭をそのためにつかい果してしまったことを想い起す。それは小僧をしくじってしまったのは、他にも二、三の原因はあったけれども、そうした路傍の食物を心ゆくばかり食わんがために不良な行為にちて行ったのがその一つの原因であったことを想い起す。またこの大通りには至るところに錦絵を並べた店があって、そこに芳年の『月百姿』だとか永濯の『歴史百景』だとかいうものがかけられてあったので──否浅草あたりのそういう錦絵の店には、春画に近いものまでもかけつらねてあったので、びっくりしたような心持で、更にいい換えれば、その時分には、他に雑誌などというものがなかったので、そういう錦絵のようなものの中からそっと人生やその人生の底に深く蔵されてある秘密をのぞくというようにして、長い間じっとそこに立尽していたことを想い起す。しかし江戸時代には、日本橋のほとりも、決してそうした無秩序ではなかったのであろう。もっと整理されたものであったのであろう。そうした混雑は明治の初年の空気の名残であったということが出来るであろう。その空気──そのデジェネレイトした空気が私には懐かしい。



 震災後はうなってしまったかわからないが、大通と南仲通との間に細い路地があって、小僧時分に私が面白がってよくそこを通ったことを思い出した。私は南伝馬町から一町ほど日本橋の方へと歩いて来て、すぐ左に入って、それからその路地を縫うようにして通って行ったのである。勿論それは二人と並んでは通れないような路だった、溝板の上を拾い拾い、またはそうした下町に住んでいる人達の裏面の生活をのぞき〳〵、狭い勝手元で下女が釜や鍋を磨いていたり、たらいを抱えて粋なかみさんが洗濯物をしていたりするところをかすめたり飛んだりして通って行く路だった。そしてそれがその横に通っている路をつらぬいて、また向うに入って行くのだった。少くともこの路地は風月堂の裏の少しこっちあたりから、ずっと長くあの白木屋の通りのところまで通じていた。私は江戸橋から人形町の方へと行く時には、いつもその路地を抜けて行くのを例としていた。

 震災前でもあのあたりで昔のままの家屋を依然として保持しているというような家は少なかった。僅か五、六軒しかなかった。私はそこを歩く度にいつも人事の変遷のすみやかなのと時代の推移の急なのとを感ぜずにはいられなかった。一つの時代の推移と共に一つの異なった空気がかもされて段々その形やら感じやらが変って行った。人と共にあたりのさまが変って行った。あの通四丁目の北側に大きな時計台があって、その横町があの八重洲橋に向っていたなどとは、今日では誰も知っているものはあるまいと思う。ただその家屋はなくなってしまっていても、その昔知っている店が点々としてそここに残っているのは懐しかった。風月堂は丁度私の奉公していた本屋の筋向いになっていたので、あの篆字てんじで書いた軒ののれんには私は終日長く相対していたものだった。またそれから少しこっちに来て、松月堂という菓子屋があって、そこで紅梅とか何とかいう赤い青い小さな珠のような菓子を、店の女隠居から買いにやられたものだが、今でもその菓子があるか何うか。

 丸善の向う側からなお少し向うに行った角に、小さなそば屋があるが、あれも私に取ってはなつかしいものの一つだった。なぜなら、あのそば屋は昔はもっと大きく、てすりを取廻した二階などがあって、その年の大晦日の十二時過ぎに、私のいた店の番頭達が、一年の労を慰めるために小僧達をそこにつれて行って御馳走したことがあったからであった。その時分のあの大通の大晦日のにぎやかさは、今とは全く趣を異にしているが、しかもその人出の多かったことは、とても今の比ではなかったようだ。夜店が一杯に両側に出て、植木などが並んで、カンテラの煙が悪くむせるように街上をくすぶらしていたものだった。

 それからそのはっきりした位置は忘れたが、通四丁目あたりの南側で、古風な格子窓をその背景にして、そこに大きな丸い盤を斜て立てて、あの濁黄色のどろ〳〵した漆を、長いヘラでしきりに夕日に掻き回しているもののあったことを、私は未だにはっきりと記憶している。



 私は日本橋を渡りながら、いつも蒲原有明の詩を頭に浮べた。

朝なり、やがて濁り川

ぬるくにほえど、よる

たゆらに運ぶおぼめきに

なほも市場の並蔵の

壁にまつはる川の靄。

朝なり──やがてほのじろく

水面にうつる壁のかげ──

明りぬ、くらき水底も──

大川つたひさす潮の

力逆押すにごり水。

 明治三十九年から四十年、丁度日露戦争の済んだ頃で、一時小説よりも詩歌の方が文壇を風靡ふうびしたことがあったが、その頃この詩がよく文学青年の口に上ったものだった。私はその頃外国文学に読みふけって、よく注文した本の届いて来ているのを本町の勤めている所から丸善へと取りに行ったものだった。あの頃はまだ橋が今の鉄橋になっていなかった。古い古い木橋だった。『改築したら好さそうなものだ、随分ぼろ橋だ。市に金がないのかな!』こんなことを私達はよくいったものだった。

流るゝよ、あゝ瓜の皮

核子さなこ、塵わら──さかみづき

いきふき蒸すか、靄はまた

をりをりあをき香をくゆし

えなづみつゝ朽ちゆきぬ。


水際ほそりつらなみで

ひじばみたてる橋はしら

さては、なよべるたはれ女の

ひと目はゞかる足どりに

きしきし嘆く橋の板。

 それを、その橋をあの江戸名所図会にある橋と比べ、また明治の初年食物店や興行物でそのたもとが埋められた頃の橋と比べ、更に今の電車や自動車の駛走しそうしている橋と比べ、更に遠く家康が入国してここを埋め立ててはじめて架橋した時のさまに比べて考えて見る。恐らく誰でも不思議な心持に誘われずにはいられないに相違なかった。否、その有明の詩の時分からでも、あたりのさまが夥しい変遷をした。新しい潮流が何べんとなくやって来ては、あたりの店の外観をかえショウウインドーの飾りつけをかえ、そこらにわずかに残喘ざんぜんを保つようにして巴渦うずを巻いている昔の街のさまをかえた。しかも過渡期は依然として過渡期だった。いくら綿密な計画のもとに運ばれた努力でも、容易にその外観の統一を求めることは出来なかった。否、そうしている中にあらゆるものを破壊したあの恐ろしい震災がやって来た。そして長い間の人間の努力を一炬いっきょの下に焼き尽してしまった。あの橋が鉄筋であったがために焼け落ちなかったのは、せめてもの見つけものといわねばならぬ。

朝なり──影は色めきて

かくて日もさせ、にごり川──

朝なり、なべてかゞやきぬ

市場の河岸の並蔵の

その白壁も──わが胸も。

 今はすでになくなってしまっていても、その並蔵の朝の白壁のさまがまだその詩の中に不滅に残されてあるということは、われ等の心を喜ばせずには置かなかった。私は再びその詩を声高く吟じて見た。



 いつかNとこんな話をした。

『君、あそこいらが夜にさえなると真暗になった時代があるんだからね。それを考えると不思議な気がするね』

『本当ですね……』

『そしてそれがあまり遠くないことなんだからな……。つい六、七十年前まではそうだったんだからな……。たしかピエル・ロチだったと思うが、あの汽車のない時分に、車で日光にはるばる出かけて行ったと思い給え。そしてあそこでさびしい夜に逢ったと思い給え。かれはさもさも驚いたように、世界にもまだこんなところがあるかというように、日が暮れさえすれば真暗な都会、ともしび一つ見えないやみの仏陀の都会──そういう風に一面は驚き、一面はその神秘を讃嘆するように書いてあったが、江戸の大都会だって、やっぱりそうだったんだからね』

『辻斬の町、泥棒の町、罪悪の町、妖怪の町だったんですね』

『去年に八十五で死んだ伯父の話では、それでもところどころに、今の三越のある少し手前ぐらいのところに二文ぐらいで食えるそば屋──それも屋台か、でなければ他の店の片隅でも借りたような小さな店があって、そこにかすかに灯がともっていたということだよ。よく芝居でやったり、講談で読んだりするじゃないか?』

『そうですね』

『大通りは、それでも提灯ちょうちんをつけたものや、駕籠に乗って例の提灯を飛ばして行くものが少しはあったそうだよ。遠くから見ると、その提灯がチラチラ動いて綺麗だったそうだよ』

『ところが、今ではそんなことを考えて見るのもないですからね……。昔からやっぱりこのように明るくって、にぎやかで、人通りが多かったと思っているんですからね……』

 Nはこういったが少し考えて、

『外国でもやっぱりそうだが、この灯火の変遷ということは興味のあることですね。外国の小説にもランプをつけた時代のことが書いてありますが、日本でも、松明たいまつ、結び灯台から燭台、行灯あんどん、ランプと変って行った形は面白いですね』

『そしてその度毎に世界が明るくなって行った筈なのだが、馴れてしまうと、そう大して有難くも思わなくなってしまうものだね。不思議なものだね』

 こういっている中に、話はいつか大通りの両側にずっと並んでつけられた石油灯のことに移って行った。なるほどその時分には昼間掃除夫が一つ一つ石油をついで行って夕方になると、長いかねの棒の先に火のついたのを持った点火夫が小走りに走りながら、その両側のガラス灯の戸をたくみにあけたてしてそして一つ一つ火を点じて行くのだった。それは当時十一になったかならない幼い私の心をくに十分だった。私はその点火夫のあとについて一散に走った。

『見ている中に、一つ一つだんだんついて行く形が愉快なんだよ……。ああもうあんなところまで行った──こんなことを言って、じっとそれを見ていたものだよ』

『つまり闇の都会から、今日の明るい都会に到達する過渡期だったわけですね』こんなことをいってNは笑った。



 十軒店があそこでひとつの巴渦うずを巻いているのは面白い。時の変遷につれて、あの魚河岸でさえ昔の面影をとどめなくなっているのに、ここにはいつまで経っても同じような特色ある小繁華を成している。あえて江戸時代がここに残っているとはいわない。また長い間の種々な影響を受けないことはない。私の知っている限りにおいても、ここも一時非常に衰えたことがあったようである。三月のひなや五月ののぼりなどを弄ぶということが非常に旧弊きゅうへいのようにいわれて、そんなものを人が振り返っても見なかった時代が暫くはあったようである。私はその時代をかすかながら知っている。何でも明治二十年から二十五、六年代であったと思っている。その時分には、あそこで稼業替かぎょうがえをしたものが沢山あるときいている。いまいろ〳〵な銀行だの会社だのの多くまじっているのはその時分他の店に変って行ったものがそのままになっているらしい。

 何といっても、その反動が来て、西洋がなくては夜も日も明けなかったやつが、急に保守的に保存的になって行ったということは、この狭いひとつの街に取って非常に有難いことであらねばならなかった。次第に私はそのあたりが新しい活気を帯びて来たことを覚えている。店などにも昔風のものでなしに、たとえ昔風であったにしても何等か新しいものを付け加えたものを並べるようになって来たことを覚えている。それはああいう雛とかのぼりとかいうものは何といっても古典的クラシカルなものである。近代的のもののもたらして来るような繁華をそこに現出することは出来ない。しかし三月に、五月にあの特色あるにぎやかさがそのあたりに展開されるということは、外国人などに取っては、非常に興味がある。また詩にでもなりそうなひとつの楽しい光景であらねばならなかった。

 江戸人とか江戸人の家庭とかいう感じは、本町の奥の方に行くとまだ余程多く残っているが、しかもあそこいらはわるく衰えて行ってしまっているので、感じがいやに重く、ちんでんし切ってしまったような形になっているが、この十軒店あたりに残っている江戸の人達には、新しさに触れる機会が多いせいか、どこか生々したところがあって、その雛やのぼりが新しくなって行ったのと同じように、一種の新しさをかもして来ているのは愉快だ。私達はどうかするとそこいらで昔の江戸の粋と今の東京の艶麗さとをひとつに混ぜたような美しい人に出会すことが出来た。またいかにも新しい江戸という感じを持った家庭をもそこに見出すことが出来た。その意味からいっても、私はこのあたりの空気が好きだ。

 あの大通りからちょっと入った田月の菓子なども私は忘れかねた。否、菓子がうまいばかりではなく、あのあたりには昔の江戸の空気が依然として巴渦うずを巻いているのがなつかしい。それからあの稲荷ずしなども時勢には伴わないものだがちょっと面白いものといって好かった。かつてずっと前にその稲荷ずしと千住の大橋の袂にあった稲荷ずしとの優劣を論じたことなどもあったがそれももう昔のことになった。



 日本橋附近という題目からはやや遠くなるけれども、あの眼鏡橋めがねばし(万世橋)あたりのさまも次手ついでにここに書き残して置きたい。そこは明治の初年の錦絵にも新東京の名所のひとつになっていてあの眼鏡のような丸い空間を二つ持った石造の橋は、いなかから出て来る人達をめずらしがらせたものだが今ではその橋もその位置も全く変った。その昔のさまを知っているものは少ないであろうと思われるが、それでも私はおり〳〵そこに、その今の万世橋の北側の欄干らんかんによって立留って、その当時のさまを眼の前に浮べて見るのが、例だった。

 私はその時分の橋の上の賑かであったことを、またそのこっちに渡って来たところにきたない共同便所があって、上野あたりに出かけて行く時には、私もよくそこで用を足したことを、またそのこっちが火除地になっていて、そこにまばらに柳の緑がなびいていたことを、その火除地というのは明暦の大火があったために、丁度震災後に小公園を多くする必要を感じたと同じ理由で有名な橋の袂には必ずそうした広場がつくられてあったものだが、そこに露店だの小興行のみせだのがにぎやかに並んでいて、時には砂書きや大道易者が大勢そこに群集をあつめていたことを思い浮べた。またその橋をわたった向うのところは、中仙道を旅行するものの最初の出発地点になっていて、馬車屋があったり、馬車が何台となく並べられてあったりして、越後信濃上野あたりから来る人達は、皆そこを東京の内部の門戸として続々として入って来たものであったことをくり返した。私は今でもそこに夕暮の空気に包まれて、馬車や馬車の白いおおいや馬のだぶ〳〵した腹巻や大きな荷物を持った疲れた旅客などをはっきりと思い浮べることが出来た。私は交通の変化があたりの空気を全く変えて行ってしまうことを思わずにはいられなかった。眼鏡橋を渡ってすぐ入って行く講武所の細い通りなどは、その時分は賑かなものだったのである。そこに住んでいる人たちにも、またそこらを歩いている女たちにも、何処か昔の江戸らしい粋なところがあって、何となくこまやかな空気の渦を巻いているようなところだったのである。私はそこを歩くことが好きだった。眼鏡橋をわたって、その細い通りをぬけて、大時計のあるひろ〴〵とした広い道に出て来ることが好きだった。それはずっと後になってからだが、その広場に出ようとするところの左側にその時分評判だった紅葉の『伽羅枕』と露伴の『ひげ男』とが両々相並んで『読売』紙上に載せられるという大きな広告の絵看板が出たことを記憶している。恐らく小説を大道に広告した絵看板は、これが最初ではなかったであろうか。

 私達の若い心はその時分すでにそうした新しい文学に向って夥しく波を打っていた。私はそこを通るたびにいつも何ともいえないあこがれを抱いてその絵看板の前で立ち留ったことを今でも記憶している。



 本町の社につとめている時分、そこから通三丁目の丸善へと行くために、よくその日本橋を渡って行ったことを思い起した。それは私に取っては忘れられない記憶のひとつだった。私は昼飯の済んだあとの煙草の時間などによく出かけた。そして私はあの丸善のまだ改築されない以前の薄暗い棚の中を捜した。手や顔がほこりだらけになることをもいとわずにさがした。何ゆえなら教育書の中にフロオベルの『センチメンタル・エヂュケイション』がまぐれて入っていたり、地理書の棚の中にドストイフスキーのサイベリアを舞台にした短編集がまじって入っていたりしたからであった。私はめずらしい新刊物の外によくそこで掘出したものをした。そしてその本を抱いてにこ〳〵しながらもどって来た。

 少くとも丸善の二階は、一番先きに新しい外国の思潮ののぞかれるところであった。それは今日考えれば、辺鄙へんぴな田舎の文学書生がその町の書店にならんでいる雑誌や本から東京の中央文壇をのぞいて見るよりももっと〳〵たよりないものであったに相違なかったけれども、それでも新しい外国を知るには、その門戸によるよりほかうすることも出来なかったのであった。私はその棚を通してアルフォンス・ドオデエを知り、エミル・ゾラを知り、レオ・トルストイを知り、イプセンを知り、ビョルンソンを知った。パウル・ブルジェの短編集『ハステル・オフ・マン』を手にした時には、何ともいえない喜びで、何べんその本のクロオスをなでたか知れなかったことをくり返したい。ことに忘れられないのは、モウパッサンの例のアメリカ廉価版れんかばんが何冊か届いて、それを電話で丸善から知らせて来たので、金のないのを無理に出版部に行ってたのんで工面くめんしてもらって、あたふたと急いでそこに出かけて行ったときのことであった。たしかそれは明治三十四年の六月の中旬だと思っているが、まだ日本ではその頃はモウパッサンという作家の何ういう作家であるかということを余り多く知っているものがないばかりではなく、その赤い黄いアメリカの廉価版も私が注文してはじめて日本に入って来たようなものだった。私はぞく〳〵するような喜びに満たされながら半ば土蔵づくりで半ば洋館づくりの不調和な、その時代の統一しないさまをそのままそこにあらわしているような大通りをさみだれの雨にぬれつつてく〳〵歩いて来たことをはっきりと覚えている。

 否、ナチュラリズムでも、デカタンでも、人道主義でも、またネオ・ロマンチシズムでも、すべてその一書肆の門戸から入って来たということは、今考えて見ると、不思議に思われた。そういう形からいっても、その日本橋の大通りは私に深い縁故を持っているものといって差支さしつかえなかった。

 私はどっちかというと、いろ〳〵な通を並べたり、またいろ〳〵な食物店を食って歩いたりする方ではない。従って日本橋界わいあたりの細かいことは知らない。すしだとか、天ぷらだとか、そういうことも詳しく知っているとはいえない。木原店も浮世小路も歩いたことは歩いても、大したことは知っていない。しか丸善の棚をとおして、十九世紀末から二十世紀の初期にわたって海外の思潮に触れた形は、私に取ってはひとつの誇りとするに足りた。私は今でもその頃のことをおり〳〵思い起した。


十一


 通四丁目の角から入って行った細い通りにある静かな一室で私達はこんな話をした。

『ここいらも裏に入ると、まだすっかり駄目ですね?』

『ええええ』

 昔、この土地で鳴らしたM、舞踊であちこちの舞台にもその顔を見せたM、それが今ここのおかみになっているということは何となく私にはさびしかった。それはその態度や声にはまだ昔の若々しさが残っているけれども、またそこに昔のあでな美しい空気が深くたたまれてはいるけれどもわざとじみにしているそのつくりの中に何となく年を取ったさびしさがのぞかれて見えた。

『丸で、まだ広場のようなところがところ〴〵残っているじゃありませんか?』

『何でもここいらはまだいろ〳〵変るんでしょう……。何うなるかまだ本当のことはわからないんじゃないでしょうかね』

『厄介だな!』

『だって中々大変ですからね……ここいらは、それでもまだ回復した方ですよ』

『それはそうかな?』

 私はさかずきに酌をしてもらって、『震災の翌年だかに、ちょっとここに来る用があって、その時にも、やっぱり、こういうところの人だちはえらいな、何のかのといいながら、すぐこう復興するからな。やっぱり女だな、女の髪には千鈞せんきんの力があると昔からいわれているが、やっぱり本当だな! と思ったことがあったですからな!』

『そういうわけでもないんでしょうけどもね?』

 Mはさびしそうにして笑った。その笑いの中にはすでにいろ〳〵なことを通り越して来た──恋のさま〴〵の姿にも散々触れて来たものしか持ち得ないさびしさがそれとなくこめられてあった。『でもやっぱりそうしなくては困ってしまいますからね──』

『やっぱり女の力はえらいということになるのですよ。男というものは、自分は困っていても、可愛い人のためには何うにでもしてやるものですからね……』

 普通なら、『覚えがあると見えますね』とか何とかいってまぎらせてしまう。だけれども、Mはそれもいわずに笑ったまま黙っていた。私も真面目にならずにはいられなかった。さっきMから聞いた言葉──『三年前になくなられましてね……。本当に、一時は何うしようかと思いましたよ。年取ったねえさんだちが待合でもしなければならないなんていうのをよく耳にしていたものですが、そういう心持がよくわかりましたよ』といった言葉がそこに繰返されて来た。私はそっちへ引っ張られて行った。

『そして、旦那とはいつからですか?』

『十五年も一緒にいたもんですからね……。それに、別れ方があっけなかったもんですから……』

『何うしたんです?』

『胃潰瘍で、血を沢山吐いたりして、すぐでしたから』

『それは気の毒だったね』

『もう少しね、話でもするひまがあったらと思いましたよ』

 昔のことなども少しはきき噛って知っているので──一時新聞などでその艶話を伝えられた名高い帝劇の役者とも二、三年前の舞台の上の急死であわただしく別れて来ているのを知っているので、一層そのMの身の上に心をかれずにはいられなかった。


十二


『時というものは早く経って行ってしまうものですね……。初めて逢った時分には、あなたもまだ若かったがな!』

 そうした言葉はMを動かさずには置かなかった。

 ほかの座敷に客もなくってひまだったためか、Mはそこに落付いて座って、いろ〳〵と話をし出した。震災の前と後とではそこにいる妓だちの上にも多くの変遷があるのだった。『お、もうあの人もいないのかえ? どこに行ったんだね。大阪へ? それじゃやっぱり向うにいい人がいたわけだね』こんな言葉がそれからそれへと出て行くのだった。

 その日はなぜかMは非常に感じ早かった。丸で別な人か何ぞのように見えた。話し上手で、しゃれがうまくって、真面目で、それでいてどこか溌剌はつらつとしたところのあるような妓だったが、今ではそのいろ〳〵な気質がなくなって、あとに真面目なところと感傷的なところだけが目に立って残った。かの女は深川で生れて、下谷の三筋町で育って、それから赤坂へと行った話などを段々そこに持ち出した。やっぱり橋や建物の上に移り変りがあったと同じ様に、かの女の上にも艱難かんなんがあり、全盛があり、恋があり、生活があったのだった。

『向うにいる中はダメでしたけども、此方に来てから水が性に合ったと見えて、たちまちここでおばァさんになってしまったんですね』などと話した。

『あなたは紅葉さんは知らんね』

『お目にかかったことはございません。何しろ、あの方はお八重ねえさん時分ですから……。姉だと、きっと知っているかも知れませんけども……』

 順序としてそこに鏡花君のことだの、後藤宙外君のことだの、最近になっては、長田幹彦君のことだの、水上瀧太郎君のことなどが出て来るのだった。もと蔵田屋といった料理屋の額を鴎外漁史が書いた話なども出て来た。ここの狭斜は大通の雑踏と混雑とにまぎれて、ちょっとは目に立たないような形になっているけれども、それでも中に入ると、昼間でも三味線の音がしたり、しょうしゃな二階屋があったり、細い粋な露地があったりして、何となくそぞろ心をすかされるようなところだった。鏡花君がひどく酔って仙女香のところから京橋あたりを一晩中彷徨して夜を明かした話などを私はまたしても思い起した。

『丸で知っている妓はいなくなってしまったね。心細いな……やっぱり何かあると、それをきっかけに、止さずにいても好いやつをぐん〳〵止して行ってしまうんだね。Sなんか引いてしまったのはさびしいな』

『そのくせいる妓はいつまでもいるんですけどもね』

 こんなことをいって、Mはそこにあった紙刷物を引寄せた。

 ここの感じはどっちかといえば、静かで好かった。それも川向うとか井の頭とか丸子園とかいうあたりの静けさとは違って、混雑の中にうずめられたといったような静けさ──にぎやかさの静けさ更にいい換えれば、あらゆるものの整った上にひとりでにかもされて来る静けさといったようなものだった。食物の上にも、また三味線や唄などの上にも従ってどこか安心して落付いて座っていられるというようなところがあった。──そこに一番先にかけたHが『今晩は!』といって入って来た。


十三


 八重洲橋のなくなったのは、そう古いことではないが、それでもあそこにそういう橋があったなどとは誰も想い出しもしないようである。それは通四丁目の大時計のあった通りをずっと右に入って行ったところにあった。私はその頃牛込に住んでいたが、いつも九段を通って、丸の内をぬけて、その橋をわたって大通の方へと行った。それは明治二十二年頃だった。私はよく槇町の北中通の古雑誌屋へと出かけて行った。それはその時分には、外国のグラフィックなどの附録についている銅版画がよく装飾品として売れたので、それでそういう外国の古雑誌店があちこちにあったからである。そしてその雑誌や銅版画の中に何うかするとその時外国で評判になっている小説などが混って入っていたからである。ウィルキイ・コリンスの『ムウン・ストン』などという本をもう少し後になってからそこで買った。ウィリアム・ブラック、アンソニイ・ホオプなどのものもそこにあれば、ビクトル・ユウゴオやユウセン・シュウのものなどもそこにあった。

 私は丸の内のさびしかったことを思い起す。乳の形をしたカンのついた大きな門や、なまこじっくいの塀や、壊れた大名屋敷の格子窓のついた長屋のあったことを想い起す。またその間の路は長くって、また雨の降った時などは路がわるい上に横しぶきにしぶくので、傘も何も役に立たなかったことを想い起す。たしかそこには司法省だの裁判所だのがあったのを覚えている。私はそこを通って、八重洲橋に行っていつもほっと呼吸いきをついた。なぜなら、そこはちょっと景色がよかったからである。古い土手の松が大きな根をそこにうねらせていたばかりではなく、淡い緑の枝が形よくほりの水にその影を落していたからである。私は時にはその土手にのぼって、その松の根に腰をかけて足のつかれを休めながらあたりを眺めた。槇町で生れた私と同い年ぐらいである女はいった。『そうですか、あなたもあの土手にのぼったんですか……。あすこにはつくしやたんぽぽが出るので、子供がよく登って行ったもんですよ。私の総領の娘なんか、よくあそこに上ってしかられましたよ。あの時分には、あそこいらに行くのに、いつも山につみ草に行くっていって出かけたもんですよ。あそこの中は原が多かったですからね』

 実際うつりかわりというものは不思議なものだ。川ならば瀬が常にかわるように都会の繁華の巴渦うずもまた絶えず変って行っているのである。そこに渦が巻いているかと思うと、いつの間にかそれが別な方へと行っている。かと思うと、また此方が繁華になるというような風である。だからうなるかわからない。奈良の都のあとが今日は麦畑になっているように、あの日本橋や三越あたりのにぎやかな繁華なところがいつの間にか再びもとの野原になってしまうかわからない。もし何かの都合で遷都でもあれば、すぐそうなってしまうのは目に見えている。


十四


 私は長い間大晦日かその前の晩かに、きまって万世橋から大通りをずっと歩いて見ることを一年中の楽しみにしていた。兎に角に今年も過ぎた。自分の思ったようには行かなかったにしても先ず一つの宿駅を通過した。そういう心持が私をいつも一つの落着きにれて行くのだった。私は静かにアスファルトの上を歩いた。

 しめかざりの竹の葉に電気がかがやいて、店という店がみんな忙しそうにしている中を静かな足取りで、いつものような屈託くったくもなければ心配もなく、よし心配があったにしてもそんなものはわきの方へと押しやって、その晩一晩は何も考えずに、全くの人生の傍観者ででもあるかのように、またその身ひとりがこの世界中での一番のんきなものでもあるかのように静かにブラリ〳〵と歩いた。そのくせ、何を買うのでもなければ何を食うのでもなかった。ただ灯が明るい中を巻煙草をふかし〳〵歩いた。

 ひとつの低徊ていかい──たしかに人生の中のひとつの低徊だった。そしてその時ほど人生のことがはっきりと私の胸に浮んで来ることはなかった。それは平生とて人間や人生のことを考えないのではない。むしろ私はどんな時にでも人生を考えないことはない方のたちだ。しかしその巴渦の中にいては落着いて悠遠な境まで入って行くことが出来なかった。いろ〳〵な雑念がすぐそれを混乱させた。従って私に取ってはその低徊は非常に有意義であった。私はあちこちの角で立留ったり、ショウウインドウの灯の前に足をとどめたり、日本橋の橋の欄干らんかんのところで長い間立尽していたりした。私は静かな落着いた心持でそこらをいそがしそうに行ったり来たりする人だちを眺めた。

 私はずっと真直に歩いた。それも大抵は右側を。そしてその小僧時分にいた有隣堂の前では、いつもきまって足をとめた。一度はひとつ訪ねて見ようかしらなどと思ったこともあった。それは主人夫婦はもうとうに死んでしまっているにしても、その時十八、九であった総領の娘はまだ生きている筈であった。しかしたとえこっちから名のって行ったところで果して当年の小僧六蔵を覚えているか何うか。そういう疑問がいつも私をそこに入って行こうとする心から引返させた。

 京橋を渡ってからは、私はきまって左側を歩いた。

 ある年のその夜は、私につく〴〵この人生の生がいのあることを痛感させた。それは明治四十二、三年頃だった。身体は丈夫だし、酒は飲めるし、男ざかりではあるし、書いたものは世間に迎えられるし、これがかつて角帯の草履姿で重い本を背負ってあえぎ〳〵大通りを歩いていた一丁稚いちでっちだろうか。そう思った時には何ともいわれない気がして──むしろ今こそ人生の底にぴたりと触れたような気がして、身体がはち切れそうな充実をそこに感じた。

『多幸多福! これに越す多幸多福があるか?』

 私はこんなことを心の中に叫んだ。

 私はその大通りの中に私の一生のリズムがはっきりとたどられるような気がした。そこにいろ〳〵な私がいた。妻をれた私、子供をつれた私……。今でも私はその大晦日の散歩をやめようとはしなかった。


十五


 三越の新館を見に出かけた。それは静かな明るい初夏の日の午前だった。私は多くの人達のようにエレベーターで七階まで行って、そこから屋上庭園へのぼって行った。

 光線のキラ〳〵する中につつじが鮮かに咲いて、かたつむりの形をした噴水器から細い水が静かにほとばしるように両方に出ていた。草花が赤く黄くまたむらさきにあたりに綴られていた。(こういうところも好いな)私の胸にはまたしても私たちの若い時のことが繰返されて来るのだった。私たちの若い頃には、退屈したりつまらなくなったりすると、わざ〳〵遠く上野とか芝公園とかいうあたりまで出かけて行かなければならなかったものだが、今ではこういうものが市中にある。ちょっと電車に乗って来て、すぐこうした明るい光線に浸ることが出来る。またそこに来て、ベンチに腰でもかければ、ちょっとした退屈や不平ならまぎらせることが出来る。また通りがかりなどにちょっと入って見て、いろ〳〵なものを見て気を晴らすことが出来る。少くともこうしたものがここにあるということは、都会でなければ得られない一つのめぐみであるといって好かった。

 約束してそこで落合うのにも好いだろうし、手軽な見合などするにも好いだろうし、また小説のひとつのシーンになるような場合も決してすくなくはないだろうなどと思って、あちこちと歩いた。私はこの時ふと三越の常務をしている浜田四郎君のことを思い出した。私は浜田君とは本町で一緒に机をならべていた。それは今から二十五、六年も前のことだった。私達は『太平洋』という日本の最初のグラフィックを編輯へんしゅうしていた。浜田君はその時学校を出たばかりで、ハイカラな新知識で、その週刊の経済面を担当していた。その時分、浜田君はしきりにこのデパートのことをいっていたのである。また広告(宣伝)ということの日本ではまだ甚だ不十分であるということをいていたのである。私にはその時分にはまだそういうことが本当には飲み込めなかったから好い加減にして聞いていたが、浜田君にはその時すでにそれがはっきりとわかっていたのであるということがくり返して考えられた。時代の推移ということは面白いものだ。またその推移に際してその先駆者になるということは、意義のあることだ。それは本当にそのしょうに当って、それを着々実行して行く人も必要には必要だが、先に立って暗示したり、指導したりして行くということは更に更に必要であらねばならなかった。

 下をのぞくと、鉄筋を組立てている大きな家屋だの、なかばすでに出来上った建物だの、震災の時のままのバラックのつらなっているのなどが、ごた〳〵とひとつの鳥瞰図になってそこにひろげられているのを目にした。私は昔のことを考えたり、将来のことを考えたりして感慨無量だった。ちゃんとわかっていて、それでまたうなって行くかわからないような人生の姿だった。(長く生きるということは面白い。生きていればこそこうしたいろ〳〵な変遷も見られるのだ……)私はあたりを見廻した。

底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社

   1999(平成11)年515

初出:「東京日日新聞」

   1927(昭和2)年419日~55

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2013年515日作成

2013年105日修正

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