はるあはれ
室生犀星



 むかし男がゐた。むかしと云つても、五年前もむかしなら、十年前の事もむかしであつた。その男はうたを作り、それを紙に書いて市で賣つてたつきのしろにかへてゐた。うたは大してうまくなかつたが、依頼者は悉く女達であつたからどうやらそのまま通つて、毎日一人くらゐの客があつて食ふことが出來てゐた。客はそのうたに詠みこむための事情とか憐憫、戀愛、反抗なぞのありきたりの樣々なめんだうな話をして、おしまひにみんなは言ひあはせたやうに何もいまさら、うたなぞ作つていただいてもどうにもならないが、あなたがさうやつてお客樣がなかつたらお困りであらうと、けふもお訪ねしたのだと言つて、まるで男に食べ料を置いて行くことが好意のあらはれでもあるふうであつた。男は客の置いて行つた紙包から乏しい金をひらいて、言ひあはしたやうな同じ額の金を紙入にしまひ込んだ。それらの金で男は二日か二日半くらゐ食ふことが出來た。うたを作つて賣り乏しくとも金になれば男はしあはせであつた。毎日いらいらして澤山の小説を書いて金を取るよりも、氣のらくなうたを書いてゐたはうが、朝起きるときにもすがすがしくその日をむかへることが出來たからである。

 男は丘のやうな道路わきの、入口が五六段になつて踊り場のある、僅かな混凝土コンクリの空地に書卓を置いてゐた。其處からすぐに十二三段もある大谷石の段々が截り立ち、さらにそのてつぺん近くに踊り場があつて七八段の終着段があつた。落花の季節で櫻が段々のすみずみに吹き寄せられ、波打際の夜明けの景色が其處に見られた。そよかぜはかぐはしく暖かさは頬の内からこもつた。男は先刻から丹念にうたを書き、それを訂正しながら讀んだ。男の永い間の好んだ女の人の歴史はことごとく同型であつた。色感も同樣の紅顏を外れたものは一つもなく、何時もそれらを見るには豐頬で血色のよい人ばかりであつた。摘草をしながら日光にのぼせたやうな顏で、そればかりに眼をつけてゐることにさすがに恥の思ひを認めた。第一號、第二號、第三號、第四號……と、かぞへてゐると、中でくさめをする娘がゐて、それが餘りに突然だつたので、みんなは僅かに可笑しくなつて笑つただけ、あとは元どほりの寫眞の顏のやうにまじめくさつてゐる。年齡は十八九歳から二十六七歳くらゐ、夫人二三人に娘五六人といふ順序であるが、紅顏にまじつて血色のない黄みのある蒼白顏の人が一人あつた。これは意外な顏立で男の心を動かす筈がないのに、この二十五六歳に見える人は勿論蒼白い顏をして、お愛想にも微笑はなかつた。洋紙と文房具を商ふ店の夫人であるが、或る僅かな時期にはすでに險のある色氣がきびしく一すぢ走つてゐるやうな顏立に、男は好意を持つた時代があつた。彼女にある性行の服從が晝間には巖肅めいたものを浮べ、さうすることで彼女が完全に性感からのがれ出てゐるやうな清らかさを見せてゐるそれであつた。聖母マリア型なのだ。何處からみても猥りがましい物を退け、氣品高い蒼白顏であつた。

 男はそんな人がいまごろ此處に來るはずがないと、見あげたその人のまぎれもない蒼白顏は、未だあなたはわたくしの顏を好いてゐるかどうかといふ問ひかたがあつた。男は滅多に紅顏の人のほかは好いてゐないのだが、いまあなたを見てゐると私にも蒼白顏を好まなければならない理由わけが判り出したと男は答へた。つまりあの時分には女の顏から何時も悲しみを見つける男の抒情詩風な用意があつて、あなたはそれをたくさんに持つてゐられ、男の考へと一致した疲勞感と悲哀の度合を調節してくれてゐたのだ。必要もない用箋をあれこれと選擇したり、手帖の裝幀を見くらべたりしながら少しでもあなたのそばに永くゐたいといふ文房具の買ひ方に、男も知ることの出來ないあこがれを其處でつひやしてゐた。後年、いまこのやうにうたを作らうとしてゐる病人のやうな暖かいものが、あのときにお店に置き去りにして來たやうであつた。あなたは何時も何も言はなかつたし言ふ必要もなかつた。殆どひと言も、あなたの聲といふものを耳にいれた憶えがないのだ、ただ、あなたは手帖の棚から手帖を取りにゆくために、長いからだを起しては中腰になつて立つた。黄味のある光らないきめが男にある妙な悲しみを、女へのあこがれの第一級の物に考へたそれとうまく融和して、それらを美しいといつも見とれてゐた。あなたに逢ひたければ洋紙とか萬年筆とかを金のいらない買ひ方によつて、あなたを暗い奧の間から呼び出すことが出來たのだ。そこに、簡單な私のあなたを見る機會を作らうとおもへば作ることが出來てゐた。ただ、それだけなのだ。單純に人を見るだけでよいといふ定めを持たなければならない時があるものだ。暗い奧の間から誰方かしらといふいぶかしげな眼附で出て來る人は、前向きの全身がそのまま私の方に對つてゐた。顏、胸、腹、下腹部、脚といふものが少しも恥ぢない立體の容姿で、時間的にまつすぐに充滿して迫つた。實にそれはありあまる物體がこちらの眼に一杯にはいつて來て、餘つた肢體の部分は一肢體もない、眼に滿ちることはあふれて重たくなることであつた。性行爲といふものは相手方の美しさを全部つかむことが出來ないばかりか、その大部分を失ふことが屡々あつて却つて空虚なおこなひであることがあつた。一つところの凝視はそれ以外をうしなふことになる、男達は顏を見てさういふ行爲のもつとも、はなやかなものにすがるといふことが出來ないときに、どういふ美しさもなんの役に立たない時があるものだ。見つづけた風景にも季節の變りめがいるやうに、人びとはそこに永く佇つてこれを眺めてゐることが出來なくなる、何か變つて來ないかぎりは眼がとどまることをしない、たとへば、それは髮のかたちのくづれからでも發光する彼女達であるのに、髮はみだれずにあつたといふ惜しい状態であつた。平常見てゐながら氣づかない二の腕が、裸になつた時にまるまると全裸體の附屬物として、めづらしくも美しく胴體にくつついて見えてくる、……思ひがけないその發見すら、全裸になつた時にだけさう見えてくるのだ。


 そのむかしの店を間もなく去つた男は、いま何年かの後に彼女がひどい埃風の中から現れて來て、男のうたを買ふために書卓の前に立つた姿をいま更のやうに驚きの目をみはつて見上げた。男は道路わきに大道占師のやうに身すぼらしく見えるだらうと、ちよつと躊躇うた氣を持つたが、あらためて男は彼女に言つた。一體、あなたはあの時分の私が此處でかういふ書卓をひろげて、うたを賣りながらまだ生きてゐることを誰に聽いたのかと尋ねたが、彼女は誰に聽いたわけでもなくバスを降りると、この裏小路に𢌞るやうに足の向きがひとりでにさうなつたのだといひ、わたくしはあなたを少しも憶えてゐない、ただ、新聞に他人の心を自分の心とおなじやうに言ひ現す商賣があると讀んでから、あなたにそれを教はりたくてお尋ねしたのだといつた。そして若しもあなたの記憶にわたくしがまだ存在してゐるなら、わたくしの顏とか眼とかがそのまま今もその通りであるかどうかをお聽きしたいと言つた。男は答へた。あなたはやはり品のある少しもみだりがましい樣子を見せてゐない方だ、どういふ嚴肅貞實な夫人であつても、何處かに女の持つふしだらなものが色氣に交つて現れてゐるものだが、あなたにはそのみだれか見えない、大嘘つきのやうに男と寢たことなんて一度もないやうな顏をしていらつしやる。恐らくあなたはご主人とお寢みになつても、やはりそのとほりの顏をゆるめずに聲も立てないで、するとほりになつて起きて襟元をただすともとのあなたに立ち直つてゆくらしい、それが十年も二十年も經つてもみだれず嚴肅貞實の顏貌を作つてゐられる、……いま、あなたを見上げてゐながらもやはり何も知らず何もしなかつた人に見えてくる、そんな人は滅多にゐない、何萬人に一人くらゐしかゐないものだ。大體婦人といふものは男と寢たとか寢たやうに見えるといふことでは、全く關係のない顏附で歩いてゐられる特質を持つてゐるものだ、それだから婦人はどういふ宴席に出てゐても、いま作つたばかりの洋菓子の切れ目立つた身なりと表情でゐられる、も一度いふならそれだから婦人の美しさに傷が見えないと言へるのだ。

 男は久しぶりに彼女の顏をほしいままに見つめることが出來た。ひよつとすると男は男の中でもばかの方だからよく映畫なぞで表現される、妙に瞳を一杯にみひらいて男の顏を見つめる場面なぞの顏附が、この人にあてはまつて見えるのではないか。さういふ終演近い女優なぞがして來た澤山の顏は悉く蒼白かつたから、それにくつつけてこの夫人の顏もことさらに悲しいと見てゐるのではないか。男は自分自身をバカな奴だと思つた。

 男はものしづかに言つた。あなたにはどういふうたが必要なのです。悲しみにも三種類くらゐある、身も世もない、たすからない奴と、少しくらゐの逢ひびきの時間のくひちがつた時とか、も一つ金も何もない酷い貧乏の悲しみとか、その孰方のうたがあなたにいりようなのかと男はたづねた。

 實はわたくしはあなたにうたを作つていただきに參つたのではなく、寧ろそのうたをお書きになるのをやめてほしいために參つたのでございます。端的に申し上げればあなたに一人の女性があらはれ、あなたの言ふことを全部お聽き入れするかはりに、その毎日お書きになるうたと縁を切つて生涯物をお書きにならない誓約をしていただきたいために參つたのです。そのかはりにあなたにわたくしならわたくしのからだを差し上げてもよいのです。つまりうたの代りに一人の女をあなたの思ふままに出來る交換條件に提供したいのだと、彼女は男の物慾を試すやうな強い眼色をあらはして言つた。私からうたを取り上げては私は食ふことが出來ないし、毎日ぶらぶら遊んでゐてはとても退屈で生きてゆかれさうもない、うたを取り上げたあとの私は空つぽなのだ。空つぽの私の何處が必要なんです、私が占師のやうに店を張つてゐるからあなたも來てくれるが、うたを作らない私であつたら、わざわざ何も訪ねてくださることもないだらうにと男は答へた。

 彼女はそれは一つの譬へのやうなものだ。突きこんで言へば一人の女がほしいか、ほしかつたらうたを捨ててお終ひなさいといふことなんですと言つた。男は彼女の顏をていねいに見つめた。全く美しい、かういふ顏色のあをざめた人といふものには、つめたい氣流のやうな立ちのぼりがあつて、言ひやうもなくそれ自身が悲しみのうつくしさを見せてゐる。この顏の中にはいりこむことが出來れば何もいらない氣がするが、と言つて明日からうたも賣らずにどうして食つて行つたらよいのか、この人は物好きにこんなかまをかけて見てゐるのか、それともこの人は相當に金なぞも貯へてゐて私を徒食させてくれるのだらうか、そんな蟲のよい話はあるまい、一體、こんな謎みたいなことをこの人が態々言ひに寄るといふことは可笑しなことだ、だが、この人の全身がどんなに蒼白いものを澤山に持ち、それがかけがへのない機會ではないかと男は思つた。ひそかに肉體を貰ふ計算をしてみたが、即答は出來ないでゐた。うたを捨てて女を貰はうといふことは有り得ないことであつた。あなたはなにが面白くてこんな難題を持ちこんで來たのだ、あなたを掴まへたいけれどうたは廢めるわけに行かない、うたを作つてゐる間だけが男の身上なんだから、そんな無理は言はずにゐてほしいと男は正直に言つた。では、あなたはわたくしがほしくないからさう仰言るのだと、彼女は歸り支度をはじめた。私は二年とか三年とかの期限づきなら承知するが、生涯なんてとても受けあふことが出來ない、一體、あなたは私からうたを作る仕事を取り上げるもとは何に原因してゐるのか、それも承つて置きたいと私は言つた。

 彼女はこの人特有の笑ひをうかべ、折角、うたを作つて愉しかつたら作つていらつしやい、それだけ承ればあなたに用事はないのだと、彼女は元の埃で曇つた街路に出て行つた。男はうたを作ることを廢めるといふ嘘をついて、この人をものにすればよかつたのに、そんな嘘をついてもこの人に判りはしなかつただらうに惜しいことをしたと思つた。


 男は隔日に醫院に通うた。血壓と注射をしてもらふためであつたが、醫院は午前中立てこんでゐて玄關の沓脱石は靴の列で、男の靴の置く隙間もないくらゐであつた。男は沓脱石の端の方に脱いだ靴を置いて、控へ室にはいると眼をつぶつて順番を待つた。患者は殆どといつてよいくらゐ女ばかりの、どの人も患者用の婦人雜誌に咬みつくやうに讀み入り、誰も喋る人間は一人もゐなかつた。ただ、雜誌の頁をめくる乾いた音と、新聞紙を讀み返す音だけがかさこそと聞えた。男は新聞といふ紙の上をくねる女の指先を折々薄目を開けて見入つた。

 男は注射を終つて玄關に出た時、沓脱石の眞中に自分の靴が爪先を外に向け、きちんと直されてあるのを見入つた。確かに男はすみの方に靴は脱いだ筈であつた。こんなに眞中に脱いだ覺えはない、しかも男は患者達の最後の順番であつて患者達は皆歸つたあとなのだ。男は患者の顏を見ないで何時ものやうに眼をつぶつてゐたから、その誰の顏をも覺えてゐなかつたが、折々、薄眼を開けて側面から女の人の顏をぬすみ見してゐたが、ただ、それはうすぼんやりしたものだけで、覺えにのこる顏はなかつた。誰が何のために靴をなほしてくれたものか、隅の方に脱いで置いたのであるから偶然になほしたものとは思はれない、或る心の動きがそこにあつて、それが男が誰であるかを知つて靴をなほしたものだ。男は靴をはいて表の通りに出ていつた。男は昨日女の言つたことを思ひ出した。あなたはいろいろな女のことをお書きになるから、それが山上の焚火のやうにあかあかと讀まれて來て、もう、わたくしには讀みたくないからあなたからうたを奪つてしまひたいのだといふ意味であつた。何の關係もない人に嫉妬といふものがありうるものか、漠然と殆ど雲のやうに起る嫉妬感があの女を蔽ひつつんでゐるとは思へない、彼女はただの美貌の文房具店の人にすぎない、男はその人を見るためにナイフや紙挾みをこまめに買ひに行き、その人をこまかく心にしまひこんでゐたに過ぎない、女の人はてんで男なんぞ問題にしてはゐなかつたのだ、すくなくともさう思へたのだが、その人がわざわざ昨日やつて來たといふことは、これは眞實ではないふしぎさである。その人が嫉妬といふものを男のためにあたらしく作るといふことは、凡そばかばかしいことにも思はれる。男のうたつた多くのうたの中に、いろいろなひとがゐた。それを讀むのが不愉快なので一人のうた作りを生殺しにするために、女は自分のからだまで提供するといふことは話にもならない話だ。そんな女がこの世界にゐようとは思へないのだ。若し假りに彼女がさういふ綺麗事で男にうはべをうまく、つくろつてゐながら實際は男とくつついてもよい、寧ろくつついて見たいといふ考へを持つことは、男には出來ない想像であつた。美しい人間といふものは自分の心をあかしするといふことはない、凡て相手から受けて立つことによつて美しい人間の本體がある。少しも性的な色氣をみせない彼女はやはり味氣のないマリア型であつた。マリア型といふ奴は逆樣に振つて見たいものであるが、逆樣に振つてみてもマリア型は氣絶なぞしないものである。


 外を歩いてゐて氣をつけると、顏のまはりにある空氣はしじゆう圓層をゑがいて、外界のはてしない空漠につづいてゐる。その圓層に引つかかつた頭のてつぺんに髮を結ひあげた女が、笑ひもしないで通りの人込みに紛れこんだ。この女の癖で手のひらをひろげて、背後から來た人に自分の手を見せびらかしてゐるやうである。穢い裏町ではこの手のひらが大きくひろがり、男はふにやふにやの手のひらの中を歩いてゆくやうな、歩きにくい足もとに混亂を感じてゐた。

 どうしてあんなに手のひらをひろげて歩くのか、それも、背後に向けてである。手のひらが痒いのか、水仕事の水切りのくせがついて手の甲を反らせてゐるのか、ともかく男は追ひついて言つた。君の家のうしろに麥畑があるが、その麥畑までよく散歩に出かけるが早いもんで麥の穗はだいぶ重くなつたと喋つた。そんな麥畑がありましたかしら、ちつとも知らなかつたと氣のないふうに言ひ、女は少し早足でこの話の外に出ようといふ構へであつた。男は急きこんであんなに深々と黄ろくなつた麥畑を知らないなんて、直ぐ家のうしろなのに顏を洗ひに井戸端に出れば見える筈ではないかといふと、やつと氣がついたふうに、そう、麥畑があつたわね、畑なんて不斷から見たことがないものと答へた。この女はまだ男をきらつてゐる。きらつてゐるといふ事はなほすことの出來ないふかさから來てゐて、それがこの女の足を早めるもとになつてゐる。男も足を早めていやがるのに竝んで歩かうとあせつた。バスが來た。わたくし、これに乘りますからと無慈悲に昇降臺に乘つてしまひ、町角で男はひどいことをするものだと立ち竦んで見送つた。

 バスは走り濃い黄ろい胴體だけが眼にのこつた。この女が座席にすわつてからたつた今、一人の人間の心をふみにじつて來たこととは無關係のおとなしい眼つきで、窓と乘客の顏をながめてゐる。その頭には男のことなぞはまるでうかんでゐない、日は彼女とおなじ美しさで晴れわたつてゐる。乘客は十二三人くらゐしかゐなかつたが、彼女が乘つたときからなかなかよい人だといふ見方をするやうになり、その顏にあるまぶしい物を見るやうな控へめな眼の遠慮ぶかさは、乘客達にこの女が乘る直ぐ前に何事かが起りかかつてゐたのだといふ、解き方を餘儀なくさせられた。うつくしい險しさが僅かに見られたからである。これほどの人なら行くところに事件が起るといふ慣例が、必ずと言つてよいくらゐ生じるものだから、男の乘客達は素速い短い時間内で、讀み取れることが出來たら、些細なことでも讀みあかしたい願ひを持つた。その一例は彼女の容貌とは全く見當ちがひの汚れたブラウスと、同じ灰色のすそひろがりの古いタイトをはいてゐることが、不自然ではあるが乘客に安心感をあたへた。この女はわざとこんな粗末ななりをして、自分の美貌を匿してゐるといふ見方さへ乘客の一人が持つたくらゐであつた。手のひらを開くくせは此處でも開いては膝の上に、たなごころを表にして見せてゐる。その反射がすぐ顏の上に來てゐて、顏をうごかすと照つたものが手のひらにふたたび下りてをさまつた。人はこのやうに顏と手のひらを打ち返しあつて、驚きを綴つてゐる。

 この人は商家の女事務員のやうな人か、食堂で何かを運ぶ給仕の人か、ありきたりの家政婦か、そんな感じもあるがこれくらゐの容貌を持つてゐて、そんな仕事をしてゐる人には思はれない、事情があつて姉とか兄の家に寄食してゐて、適當な仕事を搜してゐるのかも判らぬ。とにかくどんな人なのか判らぬとなると、女の素姓といふものほど判りにくいものはない、この人はわけても判らぬ人なのだ。判ることは貧乏なこととその貧乏をとりつくろふことをしない人であることだけは頷ける。男が寄つてたかるのが煩くてさはられずにゐたいといふ側の女か、それなら身なりをととのへないでゐることも判ると、乘客達は彼女の品さだめをした。その時分、男は病院つきの附添としてまる二か月この女とずつと接近した仕事をして貰つてゐたが、彼女は何時も男のしたしまうとする機會をうまく避けて、附添婦だけの立場を眼に見える程に固守した。それほどこの女を美しく見せるものはなかつた。女に振られるといふことはその瞬間から女が二倍の縹緻を發展してくるものだからであつた。


 男は、石段の下で例によつて筮竹こそ持たないが、占師のやうに紙をのべ、けふも、根氣好くうたを書いてゐた。

「ちよつと見てこちらの眼つきを立ち直らせるひと。」

「それは初めからこんな艷つぽい雜草の名前にこだはるから、なにも書けなくなるのだ。草だの花だのの文字をいぢくつてゐる間は墮落してゐるのだ。」

「側面から見ればたいがいの人は半分だけ美しい、まつすぐ額から鼻すぢにかけて、男の眼はしづかに下りてゆく。鼻すぢにあかりがはらむ時分に、いくらかの熱情がきざして來た。鼻にあかりがともれるときが、一等女が熟れてうつくしくなる時である。併し出來ることならその人の半顏を見ることである。」

「くちづけしながら黒い瞳をとらへ、黒い瞳をみてゐると、瞳といふものの圓みが人間の持つてゐる比類のないはてしない、廣漠な領域を意味してひろがる。その球盤のきれめを見きはめようとしてゐる、鹽氣のない海。」

「一どきに時計の機械のやうな街が見えて來た。見てゐるとその人は實に遠くなる、附添婦がこんな處を歩いてゐるのか。」

「ねずみに赤ん坊がゐる。ほかほか温かくていまにも潰れさうである。」

「みんな事情があつて、或いは病氣をして地上をのろのろと這うてゐる奴であつた。そんな事情でもなかつたらこの神のやうな奴を見ることが出來ないのだ、どう考へても、この生きものがついて離れないのだ。」

「病めるへび。」

「時刻は日沒。その中を去つて往く者、きみの考へがどのやうにしたら耳にいれることが出來るのか。突然、鳶色をした雀くらゐある大きなバッタが飛んで往つた。この二つの生きものに話なぞあらう筈がないのに、男は耳をかたむけて何ごとかを聽き入らうとしてゐる。」

「しばらくは眼をはなされないものがあつた。感動もめづらしさもないものだが、それをただ眺めてゐなければならない時があるものだ。それは物體であつて物體ではなく、かすんで海鳴りのやうに空わたりしてゐる。」

「保護されない女といふものの、失うてゆく日々のいろはあざやかすぎ、見るさへ取りつくろへない未來がきは立つて來る。もろいものはもろいままで凋びてしまふ。かういふ思ひを抱いても結局何にもならないのであるが、やはり女のひとは人に知れない保護がいる。美しいものは風雨にさらしたくないといふ。」

「ずつと先にあるものがやはり見えなかつたのだ、大體こんなふうであつたらうし、それがあるだらうといふ見通しがきかなかつたのだ。これは迂闊であつたといふよりも、これが見られないところに人間のゆきあひの面白さがあつた。」

「或る走り書きの鉛筆は、うれしいことの數々としるされてゐた。うれしいこととは、あのことを言つてゐるのだ。これより外に書きやうもない表現であつた。表現といふものも突き詰められると、みじかい僅かな言葉で行きついてゐる。それより外にあらはしても、この言葉ほどには充實されることがない。」

「黒髮のことをみどりなす黒髮と書いてあつた。くろがみは時にみどりを含んで見えることもあるが、承服しがたい形容であつた。こんなことをうつうつと考へて一日經つて了つた。これはばかの考へる事か。」

「書くべき女、製圖家の妻、歩くとどこもくれなゐにそまるやうな顏。勝手の障子の破れに、夕刻すぎるときつと紙の破れ一杯に見える顏、まづしい畫家の妻。火見櫓の下に菓子屋があつて、買ひにゆくときつと出てくる大がらなその家の娘さん。」

「めづらしい女の子がよく現れた。何處からか引越して來た翌日、門の前に出て櫻の木をその女の子が眺めてゐる。」

「一流ではないが相當な處を歩いてゐて、何時も一流をはうふつさせてゐる顏があつた。それだけですら容易に見られないものだが、どう考へても二流三流の顏ではない、その一流からその人を引きずり下ろしてこれを見ようとする嫉みが、男にはよくあるものだ。けれども上品で高尚な顏といふものは容易にこれを破壞することが出來ない、戀愛の生じる場所でこれくらゐ艱難なところはない、こいつに惹きこまれることは大抵ばかを見ることになる、……」

「書いてゐるあひだに祈りといふものがありますか、と、或る人が言つた。あるな、はづかしながら全部が祈りのやうなものなんだ。何といふばかのかぎりを續けて來たものか。」

 埃で曇つた街の近くから、突然、文房具店の夫人がまたあらはれた。男の方にしづしづと歩いて來て書卓の前に停まると、わたくしのうたの續きはもう出來てゐるかどうかと尋ね、男は一枚の原稿を手渡しした。夫人はそれを讀むと丁寧に四つに折つてハンド・バッグの中に入れ、お金は幾らかと言つた。男はいい加減な値段をいひ、夫人はその金を拂つた。けふの夫人の蒼白顏にはひとすぢの紅さもなかつたが、それは死人のつめたさではなく、すずきとか鯛のにくにある、ああいふ明りをしまつてゐる、しやりつとしたこりこりの頬の色だつた。どこまで切つてみても血の氣のない透明さで作られ、その透明さがにごらずに澄んでゐるのである。

「あなたはいりもしない手帖をもう十四册もお買ひになつたが、あれは、わたくしを見たいためにああしていらつしつて下すつたのですか。」

 男はさうですと頷いてみせた。ではお尋ねいたしますけれど、一體何をわたくしから見ようとなすつて、いらつしつたんですかと尋ねた。

「そんなことは判りきつてゐるぢやないですか、あなたを見に通つてゐたんです。」

「わたくしの何處が見たかつたんです。」

「あなたの血の氣のない顏が見たかつたんです。血の氣のない顏色には、あなたがご主人とお寢みになつた酷い疲れのあとが、そのことのあつた翌朝には他人の私にまで判る程、あらはに殘酷に見えてくるんです。それが私にはいかめしくさへ感じられてゐました。女にはそのことが受難のやうな荒廢の氣分を見せてゐる時があるものだが、あなたの場合はあまりに明瞭に私にそれが見えてゐたんです。」

「わたくしは主人と寢んでゐることに、受難なんて一つも感じたことはございません。あなたのうたにある嬉しい數々のうちの一つかも知れません。主人でなかつたら誰があんなに愉しくさせてくれる人がゐませう。主人と寢るといふことだけで生きることの一日のしめくくりをしてゐると同じわけなんですもの。わたくしの顏色の惡いのは何時かおかきになつた憔悴した歡喜とでもいつたらいいのでせうか。」

「では他人と寢るといふことを考へたことはありませんか、たとへば他人とただ一度でも寢んで見るといふ、變つた世界を覗く氣が起りませんか。あなたの生涯にたつた一日のそんな日が女の人にないものですか。」

「それは不意に起きるふしぎな氣がないでもございませんが、主人が寢て、それは直ぐその紛れた氣分を抹消してくれます。」

「若しご主人との間が遠かつたら、半年も一年も遠のいてゐたらどうなります……」

「それは事情がさうならなければ判りません、あなたはそんな突き込んだ方のお話をなすつて、少しづつわたくしの方にいらつしやりさうになさるんですね。」

「いろいろな方面から、あなたに對つて詰め寄らうとしてゐるんです。これは私だけが持つてゐる考へではない、私に似た奴のみんなが持つてゐるものなんです。」

「だから何時かも申し上げたやうに、うたも、文學もお捨てになつたらあなたの仰言るとほりになるつもりだと言つてゐるんです。うたを殘すか、わたくしがあなたの物になるかといふことです。何をためらつていらつしやるんです。」

 男はだまり込んで了つた。この人の血の氣のない顏は男が常にうたつてゐる物その物なのだ、男がうたを作ることを廢めるとすれば、この人のあをじろさはただの好色漢の好みとして存在するだけである。歌はなければならない物を樂器から外したら、ただの血色の惡い女が一人とぼとぼと歩いてゐるに過ぎない、どう言ひやうもない哀愁とかいふ奴を少しづつ溶かしてゆくことが男の仕事なのに、女はその仕事を取り上げて代りに自分のからだをやるといふのだ。この機會をのがしたらこの女はもはや男の手に戻つて來ないであらう。この女にずつと近づくなら今なのだが、男はやはりだまつて答へようとしなかつた。

 女は書卓に少しづつからだを押しつけるやうにし、恰度、下腹部が書卓のへりにめいりこむやうに、上着が卓の上にのしかかり、下腹部は一そう張つて書卓のきはにくびれるやうになつて見えた。文房具屋の夫人は突然ちつとも前後の話に關係のないことを、男に言つた。

「この石段の上に、あなたのごぞんじの方がいらつしやるんですか。」

「誰も知人なんてゐはしません。」

「でも、あなたは此處を何時も夕方にお登りになつてゐるぢやありませんか。人通りがすくなくなると、あとさきを見計らつてぬすむやうにこつこつと登つていらつしやいます。すると、不斷は開いてゐない扉がうちがはから、すうと、ひとりでに開いてゆきます。その扉の中にもう一構への石段があつて、其處にあなたはまた、こつこつ登つていらつしやいます。」

「それはあなたと同じうたの依頼者が一人住んでゐるんですよ、うたの原稿を屆けに登るんです。」

「そんなに長いつづりのある、おうたなんですか。」

「毎日書いてゐます。」

「ひえ、」

 と、夫人は驚いたために潰れたやうな聲を發した。男はひよいと女の眼を見上げた。書卓が混凝土コンクリの上を少しづつ押されて來た。下腹部にちからが這入つたことが判つた。女は眼をうごかさずに言つた。

「あの扉の中には、中二階になる石段がも一つございますのね。」

混凝土コンクリの急勾配の石段があるんだが、外からは見えない筈なんです。」

「いいえ、よく見えるんです。上の段まで何段あるんでせうか。」

「十二段。」

「手すりがございますか。」

「手すりはないんです。」

「ではあなたが中程まで登りつめたところで、女の人が手をかしてくれるといふ譯でせうね。さうでなかつたらあなたに登り切れる石段ではない、……」

「そんなことをお尋ねになつて、一體、なにに、なさるつもりなんです。」

「あの石段の上の大廣間に、三人の女の人が住んでゐますのね。同じ顏立ちの、みな同じ恰好をした女が寸分異つてゐないすがたで、あなたのうたを讀みつづけるといふ譚なんですか。たとへて申しますと、三面鏡のあるお部屋では女はいつも三人住んでゐることに、鏡にしきりがあるときには、さう現れて見えてくるものです。一面づつのすがたの違ひはほんの少しづつしか、見えてまゐりません。あなたは一人の女から三人の女を見ようとなさつていらつしやるんですね。」

「六面の鏡があれば六人の女が見えると、あなたは言ひたいのでせう。私は石段の上の踊り場で何時も原稿を渡すと、そのまま降りてしまふのです。」

「うそつきね、あなたは、まるで平氣なお顏をして。」

 男はその時に文房具店の夫人に手をつかまへられてゐることを知つた。つめたい水道の水に手をつきこんでゐるのと同じであつた。彼女は急に往來の方を見すましてから男の横手に𢌞り、横抱きにしがみついた。この通りは先刻買ひ物に出たひと達が戻つて來てから、殆ど通行人はなかつた。コンクリの足溜りの櫻の落花はあの日からだいぶ經つてゐたから、みな汚れた爪のやうに干乾びて隅の方に吹きよせられてあつた。彼女はこんどはその隅の方にしやがむと、此處、此處よ、と、小さく叫んで男にもおなじやうに蹲踞しやがめと急きこんで言つた。男はいひなりにしやがむと、女は書卓を蔽つた古い青い卓布をたぐつて、幕帷カーテンのやうに引いて見せた。其處は往來から完全に匿れた位置がつくられ、二人はすつぽりと顏だけあはせた。

「ね、いいでせう。かういふまるで人の氣のつかないところ、……」

「でも、見ようとすれば往來からは見えますよ。」

「もつとお寄りなさい、片膝をわたくしの方にいれて。」

「あなたがこんな大膽な人だとは、まるで考へもしなかつた。」

「わたくしの頬を兩手で挾んで頂だい、そして、いいえ、もつと寄つていらつしやい。」

「それから。」

「しばらく動かずにいらつしやい、動くと卓布テーブルかけからからだが外れて往來から見えますから、だいぶ暗くなつて來たでせう。さあ、あんなに永い間わたくしをおもつて下すつたお禮をいふわ、どんなことでも、好きなやうになさいまし。永い間、ありがたう。」

「……」

「わたくしの顏は、何時ものやうに蒼いか知ら。」

「あんまり近くで見ると、顏といふものが見えなくなつて眼だけが見えてくる。」

「あなたの顏だつて、もう顏なんかではなくてべつなものに見えるわ、男の顏つて岩壁みたいに、こんな時には硬くて頻りなしになにかを噴いてゐるやうね。わたくしの夫は何時も當り前の、すこしもわたくしから影響されたものを現してはゐなかつたのよ、憎らしいくらゐ澄ましこんでゐたわ、あなたはまるでがちがちだ、怖いな、そんな顏を何處から持つて來たといひたいくらゐよ。」

「あなただつて落ちつき拂つてゐる。こんなことなんか何だいといふふうぢやないですか。」

「わたくしは十年も十五年も夫がああしろ、かうしろといふ中で寢つづけて來たんですもの。普通の女なら卒倒しさうなことをして來て、いまあなたにお逢ひしたんですもの。どんな恥づかしいことだつてそれが最早恥づかしい事にならなくなりました。」

「だからあなたの顏色は、何時も、無色透明になつてゐたんだ、それは私もとうにさう氣づいてゐたのだが、これほどの女であることは考へもしなかつた。一人の男性が精根こめて挑んでゐたもので、あなたはその顏とはべつなものを作り上げてゐたのだ、いきなり私の手を取り次ぎにはからだに觸つてゐながら、平氣でゐられる、……」

「ところがわたくしに今ふしぎな感じ方が起つてゐるのよ、こんなものが未だあつたのか知らとおもはれる、一種のあへぎのやうなものが先刻からずつと起つて續いてゐるんです。夫は、何時だつたか女がかはつて現れたら、どんなに疲れてゐても、男にはすぐにも生氣が起つてくると申してゐました。いま、あなたと對ひ合つてゐると夫とは飽々あきあきしてゐたことが、あたらしく體内をべつの作用を起してくるのを覺えるんです。女のはうでも、男がかはると今一度からだの交渉に、身をまかすことが出來ますのね。人間は絶えず相手が代つて現れてゐる間、五年も十年もあと戻りして生きられるものね。」

「或る外國の作家に、いま洗濯女と出來てゐながら、さらにいま一度、階段を登つて二階に寢てゐる女のもとに行くことが書かれてゐるが、原則として男でも女でも、それが新手の場合には生氣が蒸し返つてくるやうだ。あなたのやうなまるで男女關係を超越してゐるやうな顏附の方が、ここまで明け放しで迫つてくることも、その一例のやうだ。かうしてこれほど近く見てゐても、あなたの透明冷徹さがすこしの動搖もなく此處にあるといふことに、私はもはや搜る物もないやうな氣がするのだ。人間の奧にあるものは奧にあるままで假令ちよつと尻尾を出しても、奧のものは奧にしまはれてゐるままだ。あなたがみだりがましい人だとはどんな場合にも發見出來ないことだ。これが女の一等美しいものだと私は始終考へてゐるんです。」

「何をいまになつて仰言つていらつしやるの、何もいふことなんかないわよ、からだに手をお𢌞しになつて。」

「あなたの夫はどうなるんです。」

「夫はわたくしが逆立ちをして見せても、もう眼にまたたき一つしなくなつてゐます。」

「それはあなたに飽きたのか。」

「何も見つけられなくなつてゐるんです。わたくしは只動いてゐるだけなの。いくら動いてゐても見ようとしない夫には、動いてゐることの細部が判らなくなつてゐるんです。そんな時に人間はべつな人間にそれを示してみたい氣になるのです。」

「温和しいあなたもそれを考へこんでゐたんですか。」

「ええ、毎日お店に要りもしない物を買ひにいらつしつて、わたくしの全身に咬みつくやうに見つめていらつしやるあなたに、ちよつと惡戲氣を出して見て、それに飛びついていらつしやるのがとても見たかつたのです。ごめんなさい、惡戲氣なんていやな言葉をつかつたりして、……でも、たうとう、掴まへたわね、もう放さないわよ。どんなお氣持なの、死人のやうな蒼白いからだをしてゐる女つて、冷たくてそれで柔かくてすべすべしてゐて、ほほ、……さあ、その原稿をお渡しなさい、それはお約束どほり燒いちやつて今日からうたなんか、お作りになることお廢めになるがいいわ。何を搜してらつしやるのよ、おつぱいならもつと上の方よ、でなかつたら、あら、あなたつて女のからだに見當外れに觸つていらつしやるのね。わたくしも今だに男のからだの何處に何があるかといふことは判つてゐながら、手でさはつてゆくと霧の中をゆくやうに道は紆曲してゐて判らないんですもの。はじめてわたくしに觸らうとしていらつしやるあなたに無理がないわね。わたくしの手の行くところに尾いていらつしやい、あなたの迷つてゐる手をこちらに重ねるやうになさい、……どんなに濃い霧だつてあんないしていつたら、大丈夫さきの方が見えてくるわよ、觸りながらゆつくり歩いていらつしやい、……」


 男はぐつたりした重みを自分に感じ、女も男の重みを受けた。女は後悔しないかと言ひ、男は頭を振つてみせたが女はその間に急に立ちあがつた。四邊はいくら薄明の永い季節であるとはいへ、石段の隅々がくま取られた夕やみを孕んだ。女は物をいはずに石段をゆつくりとのぼりはじめた。男は其處にある雜草の花でも摘まうとするのだらうと見てゐたが、石段を五六段登つていつたときに初めて或る目標のために、つまり石段の上の扉を目ざして登つてゆくことに氣がついた。この石段を登り詰めると、さらに、家の中にある中二階の段々があるのだが、男は背後に尾いて彼女の肩にうしろから手をかけた。女は振り向かなかつた。

「あなたは其處を登つて何處にゆかうとするのだ。」と言つた。苦り切つたおちついた女の聲が答へた。「この石段の一等高いお家を訪ねて見たいんです。けれども、それはあなたと關係のないことではございませんか。」

「けふはその人がゐるかどうかも判らないんです。お止しなさい、不意に人を驚かすのは止した方がいい。」

 女は更に何か呟いて振り返つたときに、男は麥畑の間から出て來ていきなり男を突つ放してバスに乘りこんだ女の顏を思ひ當てた。男は嫌はれてゐるために益々うつくしく見えるとふ反射作用をここで見つけることが、この女に二重の面變おもがはりをさせてゐることをちらと見入つた。さらに見さだめた女の蒼白顏さうはくがんが緊張してゐるためか、石のやうにすべつこく硬かつた。

 女は答へずに二段三段と、迫らない靴音を立てて登つた。

 男は横手から擦り拔けて女の前の段に立つと、通せん坊をしてみせ、胸で女を押し返す位置を作つた。

 女は脣を尖らせるやうに突き出した。

「何故、お留めになるんです。わたくしはの女の正體が見たいんです。そこをお退きになつて。」

の女に會つたつて何になるんだ、あの女は女としてのあなたに何を企てたといふんです。あなたはあの女に何も責め立てをする立場を持つてゐない筈だ。」

「いいえ、あなたは先刻、ほんのいま少し前にわたくしに何をなされたかを思ひ當てて頂だい、まだあなたにはわたくしの體温がのこつてゐる筈よ、あなたはわたくしの胎内に何をそそいだかを忘れてゐられない筈だ。」

「それもたつた一度の、しかもあなたからその機會を作つた、……」

「一度だつて十度だつておなじことぢやないの。そのたつた一度といふことは物の深さのはじまりなのよ。」

「それで嫉妬といふ奴と二人づれにならうとするのか、何のつみもない女にくひ下がらうとなさるんですか。」

「わたくしはその女を見たいんです。正直に申しあげればわたくしよりか、もつと美しい女であるか、容子がよいかどうかを見きはめたい、動機は單純なんです。其處を退いて下さい、そしてあなたのたいせつな女を一度拜ませて頂だい、ほほ、ほんとに拜ませて頂だい。」

 女は聲を立ててはなやかに笑つた。それはコンクリイトの第二石段にのぼる洞窟どうくつの空虚な境で、再び彼女は奇異な笑聲を立てた。その時女はあまえた一段と低い、この人がこんなことを言ふかと思はれるくらゐの、しだれかかる聲音でいつた。「わたくしね、そのひとのお顏とそつくりのおつくりをして見せて、あなたをよろこばして上げたいと考へたからなのよ、わたくしだつて頬べにをつければ頬はあかくなるし、髮をいつも結ひながら半分くづしてあげれば若く見えるわ、それもみんなあなたに好かれたいためなの、さあ、其處を退いて頂だい、早く思ひやり好く通して頂だい。あんなにわたくしの透きとほつたからだがお好きだつたあなたぢやないの、もつと、もつと向う側がみえるくらゐ透きとほらせてお見せするから、其處を通してください。」

 男は此處を通してはならぬといふ心の決めを感じた。通せば女と女の間に言ひ爭ひが起り、それを默つて見てゐるわけにゆかない、孰方かの女を贔屓にしなければならない所に趁ひ詰められるのだ。男はいやな氣重いものが募つて來た。かういふ時に男は孰方にもつきかねるものをその事件の發端に感じるものだからだ。あやふやな感情はあやふやであるために常に二種類にも、三種類にも、さまざまな形を變化して現れるものだからだ。

「これから上の段はあなたの登る處ではない。」

 男は上の段で、手をひろげた。

「どうしても通つて見せるわ、そんな恰好をしてわたくしを突き墜すお心算なの。」

 女はその時、突然、男のポケットから一綴りのうたの原稿をさつと引き拔くと、呼吸を入れて三つに横裂きにし、それを段の上に投げ棄てると、赤い皮の靴先で踏みにじつた。男はむしろさうなるより外にない女の出方を、ただ、ひややかに見すゑた。

「それであなたの腹がをさまつたのか。」

 女は髮を振つて叫んだ。

「こんな紙屑なんか裂いたつて、些つとも、氣が晴れはしないわ。そこを退いてよ、若し退いてくださらなかつたら突き墜すかも知れないわ。」

「あなたにそんな腕力があるもんですか。」

 女は男の手を振り切ると、上の段に靴先をつきかけた。どうしても登る氣かと、男は自分でも豫期しない兩手が彼女の胸にかけられると、そのまま一と突きに突き返した。急勾配の段々は彼女のほそれたからだを銜へ込んで、一と振り振るとそのまま抛り出した。彼女はがくがくした石段を横倒しになつたまま下の踊り場まで轉がり墜ちた。そのまま聲も立てない氣味の惡い物しづかさで、すつと、顏だけあげると兩手を石段についてからだを起し、殆どしなやか過ぎる身のこなしで立ち上つた。

「今度はあなたを引き摺り墜してやる、……」

 男は中二階の石段のうへに足をかけると、自然に女のすがたを見おろした。その上向きの額がまるい醜い生き物の形をして威嚇的に迫つて來た。眼は餘りに怒りすぎたため只睨み返したまま男の眼にすゑられた。

 男はそれでも、つい、言葉ではふしぎな禮儀のやうなものを述べなければゐられなかつた。そこに、まだこの女との距離があつたことがこの短い時間に知られた。

「怪我はしませんでしたか。」

「わたくしはあぶらみたいな女だわよ。」

 女は石段を驅けのぼる氣はひをして見せたが、からだの痛みでひよろついて壁に手をささへると、直ぐには登れないしどろな足もとを自分のちからで立ち停らうとしたが、急に立ち直りをみせた足元は一擧に中二階の石段の上まで驅け登つて行き、中の段の上に立つた。そこから扉までもう三段しか石の數はなかつた。

 男は彼女の肩に手をかけると、それを拂つた女は低い聲でたしなめた。

「しづかになさい、あなたが此處で呶鳴つたりすると扉の中の女も惘れ返つて了ふ。わたくしといふ女を見ただけで、かつとなる。あなたは同時にその女もわたくしも一遍に失ふことになります。」

 男は默つた。そして女の體の中がうづのやうな血の氣のないもので充たされ、かういふ時に生理的な快感がこの蒼白顏がさそひを入れてくることを、自分ながら惘れて見入つた。男は女の肩を取らうとしたが、逸早く彼女は扉の覗き硝子の方に近づいた。だが、扉には鍵がかかつて開かなかつた。

 女は扉の覗き硝子に眼を當てたが、振り返つて男に部屋の中を見るやう注意した。男は中の樣子を見ようとして硝子に眼を當てると、物音のない部屋に誰も人のゐる樣子はなかつた。男は女がゐないのだと女に告げた。女は鍵を持つていらつしやるでせう、それをお出しなさいと言ひ、男は鍵は持つてゐないと答へた。男はもう一度内部を覗いたが矢張り人氣がなかつた。窓際にある三面鏡に何時の間にか鏡被かがみおほひがかかつてぎよつとしたが、女は髮から一本のピンを拔き取ると、鍵穴にさしこんでから把手をぐるつと𢌞すと、扉は音もなく開いた。女はそれと同時に二間續いた部屋の中に辷り込み、男が何をするのだと言ふ間もなく、かれらは部屋のまん中に突つ立つた。

 ひと間には書棚がぎつしりとならび、ひと間は折り疊んだ衣裳が蟲干の時の樣子で、順を置いてたたまれてあつた。十九歳くらゐから二十六歳くらゐまでの流行のあとを見せた、いろの褪せた衣裳だつた。埃もなく取り亂したあとのない部屋は、いままで誰かがゐたとも思はれる人の氣はひが、次第に二人の眼を部屋のすみずみをさぐらせる誘惑をこころみた。だが、人の氣はひであつたものは午後から西づいた日あしのぬくもりが、この部屋に毎日當つてゐる一つの原因でもあるやうに思へた。

 机の上に女は眼をすゑた。

 そこに紙皮の手帖が十四册重ねられ、直ぐ女が自分が店で賣つた手帖であることに氣づいた。女は机に近づくとそれらの手帖には、鉛筆書きの細字で男の手蹟で一杯に何かが記され、或る一册は何頁かを書き留めてやめて了つた手帖もあつた。女は机の前にすわると自然に俯いて了つた。なにも言ふことがない、これほどの思ひがここに記されてゐることに急速に衝かれたやうであつた。

「あなたはもう歸つてもいいでせう。」

 男はわざと顏色に現すものを抑へていつた。

「ええ、歸ります。わたくしはこんなに親切にして頂いたことは、生れて初めてでございます。」

 男は間もなく温和しく女が石段を降りてゆく柔かい靴音を聽き、おちついて煙草に火を點けた。二間あると見た部屋の湯殿のわきにいま一つの部屋があつて、其處に誰かが身をかがませてゐる鋭いがゆとりのある漂ひがしてゐて、男はそれを充分に受け取つてゐるもののやうであつた。卵の破れるやうな音がしたが、それは女のする嚔の音らしかつた。硝子戸が鈍いきしりで少しづつ開けかかり、男はべつの女の指先のかかつた硝子戸の枠と女の寫るすがたを見つめた、……硝子戸は殆ど呼吸づかひを現してゐるやうに寛くりと、充分な注意力で二寸三寸と開けられていつた。

底本:「はるあはれ」中央公論社

   1962(昭和37)年215日発行

初出:「新潮」新潮社

   1961(昭和36)年71

入力:磯貝まこと

校正:岡村和彦

2014年514日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。