あやかしの鼓
夢野久作



 私は嬉しい。「あやかしのつづみ」の由来を書いていい時機が来たから……

「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や躑躅つつじちがって「あやになった木目を持つ赤樫あかがし」で出来ているところからもじったものらしい。同時にこの名称は能楽でいう「妖怪アヤカシ」という意味にもかよっている。

 この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻のない……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。

 この音は今日こんにち迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。

 これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私──音丸久弥おとまるきゅうやと認めたのは無理もないことである。私はその最後の一人として生き残っているのだから……。

 私はお願いする。私が死んだのちにどなたでもよろしいからこの遺書を世間に発表していただきたい。当世の学問をした人はあるいは笑われるかも知れぬが、しかし……。

 楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。

 そう思うと私は胸が一パイになる。


 今から百年ばかり前のこと京都に音丸久能くのうという人がいた。

 この人はもとさる尊とい身分の人の妾腹しょうふくの子だという事であるが、生れ付き鼓をいじることが好きで若いうちから皮屋へ行っていろいろな皮をあつらえ、また材木屋から様々の木をあさって来て鼓を作るのを楽しみにしていた。そのために親からはうとんぜられ、世間からはさげすまれたが、本人はすこしも意としなかった。その後さる町家から妻を迎えてからは、とうとうこれを本職のようにしてうえがたに出入りをはじめ、自ら鼓の音にちなんだ音丸という苗字を名宣なのるようになった。

 久能の出入り先で今大路いまおおじという堂上方どうじょうがたの家に綾姫あやひめという小鼓に堪能な美人がいた。この姫君はよほどいたずらな性質たちで色々な男に関係したらしく、その時既に隠し子まであったというが、久能は妻子ある身でありながら、いつとなくこの姫君に思いをがすようになった揚句あげく、ある時鼓の事にせて人知れず云い寄った。

 綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた鶴原卿つるはらきょうというのへかたづくこととなった。

 これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入こしいれの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。

 これがのちの「あやかしの鼓」であった。

 鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。

 綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。

 綾姫はその後何と思ったか、一室ひとまに閉じこもってこの鼓を夜となく昼となく打っていた。そうして或る朝何の故ともなく自害をして世を早めた。するとそれを苦に病んだものかどうかわからぬが、鶴原卿もその後病気勝ちになって、或る年関東へお使者に行った帰りみちに浜松とかまで来ると血を吐いて落命した。今でいう結核か何かであったろう。その跡目は卿の弟が継いだそうである。

 しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、生憎あいにくその頃召し抱えられた左近という若侍に見付けられて肩先を斬られた。そのまま久能は鼓を取り得ずに逃げ帰って間もなく息を引き取ったが、その末期いまわにこんなことを云った。

「私は私があの方に見すてられて空虚うつろとなった心持ちをあの鼓のにあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通なみの鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっともうらんだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私ののみしか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵まきえまで宝づくしにしておいた。あれはお公卿くげ様というものが貧乏なものだから、せめてあの方のかれたうちだけでも、お勝手許かってもとの御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」

 これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。


 しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱におさめて、土蔵の奥に秘めて虫干しの時にも出さないようにした。それと一緒に誰云うとなく「あやかしの鼓」という名が附いて、その箱の蓋を開いただけでも怪しいことがある……その代りこの鼓を持ち伝えてさえおればうちの中に金が湧くと言い伝えられた。そのおかげかどうかわからぬが、その後の鶴原家には別に変ったこともなくかえってだんだんと勝手向きもよくなって維新後は子爵を授けられたが、大正の初めになると京都を引き上げて東京の東中野に宏大なやしきを構えた。

 これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家にかたづいたあとで、血統ちすじが絶えそうになったが綾姫の隠し子があったのを探し出して表向きを都合よくして、やっと跡目を立てたような始末であった。しかしその後次第に零落してしまって維新後はどうなったか、わからなくなっているという。

 こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の久伯きゅうはくと、その子の久意きゅういは久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮しているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。

 この久能の孫の久意が私の父であった。

 私の父は京都にいる時分から鼓の修繕ていれや仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職てしょくが出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄きゅうろくというのは生涯音信不通で、六ツの年に他家よそへ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土つくど八幡の近くに小さなうちを借りて住まわせて下すったので父はやっと息をいたという事である。

 しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病にかかって大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。

 その死ぬすこし前のことであった。

 私が復習おさらえを済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、

「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」

 と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。

 ……ところで……

 と父は白湯さゆを一パイ飲んで話し続けた。

「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。

 すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳はたちばかりの若い美しいはいからさんが来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさんはその時こんなことを云った。

『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしてもが出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』

 と云うんだ。おれは試しに、

『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』

 と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、

『赤ん坊のような名前だったと思います』

 と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪べっぴんさんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれはふるえ上った。これは只の鼓じゃない。祖父じいさんの久能の遺言は本当であった。鶴原家にたたるというのも嘘じゃないと思った。

 とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘をいた。

『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞しまいおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっとが出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦カンニュウがあまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』

 これは家業の一番むずかしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多にいてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。

わたしもおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切だいじにして仕舞っておきましょう』

 って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。

 けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。

 鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんがまらないために三十まで独身ひとりみでいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初みそめたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性すじょうがわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。

 ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守のに、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布あざぶ笄町こうがいちょうに病室を兼ねた小さなうちを建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。

 そうすると鶴原の未亡人ごけさんは、そのあとへ、自分のおいとかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちをおこってしまって、おかみに願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡わかごけのツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶たえたと同様になってしまった。

 おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせいだと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。

 けれども俺はお前に云っておく。お前はこれからのち、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担ごへいかつぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。

 そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人きちがいになるか変人になるかどっちかだ。

 お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。

 おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。

 いいか……忘れるな……」


 私はお伽噺とぎばなしでも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔おとなしくうなずいてばかりいた。

 父は安心したらしかった。


 その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。

 老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。

 若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓のジメのよかった事、東京や京阪で催しのあるごとに一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳はたちであったが着のみ着のままで遺書かきおきなぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。

「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。

 しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只無暗むやみに可愛がって下さるばかりであった。

 けれどもうちうちだけに鼓のは朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の音〆ねじめはほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……又は幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。

 私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。

 しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。


 こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、

「ウム。よしよし」

 とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。

 そのという音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。

「どうだ鼓を習わないか」

 と老先生は真白な義歯いればを見せて笑われた。

「ハイ、教えて下さい」

 と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で「三ツ」や「続け」の手を習った。

 けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。

「大飯を喰うから頭が半間はんまになるんだ。おさんどん見たいにほっペタばかり赤くしやがって……」

 なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。──鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう──なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。

 その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のおへやであった。その席上で老先生の親類らしい胡麻ごま塩のおやじが、

「早く御養子でもなすっては……」

 と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。

「サア。やす(若先生)のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」

 とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。

 私はこの時急に若先生に会って見たくなった。──きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。そのがききたいな──と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、

「その久弥さんはどうです」

 と胡麻塩おやじが又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。

「イヤ。これはいわば『鼓のおし』でね……調子がちっとも出ないたちです。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。

「そのはものになりましょうか」

 と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。

「物になった時は名人だよ」

 と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。


 みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの羊羹を出して下さった。そうして長い煙管きせる刻煙草きざみを吸いながらこんなことを云われた。

「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いいが出せるのに調子紙を貼ったりがしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」

 私はおめず臆せず答えた。

「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」

「フーン」

 と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。

「じゃどんな音色が好きなんだ」

「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」

「……フーム……おれの鼓はどうだえ」

「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」

 老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、眼をショボショボと閉じたり明けたりされた。

「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。

「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」

「飛んでもない」

 と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。

「あの鼓を出すとあのうちに不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」

 私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。

「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。


 それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣あとつぎにきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。

 しかし私は落胆がっかりした。──とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯下手糞へたくその御機嫌を取って暮さなければならないのか。──と思うとソレだけでもウンザリした。──老先生の御恩に背いてはならぬぞ──と、いつも云って聞かせた父の言葉がうらめしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増いやました。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢はかない空想であった。

 私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。

 こうして大正十一年──私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、

「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬ちりめんの風呂敷包みを渡された。

 鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、

「誰にも知れないようにするんだよ。うちは笄町の神道本局の筋向うだ。もみの木に囲まれた表札も何もないうちだ」と眼をしばたたかれた。

 私は鳥打に紺飛白こんがすり小倉袴こくらばかま、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯ほおばの足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。

 麻布笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にもひのき作りの玄関にも表札らしいものが見えず、軒燈の丸い磨硝子すりガラスにも何とも書いてない。このうちだと思いながら私は前の溝川に架かった一間ばかりの木橋を渡った。

 玄関の格子戸をあけると間もなく障子しょうじがスーッといて、私より一つか二つ上位に見える痩せこけた紺飛白の書生さんが顔を出して三つ指をついた。髪毛かみのけをテカテカと二つに分けて大きな黒眼鏡をかけている。

「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」

 と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。

 書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを奉書ほうしょに包んだもので黒の水引がかかっていて、その上に四角張った字で「妙音院高誉靖安居士……七回忌」と書いた一寸幅位の紙切かみきれが置いてあった。

 私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。

 そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、

「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」

 と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。

「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」

 私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのないへやに連れ込んだ。見ると八畳の間一パイに新聞や小説や雑誌の類が柳行李やなぎこうりや何かと一緒に散らばっていて、真中の鉄瓶のかかった瀬戸物の大火鉢のまわりすこしばかりしか坐るところがない。書生さんはそこいらに散らばっている茶器を押しけて、奥から座布団を持って来て私にあてがうと、

「私は妻木つまきというものです。鶴原の甥です」

 と挨拶をした。

 さてはこの人がそうかと思いながら私は改めて頭を下げていると、妻木君はその物ごしのやさしいのにも似ず、私が見ている前で杉折りをグッと引き寄せるとポツンと水引を引き切った。オヤと思ううちに蓋をあけて中にある風月のモナカを一つつまんで自分の口に入れてから私の方にズイと押し進めた。

「いかがです」

 私は少々度胆を抜かれた。しかしそのうちに妻木君の唇の両端が豆腐のように白くただれているのに気が付くと、やっとわかった。妻木君は甘い物中毒で始終こんなことをやっているのだ。そのために胃をメチャメチャに壊しているのだ。そうして、かかり合いにするつもりで私を呼び上げたものらしい。用事とはこの事かと思うと私は急にこの青年と心安くなったような気がしてすすめられるままに手を出した。

 ところが妻木君の喰い方の荒っぽいのには又流石さすがの私も舌を捲かれた。初めに四つ五つ私を追い越して喰っているばかりでなく、私が三つ喰ううちに四つか五つの割りで頬張って飲み込むので、見る見るうちに箱の半分以上が空っぽになってしまった。

 私はとうとうかぶとをぬいで茶を一パイ飲んだ。すると妻木君はあと二つばかり口に入れてから、うしろの書物の間から古新聞を出して、その中に残ったモナカの二十ばかりをザラザラとあけてグルグルと包んで書物のうしろに深く隠した。それから杉折りを取り上げるとペキンペキンと押し割ってまきのように一束にして、戒名と一緒に奉書の紙に包んだ上から黒水引きでグルグル巻きに縛った。

「どうも済みませんが……」と妻木君はそれを私の前に差し出した。

「これをお帰りの時にどこかへ棄ててくれませんか」

 それを私が微笑しながら受け取ると、妻木君の顔が小児こどものように輝やいた。そうして前よりも一層丁寧に云った。

「それからですね。ほんとに済みませんけどもこの事はお宅の先生へも秘密にしてくれませんか」

 私は思わず吹き出すところであった。

「ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です」

「有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません」

 と云いつつ妻木君は不意に両手をついて頭を畳にすりつけた。

 その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は狂気きちがいで死んだというがこの青年も何だか様子が変である。ことによるとやっぱり「あやかしの鼓」に呪われているのじゃないかと思った。

 しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。

「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。このうちに又来ることがあるかないかはわからないのだから」

 と考えたが一方に何だか恐ろしく気がとがめるようにもあるので、心の中で躊躇しいしい妻木君の顔を見ていると、妻木君も黒い眼鏡越しに私の顔をジッと見ている。そうして何の意味もないらしい微笑をフッと唇のふちに浮かべた。私はその笑顔に釣り込まれたようにポツンと口を利いた。

「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」

 妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。

「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」

「……………」

 妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。

「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」

「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。

「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にしてでっち上げたろくでもない伝説なんです。根も葉もないことです」

「そうじゃないように聞いているんですが」

「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。が出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……」

 私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。

「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人からだまされていらっしゃるのです。その職人はこのうちのおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」

 と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカのつぶあんのくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。

 私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。

 けれどもそれはほんの一寸ちょっとのことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落ち付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕をんでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。

「承知しました。お眼にかけましょう」

「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居いずまいを直した。

「けれども今日は駄目ですよ」

「いつでも結構です」

「その前にお尋ねしたいことがあります」

「ハイ……何でも」

「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」

 私はこの時どんな表情かおつきをしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。

「……どうして……それを……」

 妻木君は深くうなずいた。悄然しょうぜんとして云った。

「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのおうちの若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」

 私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。

「……若先生は伯母おばからあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……このうちへ来られてその鼓を打たれたんです。それからこのうちを出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」

「若先生は生きておられるのですか」

 と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。それから静かに云った。

「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」

「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」

「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」

 私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。

 それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながらうやうやしくきいた。

「それからあなたは……どうなさいましたか」

 妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。

「私はこの事をきくと腹が立ちました。たかの知れた鼓一梃が人の一生を葬るようなを立てるなんてしからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生のかたきを取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめてに来ました」

「……で……その鼓をお打ちになりましたか」

 と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は自烈度じれったくなって又問うた。

「その鼓はどんな恰好でしたか」

 妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。

「僕はまだその鼓を見ないのです」

「エッ……まだ」と私は呆気あっけにとられて云った。

「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」

「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。

「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」

「じゃ何故あなたに隠されるのですか」

 と私は矢継早やつぎばやに問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀だちの気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。

「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」

「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」

 と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。

「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」

「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」

「いいえ絶対に……」

「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」

 この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥はにかんだ表情をしたが、やがて口籠くちごもりながら弁解をするように云った。

「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬をんで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」

「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」

「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」

 と云うと妻木君は悄然しょんぼりとうなだれた。

「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車かざぐるまのように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。

 しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。

 私は殆んど最後の勇気を出してきいた。

「じゃ全くわからないのですね」

「わかりません。わかれば持って逃げます」

 と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。

「こっちへおいでなさい。うちの中をお眼にかけましょう。そうすれば伯母がどんな性格の女だかおわかりになりましょう。ことによると違った人の眼で見たら鼓の隠してあるところがわかるかも知れません」

 と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされてへやを出た。


 応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキのがある。妻木君は右へ曲って私を台所へ連れ込んだ。

 それは電気と瓦斯ガスを引いた新式の台所で、手入れの届いた板の間がピカピカ光っている。そこの袋戸棚からかまどの下とその向う側、洗面所の上下の袋戸、物置の炭俵や漬物桶の間、湯殿と台所との間の壁の厚さ、女中部屋の空っぽの押入れ、天井裏にかけた提灯ちょうちん箱なぞいうものを、妻木君は如何にも慣れた手付きで調べて見せたが何一つ怪しいところはなかった。

「女中はいないんですか」と私は問うた。

「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜やかましいので……」

「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」

「いいえ。僕です」

「ヘエ。あなたが……」

「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」

 と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。

 ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向って一面に硝子障子ガラスしょうじがはまった廊下へ出て、左側の取っ付きの西洋間の白いドアを開くと妻木君は先に立って這入った。私も続いて這入った。

 初めはあまり立派なものばかりなので何のへやだかわからなかったが、やがてそれが広い化粧部屋だということがわかった。うっかりするとすべり倒れそうなゴム引きの床の半分は美事な絨毯じゅうたんが敷いてある。深緑のカアテンをかけた窓のほかは白い壁にもドアの内側にも一面に鏡が仕掛けてあって、室中へやのものがてしもなく向うまで並び続いているように見える──西洋式の白い浴槽ゆぶね、黒い木に黄金色きんの金具を打ちつけた美事な化粧台、着物かけ、タオルかけ、歯医者の手術室にあるような硝子ガラス戸棚、その中に並んだ様々な化粧道具や薬品らしいもの、へやの隅の電気ストーブ、向うの窓際の大きな長椅子、天井から下った切り子細工の電燈の笠──。

 妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。

「この室も不思議なことはないんです」

 と妻木君は私の顔を見い見い微笑してドアを閉じた。そうして次に今一つある西洋間の青いドアの前を素通りにして一番向うの廊下の端にある日本間の障子に手をかけた。

「この室は……」と私は立ち止まって青いドアを指した。

「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」

 と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。

「ヘエ……」

 と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて内部なかをのぞいた。

 青黒く地並になった漆喰しっくいの床と白い古びた土壁が向うに見える。あかり窓はずっと左の方に小さいのがあるらしく、その陰気で淋しいことまるで貧乏病院の手術室である。隣りの化粧室と比べるととても同じ家の中に並んで在る室とは思えない。

「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」

 妻木君は冷笑あざわらっているらしかったが、その時に私の眼に妙なものが見えた。それは正面の壁にかかっている一本の短かい革製の鞭で、初め私は壁の汚染しみかと思っていたものだった。

「その室で伯父おじは死んだのです」

 という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を退けた。同時に妻木君の顔一面に浮んだ青白い笑いを見ると身体からだがシャンとこわばるように感じた。むろん今の鞭の事なぞ尋ねる勇気はなかった。

「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」

 私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った──このうちにはこれ切りしか室がないのだ──と思いながら……。


 奥の一室ひとまの新しい畳を踏むと、私は今まで張り詰めていた気分が見る見るゆるんで来るように思った。

 青々とした八畳敷の向うに月見窓がある、外には梅でも植えてありそうに見える。

 その下に脚の細い黒塗りの机があって、草色の座布団と華奢きゃしゃな桐の角火鉢とが行儀よく並んでいる。その左の桐の箪笥の上には大小の本箱が二つと、大きな硝子ガラス箱入りのお河童かっぱさんの人形が美しい振り袖を着て立っている。

 右手には机に近く茶器を並べた水屋みずやと水棚があって、壁から出ている水道の口の下に菜種なたね蓮華草れんげそうの束が白糸でわえて置いてある。その右手は四尺の床の間と四尺の違い棚になっているが床の間には唐美人の絵をかけて前に水晶の香炉を置き、違い棚には画帖らしいものが一冊と鼓の箱が四ツ行儀よく並べてある。その上下の袋戸と左側の二間一面の押し入れに立てられた新しい芭蕉布のふすまや、つつましやかな恰好の銀色の引き手や、天井の真中から下っている黒枠に黄絹張りの電燈の笠まで何一つとして上品でないものはない。

 私は思わず今一度溜め息をさせられた。

「これが伯母の居間です」

 といううちに妻木君は左側の押し入れの襖を無造作にあけて、青白い二本の手を突込んで中のものを放り出し初めた……縮緬ちりめんの夜具、緞子どんすの敷布団、麻のシーツ、派手なお召のき、美事な朱総しゅぶさのついたくくまくらと塗り枕、墨絵を描いた白地の蚊帳……。

「ええ……もう結構です……」

 と私は妙に気が退けて押し止めた。しかし妻木君はきかなかった。放り出した夜具類を、もとの通りに片付けると今度は隣り側の襖を開いて内部一面に切り組んである衣裳棚を引き出し初めた。

「イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません」

「そうですか……それじゃ箪笥を……」

「もう……もう本当に結構です」

「じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう」

 と云ううちに右手の違い棚から一つずつ四ツの鼓箱を取り下した。私はそれを受け取ってへやの真中に置いた。

 箱から取り出された四ツの仕掛け鼓が私の前に並んだ時私は何となく胸が躍った。この中に「あやかしの鼓」が隠れていそうな気がしたからである。

 この道にすこしでも這入った人は皆知っている通り、鼓の胴と皮とは人間でいえば夫婦のようなもので、元来別々に出来ていて皮には皮のしょうがあり胴には胴の性がある。その二つの性が合って始めて一つの音色が出るので、仮令たといどんな名器同志の皮と胴でも、性が合わなければなかなか鳴らない。調子皮を貼って性を合わせたにしても、今までとは全く違った音色が出るので、今ここに四ツの皮と胴とがあるとすれば、鳴る鳴らぬにかかわらず総計で十六通りの音色が出るわけである。鶴原未亡人はそれを知っていて、ふだん胴と皮とをかけ換えているのではないか……。

 しかしこの考えが浅墓あさはかであることは間もなくわかった。妻木君は私と向い合って坐るとすぐに云った。

「私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります」

「つまりこの通りなんですね」

「そうです」

「みんなよく鳴りますか」

「ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の紅葉もみじ、冬の雪となっていて、その時候に打つと特別によく鳴るのです。打って御覧なさい」

「伯母さまがお帰りになりはしませんか」

「大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です」

「じゃ御免下さい」と一礼して羽織を脱いだ、妻木君も居住居いずまいを直した。

 私は手近の松に雪の模様の鼓から順々に打って行ったが、九段にいる時と違って一パイに出す調子を妻木君は身じろぎもせずに聞いてくれた。

「結構なものばかりですね」

 と御挨拶なしに賞めつつ私は秋の鼓、夏の鼓と打って来て、最後に桜の模様の鼓を取り上げたが、その時何となく胸がドキンとした。ほかの鼓の胴は皆塗りが古いのに、この胴だけは新らしかった。大方この鼓だけ蒔絵の模様が時候と合わないために、春の模様に塗りかえさしたものであろうが、その前の模様はもしや「宝づくし」ではなかったろうか。

 私はまだ打たぬうちに妻木君に問うた。

「この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか」

「サア。よく知りませんが」

「ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか」

「エエ。どうぞ」と妻木君は変にカスレた声で云った。

 私は黄色くなりかけている古ぼけた調緒しらべをゆるめて胴をはずして、乳袋ちぶくろの内側を一眼見るとハッと息を詰めた。

 久能張くのうばりのサミダレになった鉋目かんなめがまだ新しく見える胴の内側には、蛇の鱗ソックリに綾取った赤樫の木目が眼を刺すようにイライラとあらわれていたからである。私の両手は本物の蛇を掴んだあとのようにわななき出して思わず胴を取り落した。胴はコロコロと私の膝の上から転がり落ちて、横に坐っている妻木君の膝にコツンとぶつかった。

「アッハッハッハッハッ」

 と不意に妻木君が笑い出した。たまらなくコミ上げて来る笑いと一緒に、身体からだをよじって腹を押えて、しまいには畳の上にたおれてノタ打ちまわりながら、ヒステリー患者のように笑いつづけた。

「アッハッハッハッハハハハハ、とうとう一パイ喰いましたね……ヒッヒッホッホッホホハハハハハ。ヒッヒッヒッヒッ……」

 私は歯の根も合わぬ位ふるえ出した。恐ろしいのか気味悪いのか、それとも腹立たしいのかわからぬまま、妻木君の黒い眼鏡を見つめておののいていたが、やがてその笑いが静まって来ると私の心持ちもそれにつれて不思議に落ち付いて来た。あとには只頭の毛がザワザワするのを感ずるばかりになった。

 妻木君は涙を拭い拭い笑い止んだ。

「ああ可笑おかしい。ああ面白かった。アハ……アハ……。御免なさい音丸君……じゃない高林君。僕は君をだましたんです。本当にこの鼓の伝説を知っておられるかどうか試して見たんです。さっきから僕がうちの中を案内なんかしたりしたものだから、君は本当に僕がこの鼓を知らないものと思ったのです。ここに鼓があろうとは思わなかったんです……アハ……アハ……眠り薬の話なんかみんな嘘ですよ。僕は毎日伯母と二人でこの鼓を打っているのですよ……」

 私は開いた口がふさがらなかった。茫然と妻木君の顔を見ていた。

「君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……」

「それがどうしたんですか」

 と私は急に腹が立ったように感じて云った。こんなに真剣になっているのに笑うなんてあんまりだと思って……。すると妻木君は眼鏡の下から涙を拭き拭き坐り直したが、今度は全く真面目になってあやまった。

「失敬失敬。おこらないでくれ給えね。僕は君を馬鹿にしたんじゃないんです。出来るならこの鼓を絶対に見つからないことにして諦らめてもらって、君をこの鼓の呪いから遠ざけようとしたのです。ですから疑わぬ先にと思ってこの鼓をお眼にかけたのです。けれども見事に失敗しました。この胴の木目のことまで御存じとすれば君は、君のお父さんから本当に遺言をきいて来られたに違いありません。君はこの鼓を手に入れて打ち壊してしまいたいと思っているのでしょう」

 青天の霹靂へきれき……私は全身の血が頭にのぼった。……と思う間もなく冷汗がタラタラとわきの下を流れると、手足の力が抜けてガックリとうなだれつつ畳の上に手をつかえた。

「今まで隠していたが……」と妻木君は黒い眼鏡を外しながら怪しくかすれた声で云った「僕は七年前に高林家を出た靖二郎……ですよ」

「アッ。若先生……」

「…………」

 二人の手はいつの間にかシッカリと握り合っていた。年の割りにけた若先生の近眼らしい眼から涙がポロリと落ちた。

「会いとう御座いました……」

 と私はその膝に泣き伏した。それと一緒に誰一人肉親のものを持たぬ私の淋しさがヒシヒシと身に迫って来て、いうにいわれぬ悲しさがあとからあとからこみ上げて来た。

 若先生も私の背中に両手を置きながら暫く泣いておられるようであったが、やがて切れ切れに云われた。

「よく来た……と云いたいが……僕は……君が……高林家に引き取られたときいた時から……心配していた。もしや……ここへ来はしまいかと……」

 私は父の遺言を思い出した。──鼓をいじるとだんだんいい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはきっと「あやかしの鼓」に引きつけられるようになる──といった運命の力強さをマザマザと思い知ることが出来た。けれどもそれと同時に若先生と私の膝の前に転がっている「あやかしの鼓」の胴が何でもない木のはしのように思われて来たのは、あとから考えても実に不思議であった。

 そのうちに若先生は私をソッと膝から離して改めて私の顔を見られた。

「何もかもすっかりわかったでしょう」

「わかりました。……只一つ……」と私は涙を拭いて云った。

「若先生は……あなたはなぜこの鼓を持って高林家へお帰りにならないのですか」

 若先生の眉の間に何ともいえぬ痛々しい色が漂った。

「わかりませんか君は……」

「わかりません」と私は真面目にかしこまった。若先生は細いため息を一つされた。

「それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう」

「エ……僕のものに……」

「ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……」

「僕の手で……」

「そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」

 と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て独言ひとりごとのように云われた。

「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」


 私はうな垂れて鶴原家の門を出た。

 この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんなうちが世の中にあろうとは私は夢にも思い付かなかった。何もかも夢の中の出来事のように変梃へんてこなことばかりでありながらその一つ一つが夢以上に気味わるく、恐ろしく、嬉しく、悲しかった。

 恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生──それをおいだと偽って吾が家に封じこめて女中同様にコキ使っているらしい鶴原子爵未亡人……そうしてあの美しい化粧室、あの薄気味のわるい病室、皮革かわの鞭、「あやかしの鼓」──何という謎のような世界であろう。何というトンチンカンな家庭であろう。眼で見ていながら信ずる事が出来ない──。

 こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ちとどまった。

 向うも立ち止まって顔を上げた。

 それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに白襟しろえりをかけていたが芝居に出て来る女のように恰好がよかった。手に何か持っていたようであるがその時はわからなかった。

 私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。

 私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと笄橋こうがいばしたもとまで来ると、不意に左手の坂からくるまが駈け降りて来て私とすれ違った。私はその拍子にチラリとふり向いた。

 黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。

 私は逃げるように横町にれた。


この間は失礼しました。

私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。

二十六日の午後五時キッカリに鶴原家においでが願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。

今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、つ不可思議な事実であろうことを信じます。

しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非左様さよう願いたいと思います。

二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はおいでになればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。

あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。

  三月十七日
高林靖二郎

 音丸久弥様


 私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。

 眼の前の硝子ガラス板に私の姿が映ってユラユラと揺れている。

 三越の番頭が見立ててくれた青い色のあわせ縫紋ぬいもん、白の博多帯、黄色く光るはかま、紫がかった羽織、白足袋にフェルト草履ぞうり、上品な紺羅紗こんらしゃのマントに同じ色の白リボンの中折れという馬鹿馬鹿しくニヤケた服装が、不思議に似合って神妙な遊芸の若先生に見えた。ふだんなら吹き出したかも知れないがこの時はそれどころではなかった。

 私はこの数日間のなやみにやつれた頬を両手で押えながら、運転手のうしろの硝子板に顔を近寄せて見た。頭を刈って顔を剃ったばかりなのに年が二つ位けたような気がする。赤かった頬の色もすっかり消え失せているようである。

 自動車が鶴原家に着くと若先生……ではない妻木君が、この間の通りの紺飛白こんがすりの姿のまま色眼鏡をかけないで出て来て三つ指を突いた。水仕事をしていたらしく真赤になった両手をさし出して、運転手が持って来た私の古着の包みを受け取って横の書生部屋にそっと入れた。それから今一つ塩瀬しおせの菓子折の包みを受け取ると、わざとらしく丁寧に一礼して先に立った。私は詐欺か何かの玉に使われているような気になって磨き上げた廊下をあるいて行った。

 奥の座敷は香木のがみちみちてムッとする程あたたかかった。しかし未亡人は居なかったので私は何やら安心したようにホッとして程よい処に坐った。

 へやの様子がまるで違ったように思われたが、あとから考えるとあまり違っていなかった。それは室の真中に吊された電燈の笠の黄色いのが取りけられて華やかな紫色にかわったせいであろう。真中に鉄色のふっくりした座布団が二つ、金蒔絵をした桐の丸胴の火鉢、床の間には白孔雀くじゃくの掛け物と大きな白牡丹ぼたん花活はないけがしてあって、丸い青銅の電気ストーブが私の背後うしろに真赤になっていた。

 しずかに妻木君が這入って来て眼くばせ一つせずにお茶を酌んで出した。私も固くなってお辞儀をした。何だか裁判官の出廷を待つ罪人のような気もちになった。

 私は妻木君が出てゆくのを待ちかねて違い棚の上に露出むきだしに並んでいる四ツの鼓を見た。何だかそれが今夜私を死刑にする道具のように見えたからである。──「四ツの鼓は世の中に世の中に。恋という事も。うらみということも」──という謡曲の文句を思い出しながら私は気を押し鎮めた。

 うしろの障子しょうじが音もなく開いて鶴原未亡人が這入って来た気はいがした。

 私はこの間のように眩惑されまいと努力しながら出来るだけしとやかに席をすべった。

「ま……どうぞ……」と澄み通った気品のある声で会釈しながら、未亡人は私の真向いに来てほの紅い両手の指を揃えた。

 私の決心は見る間に崩れた。あおぎ見ることも出来ないで畳にひれ伏しつつ、今までとはまるで違った調子に高まって行く自分の胸の動悸をきいているうちに、この間のもいわれぬ床しい芳香が私の全身に襲いかかって来た。

「初めまして……ようこそ……又只今は……御噂はかねて……」

 なぞ次から次へきこえる言葉を夢心地できいているうちに、私は気もちがだんだん落ち付いて来るように思った。そうして「まあどうぞ……おつき遊ばして……それではあの……」という言葉をきくと間もなく顔を上げる事が出来た。その時にはじめて鶴原未亡人の姿をまともに見る事が出来た。

 艶々つやつやした丸髷まるまげ。切れ目の長い一重ひとえまぶた。ほんのりした肉づきのいい頬。丸いあごから恰好のいい首すじへかけて透きとおるように白い……それが水色の着物に同じ色の羽織を着て黒い帯を締めて魂のない人形のように美しく気高く見えた。

 私はこの間からあこがれていた姿とはまるで違った感じに打たれて暫くの間ボンヤリしていた。ハテナ。自分は何の用でこの婦人に会いに来たのか知らんとさえ思った。

 その時未亡人は前の言葉の続きらしく静かに云った。

「それで私は甥を叱ったので御座います。なぜおかえし申したかって申しましてね……若先生が音丸家の御血統で、あの鼓を御覧になりたいとおっしゃったならばこんないい機会おりは……」

 さては私はまだ鼓を見ないことになっているのだな……と思って未亡人の顔を見た。けれどもその長い眉と黒く澄んだ眼の気品に打たれて又伏し眼になった。

「……なぜお眼にかけなかったのか。こんないい幸いなことはないではありませんか。この年月としつき二人で打っていながら一度もそのシンミリとその呪いの音をきいた事がないではありませんか。あの鼓を打ってホントの音色をお出しになるほどのお方ならば私はいつでもあの鼓をお譲りしますと……」

 私は又顔を上げないわけに行かなかった。すると今度は未亡人の方が淋しい恰好で伏眼になっている。

「……そう申しますと甥が申しますには、それなら今からお手紙を差し上げよう。いま一度お運びをお願いしようと申します。そんなぶしつけなことをと申しますと、それはきっとお出で下さるにちがいない。まだあの鼓をお打ちにならないからだと申します……オホ……ほんとに失礼なことばかり……」

 未亡人は赤面して私の顔を見た。私もその時急に耳まで火照ほてって来るのを感じつつ苦笑した──モナカの事件も存じております──と云われそうな気がして……。

「けれども私もすこし考えが御座いましたので、甥に筆をらせましてあのような手紙を差し上げさせましたので……まことに申訳もうしわけ……」と未亡人は頭を下げた。

「どう致しまして……」

 と私もやっとの思いで初めて口を利くと慌てて袂からハンカチを出して顔を拭いた。途端に頭の上の電燈が眩しく紫色にもった。

「何か御用で……」と妻木が顔を出した。未亡人はいつの間にか呼鈴ベルを押したらしい。

「お前用事が済んだのかえ」と云いつつ未亡人はジロリと妻木君を見据えたが、その一瞬間に未亡人の眼が、冷たいというよりもむしろ残忍な光りを帯びたのを私はありありと見た。私の神経は急に緊張した。嘗てきいていた「美人の凄さ」が一時に私の眼に閃めき込んだからである。そうして同時にその「美しい凄さ」にさながら奴隷のように支配されている妻木君──若先生の姿がこの上なくミジメに瘠せて見えたからである。

「ハイ。すっかり……」と妻木君は女のように、しとやかに三つ指をいた。

「……じゃこちらへお這入り。失礼して……あとを締めて……それから、その鼓を四ツともここへ……」

 その言葉の通りに妻木君は影のように動いて四ツの鼓を未亡人と私の間に並べ終ると、そのかたえにすこし離れてかしこまった。

 未亡人は無言のまま四ツの鼓を一渡り見まわしたが、やがてその中の一つにジッと眼を注いだ──と思うとその頬の色は見る見る白く血の気が失せて、唇の色までなくなったように見えた。

 私たち二人も固唾かたずを呑んで眼をみはった。

 いい知れぬ鬼気がウッスリとへやに満ちた。

 突然かすかな戦慄が未亡人の肩を伝わったと思うと、未亡人はいつの間にか手にしていた絹のハンカチで眼を押えた。

 私はハッとした。妻木君も驚いたらしいまばたきを三ツ四ツした。そのまま未亡人は二分か三分の間ヒソヒソとむせび泣いたが、やがてハンカチの下から乱れた眉とまつげを見せた。それから小さな咳を一つすると繊細かぼそい……けれどもおごそかな口調で云った。

「わたくしはこんな時機の来るのを待っておりました。こうして私とこの鼓との間に結ばれました因縁を断ち切って頂こうと思ったので御座います」

「因縁……」と私は思わず口走った。

「それはどういう……」

「それは私が私の身の上について一口申し上ぐれば、おわかりになるので御座います」

「あなたの……」

「ハイ……しかし只今は、わざとそれを申し上げません。押しつけがましゅう御座いますけれども、それは私の生命いのちにも換えられませぬお恥かしい秘密で御座いますから、この四ツの鼓の中から『あやかしの鼓』をおり出し下すって、物語りに伝わっております通りの音色をお出し下さるのを承わった上で御座いませぬと……まことに相済みませぬが、只今それをお願い申し上げたいので御座いますが……」

 未亡人の言葉の中には婦人でなければ持ち得ぬ根強い……けれども柔らかい力が籠っていた。三人の間には更に緊張した深い静けさが流れた。

 不意に或る眼に見えぬ力に打たれたようにうやうやしく一礼しながら私はスラリと座布団を辷り降りて羽織を脱いだ。そうしてイキナリ眼の前の桜の蒔絵の鼓に手をかけると、ハッと驚いて唇をふるわしている未亡人を尻目にかけた。そうして武士が白刃の立ち合いをする気持ちで引き寄せて身構えた。

「あやかしの鼓」の皮は、しめやかな春のの気はいと、へやに充ち満ちた暖かさのために処女の肌のようにやわらいでいるのを指が触わると同時に感じた。その表皮と裏皮に、さらに心を籠めた息を吐きかけると、やおら肩に当てて打ち出した。……これを最後の精神をひそめて……。

 初めは低く暗い余韻のない──お寺の森のやみふくろうの声に似た音色が出た。喜びも悲しみもない……只淋しく低く……ポ……ポ……と。

 けれども打ち続いて出るその音が私の手の指になずんでシンミリとなるにつれて、私は眼を伏せ息を詰めてその音色の奥底に含まれている、或るものをきくべく一心に耳を澄ました。

 ポ……ポ……という音の底にどことなく聞こゆる余韻……。

 私は身体からだ中の毛穴が自然おのずと引きまるように感じた。

 私の先祖の音丸久能おとまるくのうは如何にも鼓作りの名人であった。けれどもこの鼓を作り上げた時に自分が思っている以外の気もちがまじっているのに心づかなかった。

 久能は云った。──私は恋にやぶれて生きた死骸になった心持ちだけをこの鼓に籠めた。私の淋しいからになった心持ちだけをこの鼓のにあらわした。うらむ心なぞは微塵みじんもなかった──と……。

 しかしそれはあやまっていた。

 久能が自分の気持ちソックリに作ったというこの鼓の死んだような音色……その力なさ……陰気さの底には永劫に消えることのない怨みの響きが残っている。人間の力では打ち消す事の出来ない悲しい執念の情調こころがこもっている。それは恐らく久能自身にも心付かなかったであろう。無間むげん地獄の底に堕ちながら死のうとして死に得ぬ魂魄のなげき……八万奈落の涯をさまよいつつ浮ぼうとして浮び得ぬ幽鬼の声……これが恋に破れたものの呪いの声でなくて何であろう。久能の無念の響きでなくて何であろう。

 百年前の、ある月の、ある日、綾姫はこの鼓を打って、この音をきいた。そうして眼にも見えず耳にも止まりにくい久能の心の奥の奥の呪いが、云い知れぬ深い怨みをこめてシミジミ自分の心に伝わって来るのを只独り感じたのであろう。死ぬよりほかにこの呪いから逃れるすべがない事をくり返しくり返し思い知らせられたであろう。

 ……そうして百年後の今日只今……

 ……私の額から冷たい汗が流れ初めた。室中の暖か味が少しも身体に感じなくなった。背中がゾクゾクして来ると共に肩から手足の力が抜けて鼓を取り落しそうになった。眼の前が青白く真暗くなりそうになって力なく鼓を膝の上におろした。わななく手でハンケチを掴んで額の汗を拭いた。

 妻木君が慌てて羽織を着せた。鶴原未亡人は立ち上って袋戸棚から洋酒の小瓶を取り出して来てふるえる手で私に小さなグラスを持たした。そうして私に火のような酒を一杯グッと飲み干させると今一杯すすめた。

 私は手を振りながらフーッと燃えるような息をいた。

「大丈夫で御座いますか……御気分は……」

 と未亡人は私の顔をのぞいた。妻木も私の顔を心配そうに見ている。私は微笑して肩を大きくゆすりながら羽織のひもをかけた。飲み慣れぬアルコール分のおかげで血のめぐりがズンズンよくなるのを感じながら……。

「まあ……ほんとに雪のように真白におなり遊ばして……今はもうよほど何ですけれど……」

 と未亡人はおびえた声で云った。妻木君はホッとため息をした。

「けれどもまあ……何というかわった音色で御座いましょう。そうして又何というお手の冴えよう……私は髪の毛を引き締められるようにゾッと致しましたよ……」

 と感激にふるえるような声で云いつつ未亡人は立ち上って洋酒の瓶を仕舞うと又座に帰ったが、やがてふと思い出したように黒い眼で私の顔をジッと見ると、両手を畳に支えて身を退けながらひれ伏した。

「まことに有り難う存じました。私はおかげ様で生れて初めてこの鼓の音色を本当にうかがうことが出来ました。あなた様はまさしく名人のお血すじをおけ遊ばしたお方に違い御座いません。この上は私も包まずに申し上げます。私こそ……」

 と云いさして未亡人は両手の間に頭を一層深く下げた。

「私こそ……今大路の……綾姫の血すじを……受けましたもので御座います」

「アッ」

 と私は思わず声を立てて妻木君をかえり見た。しかし妻木君は知っているのかいないのかジッと未亡人の水々しい丸髷を見下したまま身じろぎ一つしなかった。未亡人は両手の間に顔を埋めたまま言葉を続けた。

「申すもお恥かしい事ばかりで御座いますが、今大路家は御維新後零落致しまして一粒種の私は大阪へあるいやしい稼業に売られようと致しましたのを、こちらの主人に救われましたので御座います。申すまでもなくこの家にこの鼓が……」

 とやおら顔を上げて鼓から二人の顔へ眼を移した。曇った顔をして曇った声で云った。

「……この家にこの鼓が御座いますことは、とっくに承わっておりましたが、その鼓に呪われてこのような淋しい身の上になりまして……その上にこのような不思議な……御縁になりましょうとは……」

「わかりました」と私は自分の感情に堪え得ないで、それを打ち切るように云った。

「よくわかりました。サ。お顔をお上げ下さい。つまるところこの三人はこの鼓に呪われたものなのです。呪われてここに集まったものなのです。けれども今日限りその因縁はなくなります。もしあなたがお許し下されば、私はこの鼓を打ち砕いて私たちの先祖の罪と呪いをこの世から消し去ります。そうしてあんな陰気臭い伝説にまつわられない明るい自由な世界に出ようではありませんか」

「ま嬉しい」

 と未亡人は涙に濡れた顔を上げて不意に私の手を執って握り締めた。その瞬間私の全身の血は今までとはまるで違っためぐり方をし初めた。未亡人は両手に云い知れぬ力を籠めて云った。

「マア何というお勇ましいお言葉でしょう。そのお言葉こそ私がお待ちしていたお言葉です。それで私はきょうこの鼓と別れるお祝いにつまらないものを差し上げたいと思いまして……」

「アッ……それは……」と私は腰を浮かした。しかし未亡人の手はしっかりと引き止めた。

「いいえ……いけません……」

「でもそれは又別に……」

「いいえ……今日只今でなければその時は御座いません……サ……お前早くあれを……」

 と妻木君をかえり見た。

 妻木君は追い立てられるように室を出た。

 あとを見送った未亡人はやっと私の手を離してニッコリした。

 私は最前の洋酒の酔いがズンズンまわって来るのを感じながら両手で頬と眼を押えた。


 頭が痛い……と思いながら私は眼を閉じて夜具を頭から引き冠った。すると今まで着た事のない絹夜具の肌ざわりを感ずると共に、ならぬ芳香がフワリと鼻をったのがわかった。

 私は全く眼がめた。けれども起き上る前にシクシクと痛む頭の中から無理に記憶を呼び起していた──さっきあれからどうしたか──。

 眼の前に御馳走の幻影が浮んだ。それは皆珍らしいものばかりで贅沢を極めたものであった。そのお膳や椀には桐の御紋が附いていた。

 その次には晴れやかな鶴原未亡人の笑顔がまぼろしとなって現われた。

「あやかしの鼓とお別れのお祝いですから」

 というので無理に盃をすすめられたことを思い出した。

「もうお一つ……」

 とニッコリ白い歯を見せた未亡人の眼に含まれたこび……それをどうしても飲まぬと云い張った時、飲まされた「酔いざまし」の水薬の冷たくてお美味しかったこと……。

 それから先の私の記憶は全く消え失せている。只あおむけに寝ながらジッと見詰めていた電燈の炭素線のうねりが不思議にはっきりと眼に残っている。

 私は酔いたおれて鶴原家に寝ているのだ。

失策しまった」と私は眼を開いて夜具の襟から顔を出した。

 さっきの未亡人のへやに違いない。只電燈に桃色のカバーがかかっているだけが最前と違う。耳を澄ますとあたりは森閑しんかんとして物音一つない。

「ホホホホホホホホホ」

 と不意に枕元で女の笑い声がした。私は驚いて起きようとしたが、その瞬間に白い手が二本サッと出て来て夜着の上からソッと押え附けた。同時にホンノリと赤い鶴原未亡人の顔が上からのぞいてニッタリと笑った。溶けそうな媚を含んだ眼で私を見据えながら、ほのかに酒臭い息を吐いて云った。

「駄目よ。もう遅いわよ……諦らめて寝ていらっしゃいオホホホホホホホ」

 きりむような痛みを感じて私は又頭を枕に落ち付けた。そうして何事も考えられぬ苦しさのため息をホッといた。

 コトリコトリと音がする。私の枕元で未亡人が何か飲んでいるらしく、やがて小さなオクビが聞えた。同時に滑らかな声がし初めた。

「とうとうあなたは引っかかったのね。オホホホホ……ほんとに可愛い坊ちゃん。あたしすっかり惚れちゃったのよ。オホホホホ」

 私は頭の痛いのを忘れてガバとはね起きた。見れば私は新しい更紗模様の長繻絆じゅばん一つになってビッショリと汗をかいている。

 未亡人も友禅模様の長繻絆をしどけなく着て私の枕元に横坐りをしている。前には銀色の大きなお盆の上に、何やら洋酒を二、三本並べて薄いガラスのコップで飲んでいたが、私が起きたのを見ると酔いしれた眼で秋波しゅうはを送りながらからのグラスをさしつけた。私は払いけた。

「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」

「エッ……」

「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼がくらみそうになって枕の上に突伏した。

「あのね……」

 と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。

「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命いのちにかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか」

「覚悟とは……」

 と私は突然に起き直って問うた。けれども未亡人の燃え立つような美しさと、その眼に籠めた情火に打たれて意気地なくうなだれた。

「覚悟ったって何でもないんです。私は妻木に飽きちゃったんです。血の気のない影法師みたいな男がイヤになったんです。あんな死人みたいな男はあたし大嫌いなんです……」

 と云ううちに未亡人は一番大きなコップに並々と金茶色の酒をぐと半分ばかり一息に呑み干した。それから真赤な唇をチョッとめて言葉をつづけた。

「だけどあなたは無垢な生き生きした坊ちゃんでした。だからわたしは好きになっちゃったんです。あたしは、あたしの云う通りになる男に飽きたんです。あの鼓の音にそそられて、そんな男をオモチャにするのに飽きていたんです。私の顔ばかり見ないで気もちを見てくれる人を探していたんです。その時にあなたに会ったんです。私は前の主人の墓参りの帰りにあなたにお眼にかかったのを何かの因縁だと思うのよ。私はもうあなたの純な愛をたよりに生きるよりほかに道がなくなったのよ」

 と云いつつ未亡人は両手をあげて心持ちゆがんだ丸髷を直し初めた。私は人に捕えられた蜘蛛くものように身を縮めた。

「ですから私は今日までのうちにすっかり財産を始末して、現金に換えられるだけ換えて押し入れの革鞄カバンに入れてしまいました。みんなあなたに上げるのです。明日あした死に別れるかも知れないのを覚悟してですよ。そんなにまで私の気持ちは純になっているのですよ……只あの『あやかしの鼓』だけは置いて行きます……可哀そうな妻木敏郎のオモチャに……敏郎はあれを私と思って抱き締めながら行きたいところへ行くでしょう」

 私は両手を顔に当てた。

「もう追つけ三時です。四時には自動車が来る筈です。敏郎は夜中過ぎからグッスリ睡りますからなかなか眼を醒ましますまい」

 私は両手を顔に当てたまま頭を強く左右に振った。

「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」

 と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。

「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」

 と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない長繻絆の裾と、解けかかった伊達巻だてまきと、それからしなやかにわなないている黒い革の鞭と……私は驚いてうしろ手を突いたまま石のように固くなった。

 未亡人はほつれかかるびんの毛を白い指で掻き上げながら唇を噛んで私をキッと見下した。そのこの世ならぬ美しさ……烈しい異様な情熱を籠めた眼の光りのもの凄さ……私はまばたき一つせずその顔を見上げた。

 未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。

「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたようにおとなしくなったんです。その上にあなたはどうです。この『あやかしの鼓』を作って私の先祖の綾姫を呪い殺した久能の子孫ではありませんか。あなたはその罪ほろぼしの意味からでも私を満足さしてくれなければならないではありませんか。この鼓を見にここへ来たのは取り返しのつかない運命の力だとお思いなさい。よござんすか。それとも嫌だと云いますか。この鞭で私の力を……その運命の罰を思い知りたいですか」

 私の呼吸は次第に荒くなった。まさしく綾姫の霊に乗り移られた鶴原未亡人の姿を仰いでひたすらにあえぎに喘いだ。百年前の先祖の作った罪の報いの恐ろしさをヒシヒシと感じながら……。

「サ……しょうちしますか……しませんか」

 と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔にさっと閃めくと、しなやかな手に持たれたしなやかな黒い鞭がわなわなと波打った。

「ああ……わたくしが悪う御座いました」

 と云いながら私は又両手を顔に当てた。

 ……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。

 ガチャリと硝子ガラスの壊れる音がして不意に冷たい手が私の両手を払いけた……と思う間もなく眼を閉じた私の顔の上に烈しい接吻が乱れ落ちた。酒臭い呼吸。女の、お白粉おしろいの香、髪の香、香水の香──そのようなものが死ぬ程せつなく私に襲いかかった。

「許して……許して……下さい」

 と私は身を悶えて立ち上ろうとした。

「奥さん……奥さん奥さん」

 と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にボーッと燃え上る火影ほかげが二人でふり返って見ている障子にゆらめいて又消えた。

「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。

 未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ちふさがった。

「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えてくうに身をらすとよろよろと夜具の上を逃げて来たが、私の眼の前にバッタリとうつ向けに倒れて苦しそうに身を縮めた。私は廊下に突立っている妻木君の姿と、たおれている未亡人の姿を何の意味もなく見比べながら坐っていた。

 妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。

「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで此女こいつの変態性慾の犠牲になるところだった。こいつは鶴原子爵を殺し、僕を殺して、今度は君に手をかけようとしたのだ。これを見たまえ」

 と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その肋骨あばらから背中へかけて痛々しい鞭の瘢痕あとが薄赤く又薄黒く引き散らされていた。

「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって斯様こんな眼に会わされるのが気持よく感ずる迄に堕落してしまったんだ。けれども此女こいつはそれで満足出来なくなった。今度はおれを失恋させておいて、そいつを見ながら楽しむつもりでお前を引っぱり込んだ。おれが起きているのを承知で巫山戯ふざけて見せた。……けれどもおれが此女こいつを殺したのは嫉妬じゃない。もうお前がいけないと思ったからこの力が出たんだ。お前を助けるためだったんだ」

「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。

「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」

 と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。

 私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄──兄──若先生──妻木君──と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。

 その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。

「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」

 兄の眼から又新しい涙が湧いた。

「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこのうちの全財産でお前が今しがた此女こいつから貰ったものだ。あとは引き受ける。決してお前の罪にはしないから。只老先生へだけこの事を話してくれ。そうしておれたちのあとを……とむらって……」

 兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。

 そのうちに未亡人の身体からだが眼に見えてブルブルと震え始めた。

「ウ──ムムム」

 という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。

「す……み……ませ……ん」

 とすきとおるような声で云いながら、枕元にある銀の水注みずさしの方へ力なく手を伸ばした。私は思わず手を添えて持ち上げてやったが、未亡人の白い指からその銀瓶の把手ハンドルに黒い血の影が移ったのを見ると又ハッと手を引込めた。

 未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水がほとばしり流れた。

 未亡人はガックリとなった。

「サ……ヨ……ナ……ラ……」

 と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。

 兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。


 自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。

「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。

 私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。

 東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに国府津こうづ駅で降りて何の意味もなしに駅前の待合所に這入って、飲めもしない酒をあつらえて、グイグイと飲むとすぐに床を取ってもらって寝た。

 夕方になって眼が醒めたがその時初めて御飯を食べると、何の意味もなしに又西行きの汽車に乗った。その時に待合所の女中か何かが見覚えのない小さな鞄を持って来たのを、

「おれのじゃない」

 と押し問答したあげく、やっと昨夜ゆうべ鶴原家を出がけに兄が自動車の中に入れてくれたものであることを思い出して受け取った。同時にその中に紙幣が一パイ詰まっていることも思い出したが、その時はそれをどうしようという気も起らなかったようである。

 汽車が動き出してから気が付くと私のかたえに東京の夕刊が二枚落ちている。それを拾って見ているうちに「鶴原子爵未亡人」という大きな活字が眼についた。

きょうの午前十時に美人と淫蕩で有名な鶴原子爵未亡人ツル子(三一)が一人の青年と共に麻布あざぶ笄町こうがいちょうの自宅で焼け死んだ。その表面は心中と見えるが実は他殺である。その証拠に焼け爛れた短刀の中味は二人の枕元から発見されたにも拘わらず、そのさや口金くちがねはそこから数間を隔てた廊下の隅から探し出された。

未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前からかねに換えていたがその金は焼失していないらしい。

未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎(二七)という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。

当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。

 そんな事を未亡人の生前の不行跡と一緒に長々と書き並べてある。それを見ているうちにあくびがいくつも出て来たので、私は窓にりかかったままウトウトと居眠りをはじめた。


 あくる朝京都で降りると私はどこを当てともなくあるきまわった。すこし閑静なところへ来ると通りがかりの人を捕まえて、

「ここいらに鶴原卿の屋敷跡はありませんでしょうか」

 ときいた。その人は妙な顔をして返事もせずに行ってしまった。それから今大路家や音丸家のあとも一々尋ねて見たがみんな無駄骨折りにおわった。そこに行ってどうするというつもりもなかったけれども只何となく自烈度じれったかった。

 夕方になって祇園の通りへ出たが、そこの町々の美しいあかりを見ると私はたまらなくなつかしくなった。何だか赤ん坊になって生れ故郷へ帰ったような気持ちになってボンヤリ立っていると向うから綺麗な舞いが二人連れ立って来た。その右側のの眼鼻立ちが鶴原の未亡人にソックリのように見えたので、私は思わず微笑しながら近付いて名前をきいたら右側のは「美千代」、左側のは「玉代」といった。「うちは?」ときいたら美千代が向うの角を指した。その手に名刺を渡しながら、

「どこかで僕とお話ししてくれませんか」

 というと二人で名刺をのぞいていたが眼を丸くしてうなずき合って私の顔を見ながらニッコリするとすこし先の「鶴羽つるは」といううちに案内した。そうして二人共一度出て行くと間もなく美千代一人が着物を着かえて這入って来たので私は奇蹟を見るような気持ちになった。

 その時仲居なかいは「高林先生」とか「若先生」とか云って無暗むやみにチヤホヤした。私は気になって「本当の名前は久弥」と云ったら「それでは御苗字は」ときいたから、

「音丸」と答えたら美千代が腹を抱えて笑った。私も東京を出て初めて大きな声で笑った。

 それからのち私は鶴原未亡人に似た女ばかり探した。芸妓げいしゃ。舞妓。カフェーの女給。女優なぞ……しまいには只鼻の恰好とか、眼付きとか、うしろ姿だけでも似ておればいいようになった。それから大阪に行った。

 大阪から別府、博多、長崎、そのほか名ある津々浦々を飲んでは酔い、酔うては女を探してまわった。昨夜ゆうべ鶴原未亡人に丸うつしと思ったのが、あくる朝は似ても似つかぬ顔になっていたこともあった。その時私は潜々さめざめと泣き出して女に笑われた。

 酔わない時は小説や講談を読んで寝ころんでいた。そうしてもしや自分に似た恋をしたものがいはしまいか。いたらどうするだろうと思って探したが、生憎あいにく一人もそんなのは見付からなかった。

 そのうちに二年経つと東京の大地震の騒ぎを伊予の道後できいたが、九段が無事ときいたので東京へ帰るのをやめて又あるきまわった。けれども今度は長く続かなかった。私の懐中ふところが次第に乏しくなると共に私の身体からだも弱って来た。ずっと以前から犯されていた肺尖がいよいよ本物になったからである。

 久し振りに、なつかしい箱根を越えて小田原に来たのはその翌年の春の初めであった。そこで暖くなるのを待っているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、菜種なたね畠の上にはあとからあとから雲雀ひばりがあがった。

 その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰をおろすと不意に眼がクラクラして喀血かっけつした。その土の上にかたまった血に大空の太陽がキラキラと反射するのを見て私は額に手を当てた。そうしてすべてを考えた。

 私は東京を出てから丸三年目にやっと本性ほんしょうに帰ったのであった。懐中を調べて見ると二円七十何銭しかない。私は畠の横の草原に寝て青い大空を仰いで「チチババチバチバ」という可愛らしい雲雀の声をいつまでもいつまでも見詰めていた。


 東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。

 なつかしい檜のカブキ門が向うに見えると、私は黒い鳥打帽を眉深まぶかくして往来の石に腰をかけた。その時暁星学校の生徒が二人通りかかったが、私の姿を見るとけて通りながら「若い立ちん坊だよ」とささやき合って行った。青褪めて鬚を生やして、塵埃ちりまみれの草履ぞうりを穿いた吾が姿を見て私は笑うことも出来なかった。

 その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。

 私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓のもその日は盛んにきこえたけれども老先生の鼓は一つも聞えなかった。

 私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。

「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」

 と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。

「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。

「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って明日あすの夜中過ぎ一時頃にわたしのへやにお出で。小潜りと裏二階の下の雨戸を開けておくから。内緒ないしょだよ」

 と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。


 その夜は曇ってあたたかかった。

 植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッとしゃがんで時刻が来るのを待った。雨らしいものがスッと頬をかすめた。

 ……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生のへやから起った。

 私はハッと息を呑んだ。

失策しまった。あの鼓が焼けずにいる。兄が老先生に送ったのだ。イヤあとから小包で私へ宛てて送り出したのを、老先生が受け取られたのかな……飛んでもない事をした」

 と思いつつ私は耳を傾けた。

 鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。

 陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓のがいつとなく陽気な嬉し気な響を帯びて来たからである。それは地獄の底深く一切を怨んで沈んで行った魂が、有り難いみ仏の手で成仏して、次第次第にこの世に浮かみ上って来るような感じであった。

 みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓のになった。しかも日本晴れに晴れ渡った青空のように澄み切った音にかわってしまった。

「イヤア…………ハア…………ハアッ……

 それは名曲「おきな」の鼓の手であった。

「とう──とうたらりたらりらア──。ところ千代ちよまでおわしませエ──。吾等も千秋せんしゅうさむらおう──。鶴と亀とのよわいにてエ──。幸い心にまかせたりイ──。とう──とうたらりたらりらア……」

 と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。

 やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。

 私は前の雨戸に手をかけた。スーッと音もなく開いたので私は新しいゴム靴を脱いで買い立ての靴下の塵を払って、微塵も音を立てずに思い出の多い裏二階の梯子を登り切って、板の間に片手を支えながらふすまをソロソロと開いた。

 ……………………

 私はこのあとのことを書くに忍びない。只順序だけつないでおく。

 私は老先生の死骸を電気の紐から外して、敷いてあった床の中に寝かした。

 室の隅の仏壇にあった私の両親と兄の位牌を取って来て、老先生の枕元に並べて線香を上げて一緒に拝んだ。

 それから暫くして「あやかしの鼓」を箱ごと抱えて高林家を出た。ザアザア降る雨の中を四ツ谷の木賃宿へ帰った。

 あくる日は幸いと天気が上ったので宿の連中は皆出払ったが、私一人は加減が悪いといって寝残った。そうして人気ひとけがなくなった頃起き上って鼓箱を開いて見ると、鼓の外に遺書かきおき一通と白紙に包んだ札の束が出た。その遺書には宛名も署名もしてなかったが、まがいもない老先生の手蹟でこう書いてあった。


 これは私のへそくりだからお前に上げる。この鼓を持って遠方へ行ってまめに暮してくれ。そうして見込みのあるものを一人でも二人でもいいからこの世に残してくれ。あやかしの鼓にこもった霊魄たましいの迷いを晴らす道はもうわかったろうから。

 私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。


 私は死ぬかと思う程泣かされた。この御恩を報ずる生命いのちが私にないのかと思うと私は蒲団を掴み破り、畳をかきむしり、老先生の遺書かきおきを噛みしだいてノタ打ちまわった。

 しかしまだ私のごうは尽きなかった。

 私は鼓を抱えて、その夜の夜汽車で東京を出て伊香保いかほに来た。

 温泉宿に落ちついて翌日であったか、東京の新聞が来たのに高林家の事が大きく出ていた。その一番初めに載っていたのはなつかしい老先生の写真であったが、一番おしまいに出ているのは私が見も知らぬ人であるのにその下に「稀代の怪賊高林久弥事旧名音丸久弥」と書いてあったのには驚いた。その本文にはこんなことが書き並べてあった。

今から丸三年前大正十年の春鶴原未亡人の変死事件というのがあった。右に就て当局のその後の調べに依ると同未亡人を甥の妻木という青年と一緒にその旅立ちの前夜に殺害して大金を奪って去ったものは九段高林家の後嗣あとつぎで旧名音丸久弥といった屈強の青年であることがわかった。

然るにその後久弥はその金をつかい果したものか、昨夜突然高林家に忍び入って恩師をくびり殺してその臍繰りと名器の鼓を奪って逃げた。

彼は数日前から高林家の門前に乞食ていを装うて来て様子を伺い、恩師高林弥九郎氏が何かの必要のため貯金全部を引き出して来たのを見済ましてこの兇行に及んだものらしく、三年前の事件と共に実に巧妙周到且つ迅速を極めたものである。

尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。

 これを読んでしまった時、私はどう考えても免れようのない犯人であることに気が付いた。この鼓が犯人だと云っても誰が本当にしよう。世の中というものはこんな奇妙なものかと思い続けながらこの遺書を書いた。そうして今やっとここまで書き上げた。

 私は今からこの鼓を打ち砕いて死にたいと思う。私の祖先音丸久能の怨みはもうこの間老先生の手で晴らされている。この怨みの脱け殻の鼓とその血統は今日を限りにこの世から消え失せるのだ。思い残すことは一つもない。

 しかし私はこんな一片の因縁話を残すために生れて来たのかと思うと夢のような気もちにもなる。

底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店

   1998(平成10)年410日初版発行

初出:「新青年」博文館

   1926(大正15)年10

※このファイルは、ディスクマガジン『電脳倶楽部』に収録されたものをもとにしています。

入力:上村光治

校正:浜野智

1998年1110日公開

2019年427日修正

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