四つの都
織田作之助



『四つの都』の起案より脱稿まで


『四つの都』は川島雄三氏の第一回演出作品であるが、同時に私にとっても第一回シナリオである。更に言うならば、川島氏も私も共に大正生れである。つまりお互いの感受性、物の考え方に世代的な共通点を持っているのだ。『四つの都』にいくらか新しい意義があるとすれば、この二つの点ではなかろうかと私は考えている。

 私は小説家である。小説家がシナリオを書くという例しは、最近は稀である。私自身もシナリオを依頼されようとは殆んど考えたことはなかった。それ故、大船撮影所企画部の海老原氏より、川島氏の第一回作品のシナリオを書いてくれまいかという話があった時、私は正直なところ驚いた。海老原氏が川島氏とそれから同じく新人演出家の池田浩郎氏と一緒に来阪されて、四人で語り合い、具体的な注文を伺ったが、それは、私の「清楚」という新聞小説(大阪新聞に連載した)を映画化する計画があるが、条件として原作者の私自身の手でシナリオ化してほしい、それがいやなら、新しくオリジナル・シナリオを書いてほしい、という注文だった。つまり、是が非でもシナリオを一本書くべしというのっぴきならぬ命令である。いわば私は見込まれたのである。私はことの意外に驚きながら、見込まれた理由を訊してみた。第一回演出作品に素人のシナリオを選ぶことは冒険に過ぎやしないだろうか、それに私のシナリオ・ライタとしての適不適も未知数(かつて溝口氏のために「わが町」のストーリを書いたことはあるにせよ)であるし、恐らく大船の内部でも異論はあるのではなかろうかと。

 ところが訊いてみると、私の小説には映画的な話術と感覚があるらしいのだ。だから、シナリオも書けないことはあるまいとのおだてであった。なるほどそう言われてみれば、かつて親友杉山平一君より、君のあの小説のあそこはシナリオだねといわれたこともあったっけと、私はあっという間にこのおだてに乗ってしまった。私はその場で答えた。書いてみましょう、しかし「清楚」一本では映画にならないかも知れないと。

 ところが、おかしいことに大映、東宝からも同じように「清楚」の映画化の話があり、「清楚」は映画化にならないという私の考えは間違っていたらしかった。果して脱稿したシナリオ『四つの都』には「清楚」の話が六分ノ一はいったという結果になった。さて、「清楚」の話とは何か。簡単にいえば、若い帰還軍医中尉の帰還直後一週間の行動である。私はこの青年を借りて、銃後を明るくさせるほぼ理想的な現代の青年の一つの型を示してみた。ひとは彼を見て、微笑してほしいと私は希望している。微笑は叡智の表現である。私はこの青年の知性というものを、いわゆる知性的な言動を一切描かぬということによって逆説的に表現してみようと思った。

 さて、残る六分ノ五には何がはいっているか。まず『新潮』三月号に発表した拙作「木の都」が背景としてはいっているのを、人は認めるだろう。この小説で私は自分の少年時代及び青春時代の回想の額縁の中にとらえた名曲堂という古レコード店一家を、そこの息子の少年工(はじめは新聞配達)を中心に描いたのだが、『四つの都』ではこの小説の名曲堂の話は殆んどそのままとり入れられている。そしてこの場合、シナリオの方では名曲堂という商売柄音楽がやや重要な位置を占める。その代り、小説に登場した「私」は全然影を消し、代って、「雨男」という人物が登場する。この「雨男」とは彼が画面に現れると、必ず雨が降るという人物で、私が最も傾倒したのはこの人物である。次に「木の都」に於ける私の青春の回想は映画では表現不可能のものであるが、わずかにこの映画に濃厚な地理的性格を与えることによって、いくらかそれを残してみた。

 私はまず集中的に一つの(私好みの)大阪の町を語った。いわば物語は時間によって進行せず、町の地理を辿ることによって進行するといっても良いかも知れない。次に私は、大阪(町)、京都、奈良、神戸という四つの都会を描いてみた。そして、この四つの都会のつながりは、一人の女性の勤労への挺身によって完結するのだが、私はこの四つの都会のうち少くとも三つの表現に、それぞれ今までの映画には無かった(と思っている)手法を使おうと苦心した。単なる思いつきに過ぎぬかも知れないが、しかし、私は演出の川島氏が私のはかない思いつきにふくらみを与えてくれるものと、期待している。私は氏の才能を信じている。

 さりげなく自作を語ることはむつかしい。私は自作の味噌をだらしなく並べ立ててしまったが、以上、『四つの都』とその原作との関係を述べて「起案から脱稿まで」という与えられた題に答えたことにする。

 因みに、脱稿後このシナリオを読んだ人の意見をまた聞きしたところでは、やはり素人はだめだねということであったらしい。しかし、私は今後もシナリオを書きつづけて行くつもりである。何故なら、私はすくなくとも私のシナリオが良くも悪しくも、在来のシナリオ常識からはみ出した変梃なものを持っていることだけは、信じているからである。そして、この変梃なものを追究することが、私は私なりにたのしいのである。私はそこでは、小説を書く時にはなかったたのしさを感じている。ただ小説家としての目下の感想をいえば、小説とちがって、シナリオの形式で人物を彫り下げることは実に困難な仕事だということを痛感している。今後の映画の問題はここにあるのではないかと、私は思っている。いや、そう信じている。その問題の解決に努力したいと思う。


四つの都


松竹映画大船作品
演出 川島雄三

人物──

中瀬古庄造
庄平
寿子
矢野鶴三
葉子
新吉
健介
小谷初枝
辻節子
尾形清子
蜂谷十吉
夜店出しのおっさん
船山上等兵
江藤医学士
大雅堂主人
標札屋の老人
他に、国民学校訓導、看護婦、子供達。

時──現代


大阪は木のない都である。しかし例えば、晴れた日に下寺町附近に立って、北より順に高津の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台を仰げば、そこには何百年も前からの静けさをしんと底に湛えた鬱蒼たる緑が白昼の眼を奪うのである。そして、これらの高台の町は当然それ〴〵の趣きに富んだ坂を幾つか持っているが、これらの坂もまた緑の中を縫うて登っているのである。例えば夕陽丘の口縄(クチナワと読む)坂がそれである。夕陽丘は名の如く静かな少女好みの町であるが、さすがにその附近一帯の町は、大阪の下町的な匂いも持っている。さて、口縄坂とはくちなわ(蛇)坂とでもいうべきであろう。口縄坂は緑の木木の中を蛇の如く縫うて登る細長い石段の坂である。この物語はまずこの口縄坂から始まる。


一 口縄坂。

カメラは坂下からじっと見上げているが、坂には誰もいない。しんとした寂しい黄昏が木木の緑に吸い込まれている。

やがて、坂下の通りから遠い唄声が聞えて来る。

福島少佐シベリヤ行の歌だ。

ひとふた日は晴れたれど

三日四日五日は雨に風」

唄声はだん〳〵近づいて来る。やがて、唄の主の、新聞配達の少年、新吉が石段を登って行く。

「道の悪しさに乗る駒も

踏みわずらいて野路病」

登って行く新吉の眼に、坂の上の露地で少年達が胴乗り遊び(馬飛びともいう)をしているのが見える。途端に、新吉は胴乗りの調子を真似て、一度に三段、石段を飛び登ろうとする。その拍子に倒れて、膝をしたゝか打って擦り剥く。

新吉、半泣きの顔で歯をくいしばっている。が、急に平気な顔を装って起ち上ろうとする。

小谷初枝と尾形清子の両訓導が急いで坂を登って来る姿を見つけたからだ。しかし、新吉がこの二人を見つけるより早く、二人は新吉を見つけていた。しかもその倒れた姿を。

新吉「あ、先生……」

あとの「……お帰り…」は、口の中でもぐ〳〵言って、頭をピョコンと下げる。姿勢を正すと、苦痛が一層こたえる。

初枝「痛む? 見せてごらん、擦りむいたんでしょう?」

新吉はなぜか狼狽する。怪我をしたのを知られるのが怖いかのようである。

しかし、清子はあっという間に、新吉の足もとにしゃがんで、膝小僧の傷を見る。

新吉はと見れば──

新吉は棒のように突っ立って、胴乗り遊びの方を見ている。新吉にはふと遠い眺めである。そして新吉は、清子の「小谷先生、ヨードチンキあって?」という言葉を聴いている。ヨードチンキは渡されたらしい。初枝が「しむから我慢しなさい」と言っている。

新吉「はい」

答えたものゝ確かにしむ。痛い、涙がにじんで来たらしい。その証拠に胴乗り遊びが霞んで見える。その遊びの動作もなにか急に鈍くゆるやかになって見える。繃帯が捲かれている。

新吉「先生、お父っちゃんに僕が怪我したこと言わんようにして下さい」

清子「どうして……?」

新吉「僕、あした名古屋の工場へ働きに行くんです、怪我したと判ったら、お父っちゃん余計心配しますさかい」

新吉ペコンと頭を下げて、

新吉「おおけに、さいなら」

と、言ったかと思うと、石段を登って行く。ビッコを引きながら。新吉が胴乗り遊びの処まで来た時、馬の胴になって、背中にばかに肥った子供を乗せてフウフウ言っていた一人の子供が、半分四つ這いの姿勢のまゝ、ひょいと横眼を使ったとたんに石段を登って来る初枝、清子両先生の姿を斜めの視線の中にとらえる。

子供「あ、先生や」

そう叫んで、起ち上って挨拶しようとした拍子に、馬全体がくずれてしまって、上に乗っている者が倒れ、胴の者はその下敷になる。

混乱。

新吉はこの混乱をよそに、坂上の露地の家々へ、新聞を投げ込みながら、露地を抜けると、通りへ折れて、黄昏の中へ姿を消す。その後ろ姿の痛々しいが、しかし、どこか活々した感じ!

犬の声がする。新吉が吠えられたのであろう。露地の向うの通りを、夜店出しが荷車をひいて通る。

やがて、露地の角を初枝と清子が新吉と反対の方へ折れて行く。

その二人の後を追うて、あわてゝ折れて行く男がある。

蜂谷十吉だ。新聞記者だが、新聞記者らしくない。たとえば鳥打帽など被っていず、無帽である。その代り蝙蝠傘を持っている。この男、年齢がない。本当は若いのだろうが。どこか瓢々とした感じ!


二 道。

片側が崩れた塀になっている夕陽丘の寂しい道を、初枝と清子が話しながら歩いている。

清子「私、もしかしたら、学校よすかも知れないの」

初枝「どうして? 結婚なさるの、それとも……?」

初枝がそう言った時、突然十吉が後から声を掛ける。

十吉「それとも、どっかへ行ってしまうんですか」

十吉の清子への傾倒ぶりを薄々知っている初枝は微笑するが、清子は眼をけわしくする。

清子「まあ、蜂谷さん……驚いたわ、いきなり物を言ったりして。尾行して来たのね。探偵や新聞記者みたいな真似するの、およしなさい」

十吉(厳粛に、しかし稍や悲しそうに)「処が、僕は新聞記者なんだ」

初枝、おかしさをこらえるのに、苦労する。

清子(平然と)「新聞記者にもピンからキリまであるわ」

十吉「勿論、僕はそのピンの方だ」

初枝「私、お先きに……」

清子「あら、困るわ、先きに帰られちゃ」

初枝を止める。

十吉「尾行する積りはなかったんだが、学校へ行ってみたら、今お帰りになったというんで、慌てゝ後を……。実は、あんたの今の話で、一寸聞いて置きたい事があってね」

清子「あなたには相談しないわ」

十吉「じゃ、誰に相談するんです」

清子「私は天に相談するわ」

十吉「天? 天は雨を降らすだけだ」

というと、突然、雨が降りだして来る。

初枝「あら、本当だわ、降って来たわ」

三人塀のかげへ雨を避ける。

清子「あなたに会うと、例外なしに雨が降るのね」

十吉だまって、持っていた蝙蝠傘を渡して雨の中を濡れて去る。寂しい後ろ姿。清子、その傘をひろげる。初枝その中へはいる。

初枝(見送って)「あの方、どうしてあんな髭なんか生やしてるのでしょう、お兄様のお友達だから、まだ二十代なんでしょう?」

清子「兄が南方で戦死して、あたし一人ぽっちになったでしょう、それでもって私のこと心配して、あなたは天涯孤独だからといって、慰めたり励ましたりして下さるんだけど……。あの人の顔見るとかえってこっちが悲しくなるわ。だから、顔見るときつく当りたくなるの。きっとあの髭のせいかも知れないわ。若い癖にあんな髭なんか生やして……。それに、あの人が来ると、きっと雨が降るのよ」


三 口縄坂の坂上。

胴乗り遊びをしていた子供達は、雨がきつくなったので、たまりかねて四方へ散らばる。


四 町。

新吉が雨の中を、新聞を配って一心に走っている。ここは、道が碁盤の目のように細かく分れているので、新吉はこの町角を右へ折れ、次の町角を左へ折れ、第三の町角を右へ折れ……など実に忙しい想いをしなければならない。

そして、やっと自分の住んでいる町へ来る。

薬局があり、銭湯があり、大衆食堂があり、産婆があり、本屋があり、歯医者があり、煙草屋があり、寄席があり、ラジオ屋があり、標札屋があり、古道具屋のある町である。露地の多い町で、例えば標札屋と、ラジオ屋を二軒中にはさんで、凹の字に通ずる露地がある。──その凹の露地の一方の入口へはいった新吉は、新聞を露地の家々へ配って、あっという間に、別の入口から──出て来たところは、矢野名曲堂の表である。(自分の家だ)新吉が家の前で繃帯をとっていると、夜店出しのおっさんが、車を曳いて帰ってくる。

新吉「おっさん、もう帰りか? えらい早かったなァ」

夜店出し「早かったどころかいな。今日は休みや。場割りが済んで、さあ店を張ろうとおもたら、降って来やがったさかい……夜店出しもこう雨が多かったら、さっぱりバイにならんわ」

夜店出し、露地の中へ入ってゆく。

新吉、繃帯をとり終って、家の中へ這入る。

途端に店の中の音楽が聴える。


五 矢野名曲堂。

古い名曲レコードの売買や交換をしているこぢんまりした店である。ベートーヴェンのデス・マスクの他に船のウキが壁に掛っているのが印象的である。

客が音楽をきいているので、新吉は口を利くのを憚って、黙ってこそ〳〵と奥へはいる。ビッコの気味。

鶴三も、黙って「お帰り」は眼で言っている。

音楽(第五交響楽)がやんだので、鶴三は、はじめて声を掛ける。

鶴三「新坊、怪我したんじゃねえか」

新吉(振り向いて)「うゝん、せえせん」

そして、こそこそ奥へはいる。

鶴三「それならいゝが。明日は名古屋の工場へ行くんだ。どこも痛い所のないようにして行かなくっちゃ働けねえぞ」

客は始めて口を利く。客というのは蜂谷十吉だ。

十吉「葉子ちゃん、今日はなぜ雨が降ってるか、知ってるかい」

葉子「誰かゞ来てるさかいやわ」

十吉「誰かって、誰だい?」

葉子(指して)「あんた

十吉(平気な顔をして)「文久三年に品川沖でアンタという名の鯨がとれた事がある、こんな髭を生やしとった」(と鼻の下を指す)

葉子「嘘ばっかし」

奥へ去る。

鶴三「鯨といえば、わたしが欧洲航路の船乗りをしていた時に印度〔インド〕洋で……」

十吉「あんたは、船の話しかしないんだね、昔の夢だよ」

鶴三(レコードを外してブラシを掛けながら奥へ声をかける)「新坊、銭湯へ行って来な」


六 名曲堂の奥座敷。

新吉が縁側で小鳥に餌をやっている。

鶴三の声「濡れた儘で居るんじゃねえぞ」

新吉(ぼそんとした声で)「うん」

葉子、着更えを持って新吉の傍へ来る。

葉子「さあ、これを着更え」

新吉(ひとり言のように)「もう明日から餌やられへんな」

葉子「心配せんでも姉ちゃんがやったげる、さあ、はよ着更えんと風邪ひくし」


七 汽車の中。

鶴三「風邪を引くんじゃねえぞ」

と、新吉に言いきかせている。新吉頷く。

鶴三「一日休めば一日増産が遅れる、工場へはいって風邪で休んだといっても父っちゃんはきかねえよ」

風呂敷包から怪しげな薬の袋を取出して来て、

鶴三「お腹が痛くなったらな、この陀羅尼助だらすけという薬を服むんだ、一寸苦いがよう効くぞ!」

新吉頷く。日月ボールを頻りに弄ぶ。

鶴三「きいてるな」

新吉「うん」

鶴三「家を恋しがるんじゃねえぞ、父っちゃんは十二の歳から船に乗ってたが、印度洋の真中でも、大西洋を渡る時でも、太平洋の上でも、一遍だって家を恋しがった事はなかったぞ」

新吉「あ、汽車が停った」

窓をあける。

駅員の声(マイクを通して)「米原。米原。五分間停車、北陸線乗換え、敦賀、直江津、新潟方面行の方は右の階段を登って、三番線の列車にお乗換え願います、乗換時間は十七分、十六時五十分発二三等急行東京行き! 東京行き! この列車にお乗りの方は……」

鶴三「弁当買おうか」

窓から顔を出す。

新吉「あ、向うにも汽車が停ってる!」


八 第二の汽車。

その二等車の窓があいて、帰還姿の軍医中尉、中瀬古庄平がぬっと顔を出す。

庄平「おい、弁当!」

処が、弁当を売ってるのは反対の窓である。

庄平、苦笑しながら、反対側の窓へ寄って行く。

そして、窓から身体を乗出す。

弁当売りは却々〔なかなか〕やって来ない。

発車のベルが鳴り始める。

庄平(いきなり怒鳴る)「弁当屋! 駈足!」

弁当売り慌てゝ飛んで来る。……

汽車はもう動いている。

庄平の座席の向いの席では、洋装の女即ち辻節子が、小型の旅行携帯用の将棋盤を洋装の膝の上に載せて、頻りに詰将棋を考えている。そこへ、弁当を持った庄平が戻って来て、弁当を食べながら、将棋盤の方をちら〳〵見る。

節子は、なか〳〵詰められない模様である。庄平もどかしがる。

そこへ、車掌が帽子をとってはいって来る。

車掌「お医者様はおられませんか、お客様の中にお医者様はおられませんか」

車内、何事が起ったのかと動揺する。

車掌が傍を通りかゝると、いきなり庄平が起ち上って、

庄平「僕は医者ですが」

車掌「あなたが……?」

と不思議そうにする。

庄平「軍医です」

車掌(判って)「実は車内に急病人が出来ましたので……」

庄平は頷いて、トランクの中から、医療器具を取出しながら、

庄平「病人はどこです」

車掌「車掌室に寝かせてあります」

庄平「寝ておられますと言い給え……」


九 車掌室。

寝かされていた病人の苦悶の表情が次第におさまる。

庄平(注射を終って、車掌に)「どこで降りる人ですか」

車掌「大阪で降りられます」(丁寧に言う)

庄平「僕も大阪迄だが、大阪迄にはケロリと癒ってるでしょう、軽い胃痙攣です」

そう言って、庄平は車掌室を出て、二等室へ戻って行く。


一〇 もとの座席。

庄平が戻って来ると、節子は相変らず詰将棋を考えている。庄平、医療器具をしまってから、ヒョイと手を伸し、

庄平「それは、こう詰めるんです」

瞬く間に詰めてしまう。

節子「そうでしたわね、角を捨てるのが判らなかったのですわ」

庄平「簡単ですよ、その詰将棋は」

節子「あのゥ、一番教えて頂けません?」(もじもじして言う)

庄平「こっちが負けるかも知れないが……」

庄平、トランクをおろして、それを自分の膝と節子の膝の間へ橋渡しする。そして、その上へ将棋盤を置く。

庄平(駒を並べながら)「然し、どうして将棋なんか知ってられるんです」

節子(駒を並べながら)「父に教わりましたの、私達はハワイの田舎にいたものですから、将棋をする相手がなくって、それで私を相手に……」

庄平「ハワイ仕込みの将棋ですな」

節子「駒を並べているとなくなった父を想いだしますわ、父は昨年なくなりましたの。ですから、私一人ぽっちで、この間の交換船で帰って参りましたの」

庄平「ほう? ……さあ、やりましょう」

節子「私が先手」

庄平「あ、あなたの飛車と角と入れ換ってますよ」

節子(頭に手をやる)「あら、御免なさい」

慌てゝ駒を置きかえる。

そして、指し始めるが、庄平は頻りに首をひねって呟く。

庄平「おかしい、どうもおかしい」

節子「? …………」

庄平(いきなり叫ぶ)「あ、間違ってた、僕の方が入れ換ってる」

節子、くっ〳〵と笑う。

庄平、角と飛車の位置を置きかえる。


一一 中瀬古家(庄平の家)の一室(──大阪)

将棋盤を真中に、庄平と父の庄造が向い合っている。庄平は和服である。

庄平「どうもこりゃ僕の負けですな」

庄造「そんな事はあるまい」

にや〳〵して、煙草を吹かしている。

庄平、暫らく盤にかじりついて盤面を凝視しているが、やがて顔を上げて、

庄平「しのぎがありません、これ迄です」

駒を投ずる。

庄造「まあ、そんな処かな、弱くなったな、どうしたんだ、戦地でもやったんだろう」

庄平「親孝行です」

庄造「帰還第一日に親父に将棋を負ける、これ即ち親孝行という事にはならんよ」

両人、笑う。


一二 浴室の中。

庄平と庄造が湯槽に浸っている。

庄平「背中流しましょうか」

庄造「いや、それには及ばん、将棋には勝たせて貰い、背中まで流して貰っては、些か恐縮だ」

庄平(だしぬけに)「うちの財産どれ位あります?」

庄造「お前は戦争に行ってから、単刀直入にものが言えるようになったな、以前は下を向いてぼそぼそ言うばかりだったが」

庄平「そうですか」

水道の栓に口をつけて、水をふくみ、うがいする。

庄造「お前の狸算用よりは尠いかも知れんぞ」

庄平「はあ……?」

庄造「変な顔をするな。然し、わたしが永年教師勤めをして、その俸給で食って来たから、親父から受けついだ分は減らしてないようだ」

庄平「それを今そっくり僕に下さいますか」


一三 庄造の書斎。

永年高等学校の教授をし、現在もしているひとの書斎だという事が、一眼に分る。ギッシリ詰った書棚、机の上には今にも落ちそうな位大小無数の書物が積み重ねてある。机の上だけではない。部屋中至る処に、然もかなり乱雑に積まれている。

仏像の胸像が机の上に、二つも三つも載せてあるのが印象的である。

庄造と庄平が椅子に掛けている。

庄造「つまり何かやりたいんだろう。それなら、いつでも財産は譲る事にしよう」

庄平「恐縮です」

庄造「その代り、というより寧ろ、同時にだな、お前はもう一つ貰うべきものがある」

庄平「僕はこれで充分です……」

庄造「まだ何を貰うとも、わたしは言っておらんよ」

庄平「じゃ、何を下さるんですか」

庄造「細君だ」

庄平「誰のですか?」

庄造「誰のですかってきく奴があるか、お前のだよ、そゝっかしい癖は相変らずだな」

庄平、煙草の箱の横へマッチの軸をすりつけて、火をつけようと、頻りに無駄な努力をする。

庄造、苦笑してマッチの箱を渡してやる。

庄造「貰えというのは、わたしの友人で神戸の造船所の技師長をしている男の娘さんだが、まあ、当代稀にみるいゝ娘さんだよ」

この時、

「写真がありましたよ、持って来ましょうか」

という声がする。

母親のお寿ひさである。お茶をもってはいって来たのである。

庄造「写真では判らん、実物主義だ、実物を見なくちゃ分らん、いゝ処は」

庄平、なんとなく壁の仏像の写真と、机の上のその実物を見較べている。

お寿「でも、庄平が写真を見たいでしょうから」(去る)

庄平(慌てゝ)「いゝえ、僕にはそういう趣味はありません、どうぞお構いなく」

庄造「実物主義となると、つまり見合いだな、どうもこの見合いなどという言葉は、大の男がみだりに口にすべき言葉じゃないが、他に適当な言葉はないから見合いという事にして、さてこいつを早いとこ実行したいんだが……庄平、お前いつがよい、早い方がよいんだ」

庄平「僕は一生に一度しか見合いはしないと決心しているんです、僕の友人で六十回も見合いをして細君を物色した奴がいますが、こいつはそんな風にして物色した細君の実家から出して貰った金で洋行して、今じゃ院長で納っているんです、内地に居る時は何とも思わなかったんですが、戦地でその事を想い出したら、ムカ〳〵っとして来ましてね、兎に角こんなのは浅ましいですからね」

庄造「それでお前は一度だけなんだね」

庄平「そうです、つまり、見合いした以上、必ず貰う……」

庄造「その主義は、手間がはぶけてよい、賛成だ」

庄平「その代り、うっかり見合いしません」

庄造「何もうっかりしろとは言っとらんよ」

庄平「然しですね、あとで断るんなら、いくらでも見合いしますよ、断らない主義だとすると、やはり幾らか考えないと……」(煙草をもみ消す)

庄造「なんだか以前のお前みたいな物の言い方だね、短刀直入に返辞できんかね、軍人だろう、お前は」

庄平(いきなり)「はッ、一週間のちに見合いします」

庄造「うん、つまり来週の日曜日にやるんだね、日曜なら双方ともに都合がよい……処で、蛇足のようだが、一週間のちとは何か根拠があるのかね」

庄平「土曜日に是非会わなきゃならん人があるんです、見合いするとなると、それ迄に一度会っときたい人なんです」

庄平、煙草をくわえる。

庄造「成程、そういう事もあろう」

火をつけてやる。

庄平、煙草を吸う。

その煙がはれると、机の上の仏像がはっきりとうかぶ。

庄平(声だけ)「明日は京都へ行って、大橋先生に相談して来ようと思うんです、今度の仕事の事で」


一四 東大寺大仏殿。

五丈三尺五寸の大毘盧遮那仏。

庄平大仏を見上げている。眼鏡をとって再び見上げる。


一五 大仏殿の附近。

庄平眼鏡をとったまゝ歩いている。

大仏を凝視していたのと、眼鏡をとっているせいで、彼には物がちいさく見えてならない。

庄平一人大きくなった気持で、悠々と歩く。浩然の気!

突然、

「軍医さん!」

と、呼ばれる。振り向くと辻節子だ。(ハワイ帰りのお嬢さん)

庄平、あわてゝ眼鏡を掛ける。とたんに、錯覚が癒り、もう辻節子は実物大に見える。

庄平「あ、あなたでしたか、今大仏を見て来たので、ものが小さく見えて仕方がなかったんですよ、あなたに会うたとたんに、普通の大きさになりましたが」

そう言いながら、そこらあたりじろ〳〵見廻す。

節子「昨日汽車の中でお眼に掛って、今日また奈良でお会いするなんて、本当に奇遇ですわ」

庄平(稍や冷淡に)「僕は、昨日昭南島で会うた男に、今日ジャワで会うたという経験がありますがね」

節子「これから、どちらへ?」

庄平「いや、別に何処と言って。実は奈良へ来る積りじゃなかったんです、京都へ行く積りで京阪電車に乗った筈が、うっかり関急電車に乗ってしまったので、着いてみると奈良だったという訳です」

節子「まあ……私はまた迷子にばっかしなってるんですの、奈良は初めてですから」

地図を見る。

庄平(寄って行き)「奈良の地図ですか、一寸(と言って地図を横取りし)──そうだ、療養所があったんだな、えーと、この道をこう行って……。僕序でだから療養所へ行く事にします、知ってる兵隊がいる筈ですから(地図を渡して)……失敬します」

庄平、いきなり行ってしまう。

節子、失望して見送る。待ってくれという気持。

(このひとハワイ帰りに似合わず、どこか淋しい翳がある)


一六 京都。

バスの通る町。

「あ、待ってくれ」

と、一人の産業戦士風の男が叫びながらトランクをかゝえて、駈け出して来る。

船山という傷痍軍人である。

船山「そのバス待ってくれ!」

駈け出しながら、バスの窓へ向って、

船山「軍医殿、中瀬古中尉殿!」

と、叫ぶ。

バスの中では──

庄平が窓を開けて、顔を出す。

庄平(船山に気づいて)「おう、船山上等兵!」

船山はいきなり立ち停って、敬礼する。

その隙にバスは遠ざかる。船山慌てゝ後を追う。

庄平(怒鳴る)「走っちゃ駄目だ! 走るな!」

船山はきかず、走って来る。

庄平「停れ! 船山上等兵停れ! 停らんか!」

その拍子にバスは停る。しかし、そこは停るべくして停る停留所である。車内笑う。

庄平、急いでバスを降りると、神妙に停っている船山の方へ、走って行く。

船山、挙手の礼をする。庄平、応ず。

船山「軍医殿、久し振りであります」

庄平「うん、その後身体の方はどうだ?」

船山「至極健康であります、その節は野戦病院で軍医殿にいろ〳〵御厄介になり、申し訳ありません」

庄平「健康で何よりだ、しかし、何といっても病後だからな、走ったり、無理な事をしてはいかん」

船山「走らないと、軍医殿のバスを見失いそうでありましたから」


一七 二条駅附近の通。

庄平「で、いよ〳〵今日神戸の工場へ行くという訳だな」

船山「はッ、もう西陣で織物をやってる時代やないと思いまして……」

庄平「駅まで送って行こう」

船山「はッ、見送っていたゞけますか」

庄平「うん、そのうち神戸へ行ってやるよ。お前の身体を一度診察してやろう」

船山「はッ、有難うございます、もう身体の方は大丈夫や思いますけど、神戸の工場へ軍医殿がおいでやすのは嬉しいであります」

踏切の遮断機が降りたので、二人は立ち止って待つ。

上りの汽車が行ってしまう。

と、踏切の向う側に、辻節子の姿が突然現れている。

節子「あ、軍医さん」

と、気づき、線路を渡ってこちらへ来ようと思うのだが、遮断機が依然として降りたまゝなので、来られない。(下りの汽車が間もなく通過するのだ)

庄平「やあ、また会いましたね」(と大声を出す)

節子「京都でお会い出来るとは思いませんでしたわ、昨日奈良でお眼に掛ったばかしですもの」(とこれも少し大きな声で言う)

汽笛の音。

庄平「はあ?」

聞えないのだ。

節子「今日も療養所へいらっしゃいますの?」

庄平「今日は大学病院です……あなたはまた迷子じゃないですか」

汽笛の音。

節子「はあ?」

聞えない。

節子「私、仏像の行方を探して歩いてるんですの」

汽笛の音。

庄平「えっ? 何です?」

節子「仏像を探して……」

汽車通る。汽車に遮られて、お互い相手が見えなくなる。汽車が通過してしまうと、節子、庄平の方を見て、驚く。庄平も船山もいつの間にか姿を消してしまっているのである。

節子の寂しい顔。汽笛の音。踏切ひらく。


一八 大学病院の階段。

庄平大股に登って行く。二段一越え。

看護婦降りて来る。

庄平「やあ、一昨日帰って来たよ」(と声を掛けながら登って行く)


一九 大学病院の図書室。

庄平はいって来て、図書棚から洋書を抜き出す。

書き物をしていた江藤医学士が庄平を見つける。

(江藤は万年筆を体温計のようにしきりに振る癖がある)

江藤「よう」

庄平「よう」

江藤「何時帰ったい?」

庄平「一昨日。いま大橋先生に会うて来た、これを読めといわれてね」

江藤(その本の背文字を見て)「こんな方面に興味を持ち出したの?(頁を繰りながら)虚弱児童の錬成、なるほどね、しかし君は耳鼻科だったんだろう?」

庄平「野戦病院じゃ耳鼻科も内科もないよ、八百屋だ、あらゆる科はやったね、やらなかったのは、えゝと、えゝと(考えて)……つまり、戦争は医学を進歩させるって訳だ」

江藤「医学も進歩させたが、君自身も進歩……というより、変ってしまったようだね」

庄平(顔を撫でて)「どこか変ったかね」

江藤「早い話が、昔の君は専門以外の虚弱児童の錬成なんて事は考えなかったからね、君は小説本ばかし読んでた」

庄平(いきなり早口に喋り出す)「いや、それだよ。医者の不養生っていうがね、僕は子供の頃からハシカ以外の病気をした事はない、強いてほかに病気だといえば、そゝっかしい位なもんだといふ訳で、つまり僕は健康に育って来た、それだけに弱い子供の事を考えると、痛々しくてならない……という事をマライで原住民の子供を診察している時、ふと感じたのでね、こりゃ一つ内地へ帰ったら、日本の虚弱児童のために大いにその錬成運動……というより、むしろ、その実際的……というか、つまり具体的にいって、道場とか錬成場とか療養所とか、いや、希望的にいえばこの三つを加味したあるものをだね、建設してやろうと、大橋先生にも相談したところ賛成して下すったのでね、実は今日これから直ちに大阪へ帰って府庁の厚生課へ行って……というのは、親爺がね……」

江藤、庄平の饒舌にすこしく閉口気味だ。

庄平「……財産を譲ってやるというので、そいつをこの事業に注ぎ込もうという訳でね、つまり、府庁へ行ってだね、健康地選定の問題やら、道場……つまり先刻言った三つを加味したあるものゝ建築資材の事などをね、いろ〳〵相談してね、それから学務課長に会うて……この学務課長というのは親爺の友人なんでね、いや、友人といってもまだ若いんだよ、まだ四十代でなか〳〵話の判る人だよ、君なんだったら一度会って置いてもいゝよ、とっても愉快な人だからね……で、その人に会うてね、各国民学校へ……」

庄平、陶酔して喋り続けていると、看護婦が入って来る。

看護婦「江藤先生、お電話です」

江藤「有難う、今直ぐ……」

江藤、先刻からの書き物に区切りをつけるために、万年筆を取りあげ、それをしきりに振る。

江藤(庄平に)「君、一寸失敬!」


二〇 寄宿舎。

少年工達がゼスチャア遊びをしている。

少年工のA、鉛筆をしきりに振る。体温計のつもり。そして打診の真似をする。

少年工のB「お医者さん!」(と当てる)

少年工のC「当りました」

ざわめき。

少年工のD(新吉に)「君だよ」

新吉、うながされて起つ。

部屋の中を走り、新聞を投げ入れる真似をする。

少年工のE「新聞配達!」

少年工のC「当りました」

少年工達「うまい、うまい、そっくりだ!」

新吉、窓側に寄る。

雨が降っている。

カメラ、窓の外から新吉を見る。

新吉故郷を回想する。新吉の顔にダブって、次のシーンへ。


二一 町。(新吉の回想)

新吉が夕刊を配って走る。雨が降っている。

新吉、凹の露地の一方の入口から入る。そして、もう一つの入口から出て来たのは、もう新吉ではない。別の新聞配達の少年だ。(こゝから回想を離れて現実の町となる)

少年は標札屋へ夕刊を入れる。

それから、その隣りの矢野名曲堂の硝子扉へ夕刊を入れる。


二二 名曲堂。

鶴三が奥から銭湯行きの姿で出て来て、葉子に話しかける。葉子は店の間に置いた小鳥に餌をやっている。

鶴三「どうだ? 鳴いたか」

葉子「ちっとも鳴けへんわ、新坊行ってしもてから、鳴かんようになった」

鶴三「おかしいな。……あ、夕刊がはいった」

鶴三は新聞を拾って、表へ出て、新聞配達の少年の後ろ姿を見送る。標札屋の老人が店から鶴三に声を掛ける。

標札屋「新ぼん、今頃どないしとるかな」

鶴三「一生懸命働いとるに決っとる、新坊も今は少年工だ」

標札屋「お父つぁんのお前は棒鱈だが、息子はお国の役に立っとるわけや」

鶴三「おれが棒鱈なら、お前は〔ニシン〕だ、どら風呂へでも行って来るかな」

鶴三、新聞を畳んで懐へ入れて、歩きかけ、

鶴三「おや、やんだようだ」

傘を畳む。


二三 町の一角。

新聞配達の少年、町角を曲る。犬が吠えている。

庄平が、雨がやんでいるのに傘をさして歩いて来て、少年を掴まえて道を訊く。

庄平「君、三十二番地はどの辺?」

少年「さあ、知りまへん、僕はまだ新米やさかい」

少年行ってしまう。

町角から、初枝が勤労奉仕の女生徒を引率して(先頭になって)現れる。

庄平、相変らず傘をさしたまゝ、

庄平「一寸おたずねしますが」

初枝「はあ」

立ち停る。

生徒は初枝に構わず行進する。

庄平「三十二番地はどの辺でしょうか」

初枝「三十二番地? さあ、たしかこの通りだと思いますが……(生徒に向って)停れ!」

初枝、生徒の方へ行く。庄平のこ〳〵随いて行く。

初枝「誰か三十二番地を知ってる方はありませんか、三十二番地」

生徒A「はい、三十二番地はこの通りです」

庄平「有難う(生徒Aに)矢野さんという家どこか知ってる?」

生徒A「さあ」(考える)

初枝「矢野さん? 矢野さんのお宅でしたら、この裏の通りに一軒ございますけど、でも、そこなら、たしか二十二番地だと思いますが」

庄平(あやしくなって手帳を見る)「え、と一寸待って下さい、あ、二十二番地でした、僕の間違いでした、二十二番地の矢野和子さんです」

初枝「矢野和子さん? その方をお訪ねになるのですの?」

庄平「えゝ」

初枝「その方なら、去年お亡くなりになられましたが」

庄平「そんな筈はないです、げんに僕は……」

初枝(生徒に向って)「静かにして、静かに」

庄平「げんに僕は三月前にその方から慰問袋を戴いてるんです……兎に角行ってみましょう、有難う」

行きかけて、引き返し、

庄平「……こっちですか」

初枝(微笑して)「いゝえ、こちらです、私達学校への帰り道ですから、御案内しますわ」

庄平「恐縮ですね」

初枝(生徒に向って)「前へ進め!」

一同前進する。

初枝、庄平が傘をさしているのを見て、くす〳〵笑う。生徒も同様。前方に、節子が地図を見ながら佇んでいる。雨に濡れて、何かしょんぼりした後ろ姿。

一同は節子の傍を通り過ぎようとする。

節子、庄平を見つける。

節子「軍医さん!」

庄平(歩きながら)「やあ」

節子稍寂しい顔で随いて行く。

庄平「また迷子になってるんじゃないですか」

節子「えゝ、二十二番地はどの辺でしょうか」

庄平、初枝と顔を見合せる。

初枝「二十二番地の何というお家ですの」

節子「古道具屋さんなんですけれど、大雅堂という……」

初枝「あ、それなら……御案内しますわ」

節子「はあ、どうも……」

庄平(初枝に)「あなた方は傘は……?」

初枝「はあ、でも、もう雨はあがってますから」

庄平(済ました顔で)「あ、そうですか」

庄平、傘を畳む。

生徒、笑う。


二四 矢野名曲堂の前。

初枝「こゝですわ」

庄平「どうも有難う(生徒Aに)有難う(節子に)じゃ、失敬します」

庄平、中へ入る。


二五 古道具屋の前。

節子「どうも、わざ〳〵有難うございました」

頭を下げる。

初枝「あら、いゝえ」

前進している最後列の生徒、何気なく振り向く。


二六 矢野名曲堂。

庄平が葉子と話している。

庄平「じゃ、やはり和子様は……」

葉子「はあ、母は一番はじめの慰問袋送って直きに、死なはりましてん」

庄平「……そうでしたか、では僕のお礼の手紙が着いた時には……?」

葉子「もう、居たはれしめへんでした、そんで、直きにそのことお知らせしよ思たんですけど、戦地で働いてくれたはる人に、そんなこと知らせるのは縁起が悪いと、こない父が申しましたさかい、母が死んだことは内緒にして私が母の名で慰問袋送ってましてん、なんや嘘ついたみたいで、済んまへん」

庄平「とんでもない、かえって恐縮です、しかし僕は和子様とおっしゃるのはあなたのようにお若い方だと思っていました」

葉子「なんぜですの?」

ふと赧くなる。

葉子「あ、父が戻って来ましたわ」

鶴三、はいって来る。

庄平、起ち上る。


二七 古道具屋。

古道具屋の主人と、節子が話している。

主人は、かつて汽車の中で庄平に注射をして貰った男である。

主人「残念なことしやはりましたなァ、ほん一足違いだした」

節子「その仏像を買った方のお名前御存知ですの?」

主人「へえ、そらよく知ってます、なんしろ御得意様でっさかい、中瀬古はんいうて、高等学校の先生だす、ほん、今買うていかれたとこだす……いや、実はわたいも、そんな由緒ある品やと知りまへんし、それに、あの仏像もって汽車に乗ってましたら、えらい胃ケイレンを起しましてな、誰ぞはよ買うて持って行ってくれはったらとこない思てましたんや」


二八 名曲堂の奥座敷。

庄平が鶴三を診察している。

鶴三「どうです? 私の身体は? まだまだ働けますか?」

庄平「大丈夫です、いゝ身体ですよ」

鶴三(微笑する)「なにしろ、十二の歳から四十五まで、船乗りをしてきたえて来た身体ですからね」

庄平「それがまたどうして……?」

鶴三「なァに気楽な商売をと考えたんですよ、陸へ上った時にね、コックの腕に覚えがあるんではやらぬ洋食屋をやったり、こんな柄にもないレコード屋をやったり……今にして想えば、もっと身体を責めて働かなきゃならなかったんですよ。こんな隠居みたいな商売してちゃ、あなた身体の肉と骨がバラ〳〵に離れてしまいますよ、隣の鯡親爺も私を棒鱈だといってますが、全くこれじゃ棒鱈です。で、私も今はいろ〳〵考えてるんです」

庄平「すこし胃拡張のようですな」

鶴三「へえ? もう手遅れですか」

鶴三、がっかりする。

庄平「なに、大したことはありません」

鶴三「働く分にゃ……」

庄平「差し支えありません、こんど来る時、何か適当な薬をつくって来てあげましょう」

鶴三「どうも、初めて来て戴いたあなたに、身体をみて貰ったり、薬を戴いたり恐縮ですな」

庄平「これが商売です、じゃ今日は……」

庄平起ち上りかける。

葉子、現われて、

葉子「あら、もう帰りはりますの?」

寂しい顔。


二九 庄造の書斎。

節子と庄造が向い合っている。

庄造の机の上に、小さな仏像が一つふえている。

節子「お忙しくございません?」

庄造「忙しいです。で、私はどの客にも五分間しか会わない主義になってるんで……用件を伺いましょう」

節子「その仏像を譲って頂きたいのですが……」

庄造「ほしい理由を説明して貰いましょう、なるべく簡単に、一分間位で……どうです? 女の方はとかく饒舌だからね、もっとも、わたしの息子は男だが、仕事の事で喋り出すと一人で二時間位演説しますがね」

節子「じゃ、簡単に申上げますわ、その仏像は私の家に先祖代々〔つたわ〕っていた物ですが、父がハワイへ渡る時、奈良の骨董屋へ売ってしまいました、父は昨年なくなりましたが、その時の私への遺言に、ハワイへ来てから、始めて先祖代々の品を売払った事を後悔した、お前が日本へ帰ったら、買い戻して、しかるべき寺へ納めてくれ……」

庄造「仏くさいうがった話ですな」

節子「で、私はこの間交換船で帰ってから、奈良、京都、大阪と、転々と移っているその仏像のあとを追うて来たんですの」

庄造「そして、本日ここで遂にめぐりあったという訳ですか」

節子「えゝ」

庄造(仏像を手にして)「実にいゝものだがなァ、しかしそういう訳だとすると、カイザルのものはカイザルに返さゞるを得ないですな」

節子「じゃ、譲っていただけます?」

庄造「うん、近頃譲る事に馴れているんでね、近く財産を譲る事になっています」

庄平、はいって来る。

庄造(庄平を指して)「……この男にね」

庄平「お客様ですか」

節子、振り向く。

節子「あら」

起ち上る。

庄平「やあ(と簡単に挨拶して、庄造に)お父さん、万年筆落ちてませんでしたか」

庄造「はてね」

庄平(節子に)「いらしてたんですか、どうも失敬しました」

節子「いゝえ、お邪魔してます」

庄平「こゝでお眼に掛るとは思いませんでした、偶然って奴は続き出すと、きりがないんですね」

節子「えゝ、でも、なんだか、古風な言い方をしますと、仏像に導かれているような気持が致しますわ」

庄平「仏像って何ですか?」(と、節子の気持に水をさすような質問を無意識にする)

庄造「……二人とも、掛けたらどうですか」

二人、掛ける。

庄造「坐った序でに、胸のポケットを見たらどうだね、庄平」

庄平(言われた通りにする)「ああ、ありました」

(万年筆を抜き取る)

庄平、手帳に何か書きつける。

庄造「忙しそうだね」

庄平「えゝ、色々ね、会わなきゃならない人が多いので、忘れぬように書きとめて置かなくっちゃ」

庄造「その中には、偶然会う人もあろうし、成程忙しいらしいが。判ってるね、あと三日だよ」

庄平「何がですか」

庄造「見合いだよ」

庄平「はあ、あゝ」(曖昧な返辞)

節子(はっとするが、やがて庄造に)「あのゥ、失礼ですが、その仏像いか程でお求めに……」

庄造「あゝ、代金ですか、いや、それは戴けません、進呈します」

節子「でも、それではあんまり……」

庄造「戴いても、皆この男の物になるんでね……それに失礼だが、あなたはお父様はおられないようだし、ハワイから帰って一人ぽっちで居られると、やはりあれだしね、ま、お金は持ってらっしゃい」


三〇 国民学校の教室。

初枝が女生徒に地理を教えている。

黒板に近畿地方の地図が描かれていて、京都、奈良、大阪、神戸の位置をはっきり示している。

初枝「近畿地方には四つの大きな都会があります、知ってる方は手をあげて」

女の子手をあげる「ハイ、ハイ」

初枝「青木さん」

青木(起って)「大阪、神戸、京都、奈良です」

初枝「はい、よろしい。それ〴〵府庁、県庁の所在地ですね」

「エイ、オウ」「エイ、オウ」という掛声が窓から入って来る。校庭で薙刀の稽古をしているのである。

初枝「この四つの都会のうち、大阪、神戸は日本の生産力の中心地で……」


三一 校庭。

清子が高等科の女の子に薙刀の基本動作を教えている。

「エイ!」

「オウ!」

「エイ!」

「オウ!」

やがて、授業の終った事を知らせる鈴が鳴る。

清子「やめエ! 礼!」

一同礼をする。(これは薙刀の作法だ)

清子「大体よろしいが、運動会は明後日ですから、明日もう一度練習をすることにします。よく覚えるように。解散!」

級長が号令をかける。

級長「気をつけ! 礼!」

清子、子供達と別れて、校庭を横切り小使室の前迄来る。


三二 小使室。

窓から、蜂谷十吉がぬっと顔を出して、清子を招く。十吉何故か髭を落している。

清子、渋々小使室の中にはいる。

十吉、いそ〳〵としてポケットから新聞を取出す。

十吉「尾形さん、あんたは南方へ日本語を教えに行くんですか?」

清子「えッ?」

狼狽する。

十吉「その銓衡試験を受けたんでしょう?」

清子、益々狼狽する。

十吉、清子に新聞を渡す。

十吉「合格者の名前が出ていますよ」

清子、新聞を見る。

十吉「あなたの名前、出ているでしょう?」

清子「えゝ」

少し興奮している。

十吉「あんたに早く見せてあげようと思って、夕刊の第一版をゲラ刷の儘持って来たんだ、僕はこの間からあんたが試験をうけたんじゃないかという気がしてたもんだから、一ぺんそれをきこう、きこうと思ってたんだが(清子、黙って新聞を折る)……どうして僕に相談してくれなかったんです? あんたは一人ぽっちじゃないか」

清子「いち〳〵あなたに相談しなきゃ、いけませんの?」

十吉(狼狽して)「いや、そ、そんな義務はあんたにはない、僕にもまた悲しいかな、相談しろという権利もない、然し僕もかつては報道班員として南方に居った人間だ、あんたが南方へ日本語を教えに行こうというのなら、僕も及ばずながら……もっとも僕はたよりない影の薄い男らしいが」

清子「いゝえ、私はたれの力も借りたくなかったの。私はたゞ兄の戦死した土地で働きたい一心なの。兄の一周忌も、もう明後日ですわ」(眼がうるむ)

十吉、眼をぎょろ〳〵させている。

初枝が授業を終って、通り掛り、はいって来る。

初枝「あら、蜂谷さん、お髭お剃りになったの?」

十吉「えゝ、まあね、おかしいでしょう?」

初枝「尾形さん、どうかなすったの? また喧嘩?」

清子「いゝえ、なんでもないの(十吉に)この間の傘お返しするわ」

十吉「いや、持っていた方が無難ですよ……髭を剃ってみた処で、たいした事ありませんよ、失敬!」

出て行く。


三三 町。

十吉、歌をうたいながら歩いて行く。福島少佐シベリヤ行の歌。

十吉「一日、二日は晴れたれど、三日、四日、五日は雨に風」

向うから、夜店出しが荷車を引っ張って来て、十吉が「雨に風」と歌ったとたん吃驚して引返す。

名曲堂の表まで来ると、葉子が表に立っていて、話しかける。

葉子「なんぜ戻って来やはったん?」

夜店出し「新聞記者のあの蜂谷さんにばったり会うたんや、あの人の顔見るときっと雨やさかいな」

葉子「えらい人に会わはってんなア」

夜店出し(小鳥籠が店の軒につるしてあるのを見て)「どないや、鳴いたか?」

葉子「鳴けへんわ。ここへつるしたら鳴くやろ思たけどあかんわ」

籠をもって店の中へはいる。


三四 名曲堂。

表に雨が降っている。

十吉がはいっている。十吉、棚を指す。

十吉「葉子ちゃん、そこにショパンの『二十四の前奏曲』があるだろう?」

葉子「えゝ、あるわ」

十吉「その中の『雨だれ』というのを掛けてみてくれ、たしか十六番だ」

鶴三「『雨だれ』なら、十八番だ、蜂谷さんの、だって、雨の音楽だろう?」

三人、笑う。

その楽しそうな、内部の雰囲気を、硝子扉の外から、覗いている少年がいる。

雨に打たれて──新吉だ、中へはいりかねている。

(扉がしまっているので、中の音楽や笑い声は聞えない)

中では『雨だれ』が鳴っている。その雨滴の如く、ポトリ〳〵落ちて来るリズム。

硝子扉に雫が伝っている。その扉に新吉の瞳を凝らした白い顔が吸いついているが、誰も気づかない。

十吉「巷に雨の降る如く、わが心にも雨が降る……か、こういう詩知っているかい、葉子ちゃん」

葉子「うちはハイカラな文句は何にも知らん」

鶴三「うちは流行歌は扱わない事になってますんでね」

葉子「蜂谷さんの文句、みんな雨のことばっかし」

十吉「自分でも情けないと思うよ。畜生! 処で、僕が南方へ行ってしまったら、寂しがってくれる人がいるかな」

葉子「喜ぶ人もいるわ」

十吉「誰だ、そいつは」

葉子「夜店出しのおっちゃん」

この時、店の間の小鳥が突如鳴声を立てる。

葉子「あら、鳥が鳴いたわ」

十吉「鳴きたい奴は鳴かしとけ」

葉子(新吉を見つけて)「あら、新ちゃん!」

鶴三(も見て)「新坊じゃないか」

途端に、新吉が飛び込んで来る。

鶴三(レコードを止めて)「どうしたんだ今頃!」

新吉「…………」

おど〳〵している。

鶴三「なぜ帰って来たんだ」

葉子、はら〳〵している。

鶴三「仕事がいやで帰って来たのか」

新吉「うゝん、仕事は面白い」

鶴三「寄宿舎がいやなのか」

新吉「うゝん、寄宿舎かて面白い」

鶴三「じゃ、なぜ帰った? 言ってみろ」

新吉「………」

鶴三「言ってみろ」

新吉(思い切って)「昨夜、雨が降ったやろ?」

十吉、眼をキョロ〳〵させる。

十吉「降った」

変な顔をする。

新吉「寄宿舎で、雨がポト〳〵降ってるのん見てたら、家が恋しなったんや、お父っちゃんの傍で寝たいなァ思たんや」

小鳥、鳴く。

葉子「そんで、帰って来たの?」

新吉「うん」

鶴三「だれにも断らずに、汽車に乗ったのか?」

新吉、渋々頷く。

鶴三「莫迦ッ!」

始めて本気で怒った声を出す。

十吉「新坊の気持は判るんだが、然し……」

鶴三(十吉の言葉をうけて)「一日休めば一日増産が遅れる、お前が一日工場を休んだら、それだけ飛行機の増産が遅れるんだ、それ位の事は、お前が配ってた新聞にも書いてあったから知ってるだろう」

十吉「僕もそのことは何度も書いてたぞ、新坊!」

新吉、悄然としている。

鶴三「直ぐ工場へ帰れ! お父っちゃんが名古屋まで送ってやる(十吉に)蜂谷さん済みませんがあんた、急行券二枚……」

十吉「よし来た、名古屋までだな、駅で待ってるよ」

十吉、身軽に飛出して行く。

葉子(鶴三に)「せめて、晩ご飯たべて行ったら……? もう出来てるんやけど」

鶴三「じゃ、そいつを弁当に詰めてくれ、汽車の中で食う」


三五 汽車の中。

鶴三と新吉が向い合って、弁当を食べている。

鶴三「しっかり働いて、今日休んだ分を取り戻すんだぞ、判ったか」

新吉(飯を頬張りながら)「うん、判った」

汽車が停る。

新吉「あ、汽車が停った」

窓をあける、米原の駅である。

新吉「米原は何県やろ?」

言いながら、窓から顔を出す。

向うにも夜汽車が停っている。(食堂車のしみ〴〵とした灯)

駅員の声(マイクを通した夜更けらしい声)「米原ァ! 米原ァ! 二十二時五十八分発二三等急行神戸行き!」



三六 神戸のある工場。

応接室。

窓の外の中庭では、産業戦士が昼の休憩時間らしく、嬉々としてバレーボールをしている。

庄平「大丈夫だ、いゝ身体になったね、これならどんな無理な夜業でも、大丈夫やっていける」

船山「はッ、有難うございます、わざ〳〵神戸迄来て頂いて」

庄平「昼の休みで、丁度よかった、じゃ元気にやり給え」

庄平、起ち上る。

船山「もうおにやすか」

船山、扉をあける。

庄平廊下へ出る。廊下から中庭へ出る。


三七 中庭。

庄平が歩いて行く。

節子が作業服を来て、向うから来る。

節子「あらッ!」

庄平、辻節子だと気づくまで、相当時間が掛る。

やがて──

庄平「やあ、あなたでしたか」

節子「またお眼に掛りましたわね」

庄平「しかし、今日は驚きましたね、勤労奉仕ですか」

節子「いゝえ、ずっとこの工場で働くことにしましたの、仏像をお寺に納めて肩の荷が降りましたので、昨日まで東亜ホテルにいましたが、今日からこゝの寄宿舎へ移りましたの」

庄平「そうですか、親爺も聞いたら感激するでしょう。あのお嬢さん、一人ぽっちでどうするんだろうって言ってましたから」

節子「お父様にあの仏像のお代をまだお渡ししてないんですけど……」

庄平「いや、いゝですよ、親爺は譲ることは好きらしいですから」


三八 中庭の芝生。

庄平と節子腰を下している。

庄平「……戦地にいて、一番辛かったのは、野戦病院で昔の友人に会うた時です、友人はその日死にました、遺家族は妹さん一人きりです、あなたも一人ぽっちですが、その妹さんもあなたのように強く生きて下すったら、いゝんですがね、明日は友人の命日なので、是非妹さんを訪ねる積りですが、その人の元気な姿を見届けない内は見合いする気になれないんです。……というのは、僕は一生に一遍しか見合いしない主義でしてね、見合いした以上、必ずその人と結婚すると決めてるんです」

バレーのボールが飛んで来る。庄平拾って投げてやる。

庄平「変な主義ですが、つまり見合いした相手の心を傷つけたくない……」

この時、作業開始のベルが鳴る。

節子元気よく起ち上る。

節子「私、お話伺って、もう何も考えずに働けるような気がしますわ、元気に働きますわ、失礼します、仕事が始まりますから」

節子、頭を下げて去る。


三九 国民学校の校庭。

運動会の当日である。

拡声機から音楽が流れている。

それに合せて、女の子達の体操がやがて拍手裡に終る。

拡声機の声「二年女子の団体体操は終りました、次は……」

放送しているのは、小谷初枝だ。

校庭の隅のマイクのかげで、放送しているのである。

初枝「……次は、飛び入りマラソン競争であります、来賓の有志、青年学校、在郷軍人会、壮年団の有志の方は特にふるって御参加願います」

放送の途中で、庄平が、のそっと入って来て、一般観覧席で、きょろ〳〵している。誰かを探しているらしい。

運動会の係の先生がメガホンで、叫び廻る。

係の先生のA「ふるって御出場願います、選手の人員が不足していますから」

そして、庄平を見て、

係の先生のA「あなた一つ出てくれませんか」

庄平(驚いて)「いや、僕は人を訪ねて来たんで……」

係の先生のA「男らしく出て下さい、躊躇なさるほどの……尻込みなさるのは卑怯ですよ」

庄平(決然として)「僕は何事にも躊躇しません」

前へ出る。

係の先生のA「出てくれますか、有難う」

係の先生、庄平を出発点へ連れて行く。

出発線では七人の選手が待機している。

それ〴〵巻脚絆をつけている。

庄平(係の先生に)「済みませんが、脚絆を貸してくれませんか」

係の先生のA「よござんす」

早速、巻脚絆を持って来る。その間に、庄平は上衣を脱いでいる。

庄平「有難う」

巻脚絆を受け取って、素早く器用に巻きはじめる。

係の先生のB「こゝから高津神社まで、往復です」

庄平(うっかりと)「何秒で走れます?」

係の先生のB「何秒ってマラソンはありませんよ、半時間で行けたら早い方です」

八人の選手は出発線へ並ぶ。

七人の者は、見知らぬ顔の庄平の飛び入りに、何かおそれを成しているようである。

係の先生のB「用意!」

笛を鳴らさぬ前に飛び出す者がある。

係の先生のB「もとへ! もとへ!」

しきりに笛を鳴らす。

係の先生のB「慎重にスタートして下さい。用意!」

笛を鳴らす。

うまくスタートする。しかし、庄平は殿〔しんが〕りより、のろ〳〵とスタートして走り出す。まず、運動場を一周する。

庄平は、如何にも運動神経の無さそうな、しかし、どこか戦場できたえた図太さをもった走り方である。

初枝、庄平を見て「あら」と思う。

シルクハットを被った来賓が、しきりに頭を左右へ動かす。

その後の者は、見えにくいので迷惑する。

八人の選手は校門を出て行く。

拍手の音。


四〇 口縄坂。

選手が坂を登って行く。庄平、殿り。


四一 町。

選手、名曲堂の前を通過する。

葉子、それを見に表へ出て来る。硝子扉を開けたとたんに、中のレコードの音がちらりと聞える。

第八交響楽のフィナーレ。

庄平、走って通り掛る。殿り。

葉子「あら」

庄平(立ち停って)「やあ、先日どうも……お父さんは?」

葉子「裏の休閑地にいますの、呼んで来ましょうか」

庄平「いや、遅れるといけませんから、後でまた」

庄平、走り出す。前の者と大分はなれている。

自転車に乗った係の先生Bが庄平の傍を通る。

係の先生のB「あなたがビリですよ、頑張って詰めて下さい」

庄平、頷いて自転車を追う。


四二 高津神社の表門の道。

選手が走って境内の方へ進む。先頭の者はフラ〳〵になっている。脚絆のとけた者がある。

庄平、その選手を抜く。


四三 寺町。

庄平、第三位になって走っている。

その傍を自転車に乗った係の先生Bが通過。


四四 国民学校の校庭。

初枝が放送する。

初枝「マラソン競争の選手が帰って参りました」

拍手。

シルクハットの来賓、椅子から乗り出して見る。

庄平先頭になって校門をはいる。

初枝、緊張して見る。

庄平、決勝点へ入る。

庄平、(1)と書いた旗竿を持たせられる。

係の先生のA「お名前は……?」

庄平(うっかりと)「二十九歳です」

係の先生のA「いや、お歳じゃなく、お名前を伺ってるんですが」

庄平「あ、そうですか、えゝと、中瀬古庄平です(係の先生のメモを覗きこんで)庄屋の庄に、たいらの平です」

係の先生のA、筆記したメモを持って、初枝の処へ持って行く。

初枝(放送する)「只今のマラソン競争の成績を申し上げます。一着、中瀬古庄平さん! あッ」

初枝、驚いてメモを見直す。

初枝「一着! 中瀬古庄平さん!」

放送しながら、庄平の方を見る。

庄平は、賞品を貰って、出発線の方へ行く。

拡声機の声(初枝の声、ふるえている)「次は、女子青年団の団体行進であります」

初枝、放送しながら、庄平の方へ視線を離さない。

庄平は、初枝の方から遠くはなれた出発線の処で、上衣を着ている。清子が飛んで行って、庄平に挨拶しているのを初枝は見る。シルクハットの来賓、女子青年団の行進を乗り出して見る。頭を右左へ振るので後の者迷惑する。

カメラ、庄平と清子に近づく。

庄平「そうでしたか、あなたが尾形君の妹でしたか、実は僕も先刻からあなたを探していたんです、今日は何も走るつもりで来たんじゃないんですがあなたをお訪ねして来た処、偶然運動会だったもんで」

苦笑する。

清子(微笑して)「拡声機で、一等になられた方が、中瀬古さんだと伺ったものですから、すぐ飛んで参りましたの、おやっと思って」

団体行進が二人の傍を通る。

二人は、道を開ける。

初枝、じっと二人の方を見ている。


四五 教室の廊下。

庄平と清子が立ち話している。

窓から、団体行進が見える。

庄平「野戦病院へ送られて来た顔を見て、おやっと思いました、見た事のある顔だなァと思ってよく見ると、それが尾形伍長……つまり、あなたの兄さんだったのです、僕は夜通し看護しましたが、明け方には到頭……立派な最期でした」

清子(涙をこらえて)「兄も中学時代のお友達の軍医さんに看護して戴いて……さぞかし……」

庄平「しかし、あなたがこんなに元気に、強く生々としていらっしゃるのは、意外でした、いや、僕も安心しました、僕は今日尾形君の命日にこうしてお眼に掛るまでは、実はあなたのことが心配で心配でならなかったのです。しかし、もう安心です。尾形君もきっと何処かであなたを見て安心しているでしょう」

庄平の話の途中で、拡声機の声が聞える。

拡声機の声「女子青年団の行進は終りました、次は女子職員の百〔メートル〕徒歩競争であります、出場の先生はすぐ御用意下さい」

清子、キッと顔を上げる。

清子「私、一寸失礼します」

庄平「はあ……?」

清子(微笑した明るい表情で)「百米、走って参ります」

清子、廊下を駈け出す。


四六 清子の駈け出す姿をとらえたカメラは、次の瞬間にはもう、同僚の先頭を切って走っている清子の颯爽とした姿をとらえている。

庄平、廊下を出て、見ている。

その庄平を、初枝がそわそわと見ている。

清子、決勝点へ入る。

初枝、放送する。

初枝「只今の女子職員の競争の成績を申し上げます、一着、尾形清子先生!」

放送する初枝の顔へ、雨が降って来る。

テントの外へ、シルクハットの頭を出していた来賓の頭上へも、雨が降る。

来賓慌てゝ、頭をひっこめて、シルクハットを取る。頭が禿ている。

観覧席、雨で動揺する。

その中に、蜂谷十吉が、まるで当然の如くまじっているのが、不気味だ。(雨男の真髄はこゝに至って完全に発揮されたのである)

初枝、放送する。雨。

初枝「次は女子高等科二年生の薙刀体操であります」

放送しながら、さきに庄平の立っていた処を見る。

しかし、庄平は、もういない。

初枝、失望する。


四七 矢野名曲堂。

葉子、独りでラロの『スペイン交響曲』を聞いて、物想いに耽っている。その音がかすかに裏の休閑地へ聞えている。

その裏の休閑地を、鶴三が耕している。

その横で、夜店出しも一緒に耕している。

鶴三、耕し終って、夜店出しへ声を掛ける。

鶴三「どうやら雨が上ったようだ、今夜は商売が出来ますな」

夜店出し「天気を相手の商売ちゅうやつもつくづくいやになった。雨が降っても槍が降ってもという商売に転業しよ思てまんねん」

鶴三「レコード屋はやりなさんなよ。人間は身体を責めて働かなきゃ嘘だからね」

言いながら家の中へはいり、やがて店へ出て来る。

葉子、父親がはいって来たので、慌てゝレコードをとめる。

鶴三「お前ひとりか、中瀬古さんは……?」

葉子「まだ来やはれへんわ」

鶴三「中瀬古さんの診立て通り、おれの身体はまだ働けるぞ」

葉子「中瀬古さん、遅いなア、まだ走ったはんのやろか」

この時、庄平入って来る。巻脚絆姿。葉子そわそわする。

鶴三「やあ、待ってました、マラソンは……?」

庄平、賞品を出して、

庄平「これ、貰いました」

葉子「あら、一等……」

庄平「あなたにあげますよ、それ」

葉子「おおけに」

庄平(ポケットから薬を出して、鶴三に渡す)「あなたにはこれ、約束の薬です。気休めに服んでみて下さい」

鶴三「こりゃ、どうも」(押し戴く)

庄平「あ、しまった」

鶴三「どうかしましたか」

庄平(デス・マスクを指して)「南方土産の面を持って来てあげようと思って、うっかり忘れていた、明日持って来てあげましょう」

葉子「明日も来てくれはりますの」(嬉しそう)

鶴三「葉子、お茶をいれて来な」

葉子、去る。蜂谷十吉のそっと入って来る。

鶴三「おや、いらっしゃい」

庄平、十吉の方を見て、そのまゝ視線を動かさない。

庄平「蜂谷君じゃないか」

十吉「じゃ、やっぱし中瀬古君か」

庄平「うん、イノシシだよ」

十吉「あわて者の」

鶴三「お知り合いでしたか」

庄平「中学時代一緒だったんですよ、もう十年も会わぬが、面影はあるね」

十吉「実は、先刻君を見たんだよ、学校で」

庄平「マラソンをやってる処を」

十吉「うん」

庄平「どうして声を……?」

十吉「……掛けようと思ったんだが、雨が降ったドサクサまぎれに、見えなくなったんだよ、その前に、君は尾形君の妹さんと話していたろう?」

庄平「うん」

十吉「その時、傍へ行こうと思ったんだが、なんだか悪いように思ったから」

庄平「悪い事があるもんか、へんな奴だなア、尾形君なら君もよく知ってたんじゃないか」

十吉「うん、そりゃ知ってたけど……君はあの妹さんと親しいの?」

庄平「会うのは今日はじめてだ」

十吉「……」

庄平「君はまだ一人……?」

十吉「誰が僕の所へ来てくれるもんか。君は……?」

庄平「勿論一人だ、もっとも明日見合いする事にはなってるがね」

葉子が茶を持って来て、聞いている。

十吉(何となく釈然として、生々とした声になる)「そうかい、で、誰だい相手は……?」

庄平「誰だか知らん、もっとも名前だけは判ってるが……小谷初枝……」

十吉「小谷初枝、聞いたような名だが……名前の感じは、清楚だな」

庄平(呟くように)「妻を娶らば才たけてか」

十吉(うたう)「みめうるわしく情ある……」

葉子、寂しい。

庄平、十吉(合唱する)「友を選らばば書を読みて、六分の侠気四分の熱……」

壁のベエトオヴェンのデス・マスクは歌わない。


四八 道。

夕陽丘の例の寂しい道を、初枝と清子が歩いている。雨上りの感じ。

初枝「南方へいらっしゃる日は決まりまして……?」

清子「間もなく、発令があると思うんだけど……初枝さんのお見合い、明日でしょう?」

初枝「あら、どうして御存知?」

清子「副校長先生に伺ったの……どんな方でしょう、きっと良い方だと思うわ。あなたもその方を気に入るわよ」

初枝「そうかしら」

清子「自信がないのね。当てゝ見ましょうか、その方……軍人さん?」

初枝「あら」

清子「当った? ……中尉さんじゃない?」

初枝「まあ」

清子「また当った?」

初枝「千里眼みたい」

清子「じゃ、もう一つ言うわ、もう当らないと思うけど……軍医さん?」

初枝「あっ」(驚く)

清子「あら、当った?」

清子、ふと考えこむ。

その寂しい横顔、くずれた塀に「へのへのもへの」その横に「ベイエイゲキメツ」と書いてある。

初枝「どうして、こんなにピッタリ当るのかしら?」

清子(狼狽して)「いゝえ、出任せに言ってみたゞけよ、偶然よ」

初枝「そうね、偶然ってあるものね、私が今日その軍医さんを見たというのもやっぱり偶然だったのだわ」

清子「あら、何処で……? 学校で……? あ、じゃ、その方……」

清子、ショックをうける。

初枝「あら、どうかなさったの?」

二人暫らく無言。

この時、子供達が向うから来て、挨拶する。

子供達「先生、さよなら……」

清子、初枝「はい、さよなら」

瞬間、二人の顔は明るさを取り戻す。

清子「あなたならきっとあの方の気に入るわ。自信を持つのよ」


四九 庄平の部屋。

南方土産の面が壁に。庄平と十吉がいる。庄平滔々と喋っている。江藤に喋ったのと同じ表現である。

庄平「……医者の不養生っていうがね、僕は子供の頃からハシカ以外の病気をした事はない、強いて他に病気だといえば、そゝっかしい位なもんだ、という訳で、つまり僕は健康に育って来た、それだけに弱い子供の事を考えると痛々しくてならない……という事を、マライで原住民の子供を診察している時、ふと感じたのでね、こりゃ一つ内地へ帰ったら、日本の虚弱児童のために大いにその錬成運動……というより、寧ろその実際的……というかつまり……」

十吉、紙を出してノートしかける。

庄平「君、新聞に書いちゃだめだよ、書かないね、そうか、よし、つまり具体的にいって道場とか錬成場とか療養所とか、いや希望的にいえば、この三つを加味したあるものをだね、建設すべく、今計画してるんだが、もう大体目鼻がついてるんだ……」

母親のお寿がお茶をもってはいって来たので、中断される。

お寿(十吉に)「いらっしゃい」

十吉「はあ、お邪魔しています」

お寿(庄平に)「おや、いつまで脚絆をしてるんです」

庄平(足を見て)「あ、しまった、運動会で先生に借りて、返すのを忘れていた」


五〇 矢野名曲堂。

客はいない。

葉子「中瀬古さんは見合いしやはんのね」

鶴三「男も年頃になれば見合いもするさ……」

葉子「うちかテ、見合いしようかしら?」

鶴三「莫迦! 相手もないのに見合いが出来るか?」

葉子、唇をかむ。

眼がうるむ。

突然、小鳥が鳴く。

うるんだ視線に硝子扉がうつる。

その向うに、雨に濡れた顔、新吉だ。

葉子「まあ、新ちゃん!」

雨の軒下に佇む新吉のおろ〳〵した姿。

葉子が扉の向うまで来る。


五一 名曲堂の奥座敷。

鶴三の前に新吉が項垂れている。

その横に、葉子が固唾をのんでいる。

鶴三(呟くように)「そんなにお父っちゃんや姉ちゃんの傍が恋しいのか?」

新吉(すゝり泣いて)「うん」

鶴三、暫らく考え込む。

壁に小鳥の籠と並んで模型飛行機がぶら下っている。

鶴三、ちらと見る。

鶴三「そんなにお父っちゃんや姉ちゃんの傍にいたいんなら、お父っちゃんや姉ちゃんがお前の傍に行こう」

新吉、顔を上げる。

鶴三「お前の工場へ一緒に行こう、一緒に働こう! それが一番いゝ方法だ」

新吉「ほんまか、お父っちゃん」(喜ぶ)

鶴三「葉子、お前も行くんだ、一緒に名古屋へ行って一家総掛りで働こう……善は急げだ、明日発とう」

葉子「明日? 明日は中瀬古さんが来やはるんやけど……」

鶴三「中瀬古さんのことは諦めな」

葉子、はっとする。

鶴三(立って雨戸を閉めに行き)「人間は身体を責めて働かなきゃ嘘だ!」

葉子も立って手伝いに行く。

夜店出しが荷車をひいて帰って来るのが窓から見える。


五二 露地。

夜店出しが荷車をひいてはいって行く。

共同水道端の水道の水滴がポトリ〳〵落ちて、残置灯の鈍い光に照らされているのが、にわかに夜の更けた感じだ。


五三 国民学校の教員室。

初枝が、答案の採点をしながら、窓から昨日の運動会の名残りを見て物想いに耽っている。

庄平、扉をあけてぬっと顔を出す。

庄平「木下先生とおっしゃる方はいらっしゃいませんか」

初枝「あら」(驚く)

庄平「やあ、この間はどうもわざ〳〵案内して頂いて……」

初枝「あら、いゝえ……あの、今日は日曜でどなたもいらっしゃらないのでございますが」

庄平「日曜? こりゃうっかりしていましたなァ」

(げっそりする)

初枝「木下先生に何か……?」

庄平「昨日こちらの先生に巻脚絆をお借りして、返すのを忘れて帰ったんですが……」

初枝、微笑する。

窓の下を清子が歩いて行く。ふと、教員室の中の二人を見て、おやっと思う。

然し、その儘静かに行ってしまう。

その何事もなかったような歩き方。

庄平「あとで見たら、木下という名がはいっていましたので、木下先生とおっしゃる方のではないかと思って、今日持参したのですが」

初枝「私お預りしてお渡しして置きましょうか」

庄平「恐縮ですな(渡して)失敬します」

いきなり出て行く。

初枝、失望する。


五四 廊下。

庄平、ふと廊下の壁の黒板に、

「日曜日、日直当番、小谷初枝訓導」と書いてあるのを見て、おやっと思い、引きかえす。


五五 教員室。

庄平、再びはいって来る。

庄平「失礼ですが、あなたが小谷初枝さんですか」

初枝「はあ」

庄平「実は僕は……失敬します」

出て行く。

あまい気持が初枝に残る。

庄平から渡された脚絆の紐に無意識に触っている。

パラリと解ける。その端を見た途端、初枝、笑いだす。

初枝「まあ……」

如何にもおかしそうである。

小使が窓の外を通っている。


五六 口縄坂。

誰もいない。

寂しい白昼の坂である。

やがて、清子が登って行く。

あとより慌てゝ登って行くのは、蜂谷十吉である。

十吉「尾形さん、尾形さん」

清子、ふりむく。

十吉、追いつく。

坂の途中である。坂の上では子供達の胴乗り遊び。

十吉「今日はあんたに別れを告げに来た」

清子「え?」

十吉「僕はあんたより一足先きに南方へ行く事になった、報道班員だ。あんたに会いたいために南方へ行くと思われても構わぬ、事実そんな気持がないでもない、然し行けば大いに働くつもりだ、あんたに会えなくても構わぬと思っている」

清子「…………」

じっと十吉を見つめる。

十吉「南方で僕に会うてもし雨が降っても、もう僕のせいじゃない、南方じゃ毎日雨が降る、スコールという奴だ、もう僕は雨男じゃない、今日は絶対に雨は降らせませんよ」

そう言い捨てゝ、また坂を降りて行く。

清子(思わず)「あ、蜂谷さん!」

呼びとめる。十吉ふりむく。

清子「向うで会いましょうね」

十吉、眼を光らせる。感激しているのだ。

清子、坂を登って行く。坂の上には胴乗り遊び。

そして、その露地の向うの通りを、荷物をもった鶴三、葉子、新吉の三人が通るのが、ほのかに見える。


五七 矢野名曲堂の表。

戸締りがしてある。

「時局に鑑み廃業、一家を挙げて産業戦士に転向仕候」

と書いた貼紙がしてある。

その前に庄平が佇んでいる。

音楽が聞えている。然し、それは近くのラジオ屋から聞えているラジオの音楽である。


五八 汽車の中。

鶴三、葉子、新吉の三人。

汽車、停る。

三人の座席にいた男が降りて行く。

ずっと向うに立っていた男が、飛んで来て、

「こゝ空いてまっか」

と、きく。

鶴三「どうぞ」

言って、顔を見る。

鶴三「よう」

夜店出しである。

夜店出し「なんや、あんたか」

葉子「おっちゃんも乗ったはったの」

夜店出し「大阪からずっと立ち通しやったんや。こゝにいるとは気がつかんかったな」

鶴三「で、どこへ……?」

夜店出し「名古屋までや」

鶴三「誰か名古屋の親戚でも死んだのかね」

夜店出し「阿呆らしい、働きに行くんや、名古屋の工場へ」

鶴三「へえ? いつ決心した?」

夜店出し「昨夜決心したんや。善は急げ思て誰にも挨拶せんと来たんや」

鶴三「こりゃ良い道連れが出来た。……我我も善は急げの方でな」

夜店出し「そんならチョボチョボやな」

新吉「ほな、おっさんもう夜店出せへんのんか」

夜店出し「今どき夜店出してぼや〳〵してられるかいな」

葉子「もう雨の心配なくなったな」

四人朗らかに笑う。


五九 神戸の工場の芝生。

 節子がかつて庄平と並んで腰かけた芝生に腰かけて考えこんでいる。バレーのボールが飛んで来る。節子それを拾って投げる。とたんに作業開始のベル。


六〇 作業室。

節子が真剣に働いている風景。


六一 中瀬古家の一室。

母親のお寿が、庄平に写真を渡す。

お寿「これですよ、こんなもの見る趣味はないと、お言いだった癖に……」

庄平「いや、一寸見て置きたいんで」

写真を見る。初枝の写真だ。

庄平、微笑する。

庄平「やっぱし、この人だ……お父さんはもう帰られましたか」

そわ〳〵している。

お寿「今日は日曜だし、お見合いだし一日おうちですよ」

庄平「なんだ」


六二 庄造の書斎。

庄平が滔々と話しこんでいる。

相手は勿論、庄造だ。

庄平「……で、あとはもう敷地だけの問題です、どこか健康地を見つけて、錬成場を作り、こゝへ虚弱児童を収容する訳です、何といっても重要なのは少国民即ち学童の健康問題です、現在の日本の学童の総てが健康であるとすれば、もう次の時代の日本は安心です、医者の不養生といいますが、僕はおかげで子供の頃からハシカ以外の病気は……」

庄造(遮って)「判った、お前の計画は今朝の新聞で読んだ、帰還軍人が虚弱児童の錬成に乗り出すという見出しで、激賞してあった、まず、わたしも賛成だ……お前、その新聞を見たろう?」

庄平「いゝえ」

庄造「自分の事を書かれていて、少しうかつだな」

庄平「あ、蜂谷十吉の仕業だな、あいつ絶対に書かないって約束して置きながら……けしからん!」

起ち上る。

庄造「どこへ行くんだ?」

庄平「新聞社へ電話かけて蜂谷に抗議申し込んで来ます!」(庄平出る)


六三 中瀬古家の電話室。

庄平、電話帳を調べている。

電話が掛って来る。庄平、慌てゝ受話機をとる。

庄平「もし、もし、はあ、そうです、中瀬古です、庄平は僕です、あなたは?」


六四 国民学校の小使室。

初枝が、電話を掛けている。

初枝「……あの……先程、巻脚絆をお預りした者ですが、はあ、そうです、小谷です……あの脚絆にはあなたのお名前が入っておりましたので、もしやお間違いではないかと思って、はあ、そうでしたか。やっぱりとり違えて……」

初枝、受話機を押えて、うふゝと笑う。


六五 中瀬古家の電話室。

庄平「わざ〳〵どうも、じゃ……あ、一寸! 突然ですが、僕はあなたと今夜見合いする事になってるらしいですね、処が僕は一生に一度しか見合いしない主義でして、なるべくなら、今日あなたと偶然お会いしたのを、見合いと思って頂きたいんです、で早速ですが、僕は及第ですか、落第ですか」


六六 国民学校の小使室。

初枝、赧くなって、もじ〳〵している。

初枝「はあ、あの、私……」


六七 中瀬古家の電話室。

庄平「勿論、あなたは及第ですが、いや、優等です」


六八 国民学校の小使室。

初枝、胸をときめかしている。


六九 中瀬古家の電話室。

庄平「僕のような、せっかちの、そゝっかし屋は落第ですか、あなたの点は辛いでしょうね……え、なんです? もう一寸大きな声で……え? 聞えません、もし、もし!」

受話機をガチャ〳〵鳴らせる。

庄平「もし、もし、聞えません、故障じゃありませんか、そちらの電話、もし、もし!」

受話機を掛けて電話室を飛び出す。


七〇 口縄坂。

庄平が、降りて行く。

初枝、登って行く。

ばったり会う。

両人、立ちすくむ。

やがて、庄平、巻脚絆を渡す。

庄平「電話有難う、じゃ、これをお渡ししてくれませんか、もう、間違ってませんから、安心して下さい」

初枝「はあ、たしかに」

庄平「ところで、僕は落第ですか、及第ですか、電話が途中で切れたので、聞えなかったんですが」

初枝「はあ、あの……」

子供達が喧しくさわぎながら坂を登って行く。初枝に挨拶しながら。

庄平「あなたは点の辛い先生でしょうね、僕のような、せっかちの、そゝっかし屋はやっぱり落第ですか」

──間──

初枝(思い切って)「国民学校には落第はございませんわ」

庄平「そうですか、それでは、あなたに一つ聴いて頂きたい事があるんです、僕はあなたに僕の仕事を手伝って頂きたいんです、医者の不養生といいますが、僕は子供の頃から、ハシカ以外の病気はした事はないんです、強いて他に病気だといえばそゝっかしい……」

庄平、滔々と喋る。その言葉にかぶせて音楽──

カメラ遠ざかる。

底本:「俗臭 織田作之助[初出]作品集」インパクト出版会

   2011(平成23)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「映画評論 第一巻四号」

   1944(昭和19)年4

初出:「映画評論 第一巻四号」

   1944(昭和19)年4

入力:kompass

校正:小林繁雄

2013年510日作成

青空文庫作成ファイル:

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