俳句は老人文学ではない
室生犀星



 萩原朔太郎君がいつか「詩に別れた室生君へ」と題した僕に宛てた感想文のなかに、特に俳句が老年者の文学であつて恰も若い溌溂とした文学作品でないことを述べてあつたが、僕はこれを萩原君に答へずに置いたのは、この問題を釈くことが可成りに面倒であり簡単に言ひ尽せないからであつた。『俳句研究』からの註文で「俳句は老年者文学であるかないか」に就いて何か書いてくれとの事で、萩原君に答へることも出来るし、ゆつくりこの問題を考へて見ることにした。専門のことでないから間違つてゐたら笑つて読み捨てられたい。実際、俳壇の情勢を知らない私が今日の俳句を云々するのはどうかと思ふが、私は私の俳句道の経験から色々に考へて見たい。そしてこの文章もおもに萩原君あてに書いて見ることにしたいが、何度も萩原君と応酬したから同君もめんだうであらうと思ひ、僕も気が引けるのである。はじめ僕は「詩よ君と別れる」といふ一文を雑誌『文藝』に書いたが、萩原君はそれに応酬してつまり詩に別れた僕を送る辞をかいてくれたが、そのなかに分り兼ねる気持もあつたので更に僕は時事新聞で答へて置いたのである。却つて僕の一文よりも萩原君の何やら悲愴な文章が時の批評によつて掻き立てられ評判になつたが、それは詩と別れる私を送るかたはら、萩原は萩原らしい孤独の感銘を述べたものであつた。俳句文学については私は何もいはず、これは機会ある時に述べようと取つて置いた問題なのだ。だから毎度引合に出すのは萩原君には気の毒であるが、それだからと言つて萩原君の考へをそつくり肯定することも出来ないのである。彼は蕪村を認めるが芭蕉はあまり好かないと言ふのは、おそらく蕪村の闊達さを愛してゐるためであつて、芭蕉がともすると陰気くさく見えるのを好かないせゐであらう。蕪村と芭蕉の比較はここでしないが、大体に於て萩原君の「俳句は閑人や風流人の好む文学形式であつて同時に老成者の愛する文学」であることが殆ど根本的に考へ違つてゐることや、さういふ考へをもつことは俳句道のために鳥渡ちよつと困る問題であるから、それを突き破つてなにが俳句が老成者の文学でないか、むしろ俳句ほど若々しい文学は他にないことを、私は述べたいのである。そして今日では音楽、絵画、彫刻などがその芸術的形式の高邁さにもかかはらず、凡ゆるラヂオや展覧会などで売買されてゐるのに、ひとり俳句作品だけが何故に理由なき孤高をつづけてゐて、物質的にも活動してゐないかを述べたいと思ふのである。それであるから時代と隔つた感覚を以て眺められてゐるのではないかと、言へるのだ。

 俳人も生活者でありその苦汁をめてゐるものであるに拘らず、あまりに温厚で控へ目なのはどうしたことであらう。他の奈何いかなる芸術作品に較べて見ても、最も形式が狭小であり作品の数もすくないのに、それの市価の決定されてゐないのはどうか。そしてさういふ習慣に引きずられて、誰も進んで生活者としての原稿料乃至揮毫料を取るを潔しとしないのは、どういふものか。──さういふ問題も加へて考へて見たいのである。


 俳句の精神に若さがあるかないか。それを一番先に考へて見ると俳句ほど精神に若さ初々しさを持つてゐる文学はすくない。十四五の少年でも俳句のなかに飛び込んで表現する事ができる。俳句の方でも喜んで幼い人々にその身を委してくれるのだ。短歌などはさうはゆかない、一と通り幼穉は幼穉であつても技巧や表現規約を踏まなければならぬ。詩になると一そう詩の方で人嫌ひをするやうに境致が広いから、すぐには取りつくことができないのだ。そこへ行くと俳句は美事に誰でも容れてくれるのである。歳時記といふものがあつてそれぞれ子供らしいくらゐ沢山の題意を展げ、どれにでも自然人事の生活を結びつけることができるのだ。その精神は子供らしいくらゐ素直な若さが漂うてゐる。

 萩原君は大方漠然とした考へで俳句は年寄り臭いしろものであり、今までに大抵の人々がこの文学を愛した原因は老人とか閑人とかであつたからさう考へたのではなからうか。むしろ詩が青年の魂によつてよく歌はれてゐるに較べて、俳句はちつとも青年に愛されてゐないことを指摘するついでに、だから老人文学と言つたのではなからうか。つまり決定的な在り来りの概念がそのまま消化されずに、ちよいとした不用意の間にさう述べられたものに違ひないと思はれる節がある。私なぞも俳壇から三四年遠ざかつてゐながら、時々俳壇に気をつけて見ると何か変つてゐるところがある。だから専門家でない萩原氏の考へが、近代の俳句作品の検討からかなり縁遠いことも無理はないと思へるのだ。私は意地わるくさういふところを突ツ込みたくないのだ。ただ、も一つ言へば俳句精神といふものを芭蕉流にいつまでもわびとか枯淡なゆめばかり見つづけてゐるやうに、そと側から見ただけに早合点して言つたものではなからうか。萩原君は日野草城氏の俳句作品を見たことがあるだらうか。あれらのふつくりした将来を約束した表現が、わびや枯淡の囈言づくめの俳壇にあらはれてゐることに気がついてゐるのであらうか。若しまだ読んでゐないならばここに引用して見ることにしよう。


けふよりのと来てつる宵の春

夜半の春なほ処女なると居りぬ

枕辺の春の灯は妻が消しぬ

をみなとはかかるものかも春の闇

薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ

妻の額に春の曙はやかりき

麗らかな朝の焼麺麭トーストはづかしく

湯あがりの素顔したしく春の昼

永き日や相ふれし手はふれしまま

失ひしものを憶へり花曇


 これらの表現は過去に於て甚だ危なかしい困難なものにされてゐて、誰も手をつけなかつた素材でもあつたのである。若しくは手をつけてもこれほど焚き立ての飯のやうにふつくりと手盛りには出来なかつたのだ。日野草城氏はそれを美事に踏みやぶつたのだ。だが日本の俳壇ではこれくらゐの表現はとうに飽かれてしまつてゐて、萩原氏の詩集なぞを繙くと、十五年も前にこれらの「ふつくり」したものを歌ひつくしてゐるのである。それであるのに、なぜ私が感嘆したかといへば詩で表はしたものはきりつとしてゐないし、どこか間伸びしたものに見られるのである。しかし日野氏の俳句作品としてこれらの表現意力は、実によく迫つてゐるのだ。三十枚くらゐの小説でもよくこれだけに迫ることができるかどうかは疑問だ。萩原氏の詩が十五年前に歌つてゐることは別問題だ。けふ、これだけの柔らかい自在な言ひ廻しで抜手を切るといふことは、全く呼吸づまる俳壇をほつとさせたものに違ひあるまい。或ひは他に素晴らしい新人の作品があるかも知れぬが、実際、私は日野氏のこの「ミヤコ・ホテル」を見て、ここまでよく漕ぎつけたものだと考へたくらゐである。これは日野草城氏ばかりの問題ではなく彼が示したものを、今日の俳壇全体からしぼり出した一滴乃至二滴の良き滴りと見ていいのである。そしてこれが最も今日の俳句が進み得たものとして考へ、それが比較的健康な文学作品であつて、俳句の精神もここらにも充分にみなぎつてゐたことを知りたかつたからである。作家はいつも何かを切りひらくことや改易することや、また別のものを掘り当てなければならぬものとしたら、日野氏はそれの仕事の一つをやつて退けたのだ。十五年前に詩が既にやり通したものをやつと追ひついて表はしたのである。しかし彼のやつた仕事はだらけた詠嘆みたいなセンチメンタルの滂みたいなものであつた。彼のやうに美しい豊潤な吃驚するやうな効果的な作品ではなかつたのだ。日野氏の作品が存在するといふことは俳壇といふ大きな「頭」が幾らかよくなつたともいへるのである。

 萩原君は或ひは超然として「ミヤコ・ホテル」を問題にしないかも知れない、しかし問題にしなければならぬ筈の作品なのだ。これを黙つて通り抜けるといふことは今日の俳壇をまるで呑み込んでくれないと同じであるからである。意味で重大な通り抜けのならない「ミヤコ・ホテル」なのである。つまり「ミヤコ・ホテル」が近代俳句の精神を美事に切りひらいたものであり得たら、俳句は老成者のものでないことに気がつくのだ。俳句は老人の片手間であつたといふことは昔からの伝説であつて、壮年者の一番良い健康の時期に於て人々から制作されてゐるといふこともわかるのである。かういふ問題は大した理窟を理窟として捏ねる必要があるものだ。評論家はよくそれをやつて喝采を拍するものだが、私はそれらの理窟を骨抜きにしてかかりたい。正味をはかつて見てからものを言ひたいのである。つまり「ミヤコ・ホテル」の正味は今日に於ては明瞭に俳句精神が老年者の遊び文学でなかつたことを意味するのである。芭蕪、蕪村、凡兆、子規、碧梧桐と数へて来ても、皆、壮年期に俳句精神と格闘してゐたのである。成程彼らは風流とか、わび、さび、しをりの心は求めてゐたけれど、よぼよぼ腰の老人芸のなかに匿れてはゐなかつた。むしろ元気横溢するところの気魄で、何も彼も打つかつて行つたのである。そして凡ゆる芸術的衝動がさうであるやうに老いぼけて、氷のやうに磨き澄された俳句道が歩けるものではない。むしろ若い気魄をもつ壮年者の間に俳句が育てられて行つてこそ、「ミヤコ・ホテル」が生れるのであらう。

「ミヤコ・ホテル」は今日に於ては単純な一つの現象として見てもいいのであるが、しかしそれには将来を暗示するに余りにも多くの意味を含んでゐるのである。我々の飢ゑてゐたものは「ミヤコ・ホテル」では決してなかつたけれど、何やら「ミヤコ・ホテル」の内容や素材や表現やらがどうやら我々の考へてゐたものに近づいてゐたことを、感じるからだ。この作品に非難を加へることはできるが、それほど骨格に美しさ柔らかさ、新鮮さがあるのである。

 俳句がどうにかして新しくなりたいといふ願ひを持ち、百万の俳人が群がつて発句を攻撃してゐるやうなものであるが、子規以後に彼ほどに旗幟鮮明な勢ひをもつて発句城に迫つたものはない、──そして今日でも句壇は変らうとし新しくならうとして、悲しい身悶えを続けてゐるだけであつて、実際は却々変れもしないし新しくもなれないのだ。何時までそれが続けられるか疑問ではあるが、何時かは俳句も変り新しくなるときがあるのであらう。その「何時か」が却々やつて来ないのである。俳句自身が生きものであつたら、俳句自身さへ苦しい呼吸を吐いてゐる訳だ。何かのために変つて了はなければ二百年の脱皮が叶はぬのである。いつかは変ることは信じられるし、現に変りつつあることにも気がつくのだ。只、私は待ち遠く、そして待ちくたびれてヘトヘトになつてゐるくらゐである。待つて甲斐のあることとは信じられないのだが……。


 茲に考へなければならぬことは俳句作品に従事するほどの人々は、大抵、俳句を職業としてゐないことである。俳句を書いて色紙短冊を売ることすら幾らか顔を赧らめるほどの謙抑な人々なのである。原稿は一枚幾らといふ紙幣に換算されるのに、何故色紙短冊に金を取つて悪いのであらう。何故、俳人諸氏は短冊の希望者に紙幣を要求しないのであらうか。恥かしい気持があるのか、但しは昔からのしきたりで取りにくい為に取らないのであらうか。これを打ちまけていへば俳句精神の神聖さを感じ過ぎてゐて、本統に職業として俳句を取扱つてゐないからである。後めたい不本意な、何やら極りのわるい気持でそれをハツキリ言はないのだ。原稿料を文士は平然として取るやうに俳人は悠然として染筆料を取らねばならぬのだ、それは文士は雑誌社とか新聞社とかいふ機関に向つてそれを要求するからしやすいが、短冊色紙の希望者は大抵個人が多いから取りにくいらしい、併しそれを突破しなければ純粋な俳人はどうして食つて行けるのだ。色紙短冊の希望者は菓子折などを携げて行くよりも天下の紙幣を包んで、原稿料として引換へに短冊を受取るべきである。あはよくば只で書いて貰へるなどと吝なことを考へるなかれ。俳人が俳句で食ふのに何の恥かしさがあるのだ。俳句ももつと生活苦のなかをくぐり抜けなければ、磨かれずに終つて了ふのだ。天下の俳人にただで短冊をかいてもらふ考へをもつやうな人は、心から恥ぢて引きさがるべきである。

 雑誌『曲水』に河東碧梧桐氏があれほどの大名と仕事をされてゐながら、赤貧に甘んじて居られるといふ小泉迂外氏の文章をよんで、私はこれもどうにもならぬことながら終日怏々として楽しまなかつた。碧門の人々の活動によつて一万円くらゐ集めて碧師におくることくらゐは出来ないのか。天下の俳句道からこれくらゐのことをやる人がゐないのか。小学生が古新聞を一人が十枚くらゐづつ持ちよつて飛行機を作りあげたといふが、天下の俳人がその何々派にかかはらず我が碧梧桐氏のために一万円ぐらゐは何でもないではないか。さういふ美挙は俳句道だけで許される事がらであつて、さうあらねばならぬのだ。碧梧桐氏はからからと笑つてそれを平然として受取られるべきである。

 他の文学範囲と異つて俳句作品に従ふ人々は悉く実証的な生活者であり、家庭を経営する人々であるのである。そして壮年期の魂をもつ人々なのだ。ナマ若い詩や歌にはいり切れない心には重いものを負ひ、その重いものを片づけるために俳句の精神にくぐり込まうとしてゐるのである。そんな老年者の手あそびのやうな生やさしいものではないのだ。

 他に職業を持つてゐるために句を作るといふことが外側から遊びのやうに見られるが、実際、俳句の制作は何時も苦しまねば生れないのだ。形式は狭小ではあるけれどそれだけ苦汁を吐くごとき状態もつづけなければならぬのだ。単に俳句を作るといふやうなノンビリさはそこにはう見えなくなつて、凡ゆる芸術制作の苦しさばかりがあるのである。この方向を見ても決して俳句が老人文学でないことが判るのだ。

 では青年はなぜ俳句に気根を持つて集らぬか。和歌や詩や小説ほどに何故群がつて俳句に投じないかといへば、俳句には色気がないことに原因するのだ。情操が盛りきれないことを不満に感じるのだ。ぼんくらの俳句観はかういふふうに後退あとずさりするのだ。「ミヤコ・ホテル」の表現効果の美事さにまで行き着けないでゐるうちに、俳句に色気がないと定めてしまふのである。或ひは今後の俳句の切りひらいて行くところは小説の畠であるかも知れないのだ。性慾を根こそぎ抜いてしまつた去勢されてゐた俳句に、肉がつき色気がつき、ぽつちやりとしてこそ、その方向に明るみを見ることになるかも知れないのである。今までそつとして置いた生活情勢や心理描写などの方面から、まるで俳句が生れ変つたやうに多くの素材のなかを突き抜けてゆくかも分らないのである。陳腐な自然観照と用語の常套的な繰り返しから解放されて行き、夥しい生活を拓いてゆくことが標準されなければならないのである。若しこの気持を再考することなしにノラクラと今までと同じい道を歩くやうなことになれば、俳句は何時までも今のやうに渋滞して進むことができなくなるのである。調子の破壊や表現形式を叩き壊すことは、ずつと後に考へることであつて肝心なことは素材を広くにあさることである。もつと心理的な描法によらねばならぬのだ。俳句を救ふ道はこれ一つしかない。古典研究も一つの標準なしに行はれたらやはり在り来りの評釈としかならないのである。取りわけ愚にもつかない形式破壊なぞを何十年続けてゐても、俳句は十七文字にきつと戻つてくるのだ。時計の針のやうに舞ひもどつて来るのだ。それほど磁石のやうに正確な形式文学としての伝統はこれを破壊するほど愚劣さを繰り返されるばかりなのだ。


 俳句が老人文学でないことを私は述べて来たが、何時かも私が書いたやうに俳句ほど「思ひ出す文学」はちよいと見当らない、四五人の人々がよく寄りながら発句でも作つて見るかな、と簡単に戯談じようだんのやうにいふのであるが、併しその次の瞬間にはそんな戯談は決して言はなくなり、そして発句が口でいふほどしかく簡単には作れないといふ事実を発見するのである。這入りやすいものが奈何に実際的にはいり切れないものであるかに気がつくのだ。そして戯談といふものが言つたあとでいかに味気ないものであるかに、注意するやうになるのだ。俳句はそのやうに平明でそして何処かに柔らかい厳格さをも髣髴させてゐるのである。「一つ俳句でもつくつて見るかな」といふ軽快な戯談はもはや通らないのである。「俳句は作るほど難しくなる。」といふ嘆息がつい口をついて出て来るやうになると、もう俳句道に明確にはいり込んでゐるのだ。どうか皆さん、「俳句でも一つ作つて見るか、」などといふ戯談は仰有らないやうに、そして老人文学なぞと簡単に片づけてくださらないやうに。

底本:「日本の名随筆 別巻25 俳句」作品社

   1993(平成5)年325日第1刷発行

   1999(平成11)年1120日第6刷発行

底本の親本:「室生犀星全集 第六巻」新潮社

   1966(昭和41)年12

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2015年72日作成

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