乾山の陶器
北大路魯山人



 一口に乾山と言えば、乾山の陶器を想い出すのが世間の通例である。乾山について絵画の天才を想起する者は、大部分玄人筋であると言える。能書乾山を識り、乾山の能書を叫ぶものは通の通である。

 乾山が光琳の弟であることは、乾山の優れた資質を知らぬ者に、なにかしらん安心を与えている。

 確かに光琳の方が乾山より有名である。のみならず、光琳は芸術的価値から言っても、固より乾山に優れていること、論ずるまでもないように考えられている。要するに、乾山の存在は光琳に比して、甚だ淋しい。

 食器に絵を描くことに興味を持った乾山は、掛物の絵を描く光琳と比べて最初から割の悪い立場だった。しかし、今日では乾山もいつとなしに識者間には、しかと認められて、芸術上決して兄の光琳に劣るものとされていないが、それでも、一般からは光琳の方が、お馴染が深くて偉いと考えられている。

 私たちは頼山陽の書とその弟頼三樹の書を観るとき、いつも技術的には山陽の長所を認めはするが、人間味の表現に立ち至っては、三樹を採って尊しとするのが常だ。乾山の場合に於ても、これと同じようなことが言える。つまり、技巧的な玄人らしい腕前を持つ点において、兄の光琳を巨匠として感じはするが、光琳はどこまでも絵描きでござい、絵を描くのが商売であると作品の上に説明して、気品を漂わしつつ匠気を横溢させている(固より下品な匠気ではないが)。弟の乾山は、その表現に於て、絵を描いても、字を書いても、玄人らしき振舞いはなく、どこまでも素人くさい稚鈍さを失っていない。言わば垢抜けのしたような、しないような、至ったような至らぬような特徴を有するのが乾山である。

 それだけに人間味があって、匠気離れがあって、道楽画人を思わせるものが多い。光琳にはいたずらや戯れはないが、乾山はその時々の気分次第に任せて、いたずらもやれば、戯れてもみる飄逸さを作品の上に見せている。

 光琳は宗達に遠く、乾山は宗達に近い。宗達や乾山は艶の中に多量の寂を保有しているが、光琳はどこまでも華麗に了っている。私だけの考えを申すなら、乾山はおそらくものぐさな男で、ずいぶん気紛れ屋さんであったろう。そこがまた光琳よりは芸術的なのであろう。

 宗達も光琳もかなり精力絶倫であったことを思わせるだけの作品量、傑作、力作を遺しているが、乾山はそうでない。

 乾山はやきもの、すなわち陶器作者として有名であるが、その実、やきもの師のように土の仕事、泥の仕事はみずから手を下していないらしいのである。これは私の独断ではあるが、私は乾山を陶人として扱うことに賛成しがたい。なんとなれば、彼の作陶は意匠上の思いつき、あるいはそれに伴う絵や書はみずから手を下して在来陶器の意表に出で、乾山の前に乾山なしを誇ってよいのであるが、陶器として、肝心の土の仕事、即ち、器体の製作を、名もなき職工に命じ作らせていた矛盾が存するからである。

 木米の作陶は助手の久太という陶工が作ったように一部に伝えられているが、私の見るところではそんなことは断じてない。久太はどこまでも助手であって、木米の代作家ではなかった。

 木米の作品は書画に陶器に一貫した木米の表現が厳として存することを看取せずにはいられない。乾山の作陶は極めて稀な例として、自作を遺しているが、私の今日までに見た数多の大部分は、乾山の生命の通ってない単なる偶像に過ぎないものである。要するに乾山の作陶の殆どが乾山の自作ではなくて、乾山の下働きである職工たちの作ったものである。取りも直さず、乾山の作陶は、乾山と職工との合作と言ってよいのである。それ故に、乾山の絵画を土の上から除き、残る土の器体を眺めるとき、敢えて心眼あるほどの者でなくとも、容易になんの魅力もない屍に似た器体を発見し、自失するはずである。

 しかし、なんの魅力も有しない乾山の土器体も、ひとたび乾山の画筆が揮いかかると、たちまち一大美観を呈して、土も器体もあったものでなく、直ちに名作乾山陶と成り了ってしまうのが特色だ。

 乾山の陶器を見るたびに、もし乾山が土をいじっていたら……と思わずにはいられないのであるが、彼はそこまでの精力を欠いたのであろう。乾山の陶器は人も知る如く、楽焼角皿鉢のようなものが、最も多く遺されている。

 これは彼が絵を描くに都合のよい所から生まれ出でたものに違いないのである。扁平な長方皿、扁平な五寸から八寸ぐらいの角皿が乾山陶の多数を占めていることは、彼が得意とする画賛の略画が試みたかったからに違いない。

 乾山に有名な立田川の鉢、山吹の鉢などは、彼の作中異例に属する変り物であって彼の力作であり、且つ名作である。今日、世間が特に珍重するのは、決して無理ではない。

 私はこういう例を見ても、世間はよくものの価値を識っているものだと感心するのである。

 なんとなれば立田川、山吹の如きは全体の意匠も出来栄えもさることながら、器体(鉢)の縁の図に添ったぎざぎざ山道のようなヘラ使いや、絵模様の間隙にすかし穴を明けた技術は珍しくも乾山みずからの手をもって施しているからである。そこに恐ろしい魅力が生じて、そのことがたださえ味のある乾山の名画を、さらにさらに助けて、あっと人を感動せしめずには措かない美の表われをほしいままにするのである。

 仁清の陶器は繊細な意匠において断然頭角を表わしているが、乾山は大まかな筆不精なズバッとした優美な意匠において、空前絶後の腕前を発揮していると言えよう。

 乾山作白椿模様小鉢も、そういった乾山特有のズバリとした名意匠に加えて、乾山が持ち味の良色調を表わし、略画の真骨髄に徹し、労少なくして実に功の多い成果を収めていることは見逃せない。しからばこの作品、器体は如何と言うことがあるが、これは全部が職工であるとも乾山であるとも認めないのである。器体の大体は職工に挽かせ、上縁の山道と言おうか、半円形に刻まれた大小不同のデコボコ、このデコボコに乾山みずからのヘラ使いが窺われると私は見るのである。

 器体の大体が職工であることは一見してそれとわかることでもあるが、子細に言うなら、俗に言う底部の高台が通常の職工にありがちの平凡な、なんの面白味もゆかしさもない、言わば声のないものであることによって、それとわかるのである。思えば乾山の土不精はずいぶん罪なことをしたものだ。

 乾山は画人として立つべきであったのだ。兄が画人だから遠慮したと言うわけもなかろう。宗達や光琳のように、花鳥、山水、人物、なんでも描くとは行かなかったためばかりでもあるまい。

 私は乾山のためにこの点について弁護してみたいと思う。

「乾山は孔子のいわゆる芸に遊んだのだ」と、「従って俗欲がなかったのだ」と。

 光琳は世間にもて囃されると同時に、優れた画人として芸に働いたと見られるのである。知らず知らず職業画人となりすまして、天才に精力の輪をかけたとも見られるのである。

 そこへ行くと、乾山は腹の底から職業意識に働くことは出来なかった。どこまでも芸に遊んだ道楽者である。世間的に偉い者になろうとは願わなかったのであろう。だから絵も書も玄人くさくは陥らない。ここが乾山の値打ちのあるところで、洗練された光琳に見ることの出来ない持ち味を見せるのも、実はこの匠人気質に堕さなかった個性にある。

 それにしても、乾山がせっかく製陶に関係しながら、土に不徹底であったことを、やはり、私は惜しむ。

(昭和八年)

底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社

   1992(平成4)年510日初版発行

   2008(平成20)年112512刷発行

底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社

   1975(昭和50)年3月刊行

入力:門田裕志

校正:木下聡

2018年627日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。