歳棚に祭る神
柳田國男



歳棚に祭る神


 いわゆる三が日の本当の正月に対して、十五日を小正月と呼ぶ地方は多い。或は一方の年越を大年といい、小正月を特に若年という場処もある。そうして若木若餅の如くワカの名のつく行事が却って多くはこの方に伴なうのである。また小正月にも三が日五が日を算える例がある。十四日から二十日の骨正月までを、注連の内とした痕跡もある。十六日などは殊に大切な日であった。だから現在の松の内を、後に定まったもので無いかと思うのである。

 盆と正月と、一年を二季に分けながら、片方は六か月半、他は五か月半で節季の来るのも変ではあるまいか。その癖盆と正月には今でも一対の儀式が色々ある。盆礼と称して袴をはいて廻礼するのは、必ずしも仏様を拝みに来るので無かった。踊とか綱引とかは現在は遊戯だが、それでもまだ方式が守られている。それが盆に行う土地と正月の十五日にするものとが入交っているのである。春と秋との最初の満月ということが、恐らくはこの共通を見る理由だろうと思う。そういう中にも殊によく似ているのは盆の精霊棚と正月の年神棚との飾り方で、家の者がこれに仕える手続きから、特定の植物を採って来て結び付ける点まで一致している。もちろん現在は一方を福の神の御座の如く、他を御先祖の陰気な霊を迎えるものに解しては居るが、これは秋の祭だけを僧侶に指導させた結果であって、盆という語が採用せられてから変ったのである。盆は仏教に説く所では寺に供物を送ることだ。ゆえにもし盆の儀式がこの名前と共に始まったとすれば、手本があるわけだが実は日本の自己流である。

 何か必ず隠れたる理由があることと思うのは、盆でも正月でもその臨時の棚の一隅に、ミタマサマヘの供物として別に三角に結んだ十二の飯を上げることである。

 ミタマは精霊のことでなければならぬのだが盆の方では既に主賓を家の仏様としているから、これを餓鬼だの三界万霊だのと名づけて、招かざる御相伴の食客の如くいう地方が多い。それでは年神棚のミタマの方が一段と説明が付かなくなる。そこで全体一年に二度ずつ、昔から家々を訪ねて来た神様は、たれかという間題が起って来る。福の神かと思うと夷大黒の祭は別にする。歳徳神と名づけて弁天様の如き、美しい女神を想像する者もあるが、古風な東北の田舎などで、正月様と称して迎えたのは、高砂の能に出るような老男と老女で、左義長の煙に乗って還って行く姿が見えるなどともいった。暮の寒い風がぼうぼうと吹くころに、

正月様どこまで

何とか山の下まで

などと待ち兼ねて子供たちが歌っていたのは、やはり家々の元祖の神霊であって、それが無数のミタマサマを引率して、著しい季節のかわり目には我々の家庭に新たなる精力を運び込むものと、昔の人たちは考えていたらしいのである。


年男


 だから春を迎えるという家々の準備には、一通りならぬ謹慎があった。衣服も食物も共に皆晴れのものを用い、言語挙動までも清浄を専らとしたのは、決して縁喜という類の幼稚なる論理からでない。祭主は当然に家長の役であったが、家にも一国と同じく祭政分離の必要があって、優良なる若者の中から年男が選定せられることになった。年男の権限は土地によって広狭がある。それを比較して見ると新年の事務の何であったかがわかる。東京などでは豆をまくのが年男のように思っており、堅い家風の家でも、新しい手桶に若水を汲むまでを年男の役にしているだけだが、信州越後その他の村では、中々容易でない骨折である。注連の内を通じて、または少なくとも改まった食事だけは、女に調理させぬところがある。七草や十五日の小豆粥だけは、男がこしらえるに定まっている家もある。それを神々と松飾りに供えるのは、いうまでも無く年男の任務で、そのために度々水を使ってこの寒いのに身を潔めなければならぬ。それから十五日を中心とした色々の儀式、例えば胡桃焼の年占でも、蛭の口焼、蚊の口焼、鳥追ムグラ打、なるかならぬかなろうと申しますに至るまで、何人が行うも随意というものは一つもなかつた。ただその方式が如何にもまじめ過ぎる故、新しい青年は次第にこれをいやがりいつとなく年少の者に役目を譲るようになって、そうすると遊びの気持が多くなり、最初の趣意が隠れたのである。豆まきの如きも追々に変化はしたが、二人づれで行う風がまだ方々に残っている。その一人は是非とも女であって、杓子を持って御もっとも御もっともと、はやしながらあとから付いて行く処もある。十五日の粥食わせなども一人が果樹の後の方に立っていて、なろうと申しますという例もあれば、なりますなりますと木に代って答えるのもある。これらは何れも曾て年男の助手として、万歳でいうならば才蔵、あるいはまた年女とも名づくべきものの、必要な時代があったことを思わしめるものであるまいか。


御松迎え


 年男の任務の特に重要なるものの一つは、山に入って松の木を伐って来ることである。その松は我々のいう門松にも立てるのだが、これを選定するのに方角その他の条件があるのみならず普通にはこれをお松様といって、立てぬ前に約一昼夜、清い場所に安置して神酒などを供える。門松を一種門前の装飾の如く考えるに至ったのは変化である。地方の家々では独り門前に限らず、納屋、馬屋の入口と台所、殊に年神の棚に結び付けるのを大切とし、時としては年棚を造らずして木を立ててそれを祭壇とする地方もある。略式で無いものは必ず心木の三階松で、これにも節の食物は必ず供えるのを見ると御松様を迎えるといったのには意味があった。即ち本来は正月の神様が木によって代表せられ、これを目に見えぬ霊の宿りと考えたものらしいのである。そうすると盆の魂棚に必ずキキョウ、女郎花等を立てること、これを盆花と称して定まった日に野に出て採って来る習わしがあるのも、同じくまたこの日の神を迎え申す方式であったと見られる。

 門松を門神柱と呼んでいる土地もある。また門松といいつつ松で無い木を立てる例も多い。それから必ずしもその数は二木で無く、また偶数とも限っていない。だから妹背の門松といい、緑の常磐にあやかるなどというのも、有りようは都近くの詩か空想かであって、残るところは春の神を歓迎する祭が、必ず恭謹して山の木を伐って来ることであったというのみである。小正月の三日ほど前には、若木迎えと称して今一度、山から特に伐って来る地方もある。この場合には通例は松ではない。というわけは、この木には餅を付けて、飾り立てねばならなかったからである。ヤナギとかエノキとか色々の闊葉樹がこのためには用いられた。その様式にも段々の異同があって、詳しく比較をすると新たに色々の事が考えられるのだが、只今はまだ材料が揃わぬ。要するに金のなる木などの空想のもとで、米雑穀は無論のこと、繭でも綿でもこれ位取れるようにと、春の始めに神様と相談して、一通りの計画を立てて置くのだから、その木もまた尋常のものとして、取扱われていなかったのは当然である。

底本:「日本の名随筆17 春」作品社

   1984(昭和59)年325日第1刷発行

   1997(平成9)年220日第20刷発行

底本の親本:「定本柳田國男全集 第十三巻(新装版)」筑摩書房

   1969(昭和44)年6

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2012年1226日作成

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