ザボンの実る木のもとに
室生犀星



 女のに就いて。

 女の童に就いて私はいつも限りないいとしい心の立ち帰ることを感じます。

 女の童についておもひ出すことは大きな新緑のかたまりのやうなあたらしさであります。

 女の童といろいろな無邪気なものがたりなぞをして遊んだあとは、音楽会から帰つたあとのやうな優しいものを感じます。

 女の童は私どもの左の手が自然にその垂り髪を撫でるに都合のよい三尺から四尺の童をよろしとします。


 いつも遊び友達を離れてゐるやうな女の童に詩に見るやうなさびしい瞳を持つた子がをります。

 山の手あたりの日ぐれ時なぞに通りすがりに色白な女の童の、なにか知らひとりであそんでゐるのを見ます。非常に鮮かな美しさを感じます。それを生んだものがつくづく人間であることがふしぎに思はれます。

 女の童については美しい菓子をたべるやうな心で眺められるのであります。

 日曜の朝なぞは女の子らはよくうたを歌ひます。それが知らないよその子であつても日曜の午前らしいすがすがしい気分こころもちをあたへられます。

 ネルのきものを着る季節は女の子のいちばん匂ひのするときであります。

 二本の素足が冷たさうに涼しく見えます。それが新緑頃のしめつた土に浮いて見えます。


 ふぢ子はよい子でありました。晴れた春あさい日によく大学通りを一緒に散歩をしました。軒なみにつづいてゐる古本屋を一軒一軒素見ひやかして宗教物ばかりをあつめてゐたころで、中中よみたいものが見つからなかつたのです。

「なぜ買はないの。」

 しまひにふぢ子はこんなことを言ひました。

「あなたはいつもちやんとお坐りしてるのね。え、いつでもよお母さん。こんなにしてお机に向つてゐるわ。」

 ふぢ子は母親の前で私がいつも坐つて読んだり書いたりしてゐる真似をしました。


 ふぢ子は頸のほそい皮膚のよわい子でありました。その頸のほそいのがいかにも貴族的な香気をあたへました。

 ふぢ子はいたづらをしたものか母親から叱られて甘えるやうなこゑでええんええんと忍びなきをしてゐるのを私は机にもたれて永い間楽しみながら聴いてゐることがありました。艶つぽい柔らかな惨忍なやうな美しさが私をよく喜ばしめました。ひまなときは此の女の子の泣くのを楽しみにしてゐたが中中泣かない子でもありました。

 午後になると門のところまで出て彼女のかへるのを待つのでありました。彼女は学校からかへると私の室へ必ずいちどはきれいな顔を出しました。

「をぢさん唯今。」

 と言ひます。

「おかへり。おさらひをしたら動物園へ行こう。」

 それを彼女は子供らしく堪らなく喜んで一時間ばかりお復習さらひをするのであります。


「うをのぞき」で彼女は甚だしく金魚を喜びます、あかい袖ひれを泳がしてゐるものを私は永い間眺めました。

 彼女はやはりどこまでも女性的な小さいものが好でありました。小鳥やモルモツトや兎がすきで虎はこはいと言つて檻のそばへ近づきもしませんでした。

「わたしうさぎすきだわ。」

 と言つてモルモツトの群の中に美しい眼をもつたうさぎを彼女はちひさな唇をとがらして幾度も呼びました。うさぎうさぎで此の小さな女の子の手にあまる菓子やくだものとふぢ子の顔とを等分に見くらべて白い耳をぴんぴんさせました。

「もう帰りませう。」

「え。もう帰りませう。」

 とおとなのやうに口真似をして動物園を出るのであります。春あさい桜の並木がすこし離れて見ると何処かにあからみを持つて来ました。ふぢ子はマントの天鵞絨ビロードの襟の上にれいのほそい頸をすこしばかり見せてゐます。

「今月はもうふぢ子さんも国へかへるんだね。まだ日がわからないのかね。」

「え。わかつたらをぢさんに知らせるわ。わたし田舎は厭なんだけど。」

「田舎へ行つたらおとなしくするんですね。ハガキをくれるね、ふぢ子さんは。」

「いろんなおもしろいことを書いて上げるわ。きつとよ。」

「ぢや指きりをしませう。」

「指きりつてなあに。」

「約束をまちがへないつて証拠だよ。」

「をかしいのね。」

 私は少年こどものときを思ひ出して彼女の小指と私の小指を輪に組んで三度振るのでありました。これは間違ひない誓ひのあかしであるのであります。


 晩は彼女は早くねました。私の室から三間ばかり離れてゐます。私は彼女の母親としんみり話をしないうちに彼女と友達になつたのであります。


 門からすこし出たところに根津八重垣町一帯の谷そこへ下る坂がありました。夕日が本郷高台一円の空を金色にそめてゐるのを私はよく見に出ました。高等学校の時計塔が見えてゐます。坂はなめらかなけいしやで街へつづいて居り街には灯が入つて豆腐売や夕暮のもの騒がしい景色を点出してゐます。

 ふぢ子は坂の下から上つて来ました。

「何処へ行つて来たの。」

「本屋へ。」

 彼女はうれしさうに息をせいせいついて『少女世界』を見せました。母親からおあしをもらつて買つて来たのでありました。なんといふ嬉しさうな顔であらう。私も一緒に宿の方へかへつて行きました。

「根津へ電車が通るやうになるのね。わたし田舎へ行つてゐる間に出来るか知ら。」

 彼女はさびしさうに言ひます。

「こんどふぢ子さんが東京へかへるころには出来ますよ。さうすりや何処へでもすぐ行けるからいいね。」

「あなた、それまであそこんちにゐて。」

「わからないけど越したら国へ知らせるから。」

「越しちやつまらないわね。」

 彼女の母親はその主人を迎へに此の子をつれて遠い鹿児島へかへるのであります。この子に去られてしまつてから私のあとの生活を考へると私は無性に淋しくなるのであります。凶徒ジヤン・バルジヤンが一人の可愛い少女コセツトをわが児のやうに恋人のやうに愛してゐたことを思ひ出したのであります。彼が警吏に絶えず追ひつめられてゐる間も此コセツトを愛したのであります。警吏の包囲をのがれるために尼寺の塀を乗り越えて小さなコセツトを縄で塀の上から吊り上げて逃げ去ることなぞをもはしなく思ひ出されたのであります。

 私がふぢ子を愛するのはジヤン・バルジヤンの愛のやうなものであります。


 ふぢ子の容貌はきれいでよい瞳をもつた此れまで私のなじんだことのない尊い多くのものをもつてゐました。ぱつとした明るい顔であります。

「いつもふぢ子がお世話になります。御挨拶をしようと思ひながらつい失礼しました。」

「いえ。私こそ。」

 私は彼女の母親にあふとあまり饒舌しやべれなくなるのであります。

「いつころお国へお発ちになりますか。ぜひお送りしたく思ひますから。」

「いえ。お見送なぞ恐れ入ります。此月末には発ちたいと思ひます。おたより下さいまし。」

 彼女の母親は若いなりの高い美しい夫人でありました。ことに鼻立ちが極めて美しく高かつたのであります。

「たよりは是非します。こんどいつごろ御帰京になります。」

「主人の仕事の都合もありますので判りませんが一年ばかり田舎に居ようと思ひますの。」

 ふぢ子は、田舎へ帰ることがすつかり決つたやうな顔をして母親の陰ですこしでも此等の話を聞き漏らすまいと大きな悲しさうな眼で私を眺めてゐます。

「あなた方がおかへりになると寂しくなりますね。」

「私どももやはりうですよ。をぢさんにご厄介やつかいになつたんだからよく御礼をおつしやいよ。」

 とふぢ子に言ふとふぢ子はにこにこしてゐました。しんみりした晩がもう宵のほどをだいぶ過ぎました。


「鹿児島はちつとも雪が降らないわ。温かく大きなボンタンが実つてよ。きいろくてこんな大きなのがあるわ。」

 彼女はその大きさを手で示します。

「おうちのうしろに蜜柑なんかいつぱい実つてゐて私だつて採れるのよ。」

「ぢや帰るのがうれしいんですね。」

「でも蜜柑なんかなつてから……でなきや行きたくないの。」

 この子の頭からだんだん東京が離れて行く。それを私は当然のやうに思ひながら淋しい堪へがたい心になるのであります。

「おとうさんに言つて蜜柑を送つて上げるわ。」

「ほんたう。」

「きつとよ。おとうさんは私のいふことはなんだつて聞くのよ。」

「では僕は本を送つてあげませう。」

「送つて頂戴。」

 私はこの小さい女の子の手をもてあそびながらまともに此の子の眼を見るに堪へない気になりました。自らの生活をも考へなければならない私にとつて此の子の容貌や言葉は私の貴い慰安以上でありました。


 別れる時が来ました。別れてから半年ばかり経つてから此の子は腸に病を得て亡くなつたのであります。


ボンタン実る樹のしたにねむるべし

ボンタン思へば涙は走る

ボンタン遠い鹿児島で死にやつた

ボンタン九歳ここのつ

ひとみは真珠

ボンタン万人に可愛がられ

らりるれろ

いろはにほへらりるれろ

ああ、らりるれろ

十歳で死にました

可愛いその手も遠いところへ

天のははびとたづねゆかれた

そなたのをぢさん

そなたたづねてすずめのお宿

ふぢこ来ませんか

ふぢこ居りませんか。


 此れは田舎の雑誌にかいた悼詩の一章であります。彼女の気にかかつた根津の通りにもう電車が通るやうになりさう。彼女が送つてやると言つた蜜柑だの大きなザボンだのは、遠い鹿児島の父君から私の宿に送られて来ました。まことに彼女を失つてからう三年の春がめぐつて来たのであります。

底本:「日本の名随筆 別巻59 感動」作品社

   1996(平成8)年125日第1刷発行

底本の親本:「室生犀星全集 第一巻」新潮社

   1964(昭和39)年3

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2012年1215日作成

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