数の子は音を食うもの
北大路魯山人



 お正月になると、大概の人は数の子を食う。私は正月でなくても、好物として、ふだんでもよろこんで食っている。なかなか美味うまいものだ。

 さて、どんな味があるかと言われてもちょっと困るが、とにかく美味い。しかし、考えてみると、数の子を歯の上に載せてパチパチプツプツと噛む、あの音の響きがよい。もし数の子からこの音の響きを取り除けたら、到底あの美味はなかろう。

 音が味を助けるとか、音響が味の重きをなしているものには、魚の卵などのほかに、海月くらげ木耳きくらげ、かき餅、煎餅せんべい沢庵たくあんなど。そのほか、音の響きがあるために美味いというものを数え上げたら切りがない。

 もともとたべものは、舌の上の味わいばかりで美味いとしているのではない。シャキシャキして美味いもの、グミグミしていることが佳いもの、シコシコして美味いもの、ネチネチして良いもの、カリカリして善なるもの、グニャグニャして旨いもの、モチモチまたボクボクして可なるもの、ザラザラしていて旨いもの、ネバネバするのが良いもの、シャリシャリして美味いもの、コリコリしたもの、弾力があって美味いもの、弾力のないためにうまいもの、柔らかくて善いもの悪いもの、硬くていもの悪いもの……ざっと考えても、以上のように触覚がたべものの美味さ不味さの大部分を支配しているものである。そういう意味において、数の子も口中に魚卵の弾丸のように炸裂さくれつする交響楽によって、数の子の真味を発揮しているのである。それゆえ、歯のわるい人には、これほどつまらないものはないだろう。

 数の子は他の魚とちがい、親にしんの胎中にいる時から、乾物を水でもどしたものとほぼ同じ硬さをもっていて、なまで食べてもパリパリ音を発するものである。このごろは冷蔵のおかげで生の数の子や、生を塩漬けしたものが都会にきて賞美され、料理屋なぞは、見た目が美しいところから、これを用いているが、味本位の美味さからいうと、一旦干ものにしたものを水でもどしてやわらかくして、昔からの仕来り通りの数の子にして食べるほうが美味い。

 干したものを水でもどしたほうが元の生より美味いというようなものは、海鼠なまことか、ふかのひれ、ある種のきのこ類などにその例を見るが、あまり多くある例ではない。

 数の子の親魚、すなわちにしんからしてそうであって、にしんの生は煮ても焼いてもさほど美味くないが、これを一旦四つ裂きにしたのを乾物にし、それをまた水でもどしてやわらかくし、その上、料理したものは立派に美食として取扱い得る力をもっている。

 にしん、棒だらなぞというものは、料理が不味いと感心しないものであるが、料理が適当に塩梅あんばいされると、堂々と美食家をよろこばすだけの特殊の美味さをもっている。にしんや棒だらを美味として食わないような美食家があるとしたら、それはにせものである。

 数の子を食うのに他の味を滲み込ませることは禁物だ。だから味噌漬けや粕漬けは、ほんとうに数の子の美味さを知る者は決してよろこばない。醤油に漬け込んでおくことも禁物だ。水にもどしてやわらかくなったものをよく洗い、適当の大きさに指先でほぐし、花がつおかまたは粉がつおのよいものを、少し余計目にかけて、その上に醤油をかけ、醤油があまり卵の中に滲み込まない中に食うのが、数の子を美味く食う一番の方法である。しかも、これが在来、世間でふつうに行われている方法である。これ以外、変った料理をしてみても、ただ目先が変っているというだけで、味覚に、これが美味いというようなものに出くわさない。

 生または塩漬けの数の子は、庖丁で斜めに薄く切ったものを、甘酢にしばらく漬けておいてもよいが、いや、そのほうがよいようでもあるが、干し数の子は、庖丁で切ると、どうも面白くないし、美味くもない。これはやはり指先でほぐしたものにかぎるようだ。

 数の子には、口中でパリパリ炸裂せず、型の如き音の響きを発せず、シコシコ、ニチャニチャして、少し渋味のあるようなものがあるが、それは卵が胎中において成熟していないのである。言わば臨月間際のものでなくて、妊娠五カ月六カ月程度の未熟なものである。このような成熟しないものは、いかに数の子といえども、不味いものである。

(昭和五年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社

   1980(昭和55)年410日初版発行

   1995(平成7)年618日改版発行

   2008(平成20)年515日改版14刷発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2012年87日作成

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