恢復期
堀辰雄



第一部



 彼はすやすやと眠つてゐるやうに見えた。──それは夜ふけの寢臺車のなかであつた。……


 突然、さういふ彼が片目だけを無氣味に開けた。

 さうして自分の枕もとの懷中時計を取らうとして、しきりにその手を動かしてゐる。しかしその手は鐵のやうに重いのだ、まだその片目を除いた他の器官には數時間前に飮んだ眠り藥が作用してゐるらしいのである。そこで彼はあきらめたやうにその片目を閉ぢてしまふ。

 が、しばらくすると、彼の手がひとりでに動き出した。さつきの命令がやつといまそれに達したかのやうに。さうしてそれがひとりで枕もとの懷中時計を手搜りしてゐる。その動作が今度は逆に、彼自身ほとんど忘れかけてゐたさつきの命令を彼に思ひ出させる。

「まだ三時半だな……」

 彼はさうつぶやくと、一つ咳をする。するとまた咳が出る。さうしてその咳はなかなか止みさうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまはうと彼は思つた。──彼は上衣に手をとほすために身もだえするやうな恰好をする。やつとそれを着てしまふと、半年近くも寢間着でばかり生活してゐた彼には、どうもそれが身體にうまく合はない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿かうとすると、他人のと間違へたのではないかと思ふ位だぶだぶだ。──さういふ動作をしながら、彼はたえず咳をしてゐる。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじつて居るのに氣がつく。どうも彼の眞上の寢臺の中でするらしい。おれの咳が傳染うつつたのかな。彼は何氣なささうに自分の足もとに揃へてある一組の婦人靴を目に入れる。

 彼はやつと立上る。さうしてオキシフルの壜を手にしたまま、ステイムで蒸されてゐる息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄につまづいたり、靴をふんづけさうになる。一つの寢臺からはスコツチの靴下をした義足らしいのが出てゐて彼の邪魔をする。そんなごつた返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂人かなんぞのやうに眼を大きく見ひらいてゐる。……

 そのときふと彼は、さういふ彼自身の痛ましい後姿を、さつきから片目だけ開けたまんま、ぢつと睨みつけてゐる別の彼自身に氣がついた。その彼はまだ寢臺の中にあつて、ごたごたに積まれた上衣やネクタイや靴のなかに埋まりながら、そしてたえず咳をしつづけてゐるのであつた。



 夜の明ける前、彼はS湖で下車した。

 其處からまた、彼の目的地であるところの療養所のある高原までは自動車に乘らなければならなかつた。途中で彼は、その湖畔にある一つのみすぼらしいバラツク小屋の前に車を止めさせた。そこには、もと彼の家の下男をしてゐたことのある一人の老人が住んでゐた。その老人はもう七十位になつてゐた。さうしてもう十何年といふもの、この湖畔の小屋にまつたく一人きりで暮してゐるのだつた。ときどき神經痛のために半身不隨になるといふことを聞いてゐたが、そんな時は一人でどうするのだらうと、その老衰した樣子を見ながら彼は思つた。

「それにしても、何故こんなにまでなりながら生きてゐなければならないのかしら?」

 さういふ今の自分にはよく解らないやうな疑問がふと彼の心を曇らせた。

 そのバラツク小屋の窓からは、古畫のなかの聖母の青衣のやうな色をした、明けがたの湖水が、ほんのりと浮んで見えた。──老人はいつか彼の前に古びた聖書を開いてゐた。さうして彼のために熱心な祈祷をしだした。だが彼はそれには別に耳を貸さうともしないで、ただ不思議さうに、老人の手にしてゐる聖書の背革が傷んでゐると見えて一面に膏藥のやうなものが貼つてあるのや、その老人のぶるぶる顫へてゐる手つきが何となく鷄の足に似てゐるのを眺めてゐた。そしてその二つのものは聖書の文句よりも彼の心に觸れた。まるで執拗な「生」そのものの象徴ででもあるやうに。



 療養所はS湖から數里離れたところのY岳の麓にあつた。

 さうしてその麓のなだらかな勾配に沿うて、その赤い屋根をもつた大きな建物は互に竝行した三つの病棟に分れてゐた。それにはそれぞれに「白樺」とか「龍膽りんだう」とか「石楠花しやくなげ」などと云ふ名前がついてゐた。彼の入つた「白樺」の病棟はY岳の麓にもつとも近く、そこには他の患者もあまり居ないらしく、そしてその裏側はすぐ一面の雜木林になつてゐた。彼の病室からはベツドに寢たままで、開け放した窓を丁度よい額縁にして、南アルプスのまだ雪に掩はれてゐるロマンチツクな山頂が眺められた。

 彼の病室には南向きの露臺が一つついてゐた。其處からならばS湖も見えるかも知れないと思つて、そこまで出て行つた彼はそれらしい方向には一帶の松林をしか見出さなかつた。が、その代りに彼は其處から、下の病棟のあちらこちらの露臺に裸かの患者たちが日光浴をしてゐる有樣を一目に見ることが出來た。みんな樹皮のやうな色の肌をしながら、海岸でのやうに愉しさうに腹這ひになつてゐた。

 彼の想像はさういふ人達と同じやうに日光浴をしてゐる裸かの彼自身の姿を描いた。そして「わが骨はことごとく數ふるばかりになりぬ」そんな文句を彼はふとつぶやいた。それはかの老人が彼のために讀んでくれた聖書の中の一句だつた。いちばん何んでもないやうな文句を覺えてゐたものと見える。「わが骨はことごとくか……」それはいつの間にか話し相手のない彼の口癖になつてしまつた。

 夕方になると、彼はひどい疲勞から小石のやうに眠りに落ちた。



 それから何時間たつたのか覺えはなかつたけれど、彼が目をさまして便所に行つたのは、だいぶ深夜らしかつた。彼は便所から歸つて、一種の臭ひのただよつてゐる病院の廊下を、同じやうな病室を No. 1 から一つづつ丁寧に數へて歩いて來ながら、さて彼の病室である四番目のやつのドアを開けようとして、ひよいと部屋の番號を見たら、それは No. 5 だつた。彼は部屋の勘定を間違へたのだと思つて、すぐ廊下を引き返した。が、ひとつ手前の部屋に來て見るとそれは No. 3 になつてゐた。おれは何と寢呆けてゐるのだらう。自分の部屋の前を何遍も素通りする。さう思つてまた踵を返した。が次の部屋まで來て見るとやつぱりさつきの No. 5 であつた。まさかお伽噺ぢやあるまいし、おれが夜中に起きて便所へ行つてゐる間におれの部屋が何處かへ消えて無くなつてしまつて居るなんて!……さうは思つたものの、彼はしばらくの間、電燈ばかりこうこうと燿いてゐる深夜の廊下のまん中に愚かさうに立ちすくんでゐたが、ふと其處にただよつてゐる臭ひが過酸化水素の臭ひだと氣づくが早いか、彼は彼の部屋のドアの外側の把手には、何故だか知らないけれど、ガアゼの繃帶が卷いてあつたことを突然思ひ出した。さうして彼は、彼が何遍もその前を往復した No. 5 の部屋のドアの把手がその通りであるのを認めた。おれはこのおれの手でさつきそれを握りながら今までこいつに氣がつかなかつたとは何事だい!(そこで彼は思ひきつてそのドアを押し開けた。)やつぱりおれの部屋だ。空つぽのおれがおれを待つてゐる。夕方、おれがそこら中に脱ぎ棄てておいた外套や上衣や襯衣シヤツや、それから手袋や靴下のやうなものまでが、みんなそれぞれにおれの姿を髣髴させてゐる。……

 彼はやつとこさ自身のベツドにもぐり込みながら、今しがたの變な錯誤をゆつくりと考へ直した。──つまり、病院には No. 4 なんて部屋は始めから無いのだ。は不吉にもと暗合するから。で、おれの部屋は四番目であるのだけれど、しかも5といふ番號がつけられてゐる。ただそれきりなのだ。……だが待てよ、その厄介な番號をもつた部屋をすつかり持て餘してしまつたこの病院の建築師は、ひよつとしたら一種の魔法のやうなもので、この隣りのおれの部屋にそれをすぽつと嵌めておいたかも知れないぞ。さうしてその二重の部屋(つまりこのおれの部屋だが)、それは夢と現實とをくつつけたやうに、何處かですこしづつ喰ひ違ひを生じてゐる。さうだ、こんな夜ふけなどあの露臺に出てこつそり窓の外からこつちを覗いて見ると、丁度あの重屈折をする方解石のやうなものを通して見たかのやうに、この部屋の中のものがすべて、そしておれ自身までがぼんやり二重になつて見えさうな氣がする。……

 そのとき不意に前夜の寢臺車の中のごたごたとした光景が彼に思ひ出された。いつまでも奇妙な半睡状態を續けてゐる自分の身體からすうつと別の自分自身が拔け出して列車の廊下をうらうろと歩いてゐる──さういふ前夜の錯覺と、それから今しがたの變な錯誤とが何時しかごつちやになつて、なんだかウヰリアム・ブレイクの繪の或る複雜な構圖と同じやうな不可解さをもつて彼に迫りながら、ますます彼を眠りがたくさせた。

(二三日後の夜、彼は彼の部屋のドアの把手に人間の手みたいに卷いてあるガアゼの繃帶に内部から血のにじみ出てゐるのを認めた。しかし翌日になつて見ると、彼の知らない間にそれは新しいガアゼに取換へられてあつた。)



 さういふ神經質な最初の一夜を例外にすると、そこへ入院してからの彼の病状はずつと順調であつた。高原の春先きの氣候とともに。

 彼の病室の窓から眺められる南アルプスの山頂には雪が日毎にまばらになつて行つた。そしてそれらは遂に何かしら地球の齒のやうなものを剥き出しながら、彼の窓に向つて次第に前進してくるやうに見えた。病人はそれを飽かずに眺めた。

 だが、或る朝から急に雪が降りだした。そして一日ぢゆう小止みなく降つてゐた。もう四月下旬だといふのに何と云ふことであらう。そしてそれはその翌日になつても、翌々日になつても止まなかつた。

 そんな或る夜ふけのこと、あたりがあまりに騷々しくなつたのでそれまでうとうとと眠つてゐた彼は思はず目をさました。眠る前にいくらか小降りになつたかと思はれた雪はいつしか吹雪になつてゐた。その上に突風がそれに加つてゐるらしい。──そんな夜も露臺に向いてゐるドアや窓は醫師の命令で細目に開けておく習慣だつたので、それらの隙間からは無數の細かい雪が突風そのものと一しよに吹き込んできて、そこら中に手あたり次第に汚點をつけながら、彼の病室の中をくるくると舞つてゐた。……彼はそつと眼だけを毛布のそとに出しながら夢心地にそれを見入つてゐたが、やがてそれらの活溌に運動してゐる微粒子の群はただ一樣に白色のものばかりでなく、それらのなかには赤だの青だの黄だの紫だのがまじつてゐて、それらが全體として虹色になつて見えることに氣がついた。その瞬間、彼はちよつと輕い眩暈を感じはしたが、それでもなほその囘轉する虹に見入つてゐると、それがいつしか彼に子供の頃の或る記憶を喚び起させた。……

 人が子供の彼のために幻燈を映してくれようとしてゐる。彼は闇の中をぢつと見つめてゐる。レンズがなかなか合はない。その間、たださまざまな色彩の塊りがぼんやり白い布の上にさまよつてゐるばかりである。けれども或る期待のために子供は胸を躍らせてゐる。うつとりするやうな瞬間が過ぎる。やつとレンズが合ひ、繪がはつきり見えだす。そこには雪のなかに一人の死んだ支那兵が倒れてゐる。子供はその凄慘な光景に思はず目を掩つてしまふ。……

 その子供のおれを、一瞬間うつとりさせてゐたのと同じやうな現實の罠が今のおれを落し入れようとしてゐるのだらうか? おれは何かに瞞されてゐるのではないか?──さう思ひながら彼はなほも魅せられたやうにその虚空に囘轉する虹に見入つてゐたが、そのうち突然、何處かでガチヤリ! と硝子の破れる音がした。と同時にあちらでもこちらでもそれと同じやうな物音が起つた。ずゐぶん澤山の硝子が破れたらしいな……と思ふ間もなく、彼の耳は彼自身のすぐ身ぢかに起つたらしいそれよりも數倍も大きな音響のために麻痺したやうになつた。それは彼の部屋のなかで起つたものらしかつたが、彼はそれを確めようともせずに頭からすつぽりと毛布をかぶつてしまつた。そして彼は枕もとに用意してあるヴエロナアルを飮まうとしたけれど、このまま何も知らずに眠つてしまふことも恐しかつた。それからどのくらゐ時間がたつたか分らなかつた。──ただその間も彼はたえず自分の眼底に、さまざまの色の微粒子がちらちらしてゐるのをば感じてゐたが、そのうち不意にエレヴエタアの下降に伴ふやうな感じで彼の全身がすうとしだすのと同時にそれらの幻覺も一時に消えてしまつた。それは明らかに眠りではなかつた。それはどこか知ら腦貧血に似てゐた。

 本當の眠りはただその發作を長びかせるやうな作用をした。

 彼がさういふ一種の假死から蘇つたのは翌朝の十時頃だつた。もう風はすつかり止んでいたし、露臺を四五寸埋めてゐる雪からは水蒸氣がさかんに立ちのぼつてゐた。そのせゐばかりでなく、その露臺の眺望は、いつも彼のベツドの上から見えるのとは非常に樣子が異つてゐた。そしてそれが、彼の病室の窓硝子が跡方もなく破壞されてゐるからばかりでなしに、その露臺に通じてゐるドアがその蝶番てふつがひごとそつくり剥ぎとられてしまつてゐるためであることに、彼は漸つと氣がついた。硝子の破れる音は彼もうつつに聞いて知つてゐたが、あんなに巖疊だつたドアがこんなにまで破壞し盡されたことを昨夜少しも知らずにゐたことが彼を氣味わるがらせた。

 南アルプスの山頂はまた一面に眞白になりながら、いつの間にか彼の窓からずつと後へ退すさつてゐた。それを眺めながら、彼が自分のいま生きてゐることを確めでもするやうに、彼のもぢやもぢやになつた髮の毛へひよいと手を觸れたら、その一本一本が神經そのものであるかのやうに痛んだ。



 彼は眠ることが出來なくなつた。

 どうも夜中になると熱が出てくるらしい。ちよつと眠つたかと思ふとすぐ汗みどろになつて目がさめた。朝の體温が三十八度位で一日のうちの最高で、それから次第に下つて、夕方には最低三十七度位になつた。熱の系統が普通とは逆であつた。しかもそれがかなり秩序立つてゐた。夜、眠れないのはどうもそのせゐらしかつた。

 毎晩、十二時頃になると看護婦たちが彼の病室に見舞ひにきた。彼はからかひ半分彼女たちのことを「鳩ぽつぽ」と呼んでゐた。それは看護婦たちが鳩の歩き方を眞似してゐるやうな恰好をして廊下を歩いてくるからだつた。さうして看護婦たちは彼の病室のドアをすうつと音のしないやうに開け、しばらく室内の樣子をうかがひながら闇のなかに彼が眠つてゐるらしいのを確めると、またすつとドアを閉めて、再び鳩のやうな足どりで廊下を立去つた。看護婦たちのなかにはドアも開けずにその鍵孔から彼の樣子を覗いて行くものもあつた。そんな時刻にはいつもまだ眠れないでゐるところの彼は、さういふ看護婦たちの行動を一つ一つ手にとるやうに知ることが出來た。また、それまでうとうと眠つてゐるやうな場合でも、きつとそのへんな凝視を彼は神經に感じて目をさましてしまふのが常であつた。さういふとき彼はびつしより汗をかいてゐた。彼は看護婦たちの立去るのを待つてすばやくタオルの寢間着を裏がへしにした。──だが、そのうちにその深夜の訪問は十二時に限らず行はれるやうになつた。ずつとその時刻の過ぎた夜中の二時か三時になつて、まだ眠れずにゐる彼はドアがひとりでに開いたり閉ぢたりするのを見た。誰かが鍵孔からぢつと自分の樣子をうかがつてゐるのを感じた。しかもそれは一晩のうちに何囘となく繰り返された。彼はその度毎にぞつとしながら、いつも眠つた眞似をしてゐた。そんな時彼の神經過敏になつた耳は、どうかすると夜ふけの廊下に何かの翼の音のするのを聞いたりした。

 しかし彼はその子供らしい恐怖を誰にも訴へなかつた。彼はその不眠と熱のためであるらしい幻聽に彼自身を馴らさうとした。そして子供たちが「鳩ぽつぽ」で遊ぶやうにそれで遊ぼうとしてゐた。──だが或る朝、院長は、彼に彼が肋膜炎を再發してゐることを告げた。そして彼が夜ふけの幻聽のやうに聞いてゐた何かの翼の音は彼自身の胸の中から起るものであることを知らされた。

 彼は夜毎に不眠に馴れていつた。彼はむしろ夜眠ることを欲しなくなつた。眠ることは、彼には、ただ寢汗をかくことであつたし、そのあとで高い熱の、きつと出るやうな惡夢を見ることに過ぎなかつたから。だが彼は、不眠のままで、眼をあけたままで見てしまふ恐しい夢はどうすることも出來なかつた。……そんな或る夜に見たところの一つの夢であつた。いつもは開けて置く筈の窓をどうしてだかその夜は閉めておいたと見える。そとは月夜らしく、その閉ぢた窓の隙間から差しこんでくる月光が彼のベツドのまはりの床の上に小さい圓い斑點をいくつも描いてゐたが、それはまるで彼自身がそこへ無神經にしちらした痰のやうに見えた。さういふ變な光線のなかで、彼はふと彼の枕もとに誰かがうな垂れてゐるらしいのに氣づいた。ああ、Aが來てくれたな……(その瞬間Aがだれか別の人間に變つてしまつた)……おお、Bだつたのか、すまないな、Aとまちがへて。……おや、君はBでもないね、Cだつたのかい……そんな風に、彼の枕もとにうな垂れてゐるのは一人の男きりだつたが、その男が誰だかやつと見當がつきさうになると、それはすぐ他の男に變つてしまつた。相手の男がいつの間にか他の男に變つてゐるやうなことは、どんな夢にもよくあることで、さういふ不思議な變化も大概の夢ではきはめて自然に感じられるものである。それが彼のその時の夢ではさう行かなかつた。その不思議な變化がどこまでも不思議で、その上それが一種の凄氣のやうなものをさへ感じさせるのだつた。……そんな具合に彼が彼の知つてゐると思はれるあらゆる友人たちを代る代る夢に見つくしてしまつた時分になつて、彼は漸つとその一見何でもないやうな、それでゐてこの頃の彼の夢の中では、最も彼を苦しませたところの夢から自由にされた。熱がひどく出てゐるらしい。彼はそれを測るために檢温器を取らうとした。だが、その檢温器は彼の手から滑つて床の上で眞二つに折れてしまつた。その瞬間、いままで窓の隙間から差しこんでくる月影だとばかり思つてゐたそこら中の澤山の斑點が、突然、彼の目に眞赤に映つた。そしてそれが本物の痰のやうに見えた。──おや、おれは何時の間にこんなに血を吐いたのかしら? ……彼は氣味惡さうにそれから目をそらしながら、なんだかこのまま自分が死んで行くのではないかといふ氣がされてならなかつた。さうして彼は、今しがた夢の中で彼を苦しませたところの友人たちが、彼の死を知らせる電報を手にしたまま、さまざまに驚愕してゐる有樣を、一つ一つ病的な好奇心をもつて描きはじめてゐた。……



 彼がその何囘目かの彼の「危機」から脱するためには、四週間たつぷりの絶對安靜を要した。

 六月に入つてから、或る日のこと、彼ははじめて露臺に出ることを許された。彼は其處から見えるあらゆる樹木がすつかり若葉を出してゐるのに眺め入りながら、目が痒くなるのを我慢してゐた。それらの樹木の多くが白樺と落葉松であることを知つたのも殆どその時が始めてであつた。

 熱は體温表の上で一時非常にジグザグな線を描いたが、そのジグザグは次第にその振幅をちぢめて行きながら、遂に完全に赤線(三十七度)以下になつた。だが、彼の身體はまだ何處となく不安定だつた。そしてひつきりなしに身體のあちらこちらに、丁度大地震のあとに起る無數の小さな餘震のやうに、或は頭痛が、或は神經痛が、或は齒痛が次ぎ次ぎに起つた。彼はそれらの餘震になほも怯かされながら、しかし次第に、露臺のまはりでうるさいくらゐ囀りだした小鳥たちの口眞似をして見たり、裏の山から腕いつぱい花を抱へて歸つてくる看護婦に分けて貰つて藥罎にさした龍膽や鈴蘭などの小さな花の香りをかぎながら、彼は生き生きとした呼吸をし出した。

 或る日から彼も日光浴をすることになつた。

 彼は看護婦から紫外線除けの黒眼鏡を受取ると、それをすぐに掛けながら子供のやうにいそいそと露臺に出て行つた。そして彼は初夏の太陽をまぶしさうに見上げながら、それに向つて話しかけでもするやうに獨語するのであつた。

「おお、太陽よ、おれも昨日までは苦痛を通して死ばかり見つめてゐたけれども、今日からはひとつこの黒眼鏡を通してお前ばかり見つめてゐてやるぞ!」


第二部



 その後御病氣御順調の由、何よりも結構です。

 もしお身體にお差障りないやうでしたら當分こちらへ來て見ませんか。今年は西洋人の別莊を借りてゐます。私一人きりですからどうぞ御遠慮なくお出でください。うちの寢臺はぎいぎい鳴りますけれど。庭には澤山あなたの好きな羊齒が生えてゐますよ。(しかしこれはうちのを撮つたのではありません。)


 七月の初めに、輕井澤に行つてゐる彼の叔母から、美しく密生した羊齒ばかりを撮影した繪葉書が、まだ療養所にゐる彼のところへ屆いた。彼はすぐそれに返事を書いた。


 繪ハガキを有難う。

 僕はすぐにでも叔母さんの「羊齒山莊」へ行きたいのですけれど、院長がまだ許してくれません。でもあと一週間位したらと僕は院長と約束をしました。それまで僕はせつせと日光浴でもしてゐませう。僕は足ばかり出してゐるものだから、なんだかマホガニイ製の義足でもしてゐるやうになりました。左樣なら。


 七月も末になつた或る朝、その「羊齒山莊」に突然、彼は、西洋人の好んで着るやうな派手な柄のスウエタアかなんぞ着込んで、妙にはしやいだ姿をあらはした。手には籐のステツキを持つてゐるきりで、何處か散歩からでも歸つてきたやうな恰好であつた。──雜草が生ひかぶさるやうになつてゐる小徑の兩側には、とりわけ羊齒が見事に生長してゐたが、それが彼にはあたかも可愛らしい手をひろげて自分を歡迎してゐる子供たちのやうに見えるらしく、彼を微笑ませてゐた。……

 そこの奧まつたヴエランダに、彼の叔母がひとりで籐椅子に凭りかかつてゐるのを認めると、

「叔母さん……」

 さう彼は人なつこさうに元氣のいい聲をかけた。

「……さうして居るところはまるで羊齒の女王みたいですね」

「さう見えて?……女王なら、私は何の女王でもいいわ」叔母さんは彼ににつこり笑つて見せた。

 彼は靴のままヴエランダに上つて、そこにある籐椅子の一つにどつかり腰を下した。さうしてすこし荒い呼吸づかひをしてゐた。

「お疲れになつたでせう。すぐお寢みにならない?」

「ええ……叔父さんは?」

「ずつと東京よ……また痩せつぽちが二人寄つたかつてきつと笑ふことよ」

「ふ、ふ、僕もここへ來る途中で考へたんですがね……」

「…………?」

「あのね、昔はそれでも、叔母さんと僕とで目方を合せると叔父さんのよりは五瓩ぐらゐ多かつたでせう。でも、もう駄目なの。……僕はあの頃から見ると五キロぐらゐ多かつたでせう。でも、もう駄目なの。……僕はあの頃から見ると五瓩はたつぷり減つてしまつたからなあ」

「そのかはり、叔母さんはすこし肥つたでせう?……」

 さう言はれても、彼はもう叔母さんの方を見ようともしないで、元氣なくぢつと目をつぶつてゐた。……



 その羊齒の密生してゐる叔母の別莊には、去年まではスコツトランド人らしい老夫婦がいかにも品よささうに暮してゐた。毎年の夏、彼は散歩の折などこのへんの草深い小徑が好きでよくこの家の前を通つたものだが、その度毎にいつもその老夫婦がヴエランダに出て默つたまま、お茶かなんか飮み合つてゐるのを見かけたものだつた。なんでも三十年近く日本で宣教師をしてゐる人ださうだが、そんな宣教師といふよりも寧ろ哲學者かなんかのやうに見えた。この高原のどんな小徑にでも勝手な名前をつけたがる西洋人に倣つて、彼もこのへんの小徑を自分勝手に Philosophenフイロゾフエン Wegウエグ と呼んでゐたくらゐだつたのに。……あの老夫婦もとうとう彼等の任期を了へて故國にでも歸つたのかしら。──さう云へば、この老夫婦が他の亞米利加の宣教師たちと異つて、いかにも趣味のいい、そして地味な暮し方をしてゐたらしいのは、彼等が彼等に代つてこの別莊に入るであらう人達のために殘して行つた幾つかの古びた家具類、──例へば大きな寢臺とか、がつしりした食卓とか、稚拙な彫りのある椅子などを見れば分かる。どれもこれも三十年ぐらゐはごく注意して、傷一つつけずに、使ひ通してきたものらしい。たとへ異國であらうとも、こんな風にごく上等な品物をごく長い間使ひ慣らしてゐた老人たちの心柄は、ただ質素であると云つてしまふにはあまり奧床しく思はれる。──彼はそれらの家具類の間にちよこんとしてゐる一つのごく小さな椅子に、丁度五六歳の子供にしか掛けられないやうな一つの椅子にふと眼を止めた。その小さな椅子は木質の古びと云ひ、それに彫られてある模樣の稚拙な感じと云ひ、いづれも他の古椅子とあまり變らなかつた。これはひよつとすると彼等が三十年前スコツトランドから日本へ移住して來た時他の家具類と一緒に向うから持つてきた物かも知れない。そのとき彼等には丁度五つか六つぐらゐになる子供が一人あつたのだらう……だが彼はこれまでつひぞさういふ彼等の息子らしいものを見かけたことは無かつたけれど……その息子、と云つても今ではもう三十以上になつてゐるに違ひないが、彼は自分の職業のために一人で故國に歸つてゐたのだらうか、それとも若しかしたらもう死んでしまつてゐるのであるまいか?……いづれにせよ、この可憐な椅子がそれを見る度毎に彼等老夫婦の心を慰めてゐたであらうことは容易に想像される。さうしてこの別莊を立去る時、その老夫婦はこの椅子一つのためにどんなに心をなやましたことであらうか?

 ……それらの古びたいくつかの家具がしめやかに語りだすところの、さう云ふロマンチツクな物語に耳を傾けながら、それらの語り手の一人である、すこし彼には大き過ぎる寢臺の上に、到底眠れさうもないと思ひながら横になつてゐるうちに、彼はいつしかすやすやと寢入つた。……



 夕飯のときである。彼は叔母と一しよに食堂の、それひとつあれば七八人ぐらゐのお客には充分間に合ひさうな、大きな圓卓子につかうとして、さて、それがあんまり大き過ぎるので、何處へ坐つたらいいのかまごまごした。

「どうも具合が變だなあ……」

「すこし遠くても、向い合つて坐つた方がよくつてよ。……でも、二人になつたから、これでもまだ恰好がつくのよ。私一人のときは、ほんとうに持て餘してしまつた……」

 彼は彼女の云ふとほりに彼女と差し向ひに坐つた。しかし、卓子の向側とこちら側で話し合ふには、よほど大きな聲を出さなければ聞えないやうな氣がした。そこで彼は食事の間だけ沈默することにした。そのかはりに彼は食事をしながら、その食卓掛けのよく洗濯してあるけれど色がひどく剥げちよろになつてゐるのや、アルミニウムの珈琲沸しの古くて立派だけれどその手がとれかかつてゐると見えて不細工に針金でまいてあるのや、どれもこれもちぐはぐな小皿に西洋草花が無邪氣に描かれてあるのやを一々丁寧に眺めまはしてゐた。これらの物もみんな前の老夫婦が置いてゐつたものらしい。……

 そのとき彼は、例の子供の椅子に關する彼の意見を叔母に話したい欲望を感じた。探偵小説ばかりを讀んでゐるせゐか、他人の身の上などを空想することの好きな叔母はことによると彼よりもつと細かな觀察をしてゐるかも知れない。彼はしかしそれを言ふのを止めた。彼には卓子の向側にゐる叔母に向つて普通より大きな聲で話しかけなければならないのが物憂かつたのだ。



 一種の神經衰弱に罹つたところの病人は、二日も三日も平氣で眠りつづけると言はれる。數年前、彼はその輕いやつに罹つたことがあつた。──その時の症状が思ひ出されてならないほど、この頃の彼はひつきりなしに眠たい。すこし我慢して起きてゐると眠氣で床の上に倒れさうになる。病院での睡眠不足を一時に取戻さうとするがごとくに彼は眠りつづける。その病院では看護婦たちに持て餘されたくらゐ神經質になつた彼は、ここでは──このしつとりした落着きのある山莊のなかでは、さうして彼の叔母のクラシツクな愛のなかでは、彼はまるで母親に抱かれた子供のやうに前後を知らず深い眠りに落ちた。事實、彼はここへ來てからもう何日になるのか、十日になるのか、二十日になるのか、それとも一週間にしかならないのか、それすら思ひ出せない。さうして昨日のことが一昨日のことより昔のやうに思へる。

 叔母のところへは毎日のやうに彼女と同年輩ぐらゐの女の客が訪れてきた。さういふ女客ばかりが二三人一しよに落ち合ふやうなこともあつた。「みんな私の學校友達なのよ」叔母はさう言つてゐたが、いづれ叔母に聞いて見ればそれぞれ由緒のある貴夫人たちなのであらうけれど、さういふ貴夫人たちといふものはどんな會話をするものかしらと、一度二階の彼の寢室からぢつと耳を傾けて聞いてゐると、自分の別莊の裏の胡桃の木に栗鼠が出たとか、野菜がどうだとか、薪がどうだとか、そんな話ばかりしてゐるので彼はひとりで苦笑した。

 さういふ時には、彼は誰にも見つからないやうに、二階から降りてこつそりと臺所の裏へ出て行つた。そこには落葉松が繁茂してゐて涼しい緑蔭をつくつてゐた。彼はいつもそこへ籐の寢椅子を持ち出してごろりと横になつた。其處からはよく伸びた落葉松のおかげで太陽がまるで湖水の底にあるやうに見えた。どうかすると彼はそこでそのまま眠つてしまふこともあつた。

 そんな日のある日、もう客が歸つた跡と見えて、その裏庭に面したフレンチ・ドアに叔母がぼんやり凭りかかつてゐるのを見つけると、

「叔母さん」

 と彼はその寢椅子の中から聲をかけた。

「ここにかうして居ますとね、僕はきつとドロシイのことを思ひ出すんですよ……どうしてかしら?」

 叔母さんはまだぼんやりしてゐる。よほどお疲れになつたと見える。

「ドロシイは今年は來てゐませんの?」彼はうるさく質問するのである。

「ドロシイさんの家は何でも去年カナダへお歸りになつたさうよ」

「さうですか。──おや、おや、僕は年頃のドロシイが見たかつたんだがなあ……」



 ……數年前、彼はそのドロシイの隣りの別莊に一夏を暮したことがあつた。やはり叔母と一しよに。──その頃ドロシイはまだ七つか八つ位であつた。彼はときどきそのドロシイや彼女の小さな妹たちと一しよになつて遊んだ。ドロシイは綺麗な女の子で彼女の美しい名前によく似合つてゐた。日本語も上手だつた。しかし彼と話をしてゐるうちに日本語が分らなくなると、英語でしやべつた。さうして英語などで人としやべつたことのない彼を一寸默らせた。さういふ時いつまでも彼が默つてゐると、彼女は何だか困つたやうな眞面目な表情で彼を見上げるのであつた。彼はさういふ表情を美しいと思つた。──或時、彼はドロシイとその小さな妹とを連れて、オルガン岩のほとりへ散歩に行つた。その散歩の間、ドロシイは絶えずはしやいでゐたが、その歸途、突然一つの小さな崖の上へよぢのぼつてしまつた。それは彼女によぢのぼることはどうにか出來ても、そこから下りてくることは危險に思はれるほどの急な傾斜だつた。どうするだらうと思つて見てゐると、ドロシイはちよつとその傾斜を見て首をかしげてゐたが、いきなりそこを駈け下りてきた。あぶない! と彼が叫ぶのと殆ど同時に、彼女は途中で足を滑らしながら、彼の足許へもんどり打つて落ちてきた。……しかし彼女はすぐ起き上つた。見ると彼女の白い脛には泥がつき、何かで傷つけたらしく血が滲んでゐた。彼女はしかしそれを見ても泣かずにゐた。ともかくもすぐそこのホテルまで連れて行つて何とかしてやらうと思ひながら、その怪我をした少女とそれからもう歩き疲れてゐるらしいその妹とを二人、兩手に引張つてホテルに向つて歩いてゆく彼の方がよほど氣が氣でなかつた。そのうち彼はこりや俺の方がすこしあやしいぞと思ひ出した。……彼はどうかした機會に、血を見ると、それが自分のであらうと、他人のであらうと、すぐ腦貧血を起してしまふ癖があつた。さうして今も今、彼はドロシイの白い脛に薔薇色の血が滲み出てゐるのを見てゐるうちに、どうやらそいつを起したらしいのである。彼はホテルの玄關の次第に近づいてくるのを、うるさく顏にまつはりつく蜘蛛の巣のやうなものを透して、やつとのことで見分けてゐた。……

「ブランデイ! ブランデイ!」

 一人の西洋人がさう叫んでゐるらしいのを彼はすぐ顏の近くに聞いた。それから彼は、自分がホテルの床板の上にあふむけに倒れながら、誰かに自分の足を宙に持ち上げられてゐるらしいことに氣がついた。それと同時に甘つたるいやうな香水のかをりを彼は嗅いだ。彼を介抱してくれてゐるのは西洋人の夫婦らしかつた。

「ブランデイ!」

 彼の足を持ち上げてゐてくれるその西洋人は、漸く意識を囘復しだした彼の上にかがみながら、ボオイの持つてきたらしい琥珀色のグラスを彼の脣に押しあてた。彼はそれを一息に飮み干した。

「…………?」

 彼はその親切な西洋人たちにどんな言葉で感謝を示したらいいのか分らなかつたので、ただにつこりと笑つて見せた。

 その時彼の額へ手をやつてゐたその細君らしい西洋婦人がひよいとうしろを振り向いたので、その方へやつと頭を持ち上げながら彼も見てみると、ホテルのポオチのところにドロシイとその妹は、丁度ホテルへ遊びにでも來てゐたと見える彼女らの友達らしい五六人の少女たちに取りかこまれてゐた。さうして一種の遊戲かなんぞをしてゐるやうに、ドロシイの説明を聞かうとしていくつもの金髮を一とところに集めてゐるそれらの少女たちの姿は、まだすこし頭のしびれてゐる彼には、あたかも葡萄の房のやうにゆらゆらと搖れながら見えた。……



 ……ここにかうして居ると、さういふ數年前の光景の一つ一つが、妙に生き生きと彼の心のなかに蘇つてくるのは、どういふ訣かしらと考へる度毎に、彼はこの樹蔭に何かしら一種特別な空氣のあることに氣づかないではなかつたけれど、つい面倒くさいので彼はそれをそのままにして置いた。だが、或る日のこと、いくらか氣分のよかつた彼はその原因を調べてやらうと思ひ立つた。そこの樹蔭は奧へ行けば行くほど彼が名前も知らないやうな雜草が茂るがままに茂つてゐた。これはきつとこの雜草の中に何か特別な香りを發するものがあつて、それが彼の記憶を刺戟するのかも知れないぞと思つた。そこで彼はこの雜草のなかを鼻孔をひろげながら出たらめに歩き𢌞つて見た。なるほど、何かが特に強く匂つてゐる。──それを嗅いでゐると、なんだか氣持がすうすうしてくる。おや、おれはまた腦貧血をやりさうだぞ、と彼がちよつと錯覺を起しかかつたくらゐ、その香りは彼の發作の直前の氣持を思ひ出させる。こいつだな、と思つて彼はその香りをたよりに、その香りの生じてゐさうなところをむきになつて搜したけれど、それが一面に茂つてゐる雜草のどの邊であるのかすら一向に見分けがつかなかつた。だが、その香りは何處か知らからますます鮮明に匂つてくる。彼はそこにぼんやり佇んだまま、何となく自分が盲目になつたやうな感じさへ持ち出した。……

 だが、彼は遂にその香りの正體を搜しあてた。彼の足が偶然にもそれを踏んづけたのである。彼の足もとには、暗緑色の細かい葉をもつた草が一かたまりになつて密生してゐた。その一つを手折つて見ると、その葉は縮緬ちりめんの皺のやうにちぢれてゐて、それが目にしみるほどの強烈な香りを放つてゐた。何かの匂ひに似てゐると思つたけれど、どうしてもそれが思ひ出せなかつた。彼はそれを叔母のところへ持つて行つた。

「叔母さん、これ、何といふ草だか知つてゐません? これですよ、僕にドロシイのことを思ひ出させるのは……」彼は二三年前の發作のことを思ひ出しながら云つた。

 叔母はそれを手にとつて見てちよつと嗅いでゐた。

「なんだか薄荷みたいな香りがするわね。薄荷草といふのぢやないこと?」

「あ、さう、さう、こりあ薄荷のにほひでしたね……」

 彼が發作を起すときの何となく快よいやうな氣持は、丁度このにほひを嗅いでゐるときの氣持にそつくりであることに彼はいま始めて氣がついたのである。それは彼には一つのすばらしい發見のやうに思はれた。



 まだ八月の半ばを過ぎたばかりなのに、もう秋風らしいものが周圍の木の葉をさわさわ搖すぶつて居るのを耳にひやりと聞きながら、或る朝、彼が二階のベツドの中でいつまでもぐづぐづしてゐると、突然戸外でマグネシウムをいたやうな爆音がした。それと同時に家全體がはげしく動搖した。

「淺間山よ……早く來てごらんなさいよ」階下のヴエランダで叔母が叫んでゐるらしかつた。

 彼は寢間着の上に上着をひつかけてヴエランダへ降りて行つた。

「僕はまた寫眞屋がマグネシウムでも焚いたのかと思つた。それにしては朝つぱらから變だと思つたけれど……」

 なるほどヴエランダからは、淺間山がその花キヤベツに似た噴煙をむくむくと持ち上げてゐる何とも云へず無氣味な光景がはつきりと見えた。その無氣味な煙りの中には、ときどき稻妻のやうなものが光つてゐた。その閃光は熔岩と熔岩とがぶつかつて發するものだといふことを、去年の夏、彼は人から聞いてゐた。

 彼はその凄じい噴煙を見上げながら、丁度今の自分と同じやうにそれを見上げてゐた去年の夏のまだいかにも健康さうだつた自分の姿をひよつくり思ひ浮べた。さうしてそれに比較すると、今の自分の方がかへつて夢の中にでもゐるやうな氣がしてならなかつた。……

 もうヴエランダはうすら寒かつた。

 彼は客間にはいつて行きながら、こんな朝はもう煖爐を使ふのも惡くはないなと思つた。彼はこの別莊に來た時から、その客間の片隅に古い熔岩を組み合せてこしらへられてある山家らしい煖爐に目をつけ、それを一度使つて見たいと始終思つてゐたのである。それで、その朝、とうとう彼は女中に言ひつけて松の枝をどつさり持つて來させた。さうして自分で煖爐の前にしやがみ込みながら、それを焚きつけにかかつた。

 やつとその小枝に火が燃え移つて、ぱちぱちとそれが快活な音を立て出すと、叔母も自分の椅子をその火のそばに近づけた。

「さうして居るところは、あなたも隨分丈夫さうになつてね」叔母が云つた

「さうですか。──でも、もうかれこれ一年になるんですからね……ねえ、叔母さん、僕ね、去年二囘喀血したでせう。……最初の時は、どういふもんだか氣持がよかつたくらゐでしたよ。そりや何しろ生れて始めてなので、びつくりしたことはびつくりしたけれど、もうこのまま死んで行くのだと思つたら、かへつて落着いてしまつたのでせうね。……だけど、二度目のときはほんとに厭だつたなあ。──あの時はもう、ひよつとしたら助かるかも知れないといふ氣がしてゐたもんだから、かへつて慌ててしまつて、僕は無理矢理に咽喉から上げてくる血を半分ばかり飮み込んでしまつたんだからなあ。そのあとの氣持の惡いつたらなかつたし、醫者には叱られるし……僕はあの時くらゐ人間の生きようとする意志を醜く思つたことはないなあ……」彼は何時かひとりごとのやうに言ひつづけてゐた。が、ふと彼のそばに叔母が何だか煙つたさうな顏をしてゐるのに氣づくと、彼は強ひて口をつぐんだ。さうして一本のくすぶつてゐる小枝をいぢくつてゐたが、その樣子には何處か言ひたいことがどうしても言へないでそれをもどかしさうにしてゐるやうなところがあつた。恐らく彼は叔母に向つてかう言ひたかつたのかも知れない。……「叔母さん、そんなに僕が生きてゐればいいと思ひますの?」……

 さうして二人はそのまましばらく默つてゐた。

 そのうちにさつと何かが木の葉の上に降つてくる音がし出した。それは乾いた雨のやうな音だつた。

「淺間の灰かな?……」叔母はさうつぶやくと、そつと立上つて窓ぎはへ寄つて行つた。

底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房

   1982(昭和57)年528日初版第1刷発行

初出:「改造 第十三巻第十二号」

   1931(昭和6)年12月号

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「恢復期」(入力:kompass、校正:染川隆俊)

入力:大沢たかお

校正:岡村和彦

2012年930日作成

2012年1219日修正

青空文庫作成ファイル:

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