味を知るもの鮮し
北大路魯山人



 食物はなんとしても「美味く」あって欲しい。美味くなくてはよろこびというものがない。美味いものを食うと、人間誰しも機嫌がよくなる。必ずニコニコする。これが健康をつくる源になっているようだ。

 美食を要求しているものは、口であるように思っているけれども、実は肉体の全部が連合して要求しているらしい。どうもそう考えられる。心というものも、その中の一員であって、常によろこびを理想としている。この心さえ楽しんでくれれば、他に少々間違いがあっても、打ち消されてしまうようである。

 カロリーだ、ビタミンだと言ってみても、人間成人して、自由を知った者は、必ずしも心のよろこびとしては受け取らない。まず自分の好きなもの、好む食物でなくては、いかに名高い食物であっても、充分の栄養にはならないであろう。だから、他人がいかに「美味い」と言っても、自分が好まなければ、なんの価値もないのである。

 他人が愛飲する酒の如きは、人によって天の美禄でもあり、百薬の長ともなるが、好まざる者には無価値である。煙草などもその一例であって、好まざる者には全くの無価値である。否、害毒となって健康をそこねるであろう。

 人間一生涯好きな物ばかりで、三度三度の食事を楽しんだら、誰しも文句はないはずである。にもかかわらず、大抵は欲する美食とは縁遠い雑物を食事として堪え忍んでいるというのが、実際の生活になっている。あるいは無神経なるが故に、無頓着に過ごしている。そのいずれかである。

 それも貧者であれば思うにまかせぬということもあろうが、相当の富者にして、食の自由を知らずじまいに過ごしている者があるのは、まことに気の毒のかぎりである。それにこういう人々には、決ってなんらかの持病があるのを見逃すわけにはいかない。

 とは言っても、孔子の言った如く、「人飲食せざるはし、く味を知るものすくなきなり」は事実である。「一国の王者といえども、位人臣を極めた者とて、美術を解し、食を弁ずる者はない」と、若い頃、豪語したことを覚えているが、大体、今でもその考え方は変っていない。

 世間、医薬に通暁する者、病後の療養に熱心な者は、数多く見受ける所であるが、目的を健康に置き、三度三度の食事の自由を高く叫び続けている者は容易に見当らない。ただもう世間並みに付和雷同し、個性なき食物、いわば家禽の如く宛てがい扶持に大事の一生をまかせているかである。自分の了見で好きなものを選択し、三度三度美味いもの食いをつづけることが理想的であるが、これを罪悪視し、ゼイタク者とし、甚だしきは異端者視し、自由食欲を許さない陋習をふしぎとしない風習をつづけているが、これは健康問題の上から深く考えて、食欲の自由を許すべきであろう。

 しかし、実際問題となると情けないが、なにを食いたい、なにが食べたいと考える人があったとしても、答えは不完全である。なんでも結構に終る。数多くの「美味い」ものに通暁する所が不充分であるためであろう。我々が常に「美味い」と賞美し、口にする食物は、あらまし考えるだけでも一千種もあろう。詳しく調べるならば、一万種にも及ぶはずである。ところが世間一般が常に口にするものは、せいぜい五十種か百種であろう。驚くべき無関心である。全家庭は大体偏食をつづけているようである。本来言うならば、近来流行している栄養医学に関係ある人々が、食物と料理に精通されるならば、試験管中に一層の命が加わり、栄養料理は美味くないなどという今日の悪罵はおのずと雲散霧消し、日本人の健康増進にと寄与することは疑うべくもない。

 とにかく、三度三度の食事は「美味く」なくては意義がない。しかし「美味い」にも段々があって、味覚の程度も、生得的にひとりひとり違っているから、無差別に断を下すわけにはいかない。年齢差という感覚の相違もあって、美味い、不味いは、一概に言ってのけるわけにはいかない。誰が美味いと言ったか、不味いと言ったか、その言った人により判断するより仕方がない。

 美術や食物の良否は、一様に誰にでも分るというわけにはいかないから、その辺注意深く考える必要がある。ことにみながやさしいと誤認している日本料理は、実はむずかしくて容易に究められるものではないから、従ってまた容易に料理し得るものでもない。家庭で日本料理を本気に日本料理でございとつくることは、現今人では、一部の茶人以外は不可能と言ってよい。ラジオ料理の先生も、聴講生も、いかにもレベルが違いすぎて、今のままでは処置のない存在に過ぎない。明治初年以後曲げられて来た日本料理は、もうそろそろここらで反省し、根本から了見を改むべきで、例えば、世上往々中毒事件を惹起している惨事の如きは、料理関係者の堕落が原因である。要は眼で見る色沢、鼻で嗅ぐ香気、口加減に見る味覚等により、善悪良否は判別されるものであるが、経験不充分な者、責任を敢えて感ぜざる者、全然無神経なる者、誠意無き者等によって、中毒原因の根本をつくっていると、私は見る者であって、食品原料を軽く取り扱う陋習を厳しく改めたいと念願している。

 しかし、食品原料の良否などに全然眼の利かないお役人の、形式的な取り締まりに委ねて安閑としている現状のつづくかぎりは、中毒事件の後を断つなどは望みなきものと見なければなるまい。この点、高級料理はまず安心である。原料の質に重きを、鮮度高きものに重きを置くからである。仕入れに当って、高い安いは本来無頓着であるからである。

 私は多年ラジオ料理にも注意深く耳を傾けつづけて来たが、その講師は男女ともに傾聴に価する講者を発見したことはない。いかなる家庭に育った人たちか、どんな料理経歴をもつ人々なるか、いずれもが低調な料理職人から学んだであろうことが、ほぼ察し得られるゆえに、生きた資材も、いらざる手間のために、味を損ね、料理学上無知のそしりを免れず、まことに噴飯に堪えないのが実情である。毎日のように栄養知識、経済知識を吹き込まれるが、私の言う料理は「美味く」なくてはならないという。この美味い料理の話に出会ったことはない。ことに「美の伴った料理」これは絶無と言ってよい。殺風景そのものである。要するに、識者がひとりとして「美」を知らないためであろう。

 もとより料理調度品に趣味を有し、眼の利くまでに研究を重ねた人の出現しない事実は、ふしぎとは言えない現状にある。

 よき食器、よき調度品はものを美味く食わす、これは昔から言うことである。大方は、この言葉を耳にしているはずであるが、実際に研究している傾向はない。惜しむべき傾向である。富者たると豊かならざる庶民たるとの区別はあっても、心に楽しむ料理に関心があるなら、それぞれ相応の工夫をもって心を楽しみに導くべく、美しく豊かに処置し得るものである。知ってはいるが、持つものを持たないから、それは無理だ、などという者の後を断たないということは、まことに残念である。

 品位好尚が高雅であれば、つくられるところの料理も、すべての出で立ちも、おのずと品位備わり、口に美味く、心に楽しく、完全に栄養の目的は達し得られるはずである。

 料理の先生も料理屋も、それぞれ段階があって、為す所、語る所の相違はあっても、事実となって現われる所は、いずれも美味そうに見える料理であって、真に美味い料理、それは稀に見る事実は別として、まず皆無と言ってよい。

 刺身の如き加工少なきものは、高級料理屋に見ることはできるが、様々に工夫され、素人をして、これはどうしてできたかに感動さすといったふうなものには、決して「美味い」料理はないのがふつうである。ところが、この「美味く」ない料理を見て興味を感じ、騙される風習もあって、虚偽の流行となり、真の味覚は宙に迷ってしまうのである。美食に恵まれたわが日本は、数千種類の美味なる魚介を持ち、数千の美菜を産している有難い国である。鮮度に注意すれば、化学調味料などに意を用いる必要はない。

 日本の山海は、美菜美魚に恵まれすぎている。この天来の持ち味を生かすか殺すかが、料理する者の責任であり、楽しみの種でもある。その昔、単なる大豆、得体が知れない芋、これらを生かして豆腐を発明し、美味くて安くて、日常食としても万人貴賤都鄙とひみな愛好するもの、蒟蒻こんにゃくをつくりあげた作家は、中国人にしても、日本人にしても、驚くべき創作家的料理人である。

 現今のように無闇に砂糖を投じ、ものの持ち味を殺し、いささかも顧みる所なき唯々慨歎するほかはない。欧米人をやたらに有難がり、一から十まで外人の所作事真似事風習は、心ある者をして顰蹙ひんしゅくせしめているが、洋食に砂糖気のないことには気付かないのか。日本人は、ライスカレー、シチュー、ソースまでみな甘くしてしまった。砂糖は劣食品を瞞着する秘密を持つことを知るべきである。いずれにしても、砂糖の乱用と化学調味料を無定見に用いることは、充分慎むべきことであろう。

(昭和三十三年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社

   1980(昭和55)年410日初版発行

   1995(平成7)年618日改版発行

   2008(平成20)年515日改版14刷発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2013年514日作成

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